14. 雨の日の予定
窓の向こうでは、朝から降り続いている雨が王都の石畳を濡らしていた。激しく降りつけるような雨ではないものの、止む気配はない。
本来なら今日はフェリクスと王都の植物園へ行く予定だった。以前アルディーン家の温室を歩いた時にヴィオレッタが興味を持ち、自分から行ってみたいと言った場所である。天気ばかりはどうしようもないため諦めていたところへ、フェリクスから植物園は別の日にして、今日は予定を変えて会わないかと連絡が届いた。ヴィオレッタに断る理由はなく、昼を少し過ぎた頃には王都へ向かう馬車に乗っていた。
待ち合わせたのは、大通りから一本入った場所にある小さな店だった。雨のせいか普段より客は少なく、窓際の席からは濡れた通りを行き交う馬車や、傘を差して足早に歩く人々が見える。先に到着していたフェリクスの向かいへ座ったヴィオレッタは、持ってきた鞄から一冊の本を取り出した。先日アルディーン家で夕食を取った際、小さな居間で読んでいた植物の本だった。
「これ、ありがとう。面白かったわ」
「もう読み終わったの?」
「ええ。思っていたより夢中になってしまって。王都の近くにも、知らない植物が随分あるのね」
「貸した甲斐があったな」
フェリクスは返された本を受け取り、持ってきていた鞄へしまった。ヴィオレッタが特に興味を持ったのは、季節によって花の色合いが僅かに変わるという植物だった。王都の植物園でも育てられているらしく、今日は実物を見るつもりだったのだと話すと、フェリクスも残念そうに窓の外へ目を向けた。雨粒が硝子を伝い、その向こうに見える街並みをぼんやりと滲ませている。
「今日は見られなくなったわね」
「せっかく楽しみにしてたのにな」
「また行けばいいわ」
ヴィオレッタが笑うと、フェリクスも納得したように頷いた。以前も、行こうとしていた店を予定から外した時に似たようなことを言った覚えがある。行きたい場所がなくなるわけではないのだから、今日でなくても構わない。そう考えれば、予定が変わることも以前ほど気にならなかった。
昼食を取りながら、この後をどうするか二人で考えた。近くには大きな書店があり、少し離れれば屋内の市場もある。ただ、雨の中を何度も馬車へ乗り降りしてまで予定を詰め込む必要もない。温かい料理を食べ、窓の外の雨を眺めているうちに、今日はこのままゆっくりしていてもいいのではないかという話になった。幸い店内は空いており、急いで席を立つ必要もなさそうだった。
食事を終えたヴィオレッタは、持ってきていた自分の本を開いた。フェリクスも鞄から別の一冊を取り出し、向かい側で読み始める。雨音のせいもあって店内は静かで、時折食器が触れ合う音が聞こえる程度だった。ヴィオレッタはしばらく読書に集中していたが、頁をめくった拍子に向かい側の本が目に入り、表紙に書かれた題名を見て手を止めた。
「それ、何の本?」
「北西部の街道を旅した人の記録。まだ途中だけど、結構面白いよ」
「街道の記録なのに?」
「宿とか食事の話も多いんだ。書いた人がよく道を間違えるから、旅行記として読むと面白い」
「それは少し気になるわね」
フェリクスは何頁か戻り、特に面白かったらしい箇所をヴィオレッタへ見せた。近道をしようとして知らない村へ入り込み、元の街道へ戻るまで丸一日かかったという話で、本人は大変だっただろうが文章にすると妙に愉快だった。ヴィオレッタが続きを読みたそうにしていることに気づいたのか、フェリクスは本を閉じて軽く持ち上げる。
「これも読む?俺が読み終わってからになるけど」
「いいの?さっき一冊返したばかりなのに」
「一冊返ってきたなら、ちょうど一冊貸せるだろ」
「そういう数え方なの?」
「増えてないから問題ないよ」
妙な理屈に笑いながらも、ヴィオレッタは借りることにした。フェリクスが読み終えるまではまだ少しかかるらしく、次に会う時に持ってきてもらう約束だけして、それぞれ再び自分の本へ戻った。
それからは長く話し込むこともなく、時折飲み物を追加しながら本を読んだ。面白い箇所を見つければ相手に話し、また静かになる。以前なら、せっかく二人で出かけたのだから何かをしなければ勿体ないと思っていたかもしれない。しかし今は、向かい側でフェリクスが本を読んでいるだけでも退屈ではなかった。予定していた植物園には行けなかったし、特別な場所を訪れたわけでもない。それでも帰りたいとは思わないまま、気づけば随分長い時間が過ぎていた。
窓の外が少し明るくなった頃、ようやく雨脚も弱まっていた。完全に止んだわけではないため、店を出たフェリクスは持ってきていた大きめの傘を開き、ヴィオレッタを中へ入れる。二人で並んでも十分な大きさがあるはずなのだが、歩き始めて間もなく、ヴィオレッタは傘が妙にこちらへ傾いていることに気づいた。自分の肩は濡れていない一方で、フェリクスの外套には細かな雨粒がついている。
「フェリクス、あなたの方が濡れているわ」
「これくらいなら平気だよ」
「平気じゃないでしょう。もう少しこっちに来て」
ヴィオレッタは自分から一歩近づき、空いていた距離を詰めた。肩が軽く触れるほど近くなれば、傘を真っ直ぐにしても二人とも十分に収まる。フェリクスは一瞬だけこちらを見たものの、何も言わずに傘の角度を戻した。その横顔が少しだけ照れているように見えて、ヴィオレッタも気づかないふりをして前を向く。
雨に濡れた通りを二人でゆっくり歩いた。石畳にはいくつもの水溜まりができており、馬車が通るたびに水が跳ねる。大きな水溜まりを避ける時には、ヴィオレッタは自然とフェリクスの腕へ手を添えた。彼も歩調を緩め、そのまま二人で狭い場所を通り抜ける。肩が触れたり離れたりする距離にも次第に慣れ、雨音を聞きながら歩いていると、植物園へ行けなかったことなどほとんど気にならなくなっていた。
馬車の待つ場所へ着く頃には、雨はさらに細くなっていた。フェリクスが傘を差したまま扉が開くのを待ち、ヴィオレッタはその隣から灰色の空を見上げる。
「植物園は次ね」
「ああ。今度こそ晴れるといいな」
「そうね。でも、今日も楽しかったわ」
フェリクスが少し意外そうにこちらを見る。その表情がおかしくて、ヴィオレッタは笑った。
「植物園へ行けなくても、本を読んでいただけでも、私は十分楽しかったという意味よ」
「……そっか。俺も楽しかったよ」
馬車へ乗り込む直前、ヴィオレッタはもう一度フェリクスを振り返った。次に会う時には、今日彼が読んでいた本を借りることになっている。その次には植物園へ行く約束も残っていた。予定していた一日は雨で変わってしまったのに、次の楽しみはむしろ増えている。
植物園には行けなかった。それでも悪くない一日だったと、ヴィオレッタは素直に思えた。




