外伝2 ローレン・ブルックス編 地下駐車場事件
午後三時を少し回った頃。
ローレン・ブルックスは、大型商業施設の三階にある小さな就職相談所から出てきた。
手には、いくつかの求人資料がある。
役員秘書。外国人向けコンシェルジュ。専属ドライバー。そして、小規模な芸能事務所のマネージャー。
最後の一枚を眺めながら、ローレンは少しだけ足を緩めた。
「……こういう仕事も、面白そうですね」
日本へ来てから、生活に困ったことはない。
十五年近く、アメリカで企業社長の専属秘書兼ボディガードとして働き続けた。給料は十分すぎるほどもらっていたし、貯蓄もある。今すぐ働かなければ生活できないという事情はなかった。
むしろ、今の生活は彼女にとって十数年ぶりに手に入れた長い休暇のようなものだった。
それでも、何もしないというのはどうにも落ち着かない。
毎朝起きて、今日は何をしてもいい。
明日の予定も、自分で決めていい。
最初こそ楽しかった。
いや、今だって楽しい。
日本の街を歩いて、知らない店へ入って、温泉へ行って、美味しいものを食べる。漫画を買って、一日中読んでいても誰にも怒られない。
けれど、それを何週間も続けていると、十五年間染みついた習慣がむずむずと顔を出す。
誰かの予定を管理したい。
車を運転したい。
仕事をしたい。
できれば、可愛い女の子のスケジュール管理と運転と護衛をまとめて任せてもらえれば、かなり楽しそうだ。
今日はそのための情報収集だった。
まだ仕事を決めるつもりはない。
この後は普通に買い物をして帰る。
そんな、ごく普通の一日になるはずだった。
エレベーターで一階へ降りる。
扉が開き、ローレンがフロアへ出て間もなく――足元が、わずかに揺れた。
「ん?」
立ち止まる。
地震かと思った。
だが次の瞬間。
――ドンッ!
今度は明確だった。
下から突き上げるような衝撃。
照明が一瞬だけ暗くなる。
周囲の客たちも足を止め、ざわめき始めた。
火災報知器は鳴っていない。
館内放送もない。
ローレンが地下駐車場へ続くエスカレーターへ目を向けた、その時だった。
男が上がってきた。
四十代ほど。
右肩から血を流している。
服は濡れ、息は荒い。
歩いているというより、ほとんど転がり込んできたような有様だった。
近くにいた警備員が駆け寄る。
ローレンもすぐに男のそばへしゃがみ込んだ。
「大丈夫です?」
返事を待つより先に傷を見る。
右肩には、深い裂傷が三本。
平行に並んでいる。
転倒や機械事故で偶然できた傷には見えなかった。
「……下……」
男が掠れた声を出した。
「下に……まだ……人が……」
ローレンは傷口を圧迫し、応急処置を始める。
出血は多い。しかし、今すぐ命を奪うような動脈性の出血ではない。
「救急車は?」
警備員が答える。
「今、呼んでます! 警察にも――」
その時。
地下から音がした。
ガン。
何か硬いものが、金属へぶつかる音。
続いて、ガリッ、と引っ掻くような音。
男の顔色が変わった。
ローレンの腕を掴む。
「……閉めて……」
「え?」
「下の……防火シャッター……」
男の指が震えながら地下方向を指す。
「早く……上がってくる……」
ローレンはそちらを見る。
地下から、薄く水が流れてきていた。
そして、その向こう。
暗い駐車場の奥で。
何かが動いた。
大型犬ほどの高さ。
だが犬ではない。
黒に近い暗褐色の、細長く低い身体。
全身が濡れている。
前肢らしきものの先に、三本の長い鉤爪。
男の肩に刻まれた三本の傷と、ほとんど同じ間隔だった。
「……ああ」
ローレンは小さく声を漏らした。
少なくとも、アメリカで見た魚面の人型生物とは違う。
人型ですらない。
そして一体だけではなかった。
さらに地下の奥。
