第1話 仮面の下の棘
六年間、私は完璧な笑顔を維持してきた。唇の角度、瞳の細め方、相槌の間合い——すべてを設計し、一度も崩さなかった。
けれど今夜、その設計図は灰になる。
「——よって、イレーネ・ヴァイスとの婚約を、ここに破棄する」
王太子セドリックの声が、大広間に反響した。燭台の炎が揺れ、列席した貴族たちの影が壁に長く伸びている。
私は動かなかった。
呼吸を整える。背筋を伸ばしたまま、視線だけを巡らせた。
大広間の右側——王太子派の貴族たちは満足げに頷いている。赤ら顔の恰幅のいい男が、ひときわ大きく頷いていた。シュヴァルツ男爵だ。声が大きいわりに、目が泳いでいる。権力者の前でだけ元気になる類の人間。
左側——中立派は目を伏せている。そして正面、玉座の隣に立つ国王陛下は、窓の外を見ていた。あの方はいつもそうだ。判断を下す前に、必ず遠くを見つめる。
(……予想より二ヶ月早い)
私はこの日が来ることを知っていた。知っていて、備えてきた。ただ、時期を読み違えた。三ヶ月前から宮廷内の空気が変わっていた。私に向けられる視線の温度が、一度ずつ下がっていくのを感じていた。
「セドリック殿下」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「理由をお聞かせ願えますか」
「オーレリア・クレスト嬢との出会いが、私に真実の愛を教えてくれた。形だけの婚約に意味はない」
真実の愛。殿下はこういう大きな言葉を好む。演説のように美しく、中身のない言葉を。六年間、私はその言葉に頷き続けてきた。
王太子の隣に、栗色の巻き毛の少女が控えていた。大きな翠の瞳を伏せ、両手を胸の前で組んでいる。肩が小さく震えている——ように見える。
庇護欲をそそる、完璧な構図。
(……よくできた絵だこと)
だが私が観ていたのは、少女ではなかった。大広間の最後列、銀縁の片眼鏡が燭台の光を反射した。ヴァレット伯爵ギルモア。宮廷財務官。
彼は微笑んでいた。穏やかに、満足げに。五十年の宮廷経験に裏打ちされた、隙のない笑みだった。他の誰もが緊張や興奮や同情を顔に浮かべている中で、あの男だけが「計画通り」の表情をしていた。
この婚約破棄が、誰の筋書きなのか。答えは、あの笑みの中にある。
「承知いたしました」
私は深く一礼した。六年間で最も美しい礼を。背筋をまっすぐに保ち、指先まで神経を通した、完璧な所作で。そして顔を上げた時、もう笑顔は作らなかった。
ざわめきが広がった。「理想の婚約者」と呼ばれた令嬢が、初めて無表情を見せたのだ。
列席者の何人かが息を呑んだ。六年間、温かな微笑みしか見せなかった人間が、突然その仮面を外す。それがどれほど不気味なことか、彼らはようやく気づいたのだろう。
「ただし、一つだけ」
私は声を落とした。静かな声ほど、広い部屋ではよく通る。これも六年間で学んだことの一つだ。
「ヴァイス公爵家の名誉に関わる虚偽の風説が、この破棄の根拠に含まれていないことを、殿下は保証してくださいますね」
静寂が落ちた。
王太子の碧い目が、一瞬だけ泳いだ。ほんの一瞬。唇が微かに開き、すぐに閉じた。だが、私はそれを見逃さない。六年間、この人の隣で、微細な表情の変化を読み続けてきたのだから。
怒りの時は眉間に皺が寄る。退屈な時は右の薬指が動く。そして、嘘をつく時——唇が一瞬開く。
(……やはり、何か吹き込まれている)
「当然だ。根拠は明白であり——」
「では、書面にてお示しいただけますか。公爵家として、正式な記録を残す必要がございますので」
ざわめきが大きくなった。婚約破棄の場で書面を求める令嬢など、前代未聞だろう。貴族の令嬢は泣くか、怒るか、黙って受け入れるか——そのどれかを求められている。
だが、これが私だ。猫を被っていた私ではなく、本来の私。感情ではなく証拠で戦う人間。
王太子は答えなかった。背後で、ギルモア伯爵の笑みがわずかに硬くなったのを、私は見逃さなかった。
◇
馬車の中で、ようやく肩の力が抜けた。
「お嬢様……」
侍女のメルテが、震える声で私の名を呼んだ。そばかすの浮いた丸顔が、涙で歪んでいる。赤毛の三つ編みが肩で揺れていた。
「泣かないで、メルテ。むしろ清々したわ」
「でも、六年間も——」
「六年間、他人のために笑うのは疲れるものよ」
窓の外を流れる夜景を眺めた。王宮の灯りが遠ざかってゆく。
中世の宮廷では、香水は単なるおしゃれではなかった。体臭を隠す目的もあったが、もう一つ重要な役割があった。毒の存在を嗅ぎ分けるためだ。宮廷の晩餐会で供される飲み物に毒を盛ることは珍しくなく、貴族たちは香りの変化に敏感だった。不自然に甘い香りが漂えば、それは警戒の合図になった。
今の宮廷にも、香水のように甘い言葉で隠された毒がある。殿下に囁かれた「真実の愛」という言葉こそ、誰かが調合した毒だ。
「メルテ」
「はい」
「明日から忙しくなるわ。父上に手紙を書かなければ。北方の領地のことも、整理しなおす必要がある」
馬車が石畳の上を揺れた。メルテが私の袖をそっと掴んだ。いつもの癖だ。不安な時、この子はこうする。
「お嬢様。怖くないのですか」
私は少し考えた。窓の外の闇を見つめながら、正直に答えた。
「怖いわ。宮廷で孤立するのも、公爵家の未来が危ういのも。でも——もう猫を被る必要がないことが、それ以上に嬉しい」
メルテが小さく笑った。涙の跡が残る頬に、笑窪ができた。
「私、お嬢様の本当のお顔のほうが好きです」
不意に、胸が詰まった。六年間、宮廷の誰にも見せなかった素顔を、この小さな侍女だけは知っている。毒舌で、合理的で、他人の嘘が見えてしまう——そんな厄介な本性を。
「ありがとう」
短く答えて、窓に目を戻した。
北方交易路。ヴァイス公爵家が三代にわたって築いた交易網。三つの山脈の間を縫うように伸びる唯一の陸路で、冬季には北方五つの領地の生命線になる。その利権が、今回の婚約破棄の本当の標的だ。
私にはまだ見えていないものがある。ギルモア伯爵の策略の全容。王太子を動かした具体的な手段。そして、クレスト男爵令嬢——オーレリアの本当の立ち位置。
だが一つだけ、確かなことがある。
(……私はもう、誰のためにも笑顔を作らない)
馬車が公爵家の別邸に着いた。降りる時、夜風が頬を撫でた。冷たく、鋭く、心地よかった。
仮面を外した顔に当たる風は、六年ぶりだった。
——翌日届いた父からの手紙には、たった一行だけ書かれていた。「すぐに帰ってきなさい。話がある」
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