ローレン編 〜雨の日には、地下を歩かない〜 〜静かで騒がしい買い物〜
日曜日の午前十一時。
窓の外では、朝からずっと雨が降っていた。弱まる気配はなく、細かな雨粒がガラスを絶え間なく叩いている。
ローレン・ブルックスは自宅のテーブルで、黒ずんだ大きな爪を布で磨いていた。
少し前の出来事で手に入れたものだ。特別な力があるわけでもなく、何かに使う予定があるわけでもない。ただ、妙に立派だったので持って帰ってきた。それだけだった。
「大型の……カニ?」
磨いた爪を光にかざし、少し首を傾げる。
「カニじゃないですね」
自分で言って、自分で否定する。
適当に満足したところで棚に置き、ローレンはキッチンを覗いた。
しばらくして、ほんの少し困った顔になる。
甘いものがない。
そこで、二駅ほど先に新しくできた輸入食品店のことを思い出した。アメリカのお菓子もいろいろ置いているらしい。
外は大雨だったが、それだけの理由で予定を変えるほどでもない。
ローレンは支度をし、傘を持って家を出た。
駅から電車に乗り、二駅。
目的の店が入っている商業施設へ向かうには、地下通路を通るのが一番早かった。
雨の日らしく、地下は普段より人が多い。傘を畳んだ人たちが行き交い、濡れた靴の音が床に重なる。
そのときだった。
どん、と鈍い音がした。
ローレンが顔を向ける。
通路の脇にある灰色の業務用扉。中央に「関係者以外立入禁止」と書かれている。
もう一度。
どん。
扉が、内側から膨らんだ。
周囲の何人かも足を止める。
次の瞬間、蝶番が弾け飛んだ。
金属音と悲鳴が地下通路へ響く。
扉の向こうから這い出してきたものは、少なくとも撮影用の着ぐるみには見えなかった。
全長は二メートルほど。黒褐色の外皮は濡れているように光り、節のある前肢の先には三本の爪。低い姿勢の頭部で、口だけが横に裂けるように開き、その奥に細かな歯が並んでいた。
人の流れが崩れた。
「きゃあっ!」
誰かが叫び、別の誰かが押し退けるように走る。
その中で、小さな男の子が転んだ。
五歳くらいだろうか。尻もちをついたまま固まっている。その少し先で母親らしい女性が振り返り、青ざめた顔で名前を呼んだ。
「悠斗!」
ローレンは怪物と男の子の間へ入った。
「ほら、そんなにいつまでも冷たい床に座ってたら寒くないですか?」
男の子は呆然とローレンを見る。
ローレンは手を差し出した。
「ほら。立って」
悠斗がその手を取る。
立たせると、母親の方を示した。
「ほら、お母さん呼んでますよ。行ってあげて」
男の子は我に返ったように走り出した。
母親の元へたどり着いたところで、ローレンはにこりと笑って手を振った。
それから肩掛け鞄を開く。
取り出したグローブを両手にはめ、拳と手の甲へ金属プレートを差し込んだ。
怪物が低く身を沈める。
次の瞬間、床を蹴った。
真正面から突進してくる。
ローレンは避けるのではなく、一歩、その内側へ入った。
相手の勢いが最も大きくなるところへ、自分から潜り込む。
身体をひねり、硬い外皮へ拳を叩き込む。
鈍い衝撃音。
怪物の身体が大きく揺れた。
それでも倒れない。
「結構、硬いですね」
追撃。
今度は体勢を崩したところへ打撃を重ねた。
怪物は床へ崩れ、そのまま動かなくなった。
周囲は静まり返っていた。
――ほんの数秒だけ。
すぐにスマートフォンを向ける人が出始める。
ローレンはそれを見て、少しだけ考えた。
そして声を張る。
「はーい皆さん」
いくつもの顔がこちらを向いた。
「撮影の邪魔になりますので、皆さんさっさと散ってくださいね。テレビの撮影中ですから」
「え、撮影?」
「立ち止まっちゃうとカット入っちゃうので。そのまま、そのまま動いてください」
あまりに自然に言うので、何人かは本当に歩き始めた。
怪訝そうな顔をしたまま撮影を続ける者もいたが、少なくとも人の塊は散っていく。
ローレンは壊れた業務用扉を見る。
奥から、何かが動く音がしていた。
彼女はそのまま管理通路へ入った。
中は狭い。壁際には配管とケーブルラックが走り、非常灯の白い光が濡れた床へ反射している。
少し先で通路は右へ折れていた。
床には複数の濡れた跡。
黄色い作業用ヘルメット。
モンキーレンチ。
壁には黒褐色の擦れた跡が残っている。
さらに奥から、男性の声がした。
ローレンは足を止める。
頭上を見る。
配管の陰。
黒褐色の身体が、ぴたりと張りついていた。
そして角の向こうにも、もう一つ。
そちらは人の声がする方向へ動いている。
ローレンは床のモンキーレンチを拾った。
手に持って重さを確かめる。
それから、配管へ投げるように当てた。
かんっ!