別の方向からも、金属を叩く音がする。
その合間に、人の声。
「誰か――!」
少し遅れて、
「助けて! 誰か!」
ローレンは防火シャッターの操作盤を見つけた。
負傷者と警備員を下がらせる。
地下から最初の一体が近づいてくる。
まだシャッターは閉めない。
距離を測る。
怪物が一階側へ入った。
その瞬間。
ローレンはシャッターを下ろした。
重い防火シャッターが降り始める。
怪物は一階側。
後続は地下側。
完全に分断される。
怪物がローレンへ向いた。
低い身体が沈む。
ローレンは逃げなかった。
飛び込んできた頭部へ、蹴りを叩き込む。
鈍い衝撃。
怪物の身体が床へ転がった。
生きている。
だが、効いている。
それだけ分かれば十分だった。
ローレンは普段から使っている丈夫な手袋を取り出し、拳の甲を覆う金属プレートを取り付けた。
倒れた怪物が起き上がろうとする。
長い爪。
それなら、その爪がまともに使えないほど近づけばいい。
一気に懐へ入る。
頭部へ拳を叩き込んだ。
怪物の身体が沈む。
動かなくなった。
「……」
ローレンは少し待った。
復活する様子はない。
普通に死んでいる。
少なくとも、物理攻撃が通じる生物だ。
そこから先は、少しだけ調べることにした。
身体は細長く、四肢に近い構造を持つ。前肢には三本の鉤爪。小さく奥まった眼。大きな口と歯。
皮膚の表面には、水分を保持する粘液質の膜がある。
首に近い部分には、左右一対の裂け目。
触れて調べれば、鰓に近い呼吸器官だと分かった。
しかも空気に晒された部分は、時間とともに少しずつ光沢を失っていく。
乾燥に強い生物ではない。
身体には、今回の戦闘より前についた傷もあった。
擦過傷。
圧迫されたような痕。
黒っぽい粉塵と、灰色の粒子。
コンクリートや塗装された金属へ強くぶつかったようにも見える。
事故に巻き込まれたのかもしれない。
ローレンは三本の鉤爪のうち一本を根元から折り取った。
かなり硬い。
近くの警備員へ声をかける。
「あ、ちょうどよかったです。日本のボディガードは仕事が早いですね」
「え?」
「じゃあ申し訳ないですけど、ナイフのほう持ってきていただけますか? 少しだけ使いたいんですけど」
警備員が困った顔をする。
「ナイフ……ですか?」
「別に、サバイバルナイフなんて持ってきていただけるとは思ってないですよ。そんなもの、普通は持ってないでしょう?」
ローレンは笑った。
「ナイフじゃなくても、ハサミでもいいですよ。とりあえず、何か切れるものを持ってきていただけたらありがたいんですけど」
警備員が走っていく。
ローレンは地下を見る。
シャッターの向こうには、まだ人がいる。
そして怪物もいる。
「いつまでもあれじゃ、中にいる人、みんな死んじゃいますよ」
戻ってきた警備員から作業用の刃物を借りる。
怪物の皮膚を切開してみると、内部も水分を多く含んでいた。鰓状器官は特に柔らかく、露出させると乾燥が早い。
天然の爪そのものは、作業用ナイフより硬く鋭い。
ローレンは回収した三本の爪を固定し、即席の三本爪を作った。
見た目だけなら、少し大げさなベアクローだ。
「ありがとうございます」
警備員へ刃物を返す。
「たぶん、見ていて気持ちのいいものでもないと思いますので、救助の皆さんのお手伝いとか、避難誘導のほうをお願いしますね。これは私がちゃんと見ておきますので」
そして床を見た。
血と、怪物の体液。
「あ、ごめんなさい。床、かなり汚しちゃってますけど。そこは許してくださいね」
警備員は何とも言えない顔をしていた。
ローレンは地下へ向かった。
⸻
従業員用の階段を使う。
B1。
B2。
床は濡れている。
下へ行くほど、その量は増えていた。
どこかで機械が動いている。
