25. 家族と過ごす夜
グランシェル伯爵家の食堂には、いつもと変わらない夕食が並んでいた。ヴィオレッタは母クラリッサの向かいに座り、父アーノルドと兄エドワードも同じ卓についている。婚礼衣装の仮縫いや新居へ運ぶ荷物の整理が始まってから、ヴィオレッタは外へ出る日が増え、家にいても自室で箱と向き合っていることが多かった。そのせいか、エドワードは食事の途中で何度か妹の方を見ていた。
「さっきから何なの?何か言いたいことがあるなら、普通に言ってくれればいいでしょう」
「いや、このところ家の中でお前を見かけないと思ってな。昨日も朝食では会ったけど、その後はずっと部屋にいたんだろ?」
ヴィオレッタは皿へ料理を取り分けながら頷いた。新居へ持っていく物を選び始めたものの、思っていた以上に時間がかかっている。本棚を一段確認するだけでも、新居で読みたい本、実家へ残しておきたい本、どちらにするか迷う本が出てくる。衣服や普段使いの小物も同じで、一度決めたはずの箱を開け直すことまであった。
「荷物を整理していたのよ。最初はすぐ終わると思っていたんだけれど、本だけで箱が二つ埋まってしまったわ」
「二つ?全部持っていくつもりなら、新しい書斎をお前の本だけで埋めることになるんじゃないか?」
「全部ではないわよ。フェリクスの本も置くのだから、私の分はちゃんと減らすつもり」
クラリッサがそこで、部屋にある家具はどうするのかと尋ねた。ヴィオレッタは机も本棚も今のまま残すつもりだと答える。幼い頃から使っている物まで新居へ移す必要はないし、結婚後に実家へ来た時には今の部屋を使いたかった。
アーノルドは話を聞きながら杯を置き、娘へ穏やかな視線を向けた。
「部屋は好きなように残しておきなさい。結婚したからといって、ここへ来られなくなるわけではないのだから」
「ありがとう、お父様。私もそうしてもらえると助かるわ」
その横で、エドワードが少し考えるように顎へ手を当てる。
「それなら、フェリクスと喧嘩した時にも使えるな。追い出されたとしても、帰る場所には困らない」
「結婚前の妹に向かって何を言っているの?せめて、もう少し縁起のいい話をしてくれないかしら」
クラリッサが呆れたように息を吐き、アーノルドは笑いを堪えきれなかった。エドワードも本気で言ったわけではないらしく、「冗談だよ。フェリクスがそんなことをするとは思ってない」と続け、そのまま食事へ戻る。ヴィオレッタも軽く睨んだだけで、皿の上に残っていた料理へ意識を戻した。
夕食が終わると皿が下げられ、代わりに茶と小さな焼き菓子が運ばれてきた。アーノルドは脇に置いてあった書簡へ目を通し、クラリッサは仕立て屋から預かった紙を確認する。ヴィオレッタが茶器を手にしたところで、クラリッサがふと思い出したように顔を上げた。
「新居へ持っていく物といえば、昔から使っている木の小物入れも持っていくの?花の彫ってある、あの小さな箱よ」
「ああ、あれならもう持っていく方へ分けてあるわ。今でも髪留めなんかを入れるのに使っているもの」
エドワードが手にしていた菓子を皿へ戻し、驚いたようにヴィオレッタを見る。あの小物入れは、まだエドワードが少年だった頃に街で買ってきた物だった。高価な品ではなく、蓋へ小さな花が彫られただけの簡素な箱である。
「まだ使ってたのか?もっと立派な物なら、今はいくらでも持ってるだろう」
「立派な物が増えたからって、使える物まで捨てる必要はないでしょう?大きさもちょうどいいし、私は気に入っているのよ」
エドワードは何か言い返すかと思ったものの、結局は茶器を持ち上げただけだった。口元がわずかに緩んでいるのを見つけたヴィオレッタも、そこには触れない。クラリッサが「それなら、新居でも長く使えそうね」と笑い、ヴィオレッタも頷いた。
食後の茶を飲み終える頃になると、アーノルドは書簡を持って執務へ戻り、エドワードも自室へ向かった。ヴィオレッタも荷物の整理を続けるため席を立とうとしたところで、クラリッサに呼び止められる。
