06. 公爵夫人とのお茶
ヴィオレッタのもとへ一通の招待状が届いた。差出人は、フェリクスの母であるレティシアだった。内容はごく簡単なもので、もし都合がよければ一度二人でお茶でもどうか、というものだった。先日アルディーン公爵邸を訪れた際にもレティシアとは顔を合わせているが、その時はフェリクスや公爵、アレクシスも一緒だったため、二人だけでゆっくり話したことはまだない。ヴィオレッタもまったく緊張しないわけではなかったが、前回の訪問でアルディーン家の空気を知ったおかげか、以前ほど身構えることもなかった。
約束の日、ヴィオレッタが公爵邸を訪れると、案内されたのは大きな客間ではなく、庭に面した小さな居間だった。窓からはよく手入れされた庭園が見え、午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。レティシアはすでに席についており、ヴィオレッタの姿を見ると穏やかに微笑んだ。
「来てくれてありがとう。急に誘ってしまってごめんなさいね」
「いいえ。私も、レティシア様とゆっくりお話ししてみたかったので」
「それならよかったわ。今日は本当にお茶をするだけだから、そんなに緊張しなくて大丈夫よ」
そう言われて初めて、ヴィオレッタは自分が無意識に背筋を伸ばしていたことに気づいた。少しだけ力を抜いて席につくと、すぐに紅茶と焼き菓子が運ばれてくる。最初に話題へ上がったのは、やはりミリアのことだった。
「この前は、ミリアが随分とはしゃいでしまったでしょう」
「いいえ。とても可愛らしかったです」
「そう言ってもらえると助かるわ。あの子、あなたが帰ったあともずっと嬉しそうだったのよ。次はいつ来るのかしらって、そればかり聞いてきて」
「次は二人でお茶をする約束をしました」
「あら、もうそこまで話が進んでいたのね」
レティシアが楽しそうに笑うので、ヴィオレッタも自然と頬を緩めた。ミリアが自分を歓迎してくれていることは、思い返すたびに少し不思議で、それ以上に嬉しい。まだ正式に家族になったわけでもないのに、あれほど当然のように義姉と呼ばれるとは思っていなかった。
そこから話題は最近読んだ本や王都で評判になっている菓子店へ移り、やがてフェリクスの旅行好きについてまで広がっていった。レティシアは公爵夫人らしい落ち着きを持ちながらも、話してみれば気取ったところがなく、息子の話になると時折母親らしい困った笑みを見せる。フェリクスが旅先から珍しい品を大量に持ち帰り、置き場所に困らせたことや、本人は土産のつもりでも用途の分からない物が混じっていたことなどを聞いているうちに、ヴィオレッタの緊張もすっかり薄れていた。
「昔からあの子は、興味を持つとすぐ自分の目で確かめたがるの。誰かに聞くだけでは満足できないのね」
「それは、何となく分かります」
「でしょう?一度気になったら止めても行くのよ」
「彼らしいですね」
思わずそう口にすると、レティシアは少し嬉しそうにヴィオレッタを見た。
「あの子のことをよく見ているのね」
「そうでしょうか」
「ええ。少なくとも私はそう思うわ」
レティシアは紅茶を一口飲んだ。ヴィオレッタもカップへ手を伸ばしながら、ふとこれからのことを考える。結婚そのものはまだ先だが、婚約者となった以上、いつまでも何も知らないままではいられない。ましてアルディーン家は公爵家であり、伯爵家で育った自分とは立場も責任も違うだろう。
「レティシア様」
「なあに?」
「今のうちに、勉強しておいた方がいいことはありますか?」
レティシアはすぐには答えず、少しだけ首を傾げた。
「勉強?」
「はい。公爵家へ嫁ぐことになりますし、私も覚えておかなければならないことが増えると思うんです。社交のことや、家のことや……他にも色々あるでしょうから」
ヴィオレッタとしては、ごく自然な質問のつもりだった。だからこそ、レティシアがしばらく考え込んだあとに返した言葉は、まったく予想していなかった。
「それなら、フェリクスとちゃんと喧嘩できるようになっておきなさい」
