結婚式の練習
問題は、部屋で待っていた。
お風呂を終えて自室に戻り、寝巻き姿ではあるが窓から招き入れた伯爵を迎える。
用意した椅子に腰掛けさせると、腕の中に飛び込んだ白猫を可愛がって幸せそうな男を呼んだつもりだった。
「リック、何か飲みますか」
「俺は大丈夫だよ」「みゃー」
……室内に『リック』が二人になってしまった。
もちろん白銀の髪の伯爵は屠ろうと決めていたので、「今のリックは俺のことだよ」と面白そうに笑って猫を甘やかす男の呼び名こそ変えるべきだと思っている。
白猫のリックにはリックという名前しかないが、侍従のリックにはフリック・レイノールという立派な本名がある。
だから侍従姿で出かけている時以外は本名で呼ぶのが正しい行いだ。
「フリック。お前は今度からフリックと呼ぶ方がいいですよね。
フリックと、リック。外ではリックと呼びますが、今はフリック。……うーん……」
しっくり来ない。
侍従として一緒に遊びに出ることが多かったため、呼び慣れているリックという名前で呼びたいが、彼の本名はフリックだ。フリック・レイノールと何度もフルネームで呼んだことからも理解している。
ただ十分にわかっているつもりではあったが、侍従としてリックを呼ぶのと、舐め腐って『フリック・レイノール』と呼ぶのは慣れていても、伯爵として敬意を持って『フリック』と呼んだことはない。……考えただけで変に照れ臭い。
白猫のリックはすでに我関せずで目を閉じて男の腕に抱かれているから、私も子猫の頭を撫でながら青の瞳を見上げた。
「フリック。こっちがフリック、白猫はリック。ねえ、フリック」
「うん」
「あ、すみません、呼んだだけなのでお気になさらず。
フリック、フリック様、フリック、いっそのことフリック伯爵か……? どうしたんですか、赤くなって」
「いや、一生懸命呼んでくれるのが可愛いなって、そう思ってただけ」
思わず拳を握りしめて殴りそうになったが、白猫のリックが寝ているのでやめた。殴った音と衝撃で驚かせてしまう。
「お前のせいでリックがかぶったんです。安易な偽名をつけたことを恥じてください」
「え、俺のせいになってる? うーん……フォーリーが子猫に俺の偽名をつけたとしたら、何にしてもかぶると思うんだけどな……」
卵が先か、鶏が先かの話である。確かにそうかと、思わず目を逸らした。
子猫を撫でてあやす男は、小首を傾げて銀の髪を揺らしている。
「そもそも、どうして俺の偽名にしたの?
俺を屠れば一人になるって言ってたけど、わざわざ同じ名前にしなくても良かったのかなって」
リックが雄猫かつ白毛に青の瞳なのを見て、目の前の男に似ていると思ったからだ。
あの図太い強さを見習ってほしいと願ったが、その意味で行けば絶対に名前は被ってしまう。
「……過ぎたことは良いでしょう。
フリック。お前を今度からフリックと呼び続ければ良いだけです。
練習しますから、お話ししましょう。今度アゾレアに行ったときに、ロットたちにも会おうと思っていますが……フリック、最近の彼らの様子はどうですか」
私もベッドに腰掛けたが、領主として情勢に詳しい男は子猫を撫でながら私に目を向けている。
「気が抜けたみたいだけど、いつも通りかな。
結局、何をしても解放出来なかったって悲しんではいたけど……今はフォーリーと結婚して幸せになるつもりだから死ねないって伝えたこともあって、諦めたみたい。幸せになるならいいって祝福してくれたよ」
「待ちなさいフリック、そんな恥ずかしいことを言いふらしていたのですか」
慌てたけれど、青の瞳の男は穏やかに微笑んだ。嬉しそうな顔をするな。
「恥ずかしいことを宣伝しないでください。そのような気の抜けた話をロットたちに伝えるなど、お前はバカなのですか」
「だって八百年ぶりの恋人だし。街のみんなも正式に彼女が出来たって伝えたら喜んでくれたよ。
俺もデートしやすくなったから、また行こうね」
事実だが照れる。反対派閥の連中と街で会ったら、今度からどんな顔をすれば良いのだろうか。
白猫を眺めて気を紛らわせると、リックは「ふすん」と鼻息を出して本格的に寝始めている。
そばにいる男も穏やかに青の瞳を細めて、膝を寝床に貸してやっていた。
「派閥も解散させたよ。
