03. 新しい婚約者
フェリクス・アルディーンからの求婚を受け入れた翌朝、ヴィオレッタ・グランシェルは目を覚ましてしばらくの間、天井を見つめていた。
昨夜はよく眠れた。少なくとも、以前の婚約が終わった直後のように、夜中に何度も目を覚ましたり、朝になっても身体を起こす気になれなかったりすることはない。窓から差し込む朝日はいつもと変わらず、庭から聞こえてくる鳥の声も、廊下を行き交う使用人たちの足音も、昨日までと何も変わっていなかった。それなのに、自分の中では確かに一つの大きな変化が起きている。
フェリクスから求婚された。
そんな事実を改めて頭の中で繰り返した途端、じわじわと実感が湧いてきた。嬉しくないはずがない。フェリクスの気持ちを知った時も嬉しかったし、返事を待ってほしいと伝えた後も、彼のことを考える時間は以前よりずっと増えていた。誰かに急かされたわけでも、家族から勧められたわけでもない。考える時間をもらい、それでも彼の隣にいたいと思ったから、自分から答えを出したのだ。
それでも、胸の奥には喜びとは少し違う緊張があった。
――また、婚約するのね。
その言葉だけを切り取れば、どうしても別の記憶と結びついてしまう。五年間続いた婚約が終わってから、まだそれほど長い年月が経ったわけではない。だからといってフェリクスとの婚約を迷っているわけではなかったし、昨日の返事を取り消したいとも思わない。ただ、もう一度誰かの婚約者になるという事実が、思っていた以上に大きなものとして感じられた。
ヴィオレッタは寝台から起き上がると、そんな自分に小さく苦笑した。昨日は自分からフェリクスの手を取ったというのに、一晩明けただけでこれでは先が思いやられる。けれど不安があるからといって、選んだことまで間違いになるわけではない。身支度を整え、いつも通り家族の待つ朝食の席へ向かった。
グランシェル伯爵家の朝食は、特別な事情がない限り家族揃って取ることになっている。すでに席についていた父アーノルドと兄エドワードの向かいへ腰を下ろすと、母クラリッサもほどなくして姿を見せた。いつもと変わらない朝のはずなのに、ヴィオレッタだけが妙に落ち着かない。食事が運ばれてきても、いつ切り出すべきかと考えているうちに時間ばかりが過ぎていった。
そんな娘の様子に最初に気づいたのは、やはり母だった。
「ヴィオレッタ、何か話があるの?」
いきなり核心を突かれて、ヴィオレッタは持っていたカップを静かに戻した。父と兄の視線まで集まり、これではもう先延ばしにもできない。
「ええ。昨日、フェリクスから正式に求婚されたの。それで……受けることにしたわ」
一瞬だけ食卓が静かになった。
最初に表情を変えたのはアーノルドだった。驚いたように目を見開いたものの、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。しかし喜びの言葉を口にするより先に、父は娘の顔を確かめるように見つめた。
「ヴィオレッタが自分で決めたことなんだな?」
「もちろんよ。すぐに返事をしたわけではないの。フェリクスにも待ってもらって、ちゃんと考えたわ。その上で、私から受け入れると伝えたの」
「そうか。それなら反対する理由はない。おめでとう、ヴィオレッタ」
その言葉を聞いた途端、思っていた以上に肩の力が抜けた。家族がフェリクスを嫌っていないことは分かっていたし、身分についても問題になるはずがない。それでも、実際に祝福されるまではどこか緊張していたらしい。クラリッサも嬉しそうに微笑み、娘の新しい選択を祝ってくれた。
エドワードだけは少し難しい顔をしていた。
「フェリクスなら、まあ……俺も反対はしない」
「何よ、その言い方。気に入らないところでもあるの?」
「そういうわけじゃない。むしろ人柄については信用している。ただ、妹が結婚するかもしれないとなれば、兄としては少しくらい慎重になるだろう」
妙に真面目な顔で言われ、ヴィオレッタは思わず笑ってしまった。エドワードは昔からこういう兄だった。普段は好き勝手なことを言うくせに、妹に関わることになると途端に細かいところまで気にする。それでもフェリクスとの婚約そのものには賛成らしく、アルディーン公爵家から正式な話が来れば父と一緒に対応すると言ってくれた。
朝食が終わる頃には、ヴィオレッタの報告はすっかり家族に受け入れられていた。大騒ぎになることもなければ、必要以上に気を遣われることもない。そのことが何よりありがたかった。
食後、父と兄がそれぞれの用事へ向かい、ヴィオレッタも自室へ戻ろうとしたところで、クラリッサから呼び止められた。
「少しだけいいかしら」
母に連れられて向かったのは、朝の日差しがよく入る小さな居間だった。使用人に茶を頼むこともなく、クラリッサは娘を向かいの椅子へ座らせると、その表情を静かに見つめた。朝食の席では何も言わなかったものの、どうやら母には隠せていなかったらしい。
「不安なの?」
ヴィオレッタはすぐには答えなかった。否定しようと思えばできた。けれど、ここで取り繕っても仕方がない。
「……少しだけ。また婚約するのだと思ったら、昨日まではなかった緊張が急に出てきたの。自分から受け入れておいて、おかしいでしょう?」
「別におかしくないわ。フェリクス様との婚約が嫌なの?」
「それは違うわ」
今度の答えに迷いはなかった。ヴィオレッタ自身、その即答が少し嬉しかった。