甲高い金属音。
頭上の怪物が反応した。
身を起こした瞬間、ローレンは踏み込み、拳を打ち込む。
硬い外皮ごと衝撃が抜ける。
怪物は配管から落ち、そのまま動かなくなった。
角の向こうから別の個体が飛び出す。
ローレンは迎え撃った。
顔面へ蹴りを叩き込む。
怪物がよろめく。
まだ倒れない。
続けて、上から身体を押し潰すように拳を落とす。
今度こそ床へ沈んだ。
奥へ進む。
右側の床には、グレーチングが外された大きな開口部があった。その先には短い下り階段がある。
さらに少し進んだところで、壁際に人影を見つけた。
四十代ほどの作業員だった。右膝を傷めているらしく、立ち上がろうとして顔をしかめる。
「大丈夫ですか?」
ローレンが近づく。
男は何か答えようとしたが、そのとき、外れたグレーチングの方から金属を擦るような音がした。
ローレンはそちらを見る。
穴の下で何かが動いている。
それでも、先に作業員へ手を貸した。
「立てます?」
「あ、ああ……たぶん」
「じゃあ、ゆっくりでいいですよ」
男の肩を支え、来た道を戻る。
後ろで、爪が床を掴む音がした。
一体がグレーチングから這い上がってきたのが見える。
さらに下にも何かいる。
しかしローレンは立ち止まらなかった。
まず一人を外へ出す。
一般通路まで戻ると、近くにいた男性へ声をかけた。
「あの、すみません。撮影中にスタッフが怪我をしてしまったみたいで。申し訳ないんですけど、少しだけこちらの方を見ていていただけませんか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。助かります」
救急車も頼み、床に転がっている怪物については、撮影用の高い小道具だから触らないようにと付け加える。
それからローレンは再び管理通路へ戻った。
先ほどグレーチングから上がってきた怪物は、見える場所にいない。
「……は?」
ほんの少し眉を寄せる。
「せっかく来てあげましたのに……」
床に落ちていたモンキーレンチを拾い、グレーチングの縁を叩いた。
かん、かん。
「ほら、いるんでしょう? 出てきてください」
すぐに反応があった。
穴から黒褐色の頭部が現れ、前肢が床を掴む。
半身を出したところへ、ローレンの拳が落ちた。
怪物はそのまま穴へ落ちていく。
同時に、奥の短い階段側から別の個体が姿を現した。
ローレンはモンキーレンチを足元へ滑らせる。
怪物の脚の間を抜け、そのまま階段の方へ。
金属が床を跳ねる。
「……ほーら、取っておいで」
怪物の頭が音へ向く。
そのままレンチを追って進んだ。
ローレンは背後へ回る。
蹴り。
怪物の身体が前へ吹き飛び、階段を転げ落ちた。
動かなくなったのを確認すると、ローレンは階段を降りてモンキーレンチを拾う。
「あなた、結構いい仕事してくれますね」
手の中で一度回し、そのまま手すりへ当てる。
かんっ。
耳を澄ます。
左の奥から、人間の声。
右からは、爪の音。
ローレンはもう一度金属音を出す。
右側から怪物が近づいてくる。
今度は少し後ろへ下がりながら、モンキーレンチを自分とは別の方向へ放った。
からん、からん、と床を転がる。
怪物はそちらへ向きを変えた。
その横からローレンの蹴りが入る。
一撃。
まだ動く。
二撃目。
怪物が床へ伏した。
ローレンはまたレンチを拾い、金属部分を叩く。
しばらく待つ。
同じ階層からは、もう足音も爪音も返ってこない。
人の声だけが左奥から聞こえる。
そちらへ進むと、三十代ほどの作業員がいた。
背後には金属柵。その向こうには大きな排水設備が見える。
男はローレンに気づくと、声を張った。
「助けてくれ! こっちだ!」
その声が通路へ響く。
ローレンは顔をしかめる。
「あなた、うるさい」
男が口を閉じた。
「助かりたいんだったら、大声出すのやめてもらえますか? さっきから結構響いてますよ」
「あ……す、すみません」
「歩けます?」
「ああ」
「じゃあ行きましょう」
二人目も一般通路まで連れ戻した。
先に助けた男の隣へ座らせる。
