第9話 最後の証人
宮廷会議の日が来た。
大広間は、あの夜と同じ燭台の光に照らされていた。婚約破棄を告げられた、あの夜と。だが今日は違う。あの夜、私はここで仮面を外した。今日は、仮面なしの自分で戦う。
列席した貴族たちの視線が集まる。同情、好奇、嘲笑、警戒——さまざまな色を含んだ視線。かつてはその一つ一つを読み取り、最適な笑顔を返していた。今は違う。すべてを受け止め、しかし何も返さない。
私はそのすべてを、まっすぐに見つめ返した。
「北方交易路の管理権を王家直轄とする件について、審議を開始する」
国王の声が、大広間に響いた。凛とした声。だが、その目は疲れていた。
ギルモア伯爵が立ち上がった。穏やかな笑みを浮かべ、銀縁の片眼鏡を整える。五十年の宮廷経験が生んだ、完璧な佇まい。この男は嵐の中でも涼しい顔をしているだろう。
「陛下。ヴァイス公爵家は長年にわたり北方交易路を管理してまいりましたが、近年、その運営に不透明な点が散見されます。北方の民の福利を考え、公益のために、王家直轄とすることが最善と考えます」
民の福利。公益。美しい言葉だ。だがその裏には、利権の掌握という私欲が隠れている。
「具体的な不透明な点とは」
国王が問うた。
「はい。まず、五年前の冬季輸送において——」
「異議がございます」
私は立ち上がった。
ざわめきが広がった。公爵位の正式な継承もまだの若い令嬢が、宮廷会議で発言する。前例はない。左側の中立派が顔を見合わせ、右側の王太子派が眉をひそめた。
「イレーネ・ヴァイス。発言を許可する」
国王の目が、私を見ていた。公正な判事の目で。
「ヴァレット伯爵。五年前の冬季輸送の件は、先般の監査で解決済みです。国王陛下の許可書が存在し、陛下の直筆の花押によってその真正性は担保されています」
「しかし——」
「ですので、私からは別の事実を提出いたします」
会場が静まり返った。蝋燭の炎が揺れる音すら聞こえるほどの静寂。
「ヴァレット伯爵が過去十年間にわたり、宮廷財務官の権限を利用して行った不正の記録です」
ギルモアの表情が、初めて動いた。ほんの僅か、片眼鏡の奥の目が細くなった。だが笑みは崩さない。
「故ヴァイス公爵リヒトが生前に収集した記録であり、交易商人からの訴状の写し、実際の税収と公式報告書の矛盾を照合した対比表、そして——」
私は一呼吸置いた。大広間の隅々まで、自分の声が届くのを確認してから続けた。
「ヴァレット伯爵が王太子殿下に私との婚約破棄を唆した書簡の写しです」
会場が騒然となった。王太子セドリックの顔が、見る見る蒼白になった。自分の決断だと信じていたものが、実は他人の筋書きだったと衆人の前で暴かれたのだ。
セドリックの唇が微かに動いた。何か言いかけて、声にならなかった。あの自信に満ちた碧い目が、初めて迷子の子どものように揺れている。
「そのような書簡は存在しない!」
ギルモアが初めて声を荒げた。穏やかな仮面が、一瞬だけ剥がれた。目の奥に、焦りの色が走った。だがすぐに表情を整え、余裕の笑みを作り直す。五十年の宮廷人生で鍛えた自制心は、伊達ではない。
「存在します。書簡は、ヴァレット伯爵が王太子殿下に宛てたもので、ヴァイス公爵家の交易路利権が王家にとって脅威であると説き、婚約破棄を促す内容です。筆跡と封蝋の鑑定は済んでおります」
記録の束を、書記官に手渡した。ハンスが写しを取っていた冊子の中に、この書簡の写しが含まれていた。ギルモアは自分の手先であるハンスに渡した情報が、巡り巡ってここに辿り着くとは予想していなかっただろう。
蜘蛛は自分の巣に絡め取られたのだ。
「さらに」
私は続けた。会場のざわめきが静まるのを待ってから。
「先日亡くなったシュヴァルツ男爵の遺書について。この遺書は、本人の筆跡ではありません。過去の公文書に残るシュヴァルツ男爵の署名と照合した結果、筆跡が一致しないことが確認されました。鑑定結果がこちらに」
ギルモアの顔色が変わった。今度は隠しきれなかった。片眼鏡の奥の目が、一瞬だけ見開かれた。
