04. アルディーン公爵家
フェリクスとの婚約が正式に決まってから十日ほどが経った頃、ヴィオレッタは婚約者として初めてアルディーン公爵家を訪れることになった。
アルディーン公爵夫妻とはこれまでにも夜会や茶会で顔を合わせたことがあり、挨拶を交わしたことも一度や二度ではない。しかし、それはあくまでグランシェル伯爵令嬢としてのものだった。フェリクスの婚約者となった今、改めて彼の家族として付き合っていく人々に会うとなれば、同じ挨拶でも意味合いがまるで違う。ヴィオレッタは朝から着ていくドレスを何度も確認し、髪型にもいつも以上に気を配り、持参する手土産についても母と相談して決めていた。
「随分と気合いが入っているわね」
出発前、そんな娘の姿を見た母のクラリッサが楽しそうに笑った。
「仕方ないでしょう。フェリクスの婚約者としてお邪魔するのは初めてなのよ。ご家族全員とゆっくりお話しするのだって初めてなんだから」
「そうね。でも、そのままでも十分綺麗よ。これ以上鏡を見ても髪型は変わらないと思うわ」
「……別に髪型を確認していたわけではないわ」
図星だったので、ヴィオレッタは鏡から目を逸らした。クラリッサはそれ以上からかうことなく、いってらっしゃいと送り出してくれた。
アルディーン公爵邸までは馬車でそれほど時間はかからない。にもかかわらず、今日ばかりはいつもより道のりが短く感じられた。もう少し心の準備をしていたかったと思った頃には、公爵家の紋章を掲げた大きな門が見えてくる。馬車が敷地へ入り、よく手入れされた庭園の向こうに建つ屋敷へ近づくにつれて、ヴィオレッタは無意識に背筋を伸ばしていた。
やがて玄関前で馬車が止まる。
扉が開かれるより先に、その向こうに見覚えのある姿を見つけた。
「いらっしゃい、ヴィオレッタ」
フェリクスだった。使用人に任せて屋敷の中で待っていてもよかったはずなのに、自ら玄関まで迎えに出ている。ヴィオレッタが馬車から降りるために差し出された手を取ると、フェリクスはすぐに彼女の顔を見た。
「緊張してる?」
「……少しだけ」
「少し?」
「かなり、とは言いたくないわ」
「じゃあ、少しということにしておこうか」
フェリクスはそれ以上追及しなかった。そして彼は普段と同じようにヴィオレッタの隣を歩き始める。そして、二言三言話しただけで、馬車の中で張り詰めていた気持ちが僅かに和らいだ。
案内された客間には、公爵夫妻とフェリクスの兄が揃っていた。アルディーン公爵クロードは社交界でも知られた人物で、決して愛想のよい方ではない。整った顔立ちと落ち着いた物腰も相まって、遠目に見るだけなら近寄りがたい印象を受ける男性だった。その隣には公爵夫人レティシアが座り、さらに向かいにはフェリクスの兄であり公爵家の跡継ぎでもあるアレクシスがいる。
ヴィオレッタは一人ずつ改めて挨拶を交わした。クロードは静かな口調で歓迎し、レティシアは以前社交の場で会った時と変わらない柔らかな笑顔を見せる。アレクシスとこれほど近くで話すのは初めてだったが、弟よりもいくらか落ち着いた雰囲気を持つ青年だった。
「ようやくきちんと挨拶できたな。よろしく、ヴィオレッタ嬢」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「もっとも、こちらとしては初めて会ったような気があまりしないんだが」
予想外の言葉にヴィオレッタは顔を上げた。
「そうなのですか?」
「ああ。フェリクスから何度も話を聞いていたからな」
ヴィオレッタの視線がゆっくりと隣へ動いた。
フェリクスが目を逸らした。
「……フェリクス?」
「兄上。別に今それを言わなくてもいいだろう」
「何か困ることでもあるのか?」
「困りはしないけど」
珍しく歯切れが悪い。ヴィオレッタが気になってアレクシスを見ると、彼は弟の抗議を気にした様子もなく教えてくれた。
「一緒に読んだ本の話や、出かけた先の話なんかはよく聞いていた。南部について書かれた旅行記を二人で読んでいるとか、王都の店で珍しい料理を食べたとか。そういう話だよ」
「そんなことまで話していたの?」
「別に隠すようなことでもないだろう?」
フェリクスはそう答えたものの、僅かに気まずそうな顔をしている。
ヴィオレッタは知らなかった。自分がフェリクスと会っていない間にも、彼の生活の中で自分の名前が出ていたらしい。それも婚約が決まってから始まったことではない。二人がまだ友人として会っていた頃から、フェリクスは家族に自分の話をしていたということになる。
そう考えると妙に恥ずかしくなり、それ以上詳しく聞くことはできなかった。
ほどなくして茶が運ばれ、一同はそのまま客間で過ごすことになった。最初のうちはヴィオレッタも姿勢を崩さず、一つ一つの言葉を選びながら話していたが、会話が進むにつれて、そこまで身構えていること自体が少し馬鹿らしくなってきた。
話題が堅苦しいものにならなかったからでもある。
アレクシスが最近仕事で訪れた地方の話をすれば、旅行好きのフェリクスが途中から加わり、いつの間にか現地の料理について二人で意見を言い合っている。クロードは基本的に聞き役だったが、時折二人の記憶違いを静かに訂正した。そのたびに兄弟揃って黙るので、ヴィオレッタは何度か笑いそうになった。
さらにレティシアがフェリクスの幼い頃の話を始めると、今度は本人が明らかに嫌そうな顔をした。