低い唸りが、地下全体を震わせていた。
さらに下から、
「おーい!」
大声が響く。
ローレンは眉を寄せた。
「……あんなに声を出して、襲われないんですかね」
返事はしない。
耳を澄ませながら下りる。
B3。
防火扉の向こうに男性がいた。
ローレンを見るなり、口元へ指を当てる。
静かに。
そして右方向を指した。
怪物が一体。
そのさらに奥にも、もう一体。
ローレンは男性へ手招きした。
階段へ入るよう促す。
一体目が近づく。
ローレンは長い鉤爪の内側へ入り、蹴りを叩き込んだ。
倒れない。
もう一度。
今度は鰓。
さらに拳。
怪物が沈んだ。
二体目。
今度は隠れてやり過ごそうとしたが、うまくいかなかった。
「……逃げ隠れは、苦手なんですよね」
怪物の攻撃をかわす。
三本爪を鰓へ叩き込む。
まだ動く。
頭部を踏みつける。
二体目も止まった。
周囲を調べる。
B3には、それ以上の怪物はいない。
人も見当たらない。
だが、さらに下から微かな声が聞こえた。
「たすけ……」
B4。
ローレンは階段に残った男性へ言った。
「とりあえず、ここで待っていてくださいね」
回収した爪をいくつか渡す。
「今のところ、この階段の中にはあれはいないみたいです。ただ、ほかの階まではまだちゃんと確認できてませんので、一人で上まで行こうとはしないでください」
下を見る。
「下から、まだ声が聞こえてますからね」
爪を示す。
「何かあったら、これ使ってくださいね」
「……分かりました」
「じゃあ、私行きます」
B4へ降りる。
そこは上階より明らかに水が多かった。
広い範囲に浅い水が溜まり、照明を反射している。
少し先に、男が倒れていた。
ローレンは駆け寄る。
「大丈夫です?」
意識はある。
「怪我はありませんか?」
男の足首を見る。
「ちょっと脚、見せてくださいね」
骨が明らかに曲がっている様子はない。
ひどい捻挫か、小さな骨折か。
応急処置を施す。
「少しだけ、ここで待っていてくださいね」
その先。
大型の箱型車両が、設備へ斜めに突っ込んでいた。
後部から水が漏れている。
機械は壊れながらも動き続け、低い振動を出していた。
その周囲に怪物がいる。
ローレンは観察する。
機械音が強くなる。
怪物が反応する。
弱まる。
動きも変わる。
「……なるほど」
振動に寄っている。
一体が来る。
ローレンは真正面から踏み込み、爪の死角へ入った。
三本爪を鰓へ。
一撃。
怪物が崩れる。
二体目も来る。
同じように懐へ入り、鰓を裂いた。
倒れる。
機械音だけが残った。
周囲を探す。
柱と車両の間に、もう一人いた。
男性。
意識がない。
三本の深い裂傷。
出血が多い。
ローレンはすぐに処置を始めた。
呼吸は浅い。
だが、生きている。
傷を圧迫し、できる限り安定させる。
それから男を抱え上げた。
「……よっと」
そのまま階段へ戻る。
B3で待っていた男性が目を丸くした。
ローレンは重傷者を地上へ運び、救急隊へ引き渡す。
そしてまた地下へ戻った。
B4に残した足首負傷の男性。
B3の男性へ頼む。
「肩を貸して移動するのは、難しそうですか?」
「二人なら……」
「構いませんよ。二人で支えましょう」
三人で地上へ向かう。
途中まで運び、あとは救助側へ任せた。
「じゃあ、あとはお任せしますよ」
そしてまた地下へ戻る。
B1。
怪物が一体。
ローレンはそれを見て、小さく笑った。
「……さっさと来なさい、駄犬」
飛び込んできた瞬間、懐へ。
鰓へ三本爪。
倒れる。
B1を調べると、さらに負傷者が一人見つかった。
背中から脇腹にかけて三本の裂傷。
だがB4の重傷者ほどではない。
「ちょっと傷、見せてくださいね」
処置する。
