救い
途中お父様が寄越した馬車が来たから伝言を頼み、フリック・レイノールと共に街道を駆けると、門前町を走る私たちの頭上を大量の黒い何かが吹きすぎて夜空へ散っていった。
「リックは警戒して倒木のうろに隠れているらしい。こっちだよ」
また森の中を案内されているけれど、今は信じるしかない。
静かに木々の合間を進む。
まだ騙されている可能性も考慮して警戒していたが……やがて暗い中でも白い毛が少しだけ見え隠れする木があった。
「リック」
安心して近づき、そっと覗き込むけれど、白の毛に青の瞳、間違いなくリックだった。
しかし見たこともない怖い顔で牙を剥き、子猫は必死に体を大きく見せながら威嚇している。
手を伸ばそうとするとすぐに爪を立てたままの手が飛んできて、再びシャーと音を立てて鳴いた。
「おいでリック、帰ろう。リック……」
声を掛けても、ただ獣のような唸り声が聞こえる。
小さな子猫は必死に自分の身を守ろうと後退りし、何も信じぬように目を爛々と光らせている。
「リック……私のことも怖くなってしまったの?」
もう一度指を差し出すと、やはり威嚇と手だけが飛んでくる。
一緒に生活しようと決めたはずなのに、怖がる子猫を見ると心が揺らいでしまう。
うろの中では、激しい呼吸が繰り返される。
怯えて、緊張に目を見開いて、少しの間家族であった者すら怖がっている。
手を差し出すたびに、何をされるのか分からず身を縮めて震えている。
……この子を連れ帰ることは、果たして幸せなのだろうか。
廃工場に一人残された私と、怯えるリックの姿が重なって見える。
だって、私は。
もう誰とも会いたくないし、帰りたくなかった。
月明かりの下でフリック・レイノールが助け起こそうとするのを見て……生きることが、家に戻されることこそが、長く続く恐怖と苦しみに感じた。
『……もう……生きたく、ない……』
この子にとっての安らぎも、人と触れ合わぬことになってしまったのなら。
……絶望に染まる声が怯える子猫からも聞こえた気がして、静かに立ち上がる。
白銀の髪の男が顔を上げて目を見張るのにも、背を向けていた。
「フォーリー、どこに行くの?」
「家に戻ります。……リックは、私が飼い主ではない方が幸せです。元々野生に生きていたのですから、野良に返します」
怖い人がいなくなれば、自分の行きたい場所に行ける。
もしかしたら、母親と出会えるかもしれない。
私こそがこの子にとって恐怖の対象なのに、そばにいてはならない。
「諦めてどうするの。……俺のことを屠って、リックは子猫のリックだけにするなんて言ってなかった? 俺と結婚する時も、リックは連れてきたかったんじゃないの」
「だって、リック自身が望まないのに。
怖い場所に戻してどうするんですか。生きる苦しみを長く味わわせるんですか。
また慣れるまで? 捕まえて、家に閉じ込めるんですか。この子には、何の咎もないのに」
瞬間、幾重にも悲鳴が聞こえた気がして耳を塞ぐ。泣き叫ぶ声が耳をつんざく。
もしあの日、フリック・レイノールがいなかったら。
今のように憎くて屠りたい男が現れなければ、怒りが絶望を上回らなければ、私だってここにいないはずだ。
「帰りたくたって、今は気が向かないだけの時は誰にだってあるよ。
怖くてたまらなくても、飛び込んでみたら案外平気だったことも多いでしょ? 君の腕の中も今はそうなだけ」
口さがない男を睨みつけると、穏やかに青の瞳を細めた男が地面に寝そべった。
何をしているのかと目を瞬いたけれど、銀の髪の男は威嚇する子猫に笑顔を浮かべている。
……知らない言葉がまた響く。
リックも小さな体をすくめている。
でも、声を掛けるごとに……少しずつ、子猫の荒かった鼻息が落ち着いてきた。
穏やかに言葉は続いて、猫相手に地に伏せる吸血伯爵は優しい笑みを浮かべている。
何を話しているのかも分からないけれど、土や木の葉で汚れてしまった袖を伸ばしても……今度は、リックは嫌がらずに男の手の中に収まった。
「リックもお家に帰りたいって。意向もちゃんと聞いたけれど、ご飯をいっぱい食べて、柔らかなお布団の上で大事に撫でてくれるご主人様のところがいいって言ってるよ」
木のうろから引き出された子猫が、私に返される。
見上げてくれるのを撫でると、リックが「みい」と小さく鳴いて頭を擦り付けた。
……私は、お前を諦めかけたのに。
