第8話 喪失の代価
シュヴァルツ男爵の失踪は、二つのことを意味していた。一つ、ギルモアが証拠隠滅に動いていること。シュヴァルツは五年前にギルモアの密使として北方に赴いた人物だ。その口を封じる必要がある。二つ、シュヴァルツはギルモアにとって切り捨てても構わない駒であること。
国王との謁見の日が来た。
王宮の奥、国王の私室。窓から差し込む光の中に、アルヴァン国王は立っていた。白髪交じりの髪。鋭い眼光。だがその目元には深い疲労が刻まれている。
「イレーネ・ヴァイス。久しぶりだな」
「陛下。お目にかかれて光栄です」
「堅い挨拶はいい。座りなさい」
国王は窓の外を見た。いつもの癖だ。判断を下す前に、必ず外を見る。
「リヒトの死は残念だった。あれは良い男だった。北方の民のために、三十年間休むことなく働いた」
「ありがとうございます」
「そして、おまえの婚約破棄も。私の息子が愚かなことをした。父として恥じている」
率直な言葉に、少し驚いた。
「陛下は——ご存知なのですか。この婚約破棄の裏にあるものを」
「知っている。だが、証拠がない。王は疑いだけでは動けない。ギルモアは五十年この宮廷にいる。味方は多い。根拠のない追及は、王家の信用を損なう」
国王の目が、初めて私を正面から捉えた。
「おまえには、あるのか。証拠が」
「はい」
「聞かせてくれ」
私は、すべてを話した。父の記録。ギルモアの十年にわたる不正。ハンスの裏切りによって得た情報。オーレリアの証言。五年前の許可書の件。
国王は黙って聞いていた。
「……リヒトは、三十年かけてこれを集めていたのか」
「はい。陛下に直接お渡しする機会を待っていたのだと思います」
「陛下。宮廷会議で、この証拠を提示する許可をいただきたいのです」
「……一つ問題がある。ギルモアは五十年の宮廷経験を持つ。証拠を出されれば、全力でおまえを潰しにくる」
「承知しています」
「それでも、やるか」
「やります。父の遺志ですから」
「許可する。ただし、公正に審議する。どちらの肩も持たない」
「望むところです」
謁見を終えて王宮を出た時、ノエルが門の柱に背を預けて待っていた。
「どうだった」
「許可が下りた。宮廷会議で証拠を出せる」
ノエルは小さく頷いた。覚悟の頷き。
「それと、シュヴァルツの件。見つかった」
「どこに」
「王都の南門の外。放棄された馬車の中で死んでいた」
足が止まった。
「……死因は」
「毒だ。自ら服んだとされている」
「されている、か」
「遺書があった。『すべては自分の独断だった。他の何人も関与していない』と」
ギルモアの手法が、はっきりと見えた。尻尾を切ったのだ。シュヴァルツに罪をすべて被せ、自分は無関係を装う。
「ノエル。シュヴァルツの遺書は、本人の筆跡か確認できる?」
「すでに手配した。過去の公文書と照合する」
「もう一つ。シュヴァルツには家族がいたはずよね」
「妻と、幼い娘が二人」
「その家族の安全を確保して。ギルモアに消されないように」
ノエルの目が、少しだけ変わった。何かを見つけたような目。
「おまえは……敵の家族の心配をするのか」
「敵はギルモアよ。シュヴァルツは駒に過ぎなかった。権力に弱い小心者で、強い者に従うしかなかった人。その家族に罪はない」
ノエルは黙って私を見た。それから——
「分かった」
宿に戻ると、オーレリアが訪ねてきていた。顔色が悪い。
「イレーネ様。ギルモアが王太子に新しい嘘を吹き込んでいます。ヴァイス公爵家が北方で私兵を養っているという——」
「そんなものは存在しないわ」
「でも、偽の証人が用意されています。北方の商人を買収して、偽証させるつもりです」
「その偽の証人が誰か、分かる?」
「はい。名前を控えてきました」
彼女は小さなメモを差し出した。三年間の潜入生活の中で、彼女が危険を冒して集めた情報だ。
「ありがとう。先手が打てるわ」
メルテがお茶を持ってきた。三人分。小さなテーブルを囲んで、三人で紅茶を飲んだ。戦の前の、束の間の平穏。
貴族の相続法において、多くの王国では長子相続が原則だった。しかし例外もあった。領地経営の能力が著しく高い場合、女性への相続が認められる慣行を持つ地域も存在した。これは単なる例外ではなく、実力主義の芽生えでもあった。ヴァイス公爵家の北方領地は、まさにその慣行が生きている土地だった。
だからこそ、私には父の跡を継ぐ資格がある。血筋だけでなく、実力で。
「イレーネ」
ノエルの声が、扉の外から聞こえた。
「筆跡の件。結果が出た。シュヴァルツの遺書は——本人の筆跡ではなかった」
これで、最後のピースが揃った。
——宮廷会議まで、あと七日。私は証拠を整理しながら、ギルモアの最後の抵抗に備えた。