「大丈夫そうですね。少しだけ待っていてください。ちゃんと安全を確保してから助けますのでね」
周囲の安全を確認してから、男性を抱え上げる。
「歩けるでしょうけど、私が抱え上げたほうが早いですので」
防火シャッターまで運ぶ。
向こう側へ声をかける。
「救助者は前に置いてますので、防火シャッターを開けて回収してあげてください」
モーター音が鳴り、救助側が動き始める。
次はB2。
一人の女性が車の陰に隠れていた。
ローレンと目が合う。
ローレンは笑って、唇へ指を当てた。
「シー……」
怪物は二体。
倒れている男性が一人。
ローレンは怪物へ向き直る。
「……まあ、実戦訓練にはちょうどいいですかね」
一体目。
懐へ入る。
三本爪で鰓を裂く。
倒れる。
その瞬間、固定具が緩んだ。
即席の武器は限界だった。
ローレンは躊躇なく外して捨てる。
二体目。
今度は拳。
鰓へ叩き込む。
さらに蹴り。
怪物が倒れた。
女性は軽い打撲程度。
倒れていた男性も生きていた。頭を打って意識を失っているが、致命傷ではない。
二人を地上へ運ぶ。
これで、確認できた人間は全員救助した。
そして地下駐車場で遭遇した怪物は――八体。
⸻
ローレンは再びB4へ戻った。
事故車両からはまだ機械音がしている。
水も漏れている。
だが、車両から漏れている量だけでは、B1からB4まで広く濡れていたことの説明がつかない。
「……この車から漏れているだけで、上の階まであんな状態になるとは思えませんね。どこか、配管でも壊れてるんでしょうか」
まず車両の機械を止めた。
唸りが消える。
すると別の音が、はっきり聞こえた。
水の流れる音。
設備側。
そちらを辿る。
奥で一人の男性が、大きな配管を押さえていた。
水が噴き出している。
「手伝います。何をすればいいですか?」
男性が驚いて振り返る。
説明を聞き、ローレンが配管を保持する。
男性が工具で締める。
やがて水が止まった。
「これで、完全に止まりましたか?」
「ここは……はい。ただ、排水ポンプが一台止まってます」
「じゃあ、やり方を教えてください。私がやりますので」
教えられた通りに操作し、ポンプを復旧させる。
溜まっていた水が少しずつ排水され始めた。
男性が、今さらのように尋ねる。
「……あの、あなた、何者なんですか?」
ローレンは振り返った。
「ん、ニートですけど」
男性は黙った。
「それより、あの化け物、どっから出てきたかとか分かります?」
男性は、B3側から下りてきたように見えたと答える。
B4の特殊車両について聞いても、設備用の車両だと思っていたらしい。
説明の仕方が妙に怪しくなったところで、ローレンは笑った。
「それ聞いてましたらあなた、この施設に怪物を送り込んでくる一味みたいに聞こえますから。やめた方がいいですよ、その言い方」
男性を地上へ戻す。
その後、警備員たちにも地下の安全確認を手伝ってもらうことにした。
その途中。
B3とB4の境界付近で、灰黒い擦れ跡を見つけた。
金属が引きずられたような痕。
設備側へ続いている。
さらに調べると、小さな点検口があった。
ローレンは警備員たちへ振り返る。
「少しこちらに来ないでくださいね。怪しいものがないか、そちらの方で調べていただけますか。私もここを調べるので」
そして、念を押す。
「私が戻らなくても絶対に探しに来ないでくださいね」
狭い地下設備通路へ入る。
「さてさてさて……こういう雰囲気苦手なんですけど」
少しだけ立ち止まる。
「……普通に行きますか」
水路。
古い爪痕。
濡れた床。
奥から複数の気配。
金属が擦れる音。
ローレンは慎重に進んだ。
「報酬はないですけど。きっちり終わらせないと後味が悪いんですもんね」
そして地下のさらに奥で――一時管理区画へ辿り着いた。