「助かってよかったですね」
ローレンは二人を見てから、ふと確認した。
「それで、一つ確認したいんですけど――他にスタッフさん、残ってませんか? いたら教えてもらえます?」
二人が顔を見合わせた。
「……班長が」
「班長?」
「俺たち、今日三人で入ってたんです。班長がもっと下に……排水設備の方に」
ローレンは少し黙った。
濡れた髪を手で後ろへ払う。
「……もっと下、ですか」
「はい」
「……はぁ」
小さく息を吐く。
「もう少しアクションシーンが必要ですか」
「え?」
「いえ、こっちの話です」
二人を先ほどの一般人へ任せ、また管理通路へ戻る。
さらに奥。
下層の排水設備へ続く金属階段があった。
ローレンは階段の上でモンキーレンチを手すりへ打ちつける。
かん、かん、かん。
音が下へ響いていく。
耳を澄ます。
下から、二つ。
別々の爪音。
一つは右。近い。
もう一つは左。さらに奥。
その奥に、弱い人間の声も混じっている。
もう一度、叩く。
右側の音がはっきりと階段へ近づいてきた。
ローレンは待った。
黒褐色の頭が見える。
爪を段にかけ、身体を引き上げる。
一段。
また一段。
平地を走るときより遅い。
完全に上まで来る。
その瞬間、ローレンの蹴りが真正面から入った。
「はい、お帰りください」
怪物の身体がそのまま後ろへ飛び、金属階段を転がり落ちる。
下で大きな音がした。
動かない。
その一連の音に、左奥の個体も反応した。
ローレンは少し笑う。
「お。反応しましたね」
モンキーレンチで再び手すりを叩く。
「こっちですよ」
やがて二体目が階段へ現れる。
やはり爪を使って一段ずつ身体を引き上げてくる。
ローレンは上端で待った。
怪物が完全に上へ出る。
蹴り。
「はい。もう一回ですね」
二体目も階段を転がり落ちた。
しばらくして、ローレンはもう一度手すりを叩く。
新しい爪音は返ってこない。
人の声だけが残っている。
ローレンは階段を下りた。
空気はさらに湿っていた。
腰ほどの高さの金属柵の向こうを大量の水が流れている。太い配管とポンプ設備が並び、非常灯だけが白く光っていた。
階段下には、先ほど蹴り落とした二体が倒れている。
その七、八メートルほど先。
壁にもたれる男性がいた。
五十代ほど。片腕で腹の横を押さえている。作業着には血が滲んでいた。
ローレンは周囲の音を確認してから近づく。
「大丈夫ですか?」
男は顔を上げた。
「……救助か?」
「ちょっと見せてくださいね」
脇腹には、爪で裂かれたような傷があった。
出血はしているが、すぐに命に関わるほどではない。
ローレンは手早く圧迫できるよう処置する。
「はい。押さえててください。強く動かないでくださいね」
男は言われた通りに傷口を押さえる。
「上の二人は……?」
「大丈夫ですよ。もう外にいます」
男は目を閉じ、長く息を吐いた。
「そうか……よかった。あんた、救助隊じゃないのか?」
「いえ。ただのニートですよ、今は」
「……ニート?」
ローレンは特に説明せず、男の状態をもう一度見る。
脚は動く。
ただし傷口を揺らさない方がいい。
「はい。じゃあ、行きますよ」
「え?」
ローレンはそのまま男を抱き上げた。
いわゆる、お姫様抱っこだった。
「ちょ、ちょっと待て。大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。じっとしててくださいね」
重量そのものより、狭い階段で傷口を揺らさないことの方が重要だった。
両手が塞がる。
ローレンは持っていたモンキーレンチを男の腹から胸のあたりへ置いた。
「これ、持っててもらえます?」
男は反射的に受け取る。
「……これ何に使ったんだ?」
「結構いい仕事してくれたんですよ」
「……?」
「じゃあ、帰りましょうか」
来た道を戻る。
金属階段を上がり、排水設備の階層を抜け、さらに階段を上がる。
グレーチングのある通路も通り過ぎる。
新しい怪物は現れなかった。
一般通路の明かりが見えてくる。
