16. 今度こそ、植物園へ
植物園の正門を前にして、ヴィオレッタは少しだけ空を見上げた。以前ここへ来る約束をしていた日は、朝から雨が降り続いて予定を変えることになった。結局その日は二人で小さな店に入り、本を読みながら過ごしたため決して悪い一日ではなかったが、植物園へ行く約束そのものがなくなったわけではない。今日は薄い雲こそ浮かんでいるものの雨の気配はなく、柔らかな日差しが園内の木々を照らしていた。風も穏やかで、歩いて回るにはちょうどいい天気だった。
「今日は大丈夫そうね」
「さすがに二度続けて雨だったら、植物園に嫌われてると思うところだったよ」
「その時は三度目に来ればいいでしょう」
ヴィオレッタはそう返してから、フェリクスの胸元に目を留めた。濃い色の上着には、前に自分が贈った深い青色の留め具がつけられている。本当に次に会う時に使うと言っていたが、どうやら冗談ではなかったらしい。主張の強い飾りではないものの、落ち着いた色合いの服によく馴染んでいた。
「それ、本当につけてきたのね。よく似合っているわ」
「ありがとう。選んでくれた本人にそう言ってもらえるなら安心した」
フェリクスは嬉しそうに笑っていた。
二人はそのまま正門をくぐり、園内へ入る。王都の植物園はかなり広く、一般的な花や樹木だけでなく、遠方から持ち込まれた植物も育てられていた。温室もいくつかに分かれており、南方の植物を集めた区画や、水辺の植物を中心に育てている庭園もあるらしい。その時期にしか公開されない珍しい植物を目当てに訪れる者も多く、今回二人が楽しみにしていたのも、南方から運ばれてきた一種類の花だった。この国の気候では育てることが難しく、生きた状態で見られる機会は滅多にないため、ヴィオレッタもこれまで書物の挿絵でしか見たことがなかった。
入口で受け取った案内を確認すると、目当ての花が展示されている温室は園の奥にあるらしい。途中にもいくつか見どころが記されていたが、ヴィオレッタはまず目的の花を見に行くことにした。せっかく今日まで楽しみにしていたのだから、先に見てしまいたかった。
園内の道は広く、両脇には季節の花が整えられている。正門の近くには家族連れも多かったが、奥へ進むにつれて人の流れは少し落ち着いていった。ヴィオレッタは時折横へ目を向けながら歩いていたものの、気になるものをすべて見ていてはなかなか温室まで辿り着けそうにない。帰りに見ようと決め、今は真っ直ぐ目的地へ向かった。
温室へ入ると、外より少し暖かな空気が二人を包んだ。ガラス越しの日差しが葉の上に落ち、背の高い植物の影が通路へ伸びている。普段は見かけない形の葉や、鮮やかな色の花も多く、ヴィオレッタは何度か足を止めかけたが、奥の方に人が集まっている一角が見えると自然に歩調が速くなった。
そこに咲いていた花は、ヴィオレッタが本で見たものよりもずっと大きかった。淡い銀色の花弁が何枚も重なり、中心へ近づくにつれて青みを帯びている。遠目には白い花のようにも見えるが、近づけば薄い水色や青灰色が入り混じっており、光の当たり方によってわずかに印象が変わった。一輪だけでも十分に目を引くのに、それがいくつもまとまって咲いているため、周囲の植物とは明らかに雰囲気が違っていた。
「……綺麗ね。本で見るよりずっと好きだわ」
「思ってたより大きいね。色も実物の方が柔らかい」
ヴィオレッタはすぐにその場を離れず、花を眺めた。正面から見るのと横から見るのでは花弁の重なり方が違って見え、日差しの差し込む位置によって青みの強さも変わる。添えられている説明には、温暖な地域に自生する植物で、この国では冬を越すことすら難しいと記されていた。長い距離を運ぶことにも手間がかかるらしく、今回の公開もかなり珍しいものらしい。
フェリクスも隣で説明へ目を通していたが、ヴィオレッタほど長く文字を追うことはせず、しばらくすると再び花へ視線を戻した。どちらかが詳しく解説するわけでもなく、ただ同じものを眺めているだけだった。それでもヴィオレッタには居心地がよかった。書物で見ていたものを実際に自分の目で確かめ、その感想をすぐ隣にいる相手と共有できる。
ここまで来た意味は十分にあったのだった。
人の流れが少し増えてきたところで、二人は一度その場を離れた。まだ園内には見る場所がいくつも残っている。ヴィオレッタは案内を広げ、次に近い区画を確かめた。すぐ先には南方の植物を集めた温室が続き、その向こうには屋外の水辺の庭園があるらしい。