「ヴィオレッタ、部屋へ戻る前に少し付き合ってくれる?衣装の話ではないから、そんなに時間は取らせないわ」
「もちろん。私もちょうど茶を飲み終えたところよ」
二人はそのままクラリッサの私室へ移った。ヴィオレッタは椅子を勧められて腰を下ろし、母も向かいに座る。仕立て屋から届いた紙を持ってこなかったところを見ると、本当に衣装の確認ではないらしい。
「新居の方はどう?家具も少しずつ決まってきたのでしょう」
「ええ。大きな物から順番に決めているところよ。長椅子なんて、結局二つ買ってしまったわ」
クラリッサが不思議そうに眉を上げたので、ヴィオレッタは店での出来事を話した。ヴィオレッタは明るい色の柔らかな長椅子を気に入り、フェリクスはもう少し大きく、背のしっかりしたものを選んだ。どちらかに決めようとした途端、二人とも相手へ譲り始め、最後には店主から部屋の広さなら二つとも置けると言われたのである。
「それで、本当に二つとも買ったの?あなたたちらしいと言えば、らしいけれど」
「私たちも途中で何をしているのか分からなくなったわ。次からは、まず自分が好きな方を言って、その後で相談することにしたの」
クラリッサは声を立てて笑い、茶を注いだ。ヴィオレッタの前へ茶器を置くと、自分の分も用意してからゆっくり口をつける。
「その方がいいわね。二人で暮らす家なのだから、どちらか一人がずっと相手に合わせていたら、かえって決めにくいもの」
「ええ。フェリクスも同じことを言っていたわ」
ヴィオレッタが茶器を持ち上げると、クラリッサはしばらく娘を見てから、今度は少し違う話を始めた。
「新しい家へ移っても、最初から何でも上手くやろうとしなくていいのよ。家を持つと、今まで誰かがやってくれていたことまで自分で考えなくてはいけなくなるでしょうから」
「お母様にも、そんな時期があったの?私が知っているお母様は、昔から何でもきちんとしている気がするけれど」
クラリッサは少し意外そうな顔をしたあと、すぐに笑った。
「そんなわけないでしょう。結婚して間もない頃なんて、親族を夕食へ招く日を一日間違えたことまであるわよ」
「お母様が?それは……かなり大変だったんじゃない?」
ヴィオレッタが思わず身を乗り出すと、クラリッサは当時を思い出すように目を細めた。翌日のつもりで厨房へ準備を頼んでいたところ、その日の午後になって来客の先触れが届き、そこで初めて勘違いに気づいたらしい。
「慌てて厨房へ行ったわ。あなたのお父様にも事情を話したら、一緒に料理長へ謝りに来てくれてね。どうにか夕食には間に合わせてもらえたけれど、あの時ほど時計を何度も見た日はなかったと思う」
「お父様も一緒に謝ったの?」
「ええ。二人の家で起きたことなのだから、私一人の失敗にする必要はないって。今でも、あの人なら同じことを言うでしょうね」
ヴィオレッタは父の顔を思い浮かべて笑った。確かに、アーノルドなら今でもそう言いそうだった。
「だから、困った時に一人で何とかしようとしなくていいの。フェリクス様と相談して、それでも分からなければ私たちに聞けばいいし、アルディーン家へ尋ねた方がいいことなら、そちらへ頼ればいいでしょう」
「ええ。分かったわ。少なくとも、親族を招く日は何度か確認するようにする」
クラリッサが「そこだけ覚えなくてもいいのよ」と笑い、ヴィオレッタもつられて笑った。話が一段落すると、母は残っている荷物の整理へ話を戻した。次の仮縫いが始まれば、また時間を取られる。今日のうちに少し進めておいた方がいいと言われ、ヴィオレッタもそのつもりで部屋を出た。
自室へ戻ると、床にはいくつかの箱が並び、机の端にも仕分け途中の本が積まれていた。新居へ持っていく物は窓側の箱へ、実家へ残す物は本棚の脇へ置き、まだ決めていない物だけ小卓へ集めてある。ヴィオレッタは袖口が邪魔にならないよう少し整えてから、本棚の前へしゃがみ込んだ。