「だったら、今はそれで十分でしょう。嬉しいのに不安になることくらいあるわ。何もかも迷わず進める人なんて、そうそういないもの」
クラリッサはそれ以上深く聞かなかった。以前の婚約について持ち出すこともなければ、今度こそ幸せになりなさいとも言わない。ただ、ヴィオレッタが自分で選んだことを、そのまま受け止めてくれている。それだけで胸の奥にあった緊張が少しだけ和らいだ。
それから数日後、フェリクスがグランシェル伯爵家を訪れた。
すでにアルディーン公爵家にも本人から話を通しているらしく、今日は改めて結婚を前提とした婚約を申し込むための訪問だった。もちろんヴィオレッタとの間では話が決まっているのだから、両家の了承を得て正式な手続きを進めるための場という意味合いが強い。それでも、フェリクスは普段よりずっときちんとした装いで現れた。
そして、明らかに緊張していた。
応接室へ案内されるまでのわずかな時間、ヴィオレッタは彼の隣を歩きながら何度か横顔を盗み見た。いつもなら何かしら話しかけてくるのに、今日は妙に口数が少ない。とうとう我慢できなくなり、家族の待つ部屋へ入る少し前に小声で尋ねた。
「もしかして、緊張しているの?」
「してるよ。かなり」
あまりにも素直に認められ、ヴィオレッタは目を丸くした。
「あなたでも緊張するのね」
「僕をなんだと思ってるんだい。好きな女性の家へ来て、そのご家族に正式な婚約を申し込みに行くんだよ。これで平然としていられるほど肝は据わってないよ」
そう言って小さく息を吐いたフェリクスを見て、ヴィオレッタはなぜだか嬉しくなった。彼ならいつも通り余裕のある顔で話を済ませてしまうのではないかと、どこかで思っていたからだ。けれどフェリクスにとっても今日という日は、それだけ緊張するほど大切なものらしい。
「大丈夫よ。お父様もお母様も、あなたとの婚約には賛成しているから」
「それは聞いてる。でも、君のお兄さんは?」
「お兄様も賛成していたわよ」
「本当に?」
「どうしてそこだけ疑うのよ」
ヴィオレッタが小さく笑ったところで、使用人が応接室の扉を開いた。それを合図にフェリクスも表情を改め、二人は揃って中へ入った。
話し合いそのものは、穏やかに進んだ。
フェリクスは普段のような軽い冗談を挟むこともなく、ヴィオレッタと結婚を前提とした婚約を結びたいこと、その意思についてはアルディーン公爵夫妻にもすでに伝えていることを自分の言葉で説明した。アーノルドも相手の身分が公爵家の次男だからと必要以上に畏まることはなく、娘が選んだ男性としてフェリクスと向き合っていた。
「ヴィオレッタをよろしく頼む、と言うのが父親としては正しいのかもしれないが、娘ももう自分で物事を決められる大人だ。だから、一方的に守ってやってくれとは言わないよ。これから何かあった時には、二人で話して、二人で支え合ってくれればいい」
「はい。そのつもりです」
フェリクスは真剣な表情で頷いた。
その後は両家で今後の日程を調整することや、正式な婚約発表の時期について話が進んだ。公爵家との婚約となれば家同士で整えるべきことも少なくないが、互いに反対する者がいない以上、大きな問題はなさそうだった。
そして話が一段落したところで、それまで比較的静かにしていたエドワードがフェリクスへ目を向けた。
「一応言っておくが、ヴィオレッタを泣かせたら俺が出てくるからな」
「お兄様、何を言っているのよ」
ヴィオレッタはすぐに兄を止めたが、フェリクスは不快そうな顔をするどころか、妙に真面目な顔で頷いた。
「その時はよろしくお願いします。粗相をした時は、是非ぶん殴って下さい」
「よろしくするな。泣かせるなと言ってるんだ」
思わぬ返答にエドワードの方が困惑し、アーノルドが小さく笑った。それまで少しだけ残っていた堅苦しい空気も、そのやり取りでようやく消えていった。
やがて正式な話し合いを終え、フェリクスが帰る時間になった。ヴィオレッタは彼を玄関まで見送ることにした。来た時には緊張で表情の硬かったフェリクスも、さすがに今は肩の力が抜けている。
「やっと終わった……」
「そんなに緊張していたの?」
「してたよ。特に君のお兄さんがずっとこっちを見てるから」
「お兄様はあれであなたを歓迎しているのよ」
「あれで?」
「かなり」
信じられないという顔をするフェリクスがおかしくて、ヴィオレッタは笑った。以前なら、婚約というものについて話しながら、こんなふうに笑えるとは思っていなかったかもしれない。けれど今、目の前にいるフェリクスを見ていると、不思議と先ほどまで抱えていた緊張も少しずつ薄れていくような気がした。
迎えの馬車が玄関前へ回され、フェリクスが乗り込もうとする。その背中を見送ろうとして、ヴィオレッタはふと思い立った。
「フェリクス」
呼びかけると、彼が振り返った。
「今日は来てくれてありがとう。それから……改めて、これからよろしくね」
一瞬だけフェリクスが目を見開き、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ。よろしく、ヴィオレッタ」
やがて馬車が動き出し、門の向こうへ遠ざかっていく。ヴィオレッタはその姿が見えなくなるまで玄関先に立っていた。
これから両家で細かな話が進み、正式に発表されれば、ヴィオレッタは再び婚約者になる。
そのことへの不安がすべて消えたわけではないが、昨日、自分が出した答えを間違いだったとは少しも思わなかったのだった。




