11. ある日、少し疲れた日
待ち合わせ場所に現れたフェリクスを見て、ヴィオレッタはすぐに普段との違いに気づいた。いつものように穏やかに笑ってはいるものの、目元には薄く疲れが滲んでいる。手には革張りの鞄のほか、薄い包みと二冊の本まで抱えており、どう見ても身軽とは言い難かった。今日は夕方から王都を少し歩き、いくつか店を覗いたあとで食事をする約束だった。フェリクスは仕事を終えてそのまま来るとは聞いていたが、予想以上に慌ただしい一日だったらしい。
「今日、忙しかったの?」
「少しだけ。予定になかった確認が増えて、思ったより長引いたんだ」
「少し、という顔には見えないわね」
「そこまで酷くはないよ。ただ、朝からずっと座ったり立ったりを繰り返していたから、少し疲れただけ」
フェリクスは笑ってそう言ったが、ヴィオレッタはその言葉を額面通りには受け取らなかった。無理をしているというほどではない。ただ、いつもより確実に疲れている。それなら予定を変えた方がいい。今日見るつもりだった店は、どれも急ぎではなかった。来週でも来月でも構わないし、そもそも婚約者同士だからといって、約束した予定を何が何でも全部こなす必要もない。
「だったら、今日は近くで食事だけにしましょう。お店はまた今度でいいわ」
「でも、ヴィオレッタも楽しみにしていただろ?」
「楽しみにはしていたけれど、疲れているあなたを連れ回したいわけじゃないもの。それに、店は逃げないでしょう」
「それはそうだけど」
「今日はゆっくりしましょう。私はその方がいいわ」
そこまで言うと、フェリクスはようやく素直に頷いた。以前ならヴィオレッタも、自分が行きたいと言った場所なのだから予定通り行くべきか、あるいは逆に相手が望むなら何も言わず合わせるべきかと余計なことを考えていたかもしれない。
二人は予定していた大通りから外れ、少し静かな通りへ向かった。その途中で、ヴィオレッタは改めてフェリクスの手元を見た。革の鞄だけでもそれなりの重さがありそうなのに、さらに本と包みまで重ねて抱えている。歩くたびに一冊が僅かにずれ、フェリクスが指先で直していた。
ヴィオレッタは何も言わず、そのうちの一つへ手を伸ばした。
「良いんだ、ヴィオレッタ。自分で持てるよ」
「これくらいはさせてちょうだい。今日はあなたの方が疲れているでしょう」
フェリクスは一瞬だけ目を丸くし、それから少し困ったように笑った。
「本当に大丈夫?」
「本一冊と包みでしょう。これくらいで倒れたりしないわ」
「それなら……お願いしようかな」
渡された包みと本を受け取ると、想像していたよりずっと軽かった。包みの方は薄く、本も特別分厚いものではない。ヴィオレッタはそれを腕に抱え直し、そのまま歩き出した。普段はフェリクスに何かを持ってもらったり、扉を開けてもらったりすることの方が多い。だから今日は少しだけ立場が逆になったようで、妙に新鮮だった。
「それ、何の本なの?」
「今日受け取ったものなんだ。南部の街道についてまとめた記録らしい」
「仕事の本?」
「半分は仕事かな。残り半分は俺が勝手に読みたいだけ」
「やっぱり旅行関係なのね」
「そういう本は見つけると欲しくなるんだよ」
そう答える声には、先ほどより少しだけいつもの調子が戻っていた。ヴィオレッタは包みを持ち直しながら、隣を歩くフェリクスを見る。何か特別なことをしているわけではない。ただ少し荷物を持っただけだ。それでも、彼の負担がほんの僅かでも減っているのなら悪くないと思えた。
二人が入ったのは、大通りから一本外れたところにある落ち着いた店だった。以前フェリクスが一度来たことがあるらしく、静かで食事も美味しいという。店内は華美ではないが整っており、夕方の早い時間だったこともあって客の数はまだ多くない。案内された窓際の席からは、通りを行き交う馬車や人の姿がよく見えた。
席につくと、フェリクスは小さく息を吐いて肩を落とした。
「やっぱり疲れていたじゃない」
「座ったら分かった」
「自分で?」
「うん。思ったより疲れてたみたいだ」
ヴィオレッタは呆れたように笑ったが、それ以上は何も言わなかった。注文を済ませ、しばらくするとフェリクスの表情も少しずつ柔らかくなる。最初は仕事の話をするのかと思ったが、彼が口にしたのは最近読み終えた旅行記の話だった。
