第3話:コンビーフと納豆をぐちゃぐちゃにする夜
「お疲れ様でした。佐藤さん、助かりました!」
画面の向こうで、二十代のクライアント担当者がほっと胸を撫でおろしていた。
昼間、佐藤の作業環境にはピンと張り詰めた緊張感が漂っていた。他社が投げ出した難解なシステム障害の緊急案件。幾重にも絡まったプログラムのバグを、佐藤は静かに、しかし鮮やかな手さばきで解きほぐしていった。
キーボードを叩く指先に迷いはない。長年のキャリアで培った圧倒的な知識とトラブルシューティングの冴え。感情を表に出さず、淡々と、けれど完璧に仕事を遂行する。
「いえ、これで復旧するはずです。仕様書の差分もまとめておきましたので」
落ち着いた声で告げ、リモート会議を終了する。
相手からすれば「頼りになるベテラン技術者」であり、一切の無駄がないプロフェッショナル。昼間の佐藤は、間違いなく「デキる大人」の顔をしていた。
しかし、PCを落とし、作業部屋の電気を消した瞬間、その仮面は呆気なく剥がれ落ちる。
「……ふぅーっ! 疲れた!!」
大きく肩を回し、首を鳴らす。
どんなにスマートに仕事をこなそうが、頭をフル回転させれば脳が激しく糖分と脂質を要求してくる。
昼間、プロとして完璧に周りの期待に応えたからこそ、夜は100%自分だけの自由な時間だ。誰の役にも立たない、誰の目も気にしない、ただ自分の欲望を満たすためだけの時間。
「よし……今夜はジャンクの極みといくか」
台所に立ち、スーパーで買っておいたコンビーフの缶を取り出す。
さらに冷蔵庫から納豆を一パック、キムチ、そしてごま油。
「コンビーフとキムチ納豆のぶっかけ……『ジャンクの塊』だな」
今夜も包丁は使わない。
コンビーフの巻き取り鍵をクルクルと回して缶を開け、中の肉を半分ほど耐熱皿へ移す。レンジに入れて500Wで十秒。
チーン
扉を開けると、ほのかに甘い牛脂の匂いが立ち上る。温められたコンビーフは脂がトロリと溶けかけ、ほぐれやすくなっている。
そこに、納豆をタレごと投入。さらにキムチをドサッと加え、ごま油をひとたらし。
箸を握り、器の中でグチャグチャと一気に混ぜ合わせる。
糸を引く納豆、赤く染まるコンビーフ、キムチの酸っぱい香り。
お世辞にも映えるとは言えない。というか、見た目はハッキリ言ってかなりヤバい。
「ふはっ、ひでぇ見た目だ。だが……これがいい」
昼間の洗練されたシステム構築とは対極にある、カオスな混ぜご飯。
炊きたての白飯を丼に山盛りに装い、その上にドロッと粘りのある「塊」を豪快にぶっかけた。
冷えたハイボールの缶をプシュッと開け、勢いよく喉に流し込む。
シュワワッ……
炭酸の刺激が喉を駆け抜けた瞬間、どんぶりを左手で鷲掴みにし、豪快に口へかき込んだ。
「……っ!! んぐ……っ、うまぁぁ……!!」
一口咀嚼した瞬間、爆発的な旨味が口内で弾けた。
温まって溶けたコンビーフの濃厚な牛脂の甘みと肉の旨味。そこに納豆のコクと粘り、キムチの辛味と酸味が複雑に絡み合う。ごま油の香ばしさが全体をまとめあげ、炊きたての白飯がその強烈な味をしっかりと受け止める。
お行儀よく味わうなんて無理だ。米が、脂が、旨味が、噛む間もなく喉の奥へと滑り落ちていく。
「ふーっ……ふーっ……」
ハァハァと息を吐きながら、夢中でかき込む。
昼間、あれだけ冷静沈着にコードを書いていた男が、いまや欲望のままにどんぶりを抱え込み、口の周りをキムチとコンビーフで汚しながら喰らっている。
この強烈なギャップ。
社会の歯車として完璧に役割を果たし、そして誰にも邪魔されない個人の領域で、とことん自分を甘やかす。
「……プロの仕事の後の邪道飯。最高だな」
あっという間に丼は空になり、ハイボールも飲み干した。
口元をティッシュで拭い、佐藤は満足そうに天井を見上げる。
昼間のピリッとした達成感と、夜の背徳的な満腹感。その両方を自分でコントロールし、味わい尽くす。
「ふぅ……喰った喰った。さて、明日もサクッと仕事終わらせて、何食うかな」
佐藤はニヤリと笑うと、お気に入りのJAZZのボリュームを少しだけ上げ、ゆっくりとソファに深々と腰掛けた。