そこには、循環水槽があった。
中にいるのは。
これまで倒してきた個体より、明らかに大きな一体。
そして周囲には、まだ複数の小型個体が動いていた。
ローレンはその場で戦おうとはしなかった。
資料。
端末。
監視設備。
まずは、ここが何なのかを調べることにした。
管理区画
一冊目のファイルを開いてから、ローレンの手は止まらなかった。
大量の紙を最初から最後まで律儀に読むのではなく、見出し、日付、管理番号、搬入と搬出の記録を拾い、それぞれを頭の中で繋げていく。
やがて、地下で見たものの意味が少しずつ組み上がってきた。
ここは、あの生物を長く飼い続けるための場所ではなかった。
資料に並んでいるのは「搬入」「一時収容」「状態確認」「移送」「回収」といった言葉ばかりだった。
外部から運び込まれた生体を一時的に置き、状態を確認し、また別の場所へ送り出す。
そのための中継地点。
そしてB4で衝突していた箱型の特殊車両。
管理番号を照合すると、生体搬送車両の記録と一致した。
施設管理の男性が普通の設備車両だと思っていたのも無理はない。
外見はそう見えるようになっていたのだ。
予定十二。
収容確認四。
逸走八。
数字を見たローレンは、地下駐車場で倒した個体を思い返した。
八体。
ぴたりと合う。
さらに深部にいる小型個体は、その八体とは別に、すでにこの一時管理区画へ置かれていたものだった。
大型も同じ。
今回新しく運び込まれたのではなく、以前から一時収容されており、今回の作業で鎮静後に搬出される予定だった。
別の赤いファイルには、もっと直接的な情報があった。
高湿度を好む。
乾燥が続けば皮膚の柔軟性と活動性が落ちる。
エンジンやポンプのような継続的な機械振動へ強く反応する。
そして――高温に弱い。
炎。
高温の蒸気。
乾いた熱気。
湿った呼吸器官には特に大きな負担になる。
ただし、それ以前に通常の物理的損傷でも死ぬ。
ローレンがすでに八体を倒している以上、その部分に疑いはなかった。
「……なるほど」
大型個体も同系統。
小型より大きく、強く、頑丈と予想される。
ただし陸上での挙動試験は十分ではない。
移送時には鎮静必須。
水槽が健全なら現状維持。
現場判断で開放しない。
ローレンは静かに次の資料へ移った。
試料由来の照会資料には、日本近海の深海域を示す記載があった。
幼若個体を含む試料が取得され、その後、別の海洋生物研究施設で観察されていたらしい。
大型と小型は同じ系統。
ただし、なぜ一体だけあれほど巨大なのか。
そもそも会社が何を目的に研究しているのか。
そこまでは書かれていない。
ローレンは警察へ渡す価値がある資料を選び、肩掛けバッグへ入れた。
会社が外部へどう説明するかをまとめた文書も見つけたが、それは置いていく。
必要なのは会社の言い訳ではなく、警察が事実を追える材料だった。
管理端末の操作手順書も見つかった。
ローレンはそれを読み、画面構成と各設備の操作を頭へ入れる。
事故ログを追う。
最初に起きた異常は、車両側の循環流量低下。
ポンプが補おうとして負荷を上げる。
電源系統が切り替わる。
駐車保持系が不安定になる。
車両が動く。
運転手が制動操作をしたのは、その後。
「……ああ、そういうことですね」
ただし。
なぜ最初の流量低下が起きたのか。
そこだけは分からない。
現物を調べるなら、事故車両へ戻る必要がある。
「……無理」
即答だった。
「まあ、原因究明に関しては専門家に任せましょう。私は別に、こんなことするためにここへ来たわけじゃないですからね」
代わりに、今ここに残っている生物をどうするか。
端末から設備を確認する。
無人の作業区画に、遠隔操作できるポンプがある。