内容は南方の小さな港町を巡った旅人の記録らしく、フェリクスはそこに書かれていた市場の話を面白そうに語った。市場では魚を売る店の隣で色鮮やかな布が並び、そのすぐ向かいには香辛料の店があるという。ヴィオレッタも以前似たような描写を別の本で読んだことがあり、話は自然に広がっていった。
「そういえば今日、仕事の帰りに妙な置物を見つけたんだ」
「また?」
「またって言わないでくれよ」
「だって、あなた妙な置物を見つけるのが得意でしょう」
「今回は買ってないよ。さすがに置く場所がなくなってきたから」
「ようやく気づいたのね」
ヴィオレッタが笑うと、フェリクスも声を立てて笑った。疲れているからといって、何も話さず静かにしている方がいいわけではないらしい。いつものような話をしているうちに、待ち合わせた時の重たそうな表情は少しずつ消えていった。
仕事についても少しだけ聞いた。今日は予定外の確認事項がいくつか重なり、その都度別の担当者を待たなければならなかったらしい。大きな問題が起きたわけではなく、ただ一つひとつに時間がかかっただけだという。ヴィオレッタは詳しい内容までは尋ねず、「それは疲れるわね」とだけ返した。フェリクスもそれ以上愚痴を続けることはなく、料理が運ばれてくる頃には別の話題へ移っていた。
食事は温かい肉料理と野菜の煮込み、それに焼き立てのパンだった。フェリクスは最初の一口を食べたあと、明らかに満足そうな顔をした。
「美味しい?」
「うん。今日は特に美味しく感じる」
「お腹も空いていたのね」
「昼が軽かったから」
「それを先に言いなさいよ」
ヴィオレッタは半ば呆れながらも、自分の皿に視線を戻した。料理そのものも美味しく、店を変えたことに後悔はなかった。食事をしながら、今度読みたい本や、王都に新しくできた菓子店の話をする。予定していた店には一軒も行っていないのに、気づけば随分長い時間を過ごしていた。
「さっきより元気になったみたいね」
食後の飲み物が運ばれてきたところでヴィオレッタが言うと、フェリクスは素直に頷いた。
「うん。だいぶ楽になったよ。こういうのもいいな」
「こういうの?」
「特にどこかへ行かなくても、食事をして話すだけで十分楽しいってこと。今日は正直、店を何軒も回る元気はなかったけど、ヴィオレッタには会いたかったから」
その言葉に、ヴィオレッタは一瞬だけ返事に迷った。さらりと言われたせいで、余計に胸に残る。
「……それなら、予定を変えて正解だったわね」
「うん。本当に」
フェリクスは穏やかに笑い、カップへ口をつけた。ヴィオレッタも同じように飲み物を口にしながら、窓の外へ目を向ける。いつの間にか日は随分傾き、通りには夕暮れの色が広がっていた。
店を出る頃には、フェリクスの顔から疲れの色はかなり薄れていた。外へ出るなり彼はヴィオレッタが持っていた荷物へ手を伸ばしたが、彼女はさっと抱え直す。
「もう返してくれていいよ」
「馬車まで持つわ。ここまで持ったんだから同じでしょう」
「もう元気になったよ」
「だからって途中で返す必要もないでしょう」
ヴィオレッタがそのまま歩き出すと、フェリクスは諦めたように笑い、隣へ並んだ。夕暮れの通りは昼より人が少なく、風も少し涼しい。二人は急ぐこともなく、馬車の待つ場所までゆっくり歩いた。
「今日は予定を変えてくれてありがとう」
しばらくして、フェリクスが静かに言った。
「大したことじゃないわ」
「俺には結構ありがたかったよ。無理して予定通り回ってたら、多分途中でかなり疲れてた」
「だったら尚更、変えて正解だったじゃない」
「うん。それに、ヴィオレッタに会えてよかった。かなり元気になった」
ヴィオレッタは少しだけ視線を逸らした。そんなことを真っ直ぐ言われると、まだどう返していいか迷う時がある。
「それなら、今日会った甲斐があったわね。次から疲れている時は、最初からちゃんと言ってちょうだい」
「分かった。そうするよ」
馬車の前へ着き、ヴィオレッタはようやく荷物を返した。フェリクスはそれを受け取ると、次は予定していた店へ行こうと笑った。ヴィオレッタも頷く。次はたくさん歩く日になるかもしれないし、今日のように食事だけになるかもしれない。その時になってみなければ分からないが、それでいいのだと思えた。
今日は特別な場所へ出かけたわけでも、何か珍しい出来事があったわけでもない。ただ予定を変えて、食事をして、少しだけフェリクスの荷物を持った。それだけの時間だった。それでも帰りの馬車へ乗り込んだヴィオレッタは、今日会えてよかったと思っていた。