基本的には孤児院出身の子達の集まりなんだ。今はみんな酒場がわりにライーのところに集まるくらいになってるから、安心して」
ロットたちの話は、素直によかったと思えた。
でも恋人として喧伝されているなんて、恥ずかしい。顔が熱くなったのを手で冷ましていると、あ、と声が聞こえた。
「そうそう、この度めでたくフォーリーと恋人になったって伝えたら、ヒュイットも『感謝してる』って。一応伝えておくね」
「……ヒュイット? 誰ですか、それは」
「現国王かな」
私もまさかとは思ったが、実際に『国王』という言葉が出てきて頭がぐらぐらした。
陛下にまで、私がフリックと恋人になったことを知られている。
そもそも何故この男は国王陛下にまで言いふらすのかと思ったが、フリックは陛下自身が国に留めておきたいと願って領地を与えている男だ。『国を離れない』と事情が変わった理由は尋ねられただろうし、裏で何かしら王家と繋がりがあってもおかしくはないと、ベッドに倒れながら気づいた。
「結婚式にも来たいし、先にフォーリーが一眼見たいって言ってたけど、それはハルカンサス侯爵とも相談中。
ごめんね、ヒュイットは昔から言い出したら聞かなくて。結論はもう少し待ってて」
話が大き過ぎて、開いた口が塞がらない。
陛下が結婚式に参列なんて考えたこともなく、当日まで隠しておいてくれた方がよかったと思っていると、フリックが窓の外に登る月を見つめた。
「……さて、残念だけどそろそろ時間かな。リックはベッドに寝かせればいい?」
「え。まだ話し足りませんよ。
今日も泊まっていけば良いではないですか。ほら、お父様に絨毯の上では失礼だと叱られたので、お前用に新しい寝袋を用意してやりました。使ってください」
今日は大きな寝袋を準備していたから、物入れに駆け寄ると出して見せた。
使うかは悩んだが、話が弾んでいる以上、ベッドの下を貸してやるくらいしても構わない。
しかし何故か恥ずかしそうに目を泳がせたフリックは、首を横に振っている。
「前回は図らずもお邪魔しちゃったけど、二度目はやめておくよ。婚約者とはいえ、来るたびに毎回お邪魔しているなんてことになれば、君によくない噂が立つからね。
恋のお話が好きな妹君たちには、特に悪い影響が出るかもしれない。
婚約者が出来たら自分の部屋に泊まらせて「姉様はやっていた」なんて言い訳し始めたら困るでしょ?」
すぐに寝袋をしまい直した。確かに妹たちは姉の背中を見て育っている。婚約者を部屋に連れ込むのが当然になってはならない。
「それじゃ、フォーリー。今日はお招きありがとう。おやすみ」
リックを寝かしつけて、今回も窓から出入りさせているフリックはバルコニーへ送り出す。
どうせ明日の朝、食事の時間になれば会える。
……分かっていても寂しい気分が消えずにいると、目の前の男は穏やかに笑った。
「結婚したら毎日一緒だよ。別れがある今を楽しもう?」
「馬車の前で離れ難い恋人みたいなことを言わないでください。……む」
そういえば以前、フリックに私が『別れの口づけを迫った』と話題になったことがある。
なるほど、恋人たちは今のように寂しい気分の時に唇を合わせるのかと、先ほど初めて触れた部分に恥ずかしくも目をやってしまった。
……だめだ、やっぱりしづらい。一度乗り越えたからとはいえ、自分からは行けない。
青の瞳を見続けると、フリックも目を泳がせている。私が何を考えているのか、筒抜けかもしれない。
「……お別れ、した方が良い?」
「は? 愚かなことを……あ、いや、でも……」
実は踏ん張りどころかもしれない。
結婚式にまで陛下が参列された場合、大勢の前でフリックの口づけを拒んで叫ぶのを見たらどうなってしまうのだろう。
失礼極まりない気がする。
領民だって、愛する伯爵が嫌悪感いっぱいの妻に遠ざけられたのを見るのは気分が良くないはずだ。
陛下が来賓になる場合、セレモニーは通常通り行われる可能性が高い。
自然に彼を受け入れられるようになるためには、やはり何事も練習かと思い直したので、目の前のネクタイを両手で掴んだ。
……先ほどだって勇気を出してしか、口づけは出来なかった。
寂しい気持ちの今なら、いける。……気がする。
「フリック」
「ん?」
