第9話:薫という名前と、焼き立てレバーの誘惑
「佐藤さん……下の名前、薫さんって言うんですね。甘くて芳しい香り……すごく素敵な名前」
先日「美鈴ちゃん」と呼び始めてから数日後。自室のソファで缶チューハイを傾けていた美鈴が、グラスを見つめながらぽつりと呟いた。
「今度……薫さんって呼んでも、いいですよねっ……?」
少し酔いが回ったのか、耳まで真っ赤にしながら照れくさそうに微笑む美鈴。
55年連れ添ってきた己の無骨な名が、彼女の口から出ると妙に甘やいだ響きを帯びる。佐藤薫は思わず咳払いを一つして、視線を泳がせた。
「……まあ、お互い様だしな。好きに呼ぶといい」
そんなやり取りがあった翌週末。ふらりと佐藤の部屋にやってきた美鈴を迎えるなり、薫は台所から声をかけた。
「美鈴ちゃん、レバーって大丈夫だったっけ?」
…。…。…。
「薫さんっ……! あ……っ、す、すみませんっ! 名前素敵だなぁって考えてたら、つい……っ!薫さんって…。」
口を滑らせた美鈴は、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。指の隙間から覗く肌は、まるで熟したトマトのように真っ赤だ。
「う、うん……大丈夫だよ、美鈴ちゃん。俺だって呼んでるし……」
苦笑いしながら頭をかく薫。美鈴は顔を覆ったまま、消え入りそうな声で小さく叫んだ。
「あっ! 大好きです……っ!」
「……えっ? 大好き……っ!?」
不意打ちすぎる言葉に、薫の動きがピタリと止まる。ハゲかけたフライパンを握る手に思わず力が入った。55歳の心臓には刺激が強すぎる。
「か、薫さんっ! レバーですよ! レバーの話ですっ!」
勢いよく立ち上がった美鈴が、ブンブンと手を振りながら必死に弁明する。
「あ、ああ……レバーね。びっくりした……」
胸を撫でおろす薫。だが、台所に背を向けた美鈴が、自分の聞こえないと思っているくらいの極小の音量でぽつりと呟いたのを、薫の耳は見逃さなかった。
「……レバーも好き…、だけど薫さんのことは。もっともっと大好きですけど……」
「えっ? 美鈴ちゃん、今なんて……」
「な、なんでもありませんっっ!!」
真っ赤になった美鈴がバッと振り向く。その愛くるしい慌てように、薫はそれ以上追及するのをやめ、優しく口元を緩めた。
「はは、まあいいや。知り合いから新鮮な鶏レバーをたくさんいただいちゃってさ。良かったら一緒に食べないか?」
「はいっ! 薫さんの作るものなら何でも食べたいです!」
「新鮮だからな、下処理もサッとで十分だ。強火で一気に炒めて……味の素と焦がし醤油で仕上げるだけのズボラ飯だけどな」
熱したフライパンに油をひき、プリプリのレバーを投じる。
ジュワァァァッ!!
激しい音とともに、レバーの表面が一瞬で締まっていく。長時間の加熱は厳禁。パサつく前に味の素をパパッと振りかけ、仕上げに醤油をフライパンのフチから一回し。
ジュワッ! 焦げた醤油と鉄分の香ばしい湯気が立ち上る。
「よし、完成だ。火を通しすぎないのがプリプリ感を残すコツなんだよ」
お皿に移す暇もなく、フライパンのままローテーブルへドン。
冷えたハイボールの缶を二人の前に置く。
「……美味しそうっ! 醤油と旨味の匂いがたまりません!」
「冷めないうちにどうぞ」
二人は顔を見合わせ、同時に箸を伸ばした。
濃厚でプリプリのレバー、ガツンと効いた味の素の圧倒的な旨味、そして香ばしい焦がし醤油。豪快に噛みしめ、冷えたハイボールで流し込む。
「……んん〜〜〜っ! 最高です薫さん!」
「だろ? シンプルなものほど、火加減と勢いが命なんだ」
真っ赤な顔で美味しそうに頬張る美鈴を見つめながら、薫は静かに缶を傾けた。
「大好き」という言葉の真意は、まだ焦がし醤油の煙の中に隠しておこう。
完璧な自由を楽しんできた55歳の独身貴族の夜に、また一つ、甘くて香ばしい秘密が増えたのだから。




