第7話:缶の中の小さな小宇宙と、揺れる距離感
「……ん?」
自席でキーボードを叩きながら、今夜のメニューに思考を巡らせていた時だ。背後からじっと刺さるような、だが温かい視線を感じて振り返る。
「佐藤さん、書類をお届けに参りました」
そこには、クリアファイルを両手でしっかりと抱えた天井さんが立っていた。相変わらず「ほわぁん」とした佇まいだが、心なしか頬が少し赤い。
「あっ、天井さん。ありがとう」
書類を受け取ろうとした瞬間、彼女は上目遣いで、消え入りそうな声を漏らした。
「あの……佐藤さん。また……お邪魔しても、良いですか……?」
「えっ」
「ご、ご迷惑でなかったら、ですけど……!」
ぺこりと頭を下げ、慌てて付け足す彼女。
職場で噂を立てられ「ただのお友達です!」と真っ赤になって否定していたはずの彼女が、自ら我が家に来たがっている。
(俺は……彼女をどう思っているんだ?)
お友達。こちら側の同志。単なるズボラ飯仲間の同盟国。
脳内で分類しようとしたが、彼女のどこか切実で、ほんのり熱を帯びた瞳とぶつかり、思考がフリーズする。
「……勿論だよ」
考えるより先に、言葉が口から漏れていた。
「あ……っ! 本当ですか!?」
「ああ。ただ……今日は『ツナ缶ズボラ飯』だけど、いいかな?」
「ツナ缶! 最高です、喜んでお供します!」
ぱっと花が咲いたような笑顔を見せる天井さん。その無邪気さに、胸の奥が少しだけチクりと鳴った。
数時間後、佐藤の自室。
「ツナ缶は、マグロでもカツオでもいい。ただし——油漬け(オイルタイプ)に限る!」
「なるほど、ノンオイルは絶対ダメなんですね!」
キッチンのカウンター越しに、天井さんが目を輝かせてメモを取る体勢に入っている。
「そうだ。なぜなら……その油こそが、この料理の旨味を支える『必要不可欠な要素』だからだ」
佐藤は手際よくツナ缶をパカリと開けた。油は絶対に捨てない。缶という小さな小宇宙の中で、すべての調理を完結させるのがこのレシピの神髄だ。
缶の中に、うま味調味料をふた振りと、白ごま。そこに七味唐辛子を振る。
「一味でもいいが、七味の方が麻の実や陳皮の香りが立って風味覚が強くなる。そして……ここだ」
佐藤が冷蔵庫から取り出したのは、しっかりと漬かった「キュウリの古漬け」。それをまな板で素早くみじん切りにし、ツナ缶の中に投入した。
「キュウリの古漬け……!? 漬物が入るんですか!?」
「そう。ツナと油の濃厚さに、古漬けの酸味とポリポリした食感、そして塩気がアクセントになるんだ。これを缶の中で、そのまま混ぜ合わせる」
箸で缶の中をシャカシャカと混ぜると、ツナの油に調味料と古漬けが絡み合い、とてつもなく食欲をそそる香りが立ち上る。
どんぶりに山盛りの炊きたて白飯を装い、その上へ缶から直接——
ドバーッ!!
「うわぁぁ……!!」天井さんから歓声が上がる。
ツナの肉と、旨味を吸った黄金色の油がご飯の山を駆け下り、米粒の隙間へと染み込んでいく。
「仕上げに、減塩醤油をお好みで回しかける。油のコクがあるから、減塩醤油のまろやかな角のない塩気がちょうどいいんだ」
ジュワッと醤油が米と油に弾ける。
「さあ、冷めないうちに喰おう」
二人はローテーブルに向かい合わせで座り、どんぶりを抱え込んだ。
「……いただきますっ!」
天井さんが豪快に一口、口へかき込む。
「……んん〜〜〜〜〜っ!!」
目を丸くして身悶えする天井さん。
「ツナの油がご飯に絡んですごく濃厚なのに、キュウリの古漬けがカリカリッとして後味がすごくさっぱりします! 七味のピリッとしたのも最高です……! 美味しい、美味しすぎます佐藤さん!」
「だろ? 洗い物も缶と箸だけで済む。究極の『缶完結型ズボラ飯』だ」
豪快に頬張り、冷えたビールで流し込む天井さんを見つめながら、佐藤も自分のどんぶりをかき込む。
美味い。間違いなく絶品だ。
だが、いつもと違うのは、目の前に自分の作った邪道飯を「最高だ」と目を輝かせて喰らう存在がいること。
ただの同志。ただのお友達。
そう自分に言い聞かせながらも、一口食べるごとに美味しそうに表情を変える彼女から、佐藤は少しだけ目が離せなくなっていた。
「佐藤さん、私……やっぱりここに来るのが、一番落ち着きます」
ビール缶を置き、少し赤くなった顔でほほ笑む天井さん。
「……そうか。なら、いつでも来るといい」
静かな部屋に、ツナと醤油の香ばしい匂いと、二人だけの少し特別な時間が満ちていた。




