念願の侯爵領デート
侯爵領でのデートの日が、ついにきた。
お父様と詳細に打ち合わせも行われ、今度は彼が『行きたい店がある』と伝えて共に街歩き出来るようにしてくれていた。
私から場所を聞いていたから言いやすかったらしい。
今日の予定を思い出しながら、夢が叶った心地で侍女に短い金の髪を整えてもらった。
晩餐会も短期間にやる物ではないから、今日は家族との会食だけが予定されている。
伯爵は婚約披露など一度終われば次はないと分かっていたから、前回の忙しい宴会を受け入れたのかもしれない。
彼は礼儀を終えて筋を通したのに、私は自分のせいでうまくいかなかった、デートしたかったと泣いてしまった。……思い出すとわがまま放題で恥ずかしくなってしまう。
邸宅まで迎えにきたのは、赤の派手目シャツと白のパンツ姿の男だが、前回伝えた通り王朝時代のものを着ていた。
しかし背が高く洒脱な印象の男には似合っていて、一切笑えるところがない。思わず睨んでしまった。
「はぁ、大人ですよね。何を着ても似合うのがずるいです」
マナには今日のフリック・レイノールの服装に合わせて即興でコーディネートしてもらったが、白のトップスに私も派手なスカート、小物はベージュで統一して送り出された。
大人同士と言うより少女らしさが残っているのが不安だったけれど、見上げた男が気恥ずかしそうに青の瞳を向けている。
「……もう言ってもいいのかな?
女性として俺に見られるのが嫌かと思ってたから、言えなかったけど……君も似合ってるよ。可愛い」
とりあえず握り拳で腕を殴った。
お父様がいなくてよかった。恥ずかしいことを言う男に暴力を振るったことを叱られることもなかったから、お互いに照れながら街に繰り出せた。
ハルカンサス侯爵領で一番大きな街、シェルカーナでは喜劇を観て笑って、行きたかったお店で食事をする。
大人な伯爵のエスコートもあって、……素直に楽しいと思えた。
市場も一緒に見て回って、工芸品の好みを知る。
露天のお店のコーヒーをブラックで嗜む男と違って、私は砂糖と牛乳がたっぷり入っていないと無理だなんて違いまで良い話題になった。
夢のような時間が続いた。
夕方までだと時間を区切られているのが悲しいくらいで……終わりが近づくのが切なくなって、足が止まる。
公園のベンチで一息つかせてもらうと、少しずつ落ちる陽を見ながら隣に座る男にも目を向けた。
「夕食会の後は運動に付き合ってもらって、それから私の部屋で良いですよね。……まだデートがしたいです」
「もちろん、良いよ。……フォーリーが今日一日、楽しんでくれたみたいでよかった。
途中で嫌がって帰られちゃったらどうしようって、少しだけ心配してたんだ。夜も予定していたのに、早くも振られてしまっては悲しいからね」
「まあ、楽しめました。悪くはなかったですよ」
素直に言えないけれど、終わってほしくないと思うくらいには充実していた。
恋人扱いがむず痒くて、でも……なんだか嬉しい。
綺麗だとか可愛いだとか、今まで一度も聴いてこなかった言葉が飛び出すたびに恥ずかしいのに、好きな気持ちが嬉しさに顔を出す。……改めてデートの楽しみ方が分かった一日を、夕陽を見ながら惜しく振り返っていた。
「ねえ、フォーリー。少しだけお願いしてもいい?」
「? 何ですか」
「せっかくのデートだし、手を重ねてみたいなって」
手のひらを差し出されたが、焦った全身から汗が吹き出て困ってしまう。
「出来そうならやってみて。無理なら払っていいからね」
どうしよう。
年頃の男女が手を繋いで歩いている様子は、何度も見た。
腕を組んで女性が寄り添っている姿も見たし、手繋ぎまで組み合わせていちゃつく姿も見た。
まだまだ私には乗り越えられないと思っていたけれど……手を差し出している男は、決して無理強いしたりせず待っている。
私が男性が嫌いだと分かっているから、今も出来なければそれで良いと穏やかに微笑んでいる。
……いずれ乗り越えなくてはいけない壁だ。
剣技だって試して練習して、少しずつ自分のものにしていく。
不器用な私に、やらずに出来ることはなかったから過程を知っている。
緊張にぶるぶる震える手を持ち上げると、手のひらを差し出したまま待っている男を見上げて、腹に力を込めた。
「す、少しだけ、頑張ってみます。無理でも許してください」
「もちろん、ほんの少しで良いよ。怖くなったらすぐに言ってね」
好きな人に触るだけだ。
目の前で待ってくれる男と、彼から繋がる手指を何度も見比べながら、指先だけを伸ばした。
……つん。
手のひらに、軽く触った。