「シュヴァルツ男爵は、ヴァレット伯爵の指示で五年前に北方へ密使として赴いた人物です。その口を封じるために命を奪われた可能性がございます」
会場のざわめきが、怒号に変わりかけた。貴族たちが立ち上がり、隣の者と言葉を交わし始めた。
「静粛に」
国王の一言で、会場が静まった。王の声には、怒りを抑えた重みがあった。
「イレーネ・ヴァイス。これらの証拠の原本は」
「こちらに。ご確認ください」
記録の束を提出した。父が三十年かけて集め、私が命がけで守った証拠。七冊の冊子と、鑑定報告書。そしてハンスが書き残した裏切りの記録。
国王は一つ一つを確認した。時間がかかった。会場は沈黙に包まれていた。誰も動かなかった。
その間、私は一人の人物を見ていた。王太子セドリック。
彼の顔には、怒りでも悲しみでもない、困惑が浮かんでいた。自分が操られていたことに、ようやく気づき始めている顔。あの美しい金髪碧眼の顔が、今は蒼白で、年齢より幼く見えた。
(……あなたは悪人ではない。ただ、利用されただけ)
だからといって、許すかどうかは別の問題だけれど。
そしてもう一人——オーレリアを見た。傍聴席の隅で、彼女は静かに座っていた。翠の瞳に、涙が光っている。兄のために三年間戦い続けた少女が、ようやく真実が明かされる場に立ち会っている。
「ヴァレット伯爵」
国王が口を開いた。
「これらの記録について、弁明はあるか」
ギルモアは立ち上がった。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、彼の仮面が完全に剥がれた。そこにあったのは、追い詰められた獣の目だった。五十年間の策略が崩れる瞬間の、剥き出しの恐怖。
だがすぐに、穏やかな笑みが戻った。最後まで仮面を手放さない。それが、この男の矜持なのだろう。
「陛下。これらの記録には文脈がございます。一方的な証拠のみで判断されるのは——」
「では、証人を呼びましょう」
私は言った。
「クレスト男爵令嬢、オーレリア・クレスト」
オーレリアが前に出た。可憐な容姿とは裏腹に、その足取りは確かだった。三年間の仮面を脱いだ彼女の目は、決意に満ちている。
「三年前に亡くなった兄、クレスト男爵家の嫡男について証言いたします」
ギルモアの表情が、今度こそ凍りついた。オーレリアの存在を、彼は計算に入れていなかったのだ。王太子の恋人として宮廷に潜り込んでいた少女が、実は自分の過去を暴くための刃だったとは。
オーレリアは淡々と語った。兄が財務官補佐としてギルモアの不正に気づいたこと。独自に調査を進めていたこと。そして「事故」で命を落としたこと。
「兄は死の直前、私に手紙を送っていました。『万が一のことがあれば、この名前を覚えておけ』と。その名前が、ギルモア・ヴァレットでした」
会場は完全に静まりかえった。
国王が立ち上がった。
「ヴァレット伯爵ギルモア。北方交易路の直轄案は却下する。また、提出された証拠に基づき、宮廷財務官の職を解き、以後の調査に協力することを命ずる」
ギルモアは動かなかった。穏やかな笑みが、ゆっくりと消えていった。蝋燭の光に照らされた横顔が、初めて年相応に老けて見えた。
「……五十年、この宮廷に仕えてまいりました」
それが、彼の最後の言葉だった。
衛兵に連行されるギルモアの背中を、私は見送った。痩せた長身が、大広間の出口に消えてゆく。
感情は——ほとんどなかった。勝利の喜びでも、復讐の快感でもない。ただ、長い仕事が一つ終わったという、静かな疲労。父が始めた仕事を、私が終わらせた。それだけだ。
「イレーネ」
振り返ると、ノエルが立っていた。傍聴席の最前列から動いていなかった。
「終わったな」
「ええ。……いいえ、まだ一つ残っているわ」
「何が」
「王太子との決着」
セドリックが、こちらを見ていた。蒼白な顔で。あの碧い目に、初めて本当の感情が浮かんでいた。
——宮廷会議の後、王太子から面会の申し入れがあった。私はそれを受けた。最後の対話のために。