壊れた業務用扉を抜けた瞬間、先に助けた二人が立ち上がろうとした。
「班長!」
「よかった……!」
抱えられた男も二人を見る。
「お前ら……無事だったか」
ローレンは三人のそばまで行き、班長をゆっくり下ろした。
「はい。ここで休んでてくださいね」
応急処置が崩れていないことを確認する。
それから少し離れ、三人が互いの無事を確かめる様子を見守った。
一人目は右脚をかばっている。
二人目は比較的元気そうだ。
班長は脇腹を押さえているが、意識ははっきりしている。
しばらくして、ローレンは班長の前へ少し屈んだ。
「それで、念のため確認なんですけど」
班長が顔を上げる。
「これで全員、救助できましたか?」
班長は二人の部下を見る。
「ああ。今日あそこに入ったのは、俺たち三人だけだ」
一人目の男も頷く。
「間違いないです。三人です」
「そうですか」
これで終わりだ。
班長がふと、ローレンの手元を見る。
「……それ、うちのだよな?」
ローレンもモンキーレンチを見る。
「ああ、この子ですか」
手の中で一度だけ回してから、班長へ差し出した。
「今日いちばんの立役者ですよ」
「……これが?」
「すごく働いてくれました」
班長はレンチとローレンを交互に見た。
「どういう使い方したんだ……」
「まあ、いろいろです」
ローレンはにこっと笑う。
班長も、それ以上は聞かなかった。
周囲にはまだ、少し離れたところから様子を見ている人がいた。
ローレンは立ち上がる。
そして少し大きな声を出した。
「はーい。それじゃあ、これで撮影も終了です」
何人かがこちらを見る。
「皆さん、ご協力ありがとうございました」
軽く頭を下げる。
「思ったよりちょっと大事になっちゃったので……すみません、警察にもお電話お願いできますか?」
「え、警察?」
「はい。いろいろ壊れちゃいましたから」
壊れた業務用扉の方を見る。
「救急車もお願いします。怪我してるスタッフがいますので。よろしくお願いしますね」
先ほど協力してくれた男性がスマートフォンを取り出した。
「あ、はい。分かりました」
周囲にも、どうやら終わったらしい、という空気が広がっていく。
もちろん、床に転がる巨大な黒褐色の『ぬいぐるみ』と、壊れた業務用扉と、怪我をした作業員三人を見て、本当に普通の撮影だと思っている人がどれほどいるかは分からない。
それでも、必要なことは済んだ。
ローレンは三人の作業員へ向き直る。
「じゃあ、あとはよろしくお願いしますね」
にこりと笑う。
班長が頭を下げた。
「本当に……ありがとう」
「いえ。皆さん無事でよかったです」
それだけ言うと、ローレンはその場を離れた。
グローブの金属プレートを外し、鞄へ戻す。
そして、本来の目的だった輸入食品店へ向かった。
店に着けば、やることは普通の買い物だった。
棚に並ぶ見覚えのあるパッケージを見つけ、少しだけ表情が明るくなる。
「Oh……これ、ありますね」
懐かしい菓子をいくつか籠へ入れ、ついでに飲み物や食料も買う。
会計を済ませ、袋を提げて店を出た。
外ではまだ強い雨が降っている。
ローレンは傘を開き、駅へ向かう。
電車で二駅。
家に帰れば、濡れた服を着替え、手を洗う。
買ってきたお菓子の袋を開ける。
ぱり、と軽い音がした。
「ん。これこれ」
それから先は、普通の日曜日だった。
数日後の午後。
ローレン・ブルックスは、近所のスーパーで買い物をしていた。
夕食の材料と、切らしていた日用品。今日の目的はそれだけだった。平日の店内はそれほど混んでおらず、ローレンは買い物籠を片手に棚を順番に見て回っていた。
そのとき、少し離れた通路から、がしゃん、と瓶の割れる音がした。
何人かが振り返る。五十代ほどの男性が床に倒れていた。そばには割れた瓶と液体が広がり、女性店員が慌てて男性の様子を確かめている。別の客が救急車を呼び始めた。
ローレンも一度そちらを見たが、すでに人が集まっている。
(ここにいても邪魔ですね)
そう考えて、そのまま買い物を続けた。
しばらくして、店内BGMがぷつりと切れた。