継続的な振動を出せる。
隔離扉も遠隔操作できる。
監視映像を一つずつ追った。
小型個体は四体。
重複はない。
ローレンはポンプを起動した。
低い振動が始まる。
一体。
二体。
三体。
そして四体目。
資料通り、すべての個体が振動へ引き寄せられていく。
最後の一体が隔離線を越えた。
ローレンは扉を閉める。
ロック。
それからポンプを止めた。
「……うん」
扉の向こうで、ときおり硬い爪が金属を擦る。
だが頑丈な隔離扉はびくともしない。
ローレンはバッグから、いつもの硬いハンドグリッパーを取り出した。
握る。
戻す。
また握る。
そのまましばらく監視する。
最後に自分の足でも管理区画を回った。
自由に動く個体はいない。
大型は水槽内。
隔離した四体もそのまま。
資料も端末も、これ以上すぐに拾える重要情報はなさそうだった。
「まあ、とりあえずこれくらい分かればいいですか」
ローレンは地上側へ戻った。
警備員に警察を呼んでもらい、警察対応をしている警備責任者へ案内してもらう。
そこでバッグから資料を取り出した。
「警察の方への対応をされているということでしたので、こちらの資料を警察の方にお渡しいただけますか?」
責任者が受け取る。
「なくさないように、絶対に警察の方へお渡ししてくださいね」
念を押してから、今度は救護中の搬送作業員たちへ向かった。
会話のできる二人。
運転手と、足首を負傷した後部作業員。
ローレンは二人の間へ入り、少し目線を下げて笑った。
「あなたたちが、とりあえず発端だったんですね」
一拍。
「人為的じゃないにしても」
二人の顔が強張った。
どこまで知っているのか探ろうとしている。
「さあ、それは今、あなた方にとって必要な情報です?」
ローレンは首を傾げる。
「今のこの状況で」
そして、知っていることを一から話してほしいと頼んだ。
すでに分かっていることを繰り返させても意味はない。
新しく分かったのは、循環流量の異常がB4へ到着し、施設側の外部設備へ接続してから初めて起きたということだった。
だが二人にも、原因までは分からない。
「……それで終わりですか?」
二人が頷く。
ローレンは少し考えた。
「じゃあ……あの大型の生物の処理方法、教えてくれませんか?」
二人は顔を見合わせた。
殺すという意味なのか。
それとも回収なのか。
「私が回収して、どうやって運ぶんです?」
あまりにも当然のように返され、二人が黙る。
通常なら大型を鎮静させ、専用設備で移送する。
人命が危険なら殺処分も認められる。
ただし二人は殺処分担当ではなく、大型専用の特別な方法までは知らない。
「それ以外、何かあるんですか?」
ローレンは本当に不思議そうに首を傾げた。
薬剤保管庫の話になる。
管理担当者にも開けられる。
担当者の名は三崎。
ただし非常退避経路は別にもあり、すでに地上へ逃げている可能性がある。
ローレンは小さく息を吐いた。
地下へ戻ろうとして――途中で振り返る。
「あ」
二人を見る。
「ちゃんと警察の方が来ても、素直に答えるんですよ」
それだけ言って、今度こそ地下へ戻った。
準備
途中で、小型個体から回収していた爪を集め直した。
工具箱を使い、三本ずつ並べた即席の爪を二組作る。
前に一度作っている。
今度は左右それぞれ。
固定具を締め、何度か手を動かす。
問題ない。
薬剤保管庫まで行き、施錠部分と扉を確認した。
二人が言っていた通り、物理的に壊せない構造ではなさそうだ。
ただ、扉そのものはかなり頑丈で、力任せに突破するとなれば時間がかかる。
さらに触れてみると、金属越しにもかなりひんやりとしていた。
内部は低温で保たれているらしい。
薬剤そのものも温度管理が必要なのかもしれない。