「母上、その話はヴィオレッタにする必要ないだろう」
「どうして?小さい頃のあなたはとても可愛かったのよ。庭の木に登って降りられなくなって、最後には泣きそうになっていたでしょう?」
「泣いてないよ」
すると、アレクシスが横槍を入れる。
「いや、泣いていたな」
「兄上まで余計なことを言わないでくれ」
「俺が降ろしてやったんだから覚えているぞ。フェリクス」
兄にまで言われてしまえば反論も難しいらしく、フェリクスは諦めたように茶を飲んだ。ヴィオレッタはとうとう堪えきれなくなって笑う。
「笑わなくてもいいだろう」
「だって、あなたにもそんな頃があったのね」
「俺だって最初からこの年齢だったわけじゃないからね」
「それはそうだけれど……木から降りられなくなったフェリクスは、ちょっと見てみたかったわ」
「ヴィオレッタまで母上たちの味方にならないでくれ」
少し前まであれほど緊張していたことが嘘のようだった。
ヴィオレッタはようやく、目の前にいる人々を公爵家の人間としてではなく、フェリクスの家族として見ることができるようになっていた。クロードは口数が少ないだけで、家族の会話を穏やかに聞いている。レティシアは息子の昔話を楽しそうに語り、アレクシスは落ち着いて見えて意外と弟をからかう。そしてフェリクスも、ここではヴィオレッタが普段見ている姿とは少し違う。兄に言い返したり、母親に昔の話を暴露されて困ったりする一人の息子であり、弟だった。
そんなことを考えていた時だった。
「そういえば、ヴィオレッタさん」
レティシアから呼ばれ、ヴィオレッタは顔を上げた。
「はい?」
「あなたはフェリクスのどんなところが好きなの?」
ヴィオレッタの動きが止まった。
すぐ隣ではフェリクスまで固まっている。
「母上、それを今聞くの?」
「あら、だって気になるでしょう?」
「少なくとも本人の前で聞くことじゃないと思うけど」
「あなたがいないところで聞いたら、それはそれで知りたがるでしょう?」
フェリクスは否定できなかったらしい。何も言わなくなった。
ヴィオレッタも困ってしまった。今日ここへ来るまでに、どんな話をすることになるかはいくつも想像していた。アルディーン家のこと、今後の予定、婚約発表について。けれど、フェリクスのどこが好きなのかと聞かれるとは一度も考えなかった。
何より、本人がすぐ隣にいる。
「答えにくければ、無理に答えなくていいのよ。ちょっと場所が悪かったわね」
レティシアはそう言ってくれたものの、一度聞かれてしまえば余計に意識してしまう。
ヴィオレッタは少しだけ考えた。
優しいところ、と答えることもできる。自分の気持ちを尊重してくれるところも好きだった。求婚された時、すぐに返事ができなかったヴィオレッタを急かすことなく待ってくれたことも嬉しかった。話をしていて面白いところも、知らない土地について楽しそうに話すところも、何かを押しつけることなく自然に隣にいてくれるところも好きだ。
けれど、それらを本人と家族の前で一つずつ並べる勇気はなかった。
「……一緒にいて、楽しいところです」
ようやく口にすると、自分でも分かるくらい頬が熱くなった。
レティシアは嬉しそうに笑った。
「そう。それならよかったわ」
「母上は満足したみたいだけど、俺はかなり恥ずかしいよ」
「聞いたのは私だもの」
フェリクスは困ったように笑っていたが、嫌そうには見えなかった。それどころか、どこか嬉しそうにも見える。
ヴィオレッタはそれを指摘することなく、自分のカップへ視線を落とした。
アルディーン公爵家を訪れる前は、もっと緊張した時間になると思っていた。
実際、ここへ来るまでは肩に力が入っていたし、最初の挨拶では失敗しないことばかり考えていた。それが今では、フェリクスが幼い頃に木から降りられなくなった話まで知っている。
公爵家という大きな名前ばかりを意識していたけれど、ここはフェリクスが生まれ育った家でもあるのだ。
それからもしばらく話は続き、気づけば帰る予定の時間が近づいていた。ヴィオレッタが席を立つと、クロードとレティシアからまたいつでも来るようにと言われ、アレクシスからも今後顔を合わせる機会は増えるだろうと声をかけられた。
フェリクスはヴィオレッタを玄関まで送ってくれることになった。
「どうだった?」
廊下を並んで歩きながら聞かれ、ヴィオレッタは少し考えた。
「思っていたより、ずっと楽しかったわ」
「それならよかった」
「それに、素敵なご家族ね」
フェリクスが僅かに目を見開いた。それから、素直に嬉しそうな顔をする。
「ありがとう」
ヴィオレッタも笑みを返した。
そのまま二人で玄関へ向かおうとした、その時だった。
正面の扉が開き、外から一人の少女が入ってきた。年齢は十七、八歳ほどだろうか。フェリクスと同じ髪色をした少女は、何やら使用人と話しながら歩いていたが、こちらに気づいた途端にぴたりと足を止めた。
ヴィオレッタと目が合う。
次の瞬間、少女の顔がぱっと明るくなった。
「ヴィオレッタお義姉様!」
「……え?」
ヴィオレッタが固まる。
少女はそんな彼女へ向かって、嬉しそうに駆け寄ってきた。
隣ではフェリクスが額を押さえていた。
「……ミリア。帰ってきたのか」
どうやら、フェリクスの家族について知るべきことは、まだ随分と残っているらしかった。




