第3話 散る花と残る根
アッシュフォード辺境伯の手紙は、簡潔だった。「明後日、そちらへ伺う」。それだけだった。
(……寡黙な方だとは聞いていたけれど)
私は苦笑した。返事の書き方に、人柄が出る。長々と社交辞令を連ねる貴族も多い中、飾りのない一文だけを寄越すこの人は、信頼に足るか、あるいはただの無礼か、そのどちらかだ。
父に尋ねた。
「アッシュフォード辺境伯はどんな方ですか」
「不器用で、実直な男だ」
父は窓の外を見ながら言った。
「だが、あの男の領地では飢えた民がいない。冬の厳しい辺境でそれを成し遂げている。それが答えだ」
約束の日、辺境伯は本当に来た。供を二人だけ連れて。宮廷の貴族なら十人は従者を引き連れるところを、たった二人。馬も飾り気のない頑丈な軍馬だった。
第一印象は、宮廷にはいない種類の人間だった。黒髪を無造作に束ね、日に焼けた肌。体格は軍人のそれだが、目元には不思議な穏やかさがあった。手は大きく、節が目立つ。書類を捌く手ではなく、鍬や剣を握る手だ。
「ノエル・アッシュフォードです。公爵、お久しぶりです」
「よく来てくれた、ノエル」
父とは旧知の間柄だ。握手を交わす二人を見て、私は彼らの間にある信頼の厚さを感じ取った。形式的な握手ではない。力の込め方が違う。
「娘のイレーネです」
「初めまして、辺境伯」
「……初めまして」
彼は私を見た。一瞬の沈黙。何かを測るような目。それから軽く頷いた。褒め言葉も、社交辞令もない。
(……愛想がないのではなく、本当に言葉が少ないのね)
書斎での会談は、単刀直入に始まった。
「辺境伯。ヴァレット伯爵が交易路の王家直轄を提案していることは、ご存知ですか」
私の問いに、ノエルは短く答えた。
「知っている。困る」
「困る、で終わりですか」
「困るから、ここに来た」
父が小さく笑った。私も、少しだけ口元が緩んだ。この人の言葉の少なさは、不思議と心地よかった。無駄がない。
「直轄になれば、通行税の徴収権も王家に移ります。実際の運営はヴァレット伯爵の息がかかった者に委ねられるでしょう。辺境伯の領地は、冬の物資供給を完全に王都の判断に委ねることになる」
「だから困る。冬に物資を止められたら、民が死ぬ」
ノエルの声が低くなった。穏やかな目元に、一瞬だけ鋭い光が走った。
「ですから、協力をお願いしたいのです——」
その時、書斎の扉が激しく叩かれた。
ハンスが入ってきた。いつもの柔和な表情が消えていた。白手袋の指先が微かに震えている。
「旦那様。大変です。王都から急使が参りました」
「何があった」
「セドリック殿下の名において、ヴァイス公爵家の北方交易に関する監査命令が下されました。王都の監査官が、三日後に到着するとのことです」
空気が変わった。
父の顔から穏やかさが消えた。怒っていた。静かに、深く。
「監査は、交易路接収の前段階だ」
ノエルが低い声で言った。
「ええ。不正を見つけ出す——あるいは、でっちあげるための布石」
私は頷いた。歯車が回り始めている。予想より速い。
「お父様。私が監査に対応します」
「イレーネ——」
「交易の記録は昨夜すべて読みました。不正は一つもない。自信があります」
父は私を見た。長い沈黙。そして——
「……頼んだ」
その二文字が、父から受け取った最後の仕事だった。
その夜遅く、父が倒れた。
書斎で書類を整理していた最中だったと、ハンスが告げた。私が駆けつけた時、父は寝台に横たわっていた。呼吸が浅く、不規則で、顔色は蝋のように白い。
「お父様」
手を握った。あの大きくて温かかった手が、驚くほど冷たくなっていた。
「……イレーネ」
「喋らないで。体を休めて」
「一つだけ」
父は目を開けた。あの穏やかな目が、最後の力で私を捉えた。
「北方の民を……頼む。交易路は……この土地の命綱だ」
「約束します」
「それと……猫を被らなくていい。おまえは……おまえのままで、十分だ」
握った手から、力が消えた。
静かだった。あまりに静かに、父は逝った。
紋章学では、家紋の色や図柄には厳密な意味が定められている。「銀(白)」は誠実と平和を、「青」は忠誠と真実を表す。ヴァイス——「白」を意味するこの姓を持つ家が、誠実さを紋章の核に据えていたのは、偶然ではない。
父の棺の上に、ヴァイス家の白い紋章旗が掛けられた日、私は泣かなかった。泣く代わりに、誓った。
葬儀の後、ノエルが私のもとに来た。彼は帰らずに残っていたのだ。
「帰る前に、一つ」
彼は上着の内側から小さな包みを取り出した。
「公爵が私に託していたものだ。『必要な時が来たら渡してほしい』と」
包みを開けると、古い鍵が入っていた。小さな銀の鍵。精巧な細工が施されているが、どの扉のものかは見当もつかなかった。
「父が? いつ——」
「三ヶ月前だ。私の領地を訪ねた時に預けられた」
三ヶ月前。ヴァレット伯爵の書簡が届いた時期と一致する。父は、すべて予見していたのだ。
「ありがとうございます、辺境伯」
「ノエルでいい」
「え?」
「堅い。ノエルでいい」
不器用な言葉。けれど、そこには確かな温度があった。
「……では、ノエル様」
「『様』もいらない」
「それは、さすがに——」
彼は何も言わず、小さく肩をすくめた。そして背を向け、馬に跨がった。
「監査の件。手伝う」
「え——」
「困るから」
それだけ言い残して、辺境伯の一行は去っていった。
私は銀の鍵を握りしめた。メルテが隣に来た。私の袖をそっと掴んだ。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
嘘ではなかった。悲しみはある。けれど、折れてはいない。根は残っている。花は散っても、根は地中で生きている。
——三日後、王都から監査官が到着した。その監査官の名を聞いた瞬間、私は唇を噛んだ。ヴァレット伯爵の甥だった。