照明が一瞬だけ暗くなり、すぐ戻る。
前方の日用品売り場で、がこん、と鈍い音がした。続いて、床の近くから、かり、かり、と何かが硬いものを擦る音。
高齢の女性が足を止めた。足元を見て、顔色を変え、ゆっくり後ずさる。
ローレンは目を凝らした。
女性の靴の近くに、黒灰色の小さな生き物がいる。胴体は猫ほどだが、身体は低く、四肢は細い。その先だけが妙に硬そうで、黒い鉤爪が床を掻いていた。
棚の奥にもう一つ。さらに右と左後ろからも同じ爪音がする。
女性が「ちょっと……」と声を漏らした。
最も近い一匹が、ぴたりと爪を止めた。
頭部が女性へ向く。
ローレンは指を鳴らした。
パチン、パチン。
黒灰色の生き物が、今度はこちらへ向く。
もう一度。今度は両手を合わせる。
パン、パン、パン。
四方の爪音が一斉に動き始めた。
「なるほど」
ローレンは買い物籠を床へ置いた。
指に力を入れる。
コキ、ゴキ。
関節の音に合わせるように、一匹が低く身を沈めた。
次の瞬間、飛びかかってくる。
ローレンは身体をずらし、横から叩き落とした。
バシン、と硬い音がして、黒灰色の身体が床と棚へぶつかる。まだ生きている。鉤爪が床を激しく引っかいた。
その音に、二匹目が反応した。
ローレンではない。傷ついた同種へ飛びつき、噛みつく。
「……あ」
ローレンは手を出さず、そのまま見た。
残る二匹も、衝突音と爪音へ引かれて集まってくる。噛まれた個体がさらに暴れ、別の個体がそれへ食らいつく。
音が、次の音を呼んでいる。
三匹が一か所へ固まった。
ローレンは踏み込んだ。
ドンッ。
床が鳴る。二匹がその場で動かなくなり、弾かれた最後の一匹へもう一度踏み込む。
これで四匹。
だが、少し離れたところから、また、かり、と爪音がした。
ローレンは小さく息を吐いた。
「はいはい」
今度は自分から拍手を始めた。
パン、パン。
歩きながら、わざと連続して音を出す。人のいる場所から離れ、火気や調理設備のない、少し広い通路の交差へ向かう。
別々の方向から三匹が現れた。どれもローレンの身体というより、その瞬間に鳴った拍手の位置へ向きを変えている。
ローレンは頭上で一度だけ大きく手を叩いた。
パンッ。
そして手をゆっくり下ろす。
一匹目は、下がった手を追わなかった。最後に音が鳴った頭の高さへ、そのまま跳んでくる。
「はい」
空中で掴んだ。
暴れる小さな身体を、そのまま残る二匹の目の前へ投げつける。
ゴンッ。
投げられた個体が床で暴れ、爪を鳴らす。二匹はすぐそちらへ食らいついた。
ローレンはまとまったところへ踏み込む。
一度。
もう一度。
静かになった。
合計七匹。
だが、バックヤードの方から、また物が倒れる音がした。
「何だこれ!」
男性店員の声。
さらに奥から、二つの爪音。
ローレンが拍手を続けると、そちらへ向いていた音がまたこちらへ寄ってくる。
二匹が現れた。
頭上の音へ跳ぶ一匹を、待ち構えて横から床へ叩き落とす。死骸がぶつかった音へ二匹目が近づき、そこへ踏み込む。
九匹。
するとバックヤードの奥から、今度は別の男が叫んだ。
「おーい! 誰かいないのかー!」
ローレンは眉を寄せた。
爪音が二つ、そちらへ向きを変える。
「……あんまり大声出すの、得意じゃないんですけどね」
息を吸う。
「SHUT UP!!」
店内へ響いた声に、二匹の進路が一斉に変わった。
遠くから「……えっ?」という男の声がした。それきり黙る。
ローレンは指を鳴らした。
「……もう、いい加減うっとうしいですね。このハエ」
飛び込んできた一匹を叩き落とす。二匹目がその音へ寄ったところを踏む。
十一匹。
ローレンは耳を澄ませた。
今いる場所には爪音がない。
だが、最初に男性が倒れた方から、女性店員の声が聞こえた。
「ちょっと……離れて! それ触っちゃダメ!」
何かが倒れ、短い悲鳴。爪音が速くなる。
ローレンは息を吸った。
「キャーッ!!」
今度は意図的な、よく通る高い悲鳴。
向こうで爪音が止まり、こちらへ向きを変える。しかも一つではなかった。さらに奥からもう一つ。