「……喧嘩ですか?」
思わず聞き返すと、レティシアは可笑しそうに笑った。
「そう。もちろん、毎日のように言い争えという意味ではないわよ。でも、夫婦になれば意見が合わないことなんていくらでもあるでしょう?」
「それは、そうだと思いますけれど……」
「今日何を食べるか、どこへ出かけるか。その程度のことなら笑って済むけれど、もっと大きなことだってあるわ。家族のこと、仕事のこと、子供のこと。何もかも同じ考えになる二人なんて、まずいないもの」
レティシアの口調は穏やかだった。ただ、その言葉には長く夫婦として暮らしてきた人間の実感があるように思えた。
「だから、嫌な時は嫌だと言っていいし、したいことがあるなら、したいと言えばいいのよ。フェリクスだって、あなたに何でも合わせてもらいたくて結婚するわけではないでしょう?」
「……そうですね」
「どちらか一人がいつも譲っていたら、そのうち相手が何を考えているのか分からなくなるものよ。合わせてもらっている側だって、それでは困るの」
ヴィオレッタは返事をしながら、少しだけ考え込んだ。思い当たることがまったくないわけではなかった。婚約が決まってからというもの、自分は以前よりもフェリクスへ合わせようとしている気がする。どこへ行きたいかと聞かれれば彼の希望を優先し、何を食べたいかと聞かれても彼が好きなものを選ぼうとしていた。どれも小さなことだったし、自分では気遣いのつもりだった。けれど、それが本当に必要なことなのかと聞かれれば、自信はない。
婚約者とは相手を立てるものだと、いつの間にか当然のように考えていた。
「何か思い当たった?」
「……少しだけ」
「なら、今のうちに気づけてよかったわ」
レティシアはそれ以上を聞こうとはしなかった。ヴィオレッタが何を考えているのか、無理に言葉にさせるつもりもないらしい。
「必要なことはそのうち私から教えるし、分からないことがあれば何でも聞いてちょうだい。でもね、フェリクスの妻になるための正解を、今から一人で全部覚える必要なんてないの」
「……一人で?」
「ええ。あなたはフェリクスの妻になるのでしょう?だったら、分からないことはあの子と二人で決めていけばいいのよ」
言われてみれば当たり前のことのはずなのに、不思議と新鮮に感じられた。結婚とは、相手に相応しい人間になるために一人で努力し続けるものではなく、二人で暮らしながら形を作っていくものなのかもしれない。
「……ありがとうございます」
「あら。そんなに真面目にお礼を言われるようなことではないわ」
「でも、聞けてよかったです」
「それなら私も誘った甲斐があったわね」
レティシアは満足そうに微笑み、それ以上この話を重くすることなく、新しい菓子をヴィオレッタへ勧めた。そこからは再び穏やかな時間に戻り、最近ミリアが欲しがっている髪飾りの話や、アレクシスが仕事ばかりしていること、フェリクスが次はどこへ行きたがっているらしい、といった話をしながら午後を過ごした。
気づけば、最初に感じていた緊張はほとんど残っていなかった。
帰る時間になると、レティシアは玄関まで見送りに来てくれた。
「次に来る時は、ミリアともお茶をしてあげてね。あの子、本当に楽しみにしているから」
「もちろんです。私も約束しましたから」
「きっと朝から大騒ぎするわ」
「それは少し想像できます」
二人で笑い合ってから、ヴィオレッタは馬車へ乗り込んだ。
公爵邸を離れ、窓の外へ流れていく街並みを眺めながら、ヴィオレッタは今日の会話を思い返した。その中でも特に頭に残っているのは、やはり最初に言われた一言だった。
フェリクスと、ちゃんと喧嘩できるようになっておくこと。
本当に喧嘩をしたいわけではない。ただ、自分の考えをきちんと口にできるようになること。それなら、少しずつ意識してみてもいいかもしれない。
次にフェリクスと会った時には、彼に合わせる前に一度、自分がどうしたいのかを考えてみよう。
そう思いながら、ヴィオレッタは静かに窓の外へ目を向けた。