上段から何冊か取り出し、一冊ずつ中を確認する。地理や旅行に関する本は新居へ持っていく方へ回した。フェリクスも興味を持ちそうなものが多く、共同書斎なら同じ棚へ並べてもいい。昔読んだ物語や詩集の中には、この部屋へ残しておきたいものもあり、それらは元の場所へ戻していく。
下段へ手を伸ばしたところで、棚の奥に木製の小物入れが見えた。夕食で話題になった品である。蓋に彫られた花は少し擦れ、角にも細かな傷がついている。ヴィオレッタは箱を取り出して蓋を開け、中に入っていた髪留めや細い紐を一度確認したあと、そのまま新居へ持っていく箱へ収めた。
次の本へ手を伸ばした時、扉が叩かれる。返事をすると、エドワードが一冊の本を持って入ってきた。
「俺の部屋にあったんだけど、これ、お前の本だろ?前に借りたまま返してなかったみたいだ」
「探していたのよ。そこへ置いておいてくれる?ちょうど持っていく本を分けているところだから」
エドワードは机の上へ本を置こうとして、床に並ぶ箱へ目を向けた。朝よりも明らかに数が増えているため、少し呆れた顔になる。
「本当に増えてるな。これでまだ半分も終わってないなら、先に箱の置き場所がなくなるんじゃないか?」
「私も少しそう思い始めているわ。だから今日は、出来るだけ本をまとめてしまうつもりなの」
エドワードは部屋の中央へ進み、開いた箱の中に例の小物入れを見つけた。夕食で話したばかりなので、それが何かはすぐ分かったらしい。
「本当に持っていくんだな。あんなに古い物をまだ使っているとは思わなかった」
「何度も言わせないでよ。気に入っているんだから、それでいいでしょう?」
ヴィオレッタが笑うと、エドワードも少しだけ笑って、本棚から数冊まとめて抜いた。
「じゃあ、この辺はどうする?全部持っていくなら箱へ入れるけど、残す物があるなら先に分けてくれ」
「上の三冊は新居へ持っていくわ。残りはここへ置いておいて。……もしかして、手伝ってくれるの?」
エドワードは返事をせず、言われた三冊を箱へ入れた。ヴィオレッタも隣へ移り、二人で本棚を上から順番に確認していく。重い本を一つの箱へ詰めすぎると運びにくいため、エドワードが途中で別の箱へ分け、ヴィオレッタは薄い本を空いた隙間へ収めた。
しばらく作業を続けたところで、エドワードが一冊の本を手にしたまま口を開く。
「新居が落ち着いたら、俺も一度見に行っていいか?フェリクスとはまた馬具を見に行く話もしているし、近いうちに顔を合わせることにはなりそうだけど」
「もちろん来ていいわよ。突然玄関に立っているのだけはやめてね。事前に連絡をくれれば、フェリクスも喜ぶと思うわ」
エドワードは「さすがに突然は行かない」と答え、手にしていた本を指定された箱へ入れた。ヴィオレッタはその横顔を見ながら、以前よりフェリクスの名前を自然に口にするようになった兄へ少しだけ笑う。
「最初は随分警戒していたのに、ちゃんと仲良くしているのね」
「別に仲が悪かったわけじゃない。妹の婚約者なんだから、最初に少しくらい様子を見るのは普通だろ?」
エドワードはそう言いながら、最後の数冊を本棚から下ろした。箱へ収めるところまで手伝うと、今度は本当に自室へ戻るらしく扉の方へ向かう。
「残りまで全部やったら、お前の荷造りじゃなくなるからな。今日はこの辺で勘弁してやる」
「十分助かったわ。ありがとう。お兄様が思っていたより働いてくれたから、だいぶ進んだもの」
エドワードは軽く手を上げて部屋を出ていった。ヴィオレッタは再び本棚へ向かい、残っていた本を数冊まとめて抱える。すでにかなり埋まった箱へ順番に入れていき、一冊目、二冊目とどうにか収めた。最後の一冊だけは横から差し込もうとしても入らず、一度中身を並べ直してみても隙間ができない。
ヴィオレッタは箱の中をしばらく見つめたあと、最後の一冊を机へ戻した。
「……もう一箱必要ね。これ以上詰めたら、今度は持ち上がらなくなりそうだわ」
諦めて箱の蓋を閉じると、ヴィオレッタは空の箱をもう一つ頼むため、机の脇にある呼び鈴へ手を伸ばした。