「ふん、ふふーん……♪」
ローレンは鼻歌を歌いながら、その場でゆっくり回った。
くるり。
もう一度。
継続する声へ二匹が近づいてくる。
一匹目が頭部へ向けて飛ぶ。
ローレンは空中で掴み、そのまま二匹目の近くへ投げた。
ゴトッ。
投げられた個体が爪を鳴らして暴れる。二匹目がそちらへ噛みつく。
ローレンは鼻歌を止めた。
踏み込む。
一匹。
さらに残った一匹。
これで十三匹。
ローレンはその場で動きを止め、耳を澄ませた。
店内のざわめき。冷蔵設備の音。人の呼吸。遠くの声。
あの鉤爪が床を引っかく音は、もう聞こえない。
代わりに、最初に男性が倒れた場所から声がした。
「……救急車、まだですか? この人、呼吸が……」
ローレンはそちらへ向かった。
倒れている男性の足首には、小さく裂けた傷がいくつもあった。出血は少ない。しかし傷から上へ、灰黒い筋のような変色が伸びている。
ローレンはしゃがみ、呼吸と脈を確かめた。
浅い。弱い。傷の大きさとは釣り合わない。
「……毒、ですかね」
原因があの生き物なら、通常の傷の処置だけでは足りない。ローレンには未知の毒を中和する薬はない。
せめて広がりを遅らせるため、傷より少し上を強く締め過ぎないように縛る。
近くの女性店員へ、床に転がる黒灰色の死骸を示した。
「救急隊の人が来たら、あそこに落ちてるあれ、見せて渡してくださいね」
「あれの毒で苦しんでるみたいですね。調べてもらえば、毒に効くものを作れるかもしれません」
女性店員が頷いたところで、入口側から声がする。
「救急です! 通してください!」
ローレンは立ち上がった。
「じゃあ、私はこれで」
「はぁ……やれやれ」
男性の近く、邪魔にならない場所へ置いた買い物籠はそのままにして、ひとまず売り場へ戻ろうとした。
そのとき。
ブツッ。
またBGMが切れた。
照明が一瞬暗くなる。
今度は爪音がない。
代わりにスピーカーから、ざ、ざざ、とノイズが流れた。
『――お客様に、お知らせいたします』
平坦な女性の声。
『店内のすべてのお客様は、その場で音を立てずにお待ちください』
客たちが戸惑う。店員までスピーカーを見上げていた。
ローレンは声を出さなかった。
足音もなるべく立てない。
ただし、待つつもりもなかった。
(ふふ、こういうのも面白いですね)
静かに売り場を移動する。商品にはまだ触れず、必要なものの場所だけ目で確認していく。
(ジャパニーズサプライズは、本当にとっても刺激的ですね)
冷蔵設備の低い音が消えた。
換気も止まる。レジの電子音も消える。
やがて入口の自動ドアが一度だけ動き、そのまま閉じた。
さらに、店の奥から順番に照明が落ち始める。
一列。
もう一列。
ローレンは通路の先に、一人の男性客が立っているのを見た。
放送に従っているのか、微動だにしない。
その男性の後ろの照明は、すでに消えていた。
なのに。
影だけが、消灯前と同じ方向へ伸びている。
(あー……)
ローレンは足を止めた。
声も出さず、ただ見た。
完全に暗くなっても、影は残ったまま。
そして影の頭だけが、ゆっくりローレンへ向いた。
ローレンは何もしない。
数秒後、影は元の向きへ戻った。
その直後だった。
男性が前へ倒れた。
どさっ。
だが、影は倒れなかった。
立っていた人間の形のまま、床に残っている。
そしてまた、頭だけがローレンへ向いた。
ローレンはなお見続けた。
影は片腕を持ち上げた。
口元へ指を当てるような形。
――静かに。
そう示しているように見えた。
やがて影の足元が伸び、倒れた男性から離れ始める。
向かった先では、女性客が恐怖を堪えきれず小さくすすり泣いていた。
「……っ……」
その音が出た瞬間だけ、影が進む。
女性が口を押さえて静かになると、止まる。
ローレンは男性が倒れる前の流れを頭の中で思い返した。
影は男性へ飛びついてはいない。何かを突き刺した様子もない。
男性が倒れた後も、影だけが立ったまま残った。
(……抜いた?)
