猫
レイノール伯爵領からの帰路では、迎えにきていた侯爵家の馬車に拾われた。
夕方ごろ家に無事帰り着くと、お父様には「勝手にお屋敷を抜け出した」などのお小言をもらった。
「お父様、お顔をこちらに。……ふーっ」
「くさいっ」
しかし婚約者と秘密裏に会ってきたことや、アゾレアのニンニク料理店で食事をしてきたことを身をもって証明すると、渋々ながらも許してもらえた。
……お父様は何が良くてフリック・レイノールに気に入られたいのだろうか。
腹立たしいけれど、法廷での判決を信じているお父様と水掛け論をしても仕方ない。
旅装のまま侯爵邸の裏庭に向かうと、今回得た情報を元に銀の短剣で胸を突く、銀の剣で切り払う動作を念入りに磨いた。
……姿を思い出すだけで寒気がするが、ロットは一流の職人だ。
寸法などは伝えた通り仕上がるだろうから、同じ形の武器を手にし、我が家に常駐する騎士とも戦った。気持ちも少しだけ晴れた。
やがて晩餐を過ごして部屋に戻ったが、本棚に一番に向かうと毒きのこの辞典を取り出して眺めた。
……さて、何を食わせてやろうかな。
毒には様々な系統があるため、気付いていないだけで苦手な毒物があるかもしれない。鋼は平気でも銀は苦手なように、気付いていない弱点もあるはずだ。
……ティルウッドで効果がないなら神経毒はどうだろうか。気づかないまま進行させれば、あるいは……。
みうー。みうー。
……考えていると、ふと微かな猫の鳴き声が続いていることに気づいた。
「……」
侯爵邸は広いから、たまに動物が紛れ込むことがある。
私の部屋の外にも高い木がいくつか生えているから、猫が登って降りられなくなっていることもあった。
窓の外は暗いけれど、周囲を確認してからバルコニーに出ると、やはり子猫が登ってしまったらしいことが見える。
木の上では、白い毛並みの一匹が親猫を呼ぶ声で寂しく鳴いている。
しかし周囲に親猫はいない様子で……震えているのが可哀想で、侍女に声を掛けると木の下で布を持って待ち構えてもらい、私が出来る限り揺らさぬよう静かに登った。
「さ、降ろしてやるからおいで」
それでも子猫は恐れて動かないから、腕を伸ばしてそっと柔らかな体を掴む。
木から降りたが、子猫は抱えると震えながら、それでもようやく少しは落ち着いたように鳴き声を止めた。
「お嬢様、お怪我などは」
「するくらいなら登りはしない。親猫はそばにいなかったか」
「今日は見つけるのは難しいかと……」
「そうか……お父様にも伝えてくる。ご苦労だった」
幼少期には世話出来ないのだから飼ってはならないと取り上げられてしまった。そのまま野生に放てと言われてしまいそうだ。
でも、成人した今ならどうだろうか。
「……可愛い……」
吸血伯爵には答えなかったし、侍女の前でも平気ぶって見せたが、私は動物は好きな方である。
つい小さな頭を撫でながら笑ってしまうが、妹たちもきっと喜ぶだろう。頬や顎の下を撫でてやると震えも止めて気持ちよさそうに目を閉じているなんて、見るだけで幸せになって情けないほど頬が緩んでしまう。
しかし。
「野良に返しなさい」
お父様の答えはいつもと同じだった。
膨れながら眠っている子猫を見せたが、首を横に振っている。
「ですが親猫もそばにいませんでした。私も十八、もはや大人です。一人で世話をしますから飼わせてください」
「動物の毛でさまざまなものが汚れる。それに飼いきれないだろう。婚姻を控える身で、動物など連れて行って良いわけがない」
「伯爵様なら優しいからお許しになります。今日も鳩を呼ぶなど、動物慣れしていました。猫だって好きかもしれません」
「伯爵様の優しさに頼ろうというのなら、なぜお前は犯人だなどと決めつけて毛嫌いするのだ」
いつも優しいお父様だけれど、動物に関しては絶対に許してくれないことなど、娘として生きてきたから知っている。
命に対して責任を持てるのかと、お願いするたびに叱られて別れを迫られたものだ。
「レイノール伯爵は許してくれると言うが、いつも屠るだの毒を盛ろうとしているのはお前だろう、フォーリー。
もし万が一伯爵様がお前によって倒されたら、お前は逮捕後投獄、その子は飼い主も行く当ても同時に失うことになるぞ」
お父様が家の中で一番偉く、決定権も持っている。
それでも慣れて身を預けてくれている子猫が愛おしくて、……正直一目惚れで、もう育てられると示したくて、顔を上げた。
「じゃあ明日、聞いてきます。
フリック・レイノールに飼ってもいいと言われれば、この子は伯爵様の猫です。一時的に侯爵邸に身を置くことを許してください」
「……」
「ちゃんと会って話してきます。説明もします。伯爵様が駄目だと言うのなら、野に離します。だから……」
「……駄目だ、今離しなさい。会えば喧嘩腰になるお前が、伯爵様にご説明差し上げられるとは思えない」
「婚姻に前向きになったと好材料にも捉えていただける良い機会です。
この子は、まだ子猫です。終生の飼育期間を考えれば、もしかしたら私の怒りも収まるかもしれませんよ」
問答は続けたが、最後は私の気持ちが変わる可能性を訴えるとお父様にも「……まあ、それなら」と了解を得られた。
やった。
お父様が人生で初めて折れてくれたから、喜んで子猫を部屋に連れ帰った。
フリック・レイノールには公の場での刺突に苦言を呈されたし、室内での暗殺にすればいい。
今度反対派閥の作戦会議にも参加するし、犯人が分からないようにして家ごと乗っ取ってやれば良いのだと、子猫のための筋道も考え始めた。
法廷に出るような羽目になれば、婚約者としてしらを切り通す。
一度買収されたように、私も同じくし返してやる。
……あの男を思い出すと、募る恨みが火の粉をチリリと飛ばす。
猫を撫でていると、それでも少しは心が落ち着く気がした。
部屋に戻ってベッドに寝かせてやろうとしたが、子猫は動かされたことで起きてしまったらしい。
ミルクを侍女に頼んで待つ間に名前をつけようと抱き上げたが、子猫はオスに見えた。
「うーん、オスか……お前の名前はどうしようかな」
白の毛に、子猫特有の青い目をしている。
人懐っこいふわふわの毛並みを撫でていると、顔も緩んでしまう。
「じゃあ……そうだ、リック、お前の名前はリックだ」
いずれいなくなる男の名前にしようと思いついたのは、猫の青い瞳に、何をしようと穏やかに笑う男の顔が少しだけ思い浮かんだからだ。
たとえ何度狙われようとも平然としている強さは、これから私と一緒に生きる子猫にも必要なものだろう。
「いずれお前だけの名前にしてみせる。よろしくな、リック」
誓いを新たにするのにも良かった。
みいみいと高い声で鳴くのが可愛くて、ミルクをやり、トイレを一応しつらえてみた頃には眠気が訪れていた。
子猫はよく眠るものだと聞いていたが、明るいままの部屋でもリックは枕元で眠ろうとしてくれる。
「ふふ、可愛い。私のそばにいられるオスはお前だけだぞ、ありがたく思え」
男は嫌いだ。
特にロットのような大男は、……大嫌いだ。
……久しぶりに見たせいで全身に走る怖気を、それでも子猫を愛玩しながら打ち消すことで眠った。