思わず安堵に情けない吐息が漏れるのに、甘える子猫を抱いていると素直な気持ちが溢れてきて……涙が浮かぶのを必死に堪えていた。
「ちゃんと飼い主として責任を持って連れ帰ってあげること。……ほら、怖いことなんて何もなかったでしょ」
私を恐れていたはずのリックは、ようやく思い出したかのようにぐるぐると喉を鳴らしている。
頷くと伯爵が明るく笑って、目元を示すから慌てて涙を拭った。
「さ、戻ろうか。みんな心配しているよ」
立ち上がって汚れを払っても、落としきれないくらい土が染み込んでいる男が道の先を示す。
リックを抱きながら侯爵邸に戻ると、お父様は家の前まで出てカンカンに怒っていた。
「フォーリー、誰がどれだけ心配したのか分かるか」
「……ごめんなさい」
「お前には三日の邸内謹慎を命じる。部屋に戻り、無事であったことを皆に心からの謝罪と共に伝えるように」
厳しく言いつけるお父様を見れば、分かる。
かつて攫われた娘が再びいなくなったなどと、お父様も家族も皆が心配したに違いない。
想像してしまった辛さをリックを撫でて紛らわせながら俯いていると、フリック・レイノールにお父様が声を掛けた。
「伯爵、捜索にご協力をいただきましてありがとうございます。
しかし……ご連絡いただきましたが、あなたには猫探しではなく、娘をまず連れ帰っていただきたかった。
私が案じていたのは分かっていたでしょうに、なぜ」
「すみません、判断を間違えました。ハルカンサス侯爵に再びご心痛おかけしましたことをお詫び申し上げます」
彼はまず一番に、私に家に戻るように言った。
なのに私が一緒に探して欲しいと願ったから叶えてくれた。
事実を言い出さないから……まるで自分のせいみたいになっている。
お父様も今までの信頼が少しばかり削がれたような、険しい顔を続けた。
頭を下げて静かにお咎めを受け入れる男が庇っているのが誰かなんて、分かっている。
「違います。私が自ら『帰らない、リックを一緒に探して欲しい』と彼にお願いしたんです。伯爵は何も悪くありません」
一歩前に出て、背中に憎い男を隠した。
もちろん私で隠し切れるような背丈の男ではないけれど、戸惑うお父様に白い毛が土やいろんなもので汚れているリックを見せた。
「だから伯爵はわざわざ侯爵領まできて、森の中で自分が汚れても一緒に探してくれました。
怖がっているリックを早く見つけてあげたかった私を認めて、協力してくださったんです。
もし先に家に戻っていたら……こうやってお父様は私を謹慎させたまま、リックのことなんて探してもくださらなかったでしょう」
お父様は、元々飼育に反対していた。
全部知っていたから勘案して、人生経験豊富な男は私に一番良い方法を考えてくれたはずだ。
「リックを探す条件も、もう黙って抜け出さないことと、夜中に出歩かないことです。
彼は私を叱った上で、それでも一緒に探してくれたんです。
フリック・レイノールは何も悪くありません。悪いのは私です。約束も今後必ず守ります。ごめんなさい、お父様」
心から反省して伝える。
いつも言いつけを聞かない娘だけれど、今回のことは本当に身に沁みた。
お父様が大きなため息を吐いて「もう家に入りなさい」とだけ告げたから顔を上げる。
「お父様、怒らないで差し上げて。私の敵だとしたって、事実でないことで怒られるのは」
「わかったからもういい。伯爵とは私が話す。反省しているのなら、お前はまず謹慎の命令に従いなさい」
これ以上言っても、お父様の心象を悪くするだけだ。
頷くと、フリック・レイノールを振り返った。
こればかりは伝えなくてはと、リックを抱いたまま頭を下げた。
「伯爵、リックを一緒に探してくださってありがとうございました。
あなたがいなければきっと、この子は二度とうちに戻ることは出来なかったでしょう」
あの日の私のように、野に帰ることこそがこの子にとっても幸せなのではないかと思っていた。
怖い何もかもを見ないように目を閉じ、少しばかりの痛みを耐えて全部終わらせる方がもう幸せなのだと諦めていた。
「諦めずに済んだのは、あなたのおかげです。ありがとうございました」
言葉を伝えると、動揺したらしい伯爵が目を少しだけ揺らがせた。
頭を深く下げるとお父様の言葉に従ったけれど、話し合う声も小さくて聞こえない。
疲れたらしく眠っているリックを撫でながら屋敷に戻ると、家族の誰もが起きていて、無事に戻ったことを快く迎え入れてくれた。




