19. 物件の下見
ヴィオレッタが馬車を降りると、正面には白い石造りの屋敷が建っていた。アルディーン公爵邸と比べればずっと小さいものの、二人で暮らすには十分すぎるほどの広さがある。正面には低い生垣と細い並木が続き、その向こうには小さな庭も見えていた。王都の中心部から少し離れているため、通りを行き交う馬車の音も遠く、周囲には穏やかな静けさがある。
「ここなの?」
「うん。父上が候補をいくつか出してくれたんだけど、その中では俺が一番気に入ってる場所だよ」
フェリクスはそう言って屋敷を見上げた。結婚後、彼はアルディーン公爵邸を出る予定になっている。公爵家を継ぐのは兄のアレクシスであり、次男であるフェリクスはヴィオレッタと別に家を構える。その話は以前から聞いていたものの、実際に暮らすかもしれない屋敷を目の前にしたのは今日が初めてだった。
「もちろん、俺が気に入ってるからってここに決めるつもりはないよ。ヴィオレッタにも見てもらって、それから決めたい」
「分かってるわ。中を見せて」
二人は使用人に扉を開けてもらい、屋敷の中へ入った。玄関広間には必要最低限の家具しか置かれておらず、正面の階段と左右へ伸びる廊下がよく見える。長く誰も暮らしていなかったためか、どこか静まり返っているものの、床や壁に大きな傷みはなく、少し手を入れればそのまま使えそうだった。
最初に案内されたのは、一階の庭側にある部屋だった。大きな窓が二つ並び、その先には裏庭が広がっている。ヴィオレッタは窓辺まで歩き、外を眺めてから室内へ視線を戻した。今は長椅子が一つ残されているだけだが、壁際には家具を置けるだけの余裕があり、窓の近くには小さな机も置けそうだった。
「ここは居間にするつもり?」
「俺はそう思ってる」
「なら、窓の前には大きな家具を置きたくないわ。せっかく庭が見えるもの」
ヴィオレッタは窓の横へ移り、壁までの距離を確かめた。手紙を書くための机ならこの辺りに置ける。長椅子は反対側へ寄せれば、窓から入る光も邪魔しないだろう。フェリクスはヴィオレッタが指した場所を見たあと、部屋の中央から配置を確かめるように辺りを見回していた。
一階には食堂として使えそうな広い部屋もあったが、二人だけで毎日使うには少し大きすぎる。隣にはもう少し小さな部屋があり、そちらなら落ち着いて食事ができそうだった。大きな方は客を招いた時に使い、普段はこちらを使いたいとヴィオレッタが言うと、フェリクスもそれに賛成した。
二階へ上がると、寝室や客室に使えそうな部屋がいくつも並んでいた。通り側の部屋は明るかったものの、人の目が少し気になる。ヴィオレッタは庭側の部屋を長く見ていた。窓を開ければ風がよく通り、朝日も強く入りすぎない。寝台を置く場所や衣装棚を置けそうな壁まで見ているうちに、フェリクスが隣から少しだけ笑う。
「気に入った?」
「ええ。寝室なら、私はこっちの方が好き」
「俺も同じかな」
そのまま廊下の奥へ進むと、他より少し広い部屋があった。壁際には古い本棚が一つだけ残されており、窓も大きい。フェリクスは中へ入ると、左右の壁を見比べながら足を止めた。
「ここは書斎にしたいと思ってたんだ。二人で使えるくらい広いし」
「二人で?」
「別々の方がよければ分けるけど、俺は同じ部屋でもいいかなって。互いに好きなことをしてても、近くにいられるから」
ヴィオレッタは部屋の中をゆっくり歩いた。机を二つ置いても十分な余裕があり、本棚を増やすこともできそうだった。窓に近い方の壁まで行き、そこへ机を置いた時のことを考えてから、反対側を指す。
「なら、私はこっちがいいわ。フェリクスは向こうね」
「決めるの早いな」
「あなたが二人で使うって言ったんでしょう?」
