第2話 猫を被るのはもう終わり
父の手紙を読んだ瞬間、指先が冷えた。たった一行。それが、誰よりも寡黙な父の「緊急」を意味していた。
あの人は多弁ではない。私が宮廷に上がる時も、送り出しの言葉は「体に気をつけなさい」だけだった。その人が用件も書かずに「帰ってこい」とだけ記す。
翌日のうちに、私は王都を発つ準備を始めた。
「お嬢様、こちらの荷を——」
執事長のハンスが、手際よく旅支度を整えてゆく。白手袋に包まれた手は、迷いなく動く。幼い頃から見慣れたその姿に、私はほんの少しだけ安堵した。
「ハンス。宮廷での動きは」
「セドリック殿下は、クレスト嬢との交際を公にされました。社交界では殿下の英断を讃える声が主流でございます」
ハンスは一瞬だけ間を置いた。
「また、ヴァレット伯爵が北方視察の許可を申請したとの情報がございます」
北方視察。交易路の利権に直結する動き。やはり、狙いは明白だ。
「ありがとう。引き続きお願いするわ」
「かしこまりました」
ハンスは深く一礼し、静かに退出した。完璧な所作。完璧な忠誠。
……のはずだった。
◇
北方への道中は三日かかった。秋の終わりの王都を発ち、北へ向かうほどに季節が一つ先へ進む。馬車の窓から見える丘陵がやがて針葉樹の森に変わり、吐く息が白く染まり始めた。
道中、メルテが私の足元に毛布を掛けてくれた。
「お嬢様。王都とはまるで別の国みたいですね」
「ここからさらに北へ行けば、冬はもっと厳しくなるわ」
メルテは窓の外を見つめた。凍てつく風景を前に、この子の表情が少しだけ変わったのを、私は見逃さなかった。
三日目の午後、ヴァイス公爵領の領都に着いた。石壁に囲まれた堅実な造りの城。華やかさはないが、隅々まで手入れが行き届いている。
門を守る兵たちの目に、いつもとは違う緊張があった。公爵の体調を案じているのだと、後から知った。
父は書斎で待っていた。銀灰の髪が、前に会った時より白くなっている。大柄な体がどこか縮んで見えた。
「イレーネ」
父は私の頭にそっと手を置いた。大きくて温かい掌。二十二になっても変わらない仕草に、胸が軋んだ。
「お父様。お手紙の件ですが」
「まず座りなさい」
父が示した椅子に座ると、机の上に広げられた書類が目に入った。交易に関する契約書。通行許可証。税収報告。そして——
「……これは」
「ヴァレット伯爵からの書簡だ。三ヶ月前に届いた」
書簡には、北方交易路の管理権を王家直轄にする提案が記されていた。公爵家が代々受け継いできた運営を取り上げ、宮廷の管轄に置くという内容だ。
柔らかな言い回しの裏に、脅しの匂いがあった。
「この書簡は、婚約破棄の前に送られている」
「そうだ」
父の声は静かだった。
「つまり、私の婚約破棄は——」
「交易路を奪うための、布石だ。ヴァイス家と王家の繋がりを断ち、孤立させてから取り上げる」
予想していた。だが、父の口から確認されると、胸の底に別の感情が落ちた。怒りではない。冷たい、透明な決意だ。
「お父様。時間をください。宮廷に戻ります」
「何をする」
「交易路の正当性を証明し、ヴァレット伯爵の企みを暴きます」
父はしばらく黙っていた。窓の外を見た。遠い山脈の稜線を。
「イレーネ。おまえに一つ、伝えておくことがある」
父の声が、ほんのわずかに揺れた。この人の声にこんな翳りが差すのを、私は初めて聞いた。
「私の体は、もう長くない」
時が止まった。
呼吸を忘れた。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……どういう意味ですか」
「去年の冬から体調を崩している。専門の者に診てもらった。あと半年ほどだと」
椅子の肘掛けを握りしめた。木目が掌に食い込む。痛みで、かろうじて意識をつなぎとめた。
「なぜ……なぜもっと早く」
「おまえが宮廷で戦っている時に、余計な荷を背負わせたくなかった」
あまりにもこの人らしくて、息が詰まった。自分のことを、いつも後回しにする。
「だからこそ、時間がないの。悠長なことは——」
「イレーネ」
父の大きな手が、もう一度私の頭に触れた。
「おまえのままでいい。取り繕わなくていい。理屈っぽくて、人の嘘が全部見えてしまう——そのおまえが、私には誰よりも頼もしい」
涙は出なかった。出す余裕がなかった。代わりに、全身に力が入った。指先から肩まで、鋼線のように張り詰めた。
「お父様。必ず、交易路を守ります」
「知っている。おまえは私より賢い」
その夜、私は書斎に籠もった。父が三十年かけて築いた記録を、一つ一つ読み込んでゆく。
契約書の文言。通行税の推移。道路の補修履歴。冬季の物資輸送量。一つの記録を読むごとに、父の仕事の丁寧さが胸に沁みた。
メルテがお茶を運んできた。
「お嬢様、少しお休みに——」
「メルテ。交易路が奪われたら、どうなるか分かる?」
メルテは首を傾げた。
「冬の間、海は凍る。陸路はこの一本だけ。塩も穀物も織物も、すべてこの道を通る。止められたら、北方の民は飢える」
メルテの口元が引き結ばれた。道中で見た凍てつく風景が、今の言葉と重なったのだろう。
「だから、守らなければならないの」
「お嬢様のお力になります」
短い一言だった。だが、その声には先刻までとは違う芯があった。
「ありがとう。明日、ある人に手紙を書くわ」
「どなたにですか」
「アッシュフォード辺境伯。北方で最大の領地を持つ方よ。父とは旧知だけれど、私は会ったことがない」
窓の外では、北方の星が冷たく輝いていた。余計な光がない分、一つ一つがくっきりと見える。
王都の宮廷では、今頃セドリック殿下がオーレリア嬢と優雅な夜を過ごしているのだろう。
(……勝手にしなさい)
私にはもう、あの人のために使う時間はない。父が残してくれた時間を、一秒も無駄にはしない。
——三日後、アッシュフォード辺境伯からの返書が届いた。封蝋を割った瞬間、私の手は震えた。しかしそれは恐怖ではなかった。




