第8話:伝説のレシピと、美鈴という名前
「佐藤さん、今日は私が腕を振るいますね!」
エプロン姿……ではなく、スーツのジャケットを脱いで腕をまくっただけの美鈴さんが、鼻息荒く佐藤の狭い台所に立っていた。カバンからガサゴソと取り出したのは、スーパーの袋。
「ふふん、覚えてますか? あの日、佐藤さんに見られちゃった私のメモ……」
「……ああ、あの『じゃがりこ』のやつか」
そう、第5話で彼女が落としたあの一枚のルーズリーフ。狂気と情熱に満ちた、美鈴流ズボラ飯の原点だ。
「正解です! 今日は、狂気の『じゃがりこ・めんつゆチーズマッシュポテト風』をご馳走します!」
そう言って彼女が胸を張る。手元に並べられたのは、じゃがりこ(チーズ味)、とろけるスライスチーズ、めんつゆ、そして粗挽き黒胡椒。実にチープで、実に背徳的なラインナップだ。
「まず、じゃがりこのフタを半分まで開けて……ポットのお湯を注ぎます! 量はカップの三分目くらい、ここが重要です!」
「お湯の量に異様なこだわりを感じるな……」
「何度も失敗して辿り着いた黄金比なんですから! で、フタをして一分待ちます」
タイマーをじっと見つめる美鈴さんの側顔は、仕事中以上の集中力を発揮していた。一分が経過すると、彼女は箸を手に取り、カップの中をガシガシと素早く混ぜ始める。
すると、固かったお菓子が一瞬にしてトロトロのポテトサラダ状態へと変貌を遂げた。
「ここに、めんつゆをちょろっと垂らして出汁の旨味をプラスします。そして……仕上げにスライスチーズを1枚、ドカンとのせてフタをして十秒!」
余熱でチーズがトロ〜リと溶け出したところで、黒胡椒をバサバサと振る。
「完成です! カップのままスプーンで食べるのが美鈴流です!」
ローテーブルに向かい合い、熱々のカップを囲む。美鈴さんに促されるまま、佐藤はスプーンで溶けたチーズごと一口すくい、口へと運んだ。
「……ッ!?」
一口食べた瞬間、佐藤の目が大きく見開かれた。
じゃがりこ本来の濃厚なチーズとポテトの風味に、めんつゆの出汁が深いコクを与えている。そこにトローリ伸びるスライスチーズの塩気と、ピリッと効いた黒胡椒。お菓子の面影はどこにもなく、完全に居酒屋の高級ポテトサラダ風料理へと化けていた。
「……うまい。お湯の量と待ち時間が完璧すぎる。お前、これ何回実験したんだ?」
「えへへ、15回くらいです! 佐藤さんに美味しいって言ってもらえて嬉しいなぁ」
えっへん、と胸を張る美鈴さん。その無邪気な笑顔があまりにも可愛らしくて、佐藤は思わず目を細めた。
すかさず冷えた缶ビールを煽り、二人はあっという間に「カップ入りの悪魔」を平らげていく。
食後の余韻に浸りながら、美鈴さんは少し温まった缶ビールを両手で包み込み、もじもじと下を向いた。
「あの……佐藤さん」
「ん?」
「あのですね……職場では『天井さん』で全然いいんですけど……」
美鈴さんは意を決したように顔を上げ、ほんのり頬を朱に染めて佐藤の目をじっと見つめた。
「二人でいる時とか、職場以外では……『美鈴』って呼んでもらえたら、嬉しいです……っ」
静かな部屋に、彼女の小さく震える声が響く。
佐藤は手にしたビール缶を止め、一瞬フリーズした。
「天井さん」から「美鈴」。それはただの「ズボラ飯仲間」という一線を、静かに、けれど決定的に踏み越える言葉の響きだった。
自分は55歳のオッサンで、彼女は若く愛くるしい秘書。歳の差も、立場もある。
だが、ハゲかけたフライパンとじゃがりこのカップを挟んで笑い合えるこの空間で、そんな野暮な壁に意味があるだろうか。
佐藤は苦笑混じりに息を吐き、今日一番の柔らかい声で呟いた。
「……分かったよ。美鈴ちゃん」
「あ……っ!」
名前を呼ばれた美鈴さんの顔が、一瞬でリンゴのように真っ赤に染まる。
「〜〜〜っ! はいっ、佐藤さん!」
とびきりの笑顔で返事をする美鈴さんを見つめながら、佐藤は缶ビールを傾けた。
深夜のズボラ飯と、目の前で嬉しそうにはにかむ「美鈴」。
55歳、勝ち取った完璧な自由の先に、なんだか思ってもみなかった、甘くて背徳的な時間が広がり始めていた。




