願いごと
……その日、私は月明かりの下で、この世の全てを呪っていた。
誰か、助けて。
記憶はない。
けれど破れた屋根の向こうで見守る星々に、何度だって救いを求めたことだけは覚えている。
最後は廃工場に打ち捨てられたまま、丸く輝く月を眺めて……もはや命が尽きることこそを願っていた。
……濁った目で世界を見つめる私を、抱え上げた男がいた。
白銀の髪の、青い瞳の男だった。
「……もう、殺して……」
助けなど、その頃には求めていなかった。
出ない声を振り絞って、ただ終わりだけを願った。
相手は吸血伯爵と呼ばれ、社交界にもあまり出てこない男だった。
私と出会ったことも、ほとんどない。
青の瞳が憐れむように細められて、苦しさを滲ませたまま閉じられた。
……ああ、受け入れてくれた。
苦しみの何もかもから解き放たれる喜びに、笑みさえ浮かんだ。
早く胸を貫いてほしいと、抵抗することもなく、脱力して身を任せる。
瞬きで溢れた涙が落ちた頃、決意を乗せた青の瞳が開いた。
男は剣を振るうことはなく、私に言葉を告げた。
『フォーリー……俺こそが犯人だ。俺を恨め。……悔しければ追いかけて来い』
途端。
心が燃えたのが分かった。
憎しみで胸の中が溢れかえり、苦しいほどの怒気に叫びすらしていた。
そうだ。
私を攫ったのは、この男だった。
お前は、救いではない。
全ての苦しみの元凶。
私を貶めた、誰しもの使役者……この男こそが犯人だと記憶が蘇ってくる。
燃え上がる怒りに視界すら歪む中、口元に笑みを浮かべた男が腰に履く剣に手を伸ばした。
暴れて叫ぶ私を吸血伯爵は騎士に引き渡してしまったから、憎しみに伸ばした手は届かなかった。
……みい、みい、と鳴く声がする。
ザリザリと肌をヤスリで削られているような痛みに目を開けると、白毛に青い目の子猫がいた。
「……ああ、リック。起こしてしまったのか」
私が明るい部屋でしか寝られないせいで、子猫も寝つきが悪いのかもしれない。
布団の中に招いて少しでも暗がりにしてやると、そばで丸くなる子猫にほっと心が安らぐ気がした。
「私はたまに夢見が悪いんだ。制限も多いし、良い飼い主ではないかもしれない。
ああ……もしかして……慰めてくれたのか。……リックは優しい子だね」
動物は人間の感情を感じることもあると聞く。
癒される心地に猫の頬を撫でていると、必ず伯爵にも飼育許可を得なければと改めて楽しみに目が向けられた。
「フリック・レイノールはお菓子が好きらしいから、何か作って行こうかな……アーモンドチョコレートが好きなら、チョコレートでコーティングしたクッキーなら喜ぶかもしれないな」
本当は口からアーモンド臭がするらしい強めの毒物なども入れてやりたいが、無効化される可能性が高いし……まずはお願いに行く立場だから、まともなものにしよう。
考えながら暖かい子猫を撫でていると再び眠気がやってきて……すっかり朝まで眠って元気を取り戻すと、そばで眠っているリックを寝かせたままお菓子作りに勤しむことにした。
朝食を終えたが、ミルクでお腹がパンパンになったリックは妹たちにも撫でられて愛想を振り撒いていた。
子猫が臍を天に向けて転がると、それだけで黄色い悲鳴が上がるから面白い。
「可愛いー! 姉様いいな、お父様が許してくれたの?!」
「婚姻先が許してくれるのなら、という条件付きでね。だから今日はお願いに行ってくるつもり」
「絶対に許してもらってね、姉様がいる間はリックとも会えるんでしょう?」
すっかり愛玩されているリックのため、私も正式にレイノール伯爵領へお伺いを立ててから向かうことになった。
鳩を使った返信がすぐさま来て、『待っているよ』と一言だけ添えられている。
恋に敏感なお年頃の妹たちがそれだけでも喜んでいたが、別に逢い引きに行くわけではない私だけは冷ややかなものだった。
コトコトと馬車に揺られ、旅装ではなくドレス姿で伯爵邸に到着する。
いつも侍従姿のリックが伯爵らしい正装で迎えてくれたから、侯爵家令嬢として改めてご挨拶した。
「レイノール伯爵、本日はお日柄もよく。突然の申し出にも関わらず、迎え入れていただけたことを感謝いたします」
「いらっしゃい、フォーリー。普段と違うからお互いに緊張してしまうね。
今日はいつもの君らしくしていいよ。俺もそうするから」
確かに街で見かける通りの男の様子に、私もかぶっていた猫を取り去った。
彼を前にして、お父様からの経緯を記したお手紙と共に書類を差し出す。
「実は本日、伯爵様には是非ともお願いがありまして。許可をいただきたいのです」
「何?」
「昨日、木から降りられなくなっていた子猫を拾いました。
ただ私は飼いたいのですが、父が反対していて。レイノール伯爵が婚姻先でも飼育して良いと言ってくださったら飼っても良いと言われたのです。
お許しを一筆書いていただけないでしょうか」
口約束では私に騙されると思っている父から、しっかり署名してもらってきなさいと言われた。
立ち止まって父からの手紙を受け取り、読み込んだ伯爵は少しばかり考えている。
「猫か……鳩と相性が悪いんだよね。
うちの子は以前猫に追いかけられて、傷を負ったことがあって。あまり猫は好きではないんだ」
え。
当てが外れて、思わず絶句する。
立ち話もなんだからと庭園の東屋に通してもらったけれど、伝書鳩が襲われたことがあったのでは望み薄ではないだろうか。