影そのものを身体から引き離すことが、男性が倒れた原因なのかもしれない。
ローレンは買い物籠から、落としても壊れにくい商品を一つ取った。
自分の後ろへ、ふわりと投げる。
そのまま男性へ静かに近づく。
コトン。
商品が落ちた瞬間、ローレンも止まった。
影が女性から離れ、音のした場所へ滑っていく。
商品へ取りつくわけではない。ただ音の位置まで来て、そこで止まる。
ローレンは倒れた男性のそばへしゃがんだ。
呼吸はある。脈もある。外傷はない。
ただ、影がない。
周囲には普通に影が落ちているのに、この男性だけが、光の中に影を持っていなかった。
ローレンはさらに近くから床を見る。
男性の靴底と床の境目。
そこから、髪の毛ほど細い黒い線が伸びていた。
床を這い、棚の横を抜け、離れた人型の影まで続いている。
「……まだ、つながってるんですね」
線が張るたび、男性の呼吸が少しだけ弱くなる。
ローレンは別の商品を、今度は男性の近くで、他の客から離れた場所へ投げた。
カランッ。
影が戻ってくる。
影と男性の距離が縮むほど、細い線は短く、太くなる。
男性の呼吸も少し深くなった。
ローレンは鞄の中を探った。
手に触れたのは、小型のLEDペンライトだった。前の仕事で暗い場所を確認するときに使っていたものが、たまたま残っていた。
「これ、ありますね」
丈夫そうな商品をもう一度投げる。
ゴトン。
影が動く。
同時に。
カチッ。
ペンライトを点けた。
白い光が、人型の影へ当たる。
ザッ!
影の輪郭が、光に触れたところから崩れた。
影は明らかに光を嫌い、逃げる。
男性の喉から声が漏れた。
「……っ、う……」
ローレンは光を、影の外側から男性の方へゆっくり押していく。
急がない。
逃げ道を狭めるように。
影は光から逃れ、男性の足元へ戻っていく。
細かった線も縮み、太くなる。
最後には、人型の異常な影が男性自身の影へ重なった。
男性が大きく息を吸う。
「――っ、はぁ……!」
指先が動いた。
だがローレンは、そこで終わったとは思わなかった。
影の中を、じっと見る。
すると、普通の影の胴体部分に、周囲より濃い小さな黒い塊が残っていた。
ペンライトの角度を変える。普通の影は形を変える。
それでも、その黒い塊だけは影の中を勝手に移動した。
「……ああ。戻っただけですね、これ」
ローレンは黒い塊へ光を当てた。
ザッ。
塊が逃げる。
胴体から肩。肩から首。首から頭。
逃げた先へ、また光。
最後には影の頭の端まで追い詰められた。
ぷつっ。
黒いものが、男性の影から外へ飛び出した。
床に落ちたのは、掌よりずっと小さい黒い染みだった。
サササッ。
ローレンはそれから目を離さない。
足音を立てず、ゆっくりついていく。
ペンライトの光で右を塞げば左へ。左を塞げば右へ。
追い回すというより、光で進路を一つずつ限定していく。
やがて正面入口が見えた。
ガラス越しの外は明るい。
黒い染みは、その光へは近づこうとしなかった。
後ろからペンライト。前には外光。
黒い染みは自動ドアの手前にある暗い床へ追い込まれる。
ローレンはペンライトを口にくわえた。
鞄からスマートフォンを取り出し、ライトを点ける。
それを頭上で左右に振った。
声は出さない。
近くの客がこちらを見る。
ローレンはスマートフォンの光を見せ、床の黒い染みへ向けたペンライトを示す。
男が意味を察した。
自分のスマートフォンを取り出し、ライトを点ける。
それを見た女性客も。
別の客も。
店員も。
小さな白い光が、店内に次々と増えていった。
ローレンは手で合図する。
一気に照らすのではない。
逃げるための暗い床を、外側から少しずつ消していく。
右。
左。
後ろ。
一メートル。
数十センチ。
数センチ。
最後の暗がりへ、ローレンがペンライトを向けた。
四方からスマートフォンの光。
逃げ場はない。
ザ――ッ!
