12. 私が選んだ人
会場の前には、すでに何台もの馬車が並んでいた。窓の外を眺めていたヴィオレッタは、降りていく招待客の姿を目で追いながら、無意識に手袋をした指先を重ねていた。王都でもそれなりに名の知られた伯爵家が開く夜会で、規模も決して小さくない。婚約が正式に決まってから、フェリクスと二人揃ってこうした場へ出るのは初めてだった。
「緊張してる?」
向かいに座っていたフェリクスに問われ、ヴィオレッタは自分の手元へ視線を落とした。
「……少しだけ」
「帰りたい?」
「そこまでではないわ」
「なら、行こうか」
それ以上は何も言わず、フェリクスは馬車を降りた。すぐにこちらへ向き直り、差し出された手をヴィオレッタが取る。玄関へ続く階段を上がりながら、彼女は一度だけ小さく息を吐いた。
広間へ入れば、予想していた通り何人もの視線が向けられた。けれど、それをいつまでも気にしている暇はなかった。主催者への挨拶を済ませれば、すぐに顔見知りの夫人から婚約を祝われ、その次には別の令嬢が声を掛けてくる。興味深そうに二人を見ている者もいれば、純粋に祝福してくれる者もいる。ヴィオレッタは一つひとつに礼を返しながら、隣に立つフェリクスとも自然に言葉を交わした。
しばらくすると、フェリクスの知人らしい男性が近づいてきた。仕事の話があるのか、二人は短く挨拶を交わしたあとでヴィオレッタを見る。
「少し話してきてもいい?」
「もちろんよ。行ってらっしゃい」
フェリクスが離れても、ヴィオレッタはその場に取り残されたようには感じなかった。ほどなくして以前から付き合いのある令嬢に声を掛けられ、最近王都にできた菓子店や、今季評判になっている本の話をする。別の夫人からは、来月開かれる音楽会について尋ねられた。どれも他愛のない話題だったが、それで十分だった。
「待たせた?」
戻ってきたフェリクスに声を掛けられ、ヴィオレッタは振り返った。
「いいえ。私も話していたもの」
そのまま何の迷いもなく彼の隣へ戻る。フェリクスも特に何か言うことなく、また一緒に広間を歩き始めた。
やがて楽団の奏でる曲が変わり、中央にいた人々が少しずつ端へ寄っていった。代わりに何組もの男女が広間の中央へ進み始める。ヴィオレッタがその様子を眺めていると、隣にいたフェリクスが足を止めた。
「ヴィオレッタ。一曲、踊らない?」
差し出された手を見て、ヴィオレッタはすぐに自分の手を重ねた。
「ええ。喜んで」
二人で広間の中央へ進み、向かい合う。フェリクスの片手がヴィオレッタの手を取り、もう片方が腰へ添えられる。ヴィオレッタも彼の肩へ手を置いた。社交の場で踊ること自体は、二人とも幼い頃から習っている。だからといって、婚約者となって初めて踊ることまで何も感じないわけではなかった。
曲が始まり、二人は同時に一歩を踏み出した。
最初のうちは、ヴィオレッタも自然と周囲へ意識を向けていた。裾が乱れていないか、歩幅は合っているか、他の組との距離は十分か。普段なら気にも留めないことが、今日は妙に気になった。
「今日は楽しめてる?」
踊りながらフェリクスが小さな声で尋ねてきた。
「ええ。思っていたよりずっと」
「よかった。俺も楽しいよ」
短い言葉だったが、それだけで少し肩の力が抜けた。
フェリクスは無理に大きく動かすことなく、ヴィオレッタの歩幅に合わせて進んでいく。ヴィオレッタも次第に周囲を気にしなくなり、彼の動きに合わせて自分から足を運ぶようになった。
曲が流れ、二人の身体がゆるやかに向きを変える。何組もの男女とすれ違い、広間の灯りが視界の端を流れていく。一度手が離れ、ヴィオレッタは裾を翻しながら回った。再び正面へ戻ると、フェリクスが差し出していた手を迷わず取る。
その動きがあまりにも自然だったので、ヴィオレッタは思わず笑った。
「どうしたの?」
「いいえ。ただ、あなた、思っていたより踊るのが上手なのね」
「それ褒めてる?」
「褒めているわよ。旅行の話ばかりしているから、こういう場はあまり好きじゃないのかと思っていたの」
「好きかどうかと、踊れるかどうかは別だよ」
「では、好きではないの?」
「今日は好きかな」
あまりにもさらりと言われて、ヴィオレッタの足が一瞬だけ遅れそうになった。フェリクスがすぐに歩幅を合わせてくれたため崩れることはなかったが、言った本人も少し遅れて自分の言葉を意識したらしい。ほんの僅かに視線を逸らした。
それを見て、ヴィオレッタは吹き出した。
「何で笑うんだよ」
「だって、自分で言って照れているんだもの」
「……言わなきゃよかった」
「私は嬉しかったわよ」
今度はフェリクスが黙った。
ヴィオレッタはそれ以上何も言わず、再び曲へ意識を戻した。けれど、先ほどまでより明らかに楽しくなっていた。フェリクスが踏み出せば、それに合わせて一歩進む。回転する時には少し強く床を蹴り、再び向き合えば自然に距離を戻した。誰かにどう見られているかよりも、目の前のフェリクスと歩幅を合わせる方がずっと簡単だった。
少し速い旋律に変わり、二人は続けて向きを変える。フェリクスの手に導かれながら回り、ヴィオレッタはまた正面へ戻った。
「ヴィオレッタ、笑ってる」
「踊っているんだから、笑ったっていいでしょう」
「いや。いい顔してるなと思って」
「そういうことを踊っている最中に言わないでちょうだい」
そう答えながらも、ヴィオレッタの笑みは消えなかった。
曲は少しずつ終わりへ近づいていく。最後の流れに入ると、フェリクスが握っていた手を少し引き、ヴィオレッタが一度大きく回る。裾が柔らかく広がり、正面へ戻ったところで二人の足が同時に止まった。
楽団の音が静かに途切れる。
二人は揃って礼をし、広間の端へ戻った。踊り終えたばかりだというのに、ヴィオレッタは不思議ともう少し続いてもよかったと思っていた。
「もう一曲いけそう?」
「少し休んでからなら」
「じゃあ、あとでもう一曲」
ヴィオレッタはすぐに頷いた。
その後も夜会は穏やかに続いた。軽い食事を取り、何人かの知人と話し、約束通りもう一曲フェリクスと踊った。二度目には最初ほど周囲も気にならず、ただ音楽と彼の動きに合わせて踊ることができた。
気づけば、帰る時間が近づいていた。
玄関ホールへ向かいながら、ヴィオレッタは今日一日のことを思い返す。最初は少し緊張していたはずなのに、今ではもう少しいてもよかったと思っている。それくらいには楽しかった。
外套を受け取り、二人で玄関へ向かう。フェリクスが何かをするより先に、ヴィオレッタは自然とその腕へ手を添えた。
フェリクスが少しだけ驚いたようにこちらを見る。
「どうしたの?」
「何も。婚約者の腕を取ってはいけない?」
「いや。むしろ嬉しい」
その返事に、ヴィオレッタは小さく笑った。腕を離すこともなく、そのまま外へ出る。夜風が火照った頬に触れ、広間の賑わいが少しずつ遠ざかっていった。
「帰りましょう、フェリクス」
「ああ、そうだね」
ヴィオレッタは彼の腕に手を添えたまま、その隣を歩き出したのだった。