もしや……お父様の言う通り、リックの親を探してあげたほうが、誰もが幸せなのだろうか。
たとえフリック・レイノールが憎くとも、飼われて働かされている鳩にまで辛い思いをさせるつもりはない。
自分よりも強い誰かに追いかけられて傷を負うのは、……きっと心に辛さが残っているだろう。
紅茶をいただいたけれど、手紙を読みながら改めて検討している白銀の髪に青の瞳の男と同じ名前をつけてしまった子猫のことを考えていた。
こうして情が移るから早めに野生に帰しなさいとお父様は言っていたのだと分かるけれど、可愛い子だったから別れが辛い。
……いっそのこと、やはり早めにフリック・レイノールを始末するか。
猫が好きな貴族を掴んだ方が早い。社交界にはあまり関わってこなかったが、リックのためなら頑張れる気がする。
お父様はごまかして、リックはしばらく部屋の中だけで飼おう。妹たちも協力してくれるはずだ。
改めて決意を固めていると、黙したまま語らない私に小さな笑い声が聞こえた。
「フォーリーがそんなに落ち込むなんて、思っていなかったな。どうしても猫を飼いたいの?」
「……会ったばかりの私にも優しくしてくれるいい子なんです。まだ子猫で、人懐こくて。
でも鳩に怖い思いはさせたくないので、伯爵領に連れてくるのは諦めます」
「名前までつけたって書かれているけれど、諦められる? 名前は?」
「リックです。いずれ子猫一人がその名前を受け継ぐ予定です」
微妙な顔をしているけれど、つけてしまったものは仕方ない。
帰り際に銀の短剣一振りでもいいから催促しておこう。早々に目の前のリックを屠って証拠隠滅するのが最善手な気がしている。
「では破談ということで、用も済みましたから帰ります。伯爵様、お時間をいただきましてありがとうございました」
次は修道院に行けば、前回会えなかった反対派の一人にも会えるはずだ。
手作りではあるが土産のクッキーもある。孤児院も兼ねている場所だから、子供達が喜んで受け取ってくれるだろう。
もはや心ここにあらずで立ち上がって礼をすると、しかしフリック・レイノールには呼び止められた。
「鳩も昔噛まれたくせに犬は平気なんだ。猫も仲間だと説明して、分かれば大丈夫かもしれない」
「……なんですか、それ」
「餌をくれれば交渉の余地はあるよ。俺が会わせづらいと思っているだけで、本人はもう許せるかもしれない。
……何か焼いてくれたって書かれているけれど、それはどうするつもり?」
紙袋に納めてきたクッキーを示されたから、開いて見せた。
チョコレートでコーティングしたクッキーと、ジャムを乗せて焼いたものと二種類用意している。
「修道院の子供達へ差し上げます。以前反対派閥を教えていただいたかと思いますし、手土産に持って行きます」
「子供達へのおやつはちゃんと栄養価を考えて用意させているから、今日渡されても困るかもしれないな。
……ということで、婚約者から手作りのお菓子をもらいたい大人と、鳩が頂くのでどう? 俺も猫が仲間に増えてもいいか話し合うよ」
む。
昨日は鳩とも意思疎通していたし、もしや吸血鬼は動物と話せるのだろうか。
結果駄目ならやはり早期に背中から刺すが、一旦受け入れてもらえるのなら、もっとしっかり作戦を練ってから刺せる。
期待にクッキーを差し出すと、不思議な言葉を呟いたフリック・レイノールの足元へ鳩がどこからともなく飛んできた。
白い鳩は普通の伝書鳩に見えるが、ジャムクッキーを砕いた伯爵が知らない国の言葉で話しかけている。
啄んで首を傾げた鳩が石の上に撒かれたおやつを味わうと、やがて飛び去っていった。
「猫が仲間になってもいいって。ハルカンサス侯爵にも一筆書いておくよ」
「本当ですか!?」
あの短いやり取りで、鳩は猫嫌いを克服出来たのだろうか。
驚いたが、吸血伯爵は頷いている。
チョコレートのクッキーを摘むと、陽光の中で動かして照りを見つめていた。
「久しぶりに連れ合いが出来たんだから、わがままくらい聞いてやれってさ。
フォーリーのことも気に入ってるから、鳩も快く受け入れてくれるそうだよ」
大人だな、鳩。
でもおかげでリックを連れて来られるし、自宅でこれからも飼育して良くなった。
あまりの嬉しさに椅子に座り直すと、クッキーを美味しそうに頬張り、紅茶と合わせて楽しんでいる伯爵を見つめた。今だけ特別だ。
「フォーリーが猫の名前を俺の偽名にするなんて思ってなかったから、驚いたよ。
もしかしてリックとしてなら、俺のことも好きになれそう?」
「まさか。でも猫のリックのことなら、大好きです。
優しい子なんですよ、会ったばかりの飼い主でも懐いてくれるし、心が和むんです。
今日もおへそを天に向けて、伸びなんてするから妹たちも愛玩していました」
「……なんだか妬けちゃうな。猫にフォーリーを取られちゃった気分」
「もともと伯爵様には分なんてありません。あなたはいずれ屠ります。リックは私の飼い猫のリックだけになります」
署名が終わればこっちのものだ。
素直に伝えると面白そうに笑ったフリック・レイノールはそれでもお父様宛のお手紙も用意してくれた。
「手作りのクッキー、美味しいよ。作ってきてくれてありがとう」
私も「一緒に食べよう」と勧めてもらったから食べたけれど、敵のくせに疑いもなく食べる吸血伯爵は本当に嬉しそうで、焼いてやってよかったとは少しだけ思った。
手作りを褒めてもらえるのは、誰であっても嬉しいものだ。