「次はこっちへ行きたいわ。そのあと、水辺の方も見てみましょう」
「うん。行こう」
以前なら、フェリクスがどこへ行きたいのかを先に尋ねていたかもしれない。けれど今日は、見たい場所があれば自然に口にしていた。フェリクスもそれを特別なことのようには扱わず、そのまま隣へ並んだ。
南方の植物を集めた区画には、さきほどの花ほど目立つものはなかったが、この国では見慣れない植物が多かった。人の背丈を超えるほど大きな葉や、細長い茎の先に小さな花をいくつもつけるもの、鮮やかな実をつけているものまである。ヴィオレッタは気になるものを見つけるたびに立ち止まり、近くまで寄って眺めた。フェリクスも自分が気になった植物を見つければ足を止めるため、進む速度は自然とゆっくりになる。
温室を出たあとは、水辺の庭園へ向かった。大きな池の周囲に遊歩道が整えられ、水面には丸い葉を広げる植物が浮かんでいる。岸辺には背の低い花が並び、場所によっては水面へ枝を垂らす木もあった。温室の中とは違って風が通り、歩いているだけでも気持ちがいい。ヴィオレッタは池の縁で一度立ち止まり、水面を眺めた。風が吹くたびに葉が僅かに揺れ、その隙間から小さな魚が見え隠れしている。
そこからさらに歩き、昼頃にはかなりの距離を回っていたため、二人は園内の休憩所で軽く食事を取ることにした。窓際の席からは広い花壇と芝生が見え、その向こうを何組もの来園者が歩いている。ヴィオレッタは飲み物へ手を伸ばしながら、朝に見た珍しい花を思い返した。
「雨の日も悪くなかったけれど、やっぱり来られてよかったわ」
「うん。あの日はあの日で楽しかったけど、今日は今日でちゃんと来た意味があるね」
食事を終えたあとは、季節の花が咲く区画へ向かった。そこに並んでいるのは、この国でも比較的よく見かける種類が多かったが、一面に咲き揃っていると普段とは違って見える。赤や黄色、白、紫と色の違う花がまとまって植えられ、少し高い場所から見ると模様のようになっていた。珍しさという点では午前中に見た花には及ばない。それでもヴィオレッタはしばらくその場に留まり、よく知っているはずの花を改めて眺めた。
その先で道が二つに分かれ、一方は出口へ近い道、もう一方は園の外周を回る少し長い道になっていた。ヴィオレッタは案内と実際の道を見比べたあと、迷わず遠回りになる方へ向かった。そちらには小さな林と、木陰を好む植物が集められているらしい。フェリクスも何も言わずついてくる。
外周の道は人が少なく、正門付近よりずっと静かだった。木々が日差しを遮っているため涼しく、足元には小さな花や苔が広がっている。派手な植物はほとんどないものの、ヴィオレッタはこういう場所も嫌いではなかった。時折立ち止まりながら歩いているうちに、気づけば午後もかなり進んでいた。
園内をほとんど一周する頃には、さすがに足にも疲れが溜まっていた。二人は出口へ向かい始めたが、最初の温室へ続く道が見えたところで、ヴィオレッタは歩みを緩めた。朝に見たあの花を思い出し、そのまま帰ってしまうのが少し惜しく感じた。
「ねえ、フェリクス。帰る前に、もう一度あの花を見てもいい?」
「もちろん。せっかく来たんだから、もう一回見ていこう」
二人は再び最初の温室へ戻った。午前中より人が少なくなっていたため、今度は花のすぐ近くでゆっくり眺めることができた。日の傾き方が変わったせいか、花弁の青みは朝より少し強く見える。ヴィオレッタは最初に見た時との違いを確かめるように、しばらく黙って花を眺めた。朝には珍しさに目を奪われていたが、二度目となると細かな形までよく見える。一枚ずつ微妙に形の違う花弁や、中心近くにだけ残る濃い色も、今度ははっきり分かった。
十分に眺めてから温室を出ると、正門へ来た時より日が随分傾いていた。かなり歩いたはずなのに、ヴィオレッタは心地よい疲れを感じるだけだった。一度は雨で流れてしまった予定だったが、こうして別の日に二人で来ることができた。楽しみにしていた珍しい花も見られ、予定していなかった場所まで随分歩いた。
「次は別の季節にも来てみたいわ。今日とは咲いている花も違うでしょうし」
「じゃあ、その時はまた一緒に来よう」
正門を出る前に一度だけ振り返る。雨の日には辿り着けなかった植物園は、今日一日かけても見切れないほど広く、思っていた以上に楽しい場所だった。




