07. 行きたい場所へ
ヴィオレッタはフェリクスと王都へ出かけることになっていた。婚約する以前にも二人で出かけたことは何度かあったものの、正式に婚約者となってからこうして一日を過ごすのは初めてで、ヴィオレッタは朝から少しだけ落ち着かなかった。服を選ぶ時も普段より時間がかかり、髪を整えてもらったあとも鏡の前で何度か確認してしまったが、いざ待ち合わせ場所へ向かってみれば、フェリクスはいつも通りだった。先に到着して本を読んでいた彼はヴィオレッタを見つけると顔を上げ、待たせていないから気にしなくていいと笑った。そのまま二人は最近読んだ旅行記について話しながら歩き始め、著者が絶賛していた南方の港町について、実際に訪れたフェリクスが「少し褒めすぎだと思う」と話したり、紹介されていた宿の朝食が妙に塩辛かったという話をしたりしているうちに、ヴィオレッタも朝から感じていた緊張をほとんど忘れていた。
「今日はどこか行きたいところある?」
大通りへ出たところでそう尋ねられ、ヴィオレッタは少しだけ考えた。以前から気になっている店はいくつかあったが、婚約者となった最初の外出なのだから、まずはフェリクスの行きたい場所へ付き合う方がいいような気がした。
「私はどこでもいいわ。フェリクスが行きたいところにしましょう」
「それなら、新しくできた書店を見てみたいんだけど、付き合ってくれる?」
「もちろんよ」
二人はそのまま王都の中心街に新しくできた書店へ向かった。店は二階建てで、壁一面に新刊や古書が並び、奥には外国の書物まで置かれている。ヴィオレッタも店へ入った途端に興味を惹かれ、気づけばフェリクスとは別々の棚を見て回っていた。しばらくして再び合流した時には、フェリクスの腕には三冊、ヴィオレッタの腕には二冊の本が抱えられており、互いに相手の冊数を見て笑ってしまう。最初に行きたい場所をフェリクスへ譲ったつもりだったが、結局ヴィオレッタ自身もかなり楽しんでいた。
書店を出る頃には昼時になっていたため、フェリクスが近くにある二軒の店を候補に挙げた。一軒は昔からある肉料理の店で、もう一軒は少し前に開店したばかりの小さな料理店だった。ヴィオレッタは後者の前を以前馬車で通ったことがあり、少し気になっていたものの、フェリクスがどちらを好むだろうかと考えているうちに、また同じ答えが口から出た。
「私はどちらでもいいわ。フェリクスの好きな方で」
「じゃあ俺が決めてもいいけど、その前に一つだけ聞いていい?」
「ええ、いいわよ?」
「本当にどっちでもいいの?」
「……新しくできた方が少し気になっていたわ」
「なら、そっちに行こう。俺もまだ入ったことがないし、せっかく二人で出かけてるんだから、ヴィオレッタが行きたいところにも行きたい」
あまりにも自然に言われ、ヴィオレッタは数日前にレティシアから聞いた言葉を思い出した。嫌な時は嫌だと言っていいし、したいことがあるなら、したいと言えばいい。
その意味がようやく分かった気がした。
「それなら、あちらのお店に行きたいわ」
「うん。行ってみよう」
フェリクスはそれ以上何も言わなかった。なぜ最初からそう言わなかったのかと尋ねることもなく、ただいつも通りヴィオレッタの隣を歩き始める。そのことがかえってありがたく、ヴィオレッタも余計なことを考えずに店へ向かうことができた。
選んだ店は思っていた以上に良かった。開店して間もないため多少混んではいたものの、料理はどれも丁寧に作られており、特に香草を使った鶏肉料理をフェリクスが気に入ったらしい。ヴィオレッタが「気になっていた店だから、入ってみてよかったわ」と言うと、フェリクスも素直に頷き、ヴィオレッタに聞いて正解だったと笑った。自分が選んだ店を彼も楽しんでいる。ただそれだけのことなのに、不思議と嬉しかった。
昼食を終えて再び街を歩いていると、ヴィオレッタは通りの向こうに以前から気になっていた雑貨店を見つけた。輸入品を多く扱っている店らしく、窓辺には見慣れない陶器や布製品、用途の分からない木製の道具まで並んでいる。一度はそのまま通り過ぎかけたものの、ヴィオレッタは少し迷ってから足を止めた。
「フェリクス。あのお店、寄ってもいい?」
「もちろん。俺も少し気になってた」
店内には外から眺める以上に様々な品が並び、ヴィオレッタは一つ一つ足を止めながら見て回った。フェリクスも別の棚を眺めていたが、やがて妙な形の置物を手に戻ってきた。それが鳥なのか魚なのかで二人の意見が分かれ、店主に尋ねても遠い地方で幸運を招くとされる生き物を模したものだという説明しか得られず、結局何を表しているのかは分からないままだった。
フェリクスはしばらく買うか悩んだ末、置き場所に困りそうだと言って棚へ戻したため、ヴィオレッタは以前レティシアから聞いた「旅先から用途の分からない物を持ち帰る」という話を思い出し、つい笑ってしまった。
ヴィオレッタは小さな刺繍入りの布袋を一つ購入し、店を出た。午後の日差しは少し傾き始めていたものの、まだ帰るには早い。フェリクスから次はどうするかと尋ねられ、ヴィオレッタは今度こそ彼の希望を先に考えるのではなく、自分が行ってみたい場所を探した。
「少し歩いたところに、新しい菓子店ができたらしいの。そこへ行ってみたいわ」
「じゃあ行こう。俺も甘いものが欲しくなってきた」
「本当に?」
「ヴィオレッタに言われてから食べたくなった」
その答えにヴィオレッタは笑い、二人はそのまま菓子店へ向かった。途中で気になる店を見つければ少し覗き、珍しい果物を売っている露店の前では足を止めて話す。婚約者になったからといって、二人の間に何か大きな変化が起きたわけではない。それなのにヴィオレッタの方だけが、これまでとは違う自分にならなければならないような気持ちになっていたのだろう。もっと相手を優先し、もっと相手に合わせ、それが婚約者として正しい姿なのだと思い込もうとしていた。
けれどフェリクスは、そんなことを一度も求めていなかった。彼が行きたい場所があれば彼が言い、ヴィオレッタが行きたい場所があればヴィオレッタが言う。それから二人で決めればいい。それだけのことだった。
菓子店へ向かう途中、ヴィオレッタは窓いっぱいに本や便箋、珍しい筆記具を並べた小さな店を見つけた。今日はもう寄る時間が足りなくなりそうだったため、少し迷った末に次の機会にすることにした。
「でも、あそこも気になるわ。今度来た時に寄りたい」
「じゃあ次はそこにしよう」
何でもない約束が一つ増えただけだった。それでも、自分の行きたい場所から次の予定が決まったことが少し嬉しかった。
ヴィオレッタは隣を歩くフェリクスを見ながら、婚約者になったからといって、自分まで別の誰かになる必要はないのだと改めて思ったのだった。