……なんだかちょっと硬い。女性のきめ細やかな手の感触と違う。
気になって指先を滑らせると伯爵にはくすぐったそうにされたが、しばらく触れると肌の温もりも分かってきて……顔と見比べながらも、初めて意識する体温に目を瞬いた。
「暖かいんですね。吸血鬼は冷たいのかと思い込んでいました」
「たまに言われるよ。人間とは違う存在だから、血は青いのかって聞かれたこともあるかな」
「私と同じ赤、でしたね」
流れたのを見たから知っている。
……手のひらに見えている血管を、なんとなくなぞった。
彼が生きているから温かいのだと、指先だけのふれあいでも心が穏やかになる。
「ロットたちが解放したかったのは、お父様であるお前だけでした。屋敷にも誰もいないのだと、あのまま国を去ろうとしましたね。
……聞きたかったんですが、あなたは邸内に誰も捕らえていない、ということですよね。
吸血鬼なのに、いつ血を吸うんですか?」
手のひらに触りながら、この皮膚の下に流れる赤いものを考えていた。
吸血鬼の伝承は各地方によって違うが、吸血を行うのは栄養補給だったり、嗜好品だったり、若さを保つためだったり、理由がさまざまあるそうだ。
……今後は私も噛み付かれるのだろうか。
吸血鬼の恋人は特に、パートナーとして何度でも血を吸われる姿が描かれていたりする。
目の前の男が近づいて、そのまま首に牙を立ててくる……そんな想像をするだけで身震いして、空いている手で首を押さえてしまった。伯爵は銀の髪を横に揺らしている。
「血は吸わないよ。……情報屋には売らないでね?
そもそも俺は吸血鬼でもないんだ」
「え」
吸血鬼では、ない?
手を預けたまま目を瞬いたが、男が分かりやすく口角を上げてはにかんだ。
その口に、以前から牙はない。
「銀の剣が効いて、不老不死。人間以上の力を持っているし、コウモリも使役する。
それは吸血鬼だからだ、って怖がってもらった方が都合が良いんだ。……誰にも秘密にしてきたけれどね」
お菓子屋さんで侍従のリックに初めて出会った時、アーモンドチョコレートをもらいながら地上げ屋の話も聞いた。
自分が何を言われても良いから守ろうとしてくれる良き領主だと、彼を評したのを覚えている。
「じゃあ。……じゃあ、血を吸ったりしないんですか?
以前聞いた時には内緒だと言っていたから、てっきり吸うのかと思っていました」
「噛み付いて血を啜るなんて趣味はないよ。飲むなら地下に貯蔵してあるワインの方が好きかな。
……なんてね。今のフォーリーになら教えていいかな、って思ったから明かすけど……俺が人外であることに変わりはないんだ。吸血鬼って思ってもらった方が誰にとっても分かりやすいし、君もそう思っておいて」
唖然としてしまった。
吸血鬼ではなくただの不老不死だった男を見ていると、手のひらに触れていた指が温かな感触に包まれた。
フリック・レイノールに手を握られている。
慌てたけれどまだ我慢出来そうだから、これが好きな人のぬくもりだと、顔と手を見比べながら必死になって耐えた。
気持ち悪くはない、かもしれない。
でも、ぞわぞわする。鳥肌が立ちそう。肌がくすぐったい。
混乱にはち切れそうな鼓動を耳の奥でも聞いていると、彼の親指が動いて、少しだけ指を撫でたから……そればかりは、あまりにも恥ずかしくて払いのけてしまった。
「ごめん、嫌だったね」
「違うんです、嫌だったわけじゃなくて……っああもう、変なことをするからですっ」
好きな人に指を撫でられるなんて体験、生まれて初めてだった。だから顔が熱くて、限界になっただけだ。
膨れると、悔しいから勇気を出してもう一度手を差し出す。
「ほら、練習しましょう。今なら耐えられるかもしれませんよ」
心臓が破裂しそうなくらい音を立てている。
それでも、彼に手のひらを向けてもらえたから先ほど同様に乗せた。
「触るなら、少しずつにしてくださいね。……っ」
また、手を包まれる。
彼の親指が私の人差し指に触れて、撫でた。
今度は……指を撫でられるのがくすぐったくても、少しばかりなら耐えられた。
先ほどよりは指一本分、耐えられる範囲が増える。
中指にも『耐えろ、頑張れ』と声を掛け続けたけれど、彼の親指が滑るとまた全身がゾクゾクして跳ね除けてしまった。
「ふふ、可愛い。あまり触れない方が良いって分かっていても試したくなりそう」
「だめです、もうおしまいです。……お前は不埒です、しばらく許しませんからね。
ほら、帰りましょう。夕日が沈んできました。