フェリクスが笑いながら反対側へ移る。ヴィオレッタはその姿を見ているうちに、先日ミリアから聞いた話を思い出した。
「そっちなら、大きな地図も広げられそうね」
「地図?」
「ミリアから聞いたの。子供の頃、地図を広げて、次はここへ行くって考えていたんでしょう?」
フェリクスの動きが止まった。
「……ミリア、そんな話までしたの?」
「最初に遠くへ行けることになった時、荷物を何度も確認していたことも聞いたわ」
フェリクスは額へ手を当てたが、ヴィオレッタは笑いを堪えきれなかった。
「可愛いじゃない」
「俺としては、あまり知られたくなかったんだけど」
「私はもっと聞きたいわ」
ヴィオレッタは笑いながら、フェリクスが使うことになるかもしれない壁際へ目を向けた。そこに大きな机を置き、地図を広げる姿は簡単に想像できる。旅先から持ち帰った品も棚に並べられるし、自分の本を置く場所も十分に残りそうだった。
「ねえ、フェリクス。南の海って、本当にそんなに綺麗なの?」
フェリクスが顔を上げる。
「綺麗だよ。俺が行った港でも、こちらとは色がかなり違った。もっと南まで行けば、さらに青く見えるらしい」
「私も見てみたいわ」
フェリクスが少し驚いたようにヴィオレッタを見る。先日ミリアと出かけた時、兄と行くならどこがいいかと尋ねられた。その時に思い浮かんだのが、フェリクスから何度も聞いていた南の海だった。
「いつか、一緒に行けたらいいわね」
「行こう。結婚して落ち着いてからでもいいし、もっと先でもいい。二人で時間が取れる時に」
「ええ。約束ね」
その先の予定までは決めず、二人は再び書斎の中を見て回った。地図を置く机は窓から少し離した方がよさそうで、旅先から持ち帰った品を置く棚も必要になる。ヴィオレッタの机は明るい方へ置き、本棚は二人で使いやすい場所へ増やす。フェリクスの意見を聞きながら、ヴィオレッタも気になったところを一つずつ口にしていった。
屋敷の中を一通り見終えると、二人は裏庭へ出た。中央には芝生があり、その周囲に細い花壇が作られている。今は植えられている花も少なく、少し寂しい。ヴィオレッタは花壇の前まで歩き、空いている場所を見渡した。
「ここ、もう少し花を増やしたいわ。春だけじゃなくて、季節ごとに何か咲くようにしたい」
「いいね。好きなように考えてみて」
「フェリクスも選ぶのよ。私だけで決めたら、二人の庭にならないでしょう?」
そう返すと、フェリクスは少しだけ目を丸くしたあと、すぐに笑った。庭の端には小さな木陰もあり、夏なら椅子を置いて過ごすこともできそうだった。ヴィオレッタは花壇だけでなく、そこから見える屋敷の窓にも目を向ける。二階の端には、先ほど書斎にしようと話していた部屋が見えていた。
「俺は、やっぱりここが好きだな」
フェリクスが屋敷を見上げたまま言う。
「でも、今日決めなくていいよ。他の候補も見てからで」
ヴィオレッタも白い壁と並んだ窓を見上げた。居間も、書斎も、庭も気に入っている。まだ他の屋敷を見ていない以上、今すぐ決めるつもりはなかった。それでも、先ほど歩いた部屋の様子が次々に浮かんでくる。
「フェリクス」
「ん?」
「他の屋敷も見るけれど……私は、ここがいいと思ってる」
フェリクスが少しだけ目を見開いた。
「もうそこまで気に入った?」
「ええ。あなたと話しながら見ていたら、ここで暮らすのも悪くないって思えたの」
フェリクスは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、他も見て、それでも気持ちが変わらなかったらここにしよう」
「そうしましょう」
二人は並んで馬車へ向かった。ヴィオレッタは乗り込む前に一度だけ白い屋敷を振り返り、それからフェリクスの差し出した手を取ったのだった。