ネクタイを引っ張って顔を近づかせ、間近に見つめ合う。
「お前の名前を呼ぶ練習も、頑張りますから。……結婚式の練習もします。ほら、背中を支えてください」
セレモニーでは男性が腕の中に妻を入れて背中を支え、女性に唇を合わせる。
口づけは、さっき一度した。
背中に触られたことは、二度ある。
自分から誘うならまだ抵抗感もないし、ネクタイを掴んだままでは格好もつかないから離すと、背中を支える手に身を任せた。
硬い腕の感触につい震えたけれど、フリックの腕だと確かめて、恥ずかしそうに赤くなる男を改めて見上げる。
少し顔が近づくとそれだけで体が縮こまったけれど、堪えた。
「フリック、待ってください、やっぱり今回は私からします。待ってくださいね」
真っ赤な顔の男に、同じくらい赤くなった私も近づいて、唇を合わせようとする。
吐息が触れるくらいの距離で頑張ってしまうと、顔が見えなくて怖い。
離れてフリックを確認して、自分からもう一度近づくのに、何度も直前で止まってしまうと余計に怖くなって、抱き寄せられる体がガタガタ震え始めた。
どうしよう、もう出来ないかもしれない。
ネクタイを引いて調整したからマシだったのかも分からないが、自分から体を寄せて唇を合わせるつもりが、これ以上踏み出しきれない。
……怖い。近くにいるのが嫌になる。
つい顔を背けてしまったが、体が冷たくて、心配してくれるフリックに申し訳ない気持ちまで募って息が詰まる。
「大丈夫だよ、フォーリー、落ち着いて。離すからしっかり立てる?」
「っ待ってください、怖いけど、したいんです。
私だってお別れのキスくらい、出来るようになりたいんです……っ」
必死に顔を上げる。
「お願い、フリック、もう一思いに……っ」
目を閉じてお願いすると、……唇に柔らかい感触が触れた。
先ほどまで怖くて震えていたのに、寒くてたまらなかったのに、……不思議と悪くない。
口づけに身を任せていると、ちゅ、なんて軽い音がして……今度は離れないままもう一度重なった。
「……」
柔らかい感触が離れたから瞼を開けると、目の前には綺麗な吸血鬼の顔がある。
変にふわふわした感覚でいっぱいになってしまって……離れた頃には鼓膜を内側から揺らすほどの激しい鼓動のせいか、涙まで浮かんでぐったりしていた。
「……出来た……」
安心した体から力が抜けて、緊張が緩んだからか、胸に触れた指先が細かく震える。
耳まで熱くなっていると、落ち着くまで待ってくれた男が腕を離して立たせてくれた。
なぜか俯いて難しい顔をしているから見つめたが、私を一度見てから、フリックは赤くなった顔を覆っている。
「……どうしよう。可愛くて、俺が駄目になりそう」
「ん? 何か失態がありましたか」
「違うよ。……よし、帰ろう。俺は大人なんだ、軽率なことはしない。
じゃあ、今度こそおやすみ、フォーリー。また明日」
「はい、フリック。練習に付き合ってくれてありがとうございます。
……おやすみなさい、また明日」
明日の朝、食事の時間にはまた会える。
少しばかり寂しいけれど笑顔で別れを告げると、フリックも優しく笑ってくれた。
お互いに挨拶を交わすと、見つからないよう帰って行く男に手を振る。
窓を閉めてベッドに戻ったけれど、横になって落ち着こうとしても、つい唇に触れて思い出していた。
「リック……どうしよう、恋ってすごいかもしれない……」
出来ないことも、恋人と一緒になら乗り越えていける。
男性なんて怖いし気持ち悪いし大嫌いだと思っていたのに、フリックだけは許せる。
ぐっすり寝ている白猫を撫でながら、ふわふわと甘い恋心に耐えきれなくて……リックを撫でながらベッドの上でバタバタしてしまった。
「にゃん」
白猫が迷惑そうに起きたから、やめた。
しかし恋の興奮に今度は翻弄されて、布団に入っても寝付けなくて……翌朝、寝不足の私は妹たちに指摘されて焦ってしまった。
私を酷い目に遭わせた吸血伯爵を、絶対に許さない。
そう憎く思っていたのに、婚約した彼は私を深く愛してくれるようになった。
私もまた、怖がりながらもフリックに少しずつ惹かれていく。
ゆっくりとでも、一緒に街を歩いて、デートを重ねて……嫌いだったはずの吸血伯爵のそばで、幸せに暮らしている。