今日も我が家だけとはいえ、晩餐会です。正式なお招きで、私も着替えて集合するように言われていますから。あまり遅いとお父様に叱られます」
伯爵が信頼されている以上、私がわがままを言って引き留めたのだろうと叱られる。
慌ててベンチを立ち上がった私は、微笑ましそうに見守るリックと二人で侯爵邸へ戻った。
予定通り邸宅へ送り届けた男と別れ、部屋へ着替えに向かう。
侍女に身を任せてドレスを着付けてもらったけれど……合間に何度でも繋いだ手を見てしまった。
……意外に悪くなかったな。
触れられるのは怖いけれど、自分から触れた感触は好ましく思えた。
侍女に髪を整えられながらも暖かかったのを思い出していると、準備が終わった妹たちが乱入してきて慌ててしまった。
晩餐は以前よりも和やかに進む。
お父様と優雅にワインを嗜み、お母様は趣味の編み物の話に花を咲かせている。
伯爵はよく毛糸などを編んでいたらしく、服も作ると聞いて驚いてしまった。
「貴族男性は編み物などに興味はないし、編み方など説明してもつれない返事ばかりなのに……レイノール伯爵は稀有な方ですね」
「実は昔、山奥に一人で住んでいたんです。
寒さを凌ぐためにも飼っている羊の毛から糸つむぎをして、出来た毛糸で衣服を作る必要がありました。
草木で染色して、交易に出して資金を得たり……今は必要がなくなりましたが、懐かしく思えば時折編みますよ」
いったいどれだけ昔の、どの国での話なのだろう。
伯爵は八百年前から領地にいて不自由ない生活を送っているはずだから、妹たちと服飾の歴史話に驚いてしまった。
楽しい晩餐なんてあっという間だった。
旅装に着替えて剣を身につければ、裏庭で腹ごなしの運動もした。
私よりも強いフリック・レイノールに少しばかり興味があって、剣技の教授をねだる。
伯爵は快く教えてくれたが、新しい身のこなしを会得させてもらえるから、夢中になって剣を振った。
「右足がおろそかになってるよ、しっかり踏み込んで。……そう、その動き。いつもより少し早く剣を振れるでしょ?」
教わったのはほんの少しなのに、振り出しが早くなるなど強くなっている実感に熱がこもる。
体捌きを生かした戦い方を学んで、自分一人でも練習出来ることを目標に同じ動きを繰り返した。
汗が滴り落ちるほど何度も素振りを続け、姿勢を保てる筋力も目指す。褒めてくれるからやりがいもあった。
「女性に戦いは必要ないと言わないのですか」
お母様同様、貴族女性であれば裁縫とお花、庭園とお茶を嗜む。友人との話を楽しみ、家庭では夫を支えて静かに暮らすものだ。
私には向かないが休憩がてら尋ねると、伯爵は首を傾げている。
「フォーリーは強くなれた方が嬉しいだろうし、俺も一緒に体を動かして過ごせるのが楽しいから、続けてもらいたいかな。
流派の違う剣技も学んでみると、より良い体の動かし方への理解も深まる。
俺に嫌悪感がなくなったのならもっと教えてみたいな。組み手はまだ無理だと思ってるから、少しずつね」
理解のある男で良かった。
話の最中に不意打ちをしたのに弾かれた姿に、新たな師としても頼もしさを感じた。強いから学びがいがある。
しかし……触れることへの嫌悪感か。
確かに体術の会得のために組み手などした場合、全身に鳥肌が立ってまともに学べないかもしれない。
手を重ねることには成功した。
でも襟首を掴まれたりなどは、考えただけで腕をさすっている。まだ出来ることと出来ないことがあるのだ。
「実は今日、指輪を贈ろうかと思ったけどやめたんだ」
思わぬ言葉に、息を呑む。
つい自分の指を見てしまったが……婚約指輪は、確かに貰えていなかった。
別にフリック・レイノールからもらわなくてもいいし、憎悪に塗れていた頃は『もらっても川に落としたことにして捨ててやろうか』と思っていたくらいだから、まだもらえていなくて良かったのだが……恋心が芽生えた今は、少し寂しく感じる。
「いらないって言われて、すぐに捨てられそうなのも怖くて」
「私も同じことを考えていました」
お恥ずかしい話だが、共通認識だった。
事実を認めると、伯爵も笑っている。
「今は捨てられないだろうけど、君に触れて正式に贈れるようになってからにしたいと思ってる。
一生に一度のことだから、大事な思い出にしたいなんて俺のわがままなんだけど……遅くなってごめんね」
「いえ。今は贈られても確かに振り払ってしまいそうですし、もう少し後の方が良いと私も思います。
……あ。だから今日は、一生懸命触ろうとしていたんですか」
「ご家族と食事会をするからね。指輪を贈った姿を見せられた方が、喜んでもらえるかなって」