黒い染みが一瞬だけ膨らんだ。
ぷつっ。
消えた。
直後、ぶうん、と冷蔵設備が動き出した。
換気が戻る。
レジの端末が復旧する。
照明が奥から順番に点いていく。
そして正面入口。
ウィーン。
自動ドアが、何事もなかったように開いた。
それでもローレンは、すぐにはライトを消さなかった。
店内の照明が完全に戻るまで、床と棚の下、周囲の客の足元と影を確認する。
勝手に動く影はない。
あの微かな擦れる音もない。
先ほど倒れた男性の方から、ぼんやりした声が聞こえた。
「……あれ……? 俺、何して……」
そこでようやく、ローレンはペンライトを消した。
スマートフォンのライトも消す。
「……買い物途中でした。戻らないとダメですね」
入口からくるりと向きを変え、売り場へ戻る。
買い物籠は、男性の様子を見てペンライトを探したときに、そばの邪魔にならない場所へ置いてあった。
「ありました」
籠を拾う。
そして、普通に買い物を再開した。
店内では、客たちが店員へ詰め寄っている。
「何だったんですか、あれ!」
「急にドアも開かなくなるし、放送だって店が流したんでしょう?」
「床にいたあの生き物は何なんですか!」
店員たちは困り果てていた。
バックヤード側では、男性店員同士が小声で話している。
ローレンは商品を選びながら、その声を聞き分けた。
「……でも、おかしくないか?」
「何が?」
「最初に裏で見たときだよ。あの黒いの。搬入口から入ってきたんじゃないぞ」
一人の店員は、暗転する直前まで通路に何もいなかったと言う。
一瞬暗くなり、明るくなったら、何もなかった床に一匹がいた。
その直前には放送設備の管理画面が真っ黒になり、誰も操作していないのに、「照明を落とします」という表示が出た。
さらにサービスカウンターの奥では、防犯カメラの録画が約十四分抜け落ちているという話もしていた。録画が戻ったのは、照明がすべて復旧した後。
ローレンは聞きながら、棚の商品を籠へ入れた。
(まあ……偶然ではなさそうですね)
だからといって、店員に詰め寄って調べるつもりはない。
もう終わった。
必要なものも揃った。
「よし、これで全部ですね」
ローレンはレジへ向かった。
女性店員が商品を一つずつ通していく。
ピッ。ピッ。
途中、怪異を誘導するため床へ投げた商品を手に取って、店員が少し困った顔をした。
「あの……こちら、交換いたしましょうか?」
ローレンは笑った。
「あ、いいですよ。別に」
「私がふざけて投げちゃったものなんで。ちゃんとそれ買いますよ」
「……あれ、ふざけてたんですか?」
「まあ、ちょっとだけ」
女性店員も、ようやく少し笑った。
会計を済ませ、ローレンは買い物袋を持つ。
「今日は、とっても刺激的でしたね」
「え……あ、はい。本当に……」
「まあ、毎日は嫌ですけど」
「ふふっ……それは、私もです」
「ですよね」
ローレンは袋を持ち直した。
「それでは。この後は、お互い平和な一日を過ごせたらいいですね」
「はい。……本当に、ありがとうございました」
「いえいえ。それじゃ」
自動ドアが開く。
外は、ごく普通の午後だった。
車が走り、自転車が通り、人が歩いている。
ローレンは買い物袋を提げ、そのまま家へ向かった。
⸻
さらに数日後。
ローレンが自宅でテレビを眺めていると、地域ニュースの中で見覚えのあるスーパーが映った。
数日前、店内で複数の客が体調を崩し、正体不明の小動物のようなものが見つかった――そんな短いニュースだった。
画面の中のスーパーは、もう普通に営業している。新たな被害が出たという話でもない。
ローレンはソファからそれを眺めた。
十三匹の黒灰色の生き物。
勝手に流れた放送。
人間から離れて動いた影。
最後には、知らない客たちと一緒にスマートフォンのライトを向けることになった。
「……ふふ」
少し笑う。
数十秒後、ニュースは次の話題へ移った。
ローレンも、それ以上は追わなかった。
部屋には、いつもの日常の音だけが残っていた。