また手を差し出されたので触れたが、自分が汗っぽいのが気になって指先だけにした。
「一つずつ成功体験を積み重ねていこう。結婚式まで、まだ時間はあるからね」
私が乗り越えるべきことは、多くある。
今の状態では、指輪を贈ってもらうことも難しい。
結婚式の日などは夫婦になったことを示すため唇を触れさせるセレモニーが一般的だが、出来そうもない。
……いつかキスしたくなる日も、くるのだろうか。
見上げた先にいる男が首を傾げたが、唇を見つめるだけで微妙な気持ちになる。
フリック・レイノールの唇はふっくらとして、色も薄ピンクで綺麗だ。
全身隠して、唇だけを女性だと差し出されても、見分けがつかないかもしれない。
自分から触れたくなる日が来るかもしれないが、今は同じ場所を重ねる姿を考えるだけで寒気が勝ってブルリと震えてしまった。吐き気と気持ち悪さまで込み上げてしまう。
「ちなみに、俺も口づけはしなくて良いかなって思ってるよ」
「う。どうしてわかったんですか」
「それだけ口をじっと見て、震えてるのを見たら流石にね。結婚式でもセレモニーはしないつもりだから安心して」
「……しないんですか」
ホッとしたくせに、複雑だ。
私に配慮したのだとわかっているけれど、見限られていると思ったせいか、胸を針で刺されたような痛みを感じる。
生涯触れ合わないのもどうだろう。フリック・レイノールは私を大事にしすぎて、嫌がりそうだと思えばしてこない気がする。
喜劇ですら口づけの場面があった。
……あれくらい勢いをつけて自ら奪うのなら、一瞬で済むのではないだろうか。
「されると思うから、気持ち悪いわけであって。自分からなら出来るかもしれません」
「無理しなくて良いよ。……こうしてそばにいられるのが今は一番大事なんだ。怖くなったり気持ち悪くなって関係を壊すのは嫌だから、まだ考えないで」
嫌だ。
私だって追体験した感触が思い出されるたび怒りが上回って、してこないと侮っている男のネクタイを両手で掴んで引き寄せた。
おでこがぶつかって、いたい。
前傾した男が目を丸くしているのを見つめて、顔を寄せる。
「私だって、出来ます」
このまま唇を押し付ける。
大丈夫、目の前の人は好きな相手だ。
「……っ、く、ぐぬぬ……っこの……っ」
……そう思っているのに、いざ体温を感じて、肌が触れそうになると腰が引ける。
必死にネクタイを両手で引っ張るけれど、全身が熱くて、焦りや恥ずかしさで汗が吹き出てくる。
あともう少しと唇に狙いをつけても、うまくいかない。
あと、もう少し。
少しなのに、まだ踏み出せない。
「ううー……」
思わず歯噛みして、悔しくて唸った。
伯爵としての正装につけられた香水が、良い匂いがしている。
何度だって殴った顔に近づいてもそこまで嫌ではないのに、頭突きは出来ても、唇を触れさせるのが怖い。
ネクタイを引く。
しかし肌が触れそうになると、怖くて腕の力が緩んでしまう。
もはや悲しくなってきた頃だった。
「ん」
切なそうに青の瞳を細めた男の顔がほんの少し、近づいた。
ふわっと柔らかいものが当たって、唇に体温を感じる。
……香水の爽やかな良い匂いが、近くで香る。
石鹸のような甘い香りに思わず目を閉じると、ドキドキするのに安心して、無性に心地よくて……しばらくして柔らかいものが離れたのを寂しく触っていると、赤くなった伯爵が私にネクタイを引かれていた。
「……」
二人して、思わず沈黙している。
唇に触れたものが何かを考えるだけで混乱して、手が緩んだ。
「……ごめん、フォーリー。怖くない?」
怖いどころか、どんどん心臓が高鳴ってくるから必死に首を横に振った。
優しく触れた感触が思い出されて、それだけでますます汗をかいている。
彼の唇が、触れた。
フリック・レイノールが自らも顔を近づけて、優しく重ねてくれた。
落ち着いた大人の男性からの口づけに頭がいっぱいで、ネクタイを握りつぶしたのを見ながら部屋を示していた。
「そっ、そろそろ、部屋に戻りましょう。お風呂に、行ってきます。着替えますから、また後で来てください」
「そう、だね。また後で」
一目散に退散したが、お風呂に入りながらも整った柔らかな唇を思い出してしまうから、つい触れていた。
……指で触るたび、柔らかかった唇の感触が薄れていく。
なのに間近で見た顔まで何度でも思い出してしまうから、慌ててお湯に顔をつけていた。
あんなに男性が怖かったのに、嬉しいし気恥ずかしい気持ちで水面まで叩いてしまう。
水中でままならない気持ちを叫んだから、溺れているのかと控えていた侍女に声を掛けられてしまった。