外気へ晒せば短時間で効能を落とすようなものなら、適切な手順も分からないまま壊すのは得策ではない。
「……壊すのも駄目そうですね」
ローレンは立ち上がった。
「仕方ありません」
保管庫に背を向ける。
管理端末へ戻った。
まず大型水槽を空にする前に、周囲の環境から水を減らす。
端末上の系統図を追い、水槽維持に必要な系統と周辺の排水系統を切り分ける。
不要な給水と循環を止め、排水だけを動かした。
待つ。
床を覆っていた水が細くなり、水溜まりも小さくなる。
完全に乾き切るわけではない。
だが、設備で今すぐ減らせるのはここまで。
そこで初めて、大型水槽の排水を始めた。
低い機械音。
水位が下がる。
ローレンは二組の即席三本爪を左右の手へ装着し、管理室を出た。
狭い場所で戦う気はない。
大型個体を視界に入れられ、十分に動ける広い空間まで下がる。
首を回す。
肩。
肘。
手首。
腰。
膝。
足首。
順番に身体をほぐす。
最後に軽く腰を落とし、踏み込みを何度か確認した。
水槽では、身体の大部分を空気へ晒された大型個体が動き始めていた。
水位がさらに落ちる。
太い前肢が縁へ掛かる。
一度、滑り落ちる。
もう一度。
今度は鉤爪がしっかり縁を捉えた。
巨体が水槽を越える。
――ドンッ。
重い音を立てて床へ落ちた。
ローレンは手袋をはめ直した。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
「大型犬の相手は、苦手なんですけどね」
大型個体が低く身体を沈めた。
大型個体
攻撃の直前、前肢へ重心が寄る。
小型と同じ。
ローレンはその予備動作を見逃さなかった。
巨体が飛び込んでくる。
三本の鉤爪が横薙ぎに走った。
ローレンは身体を引き、爪先すれすれで軌道を外す。
振り抜いた前肢が戻るより早く、今度はこちらから懐へ入った。
長い爪が使いにくくなる内側。
狙うのは、小型で構造を知っている鰓。
三本爪を叩き込む。
湿った呼吸器官が裂け、大型個体の身体が大きく跳ねた。
巨体が暴れる。
身体を捻り、力任せにローレンを弾き飛ばそうとする。
だがローレンは重心を落とし、その動きへ身体を合わせて踏ん張った。
懐から離れない。
もう一度。
先ほど裂いた鰓へ、さらに深く三本爪を走らせる。
大型個体の身体が硬直した。
次の瞬間、前肢から力が抜ける。
――ドンッ。
巨体が床へ落ちた。
ローレンはしばらく動きを見る。
呼吸器官は動かない。
「……あら」
思っていたより、ずっと早かった。
十分に準備した。
周囲の水まで減らした。
両手に武器を作った。
長期戦のつもりで身体まで温めた。
それが、二撃。
とはいえ、わざわざ生き返ってもらう必要はない。
ローレンは死を確認した。
それから、少し興味が湧いた。
なぜ会社は、こんな生物をわざわざ研究していたのか。
大型個体を簡単に解剖する。
構造は小型と似ていた。
水分を多く保持する組織。
鰓状器官。
発達した前肢。
ただし筋肉の密度はかなり高い。
特に肩から胸部、前肢にかけての筋繊維は強靱で、鰓の周囲には豊富な血管網が走っている。
低酸素や水中環境への適応と、強い筋力。
その組み合わせだけでも、研究対象としては十分に珍しい。
だが、それ以上は分からない。
何のために研究しているのかを、死体だけから決めつけることはできなかった。
最後に、大型の前肢から状態のいい鉤爪を一本だけ外した。
小型のものよりずっと太い。
一本だけでも十分に存在感がある。
「……まあ、飾るくらいにはなりますかね」
武器にするつもりはない。
家に置く標本。
日本へ来て遭遇した、妙な生物の記念品。
それくらいでいい。
残り四体
大型を片づけたところで、ローレンは隔離扉の向こうにいる四体を思い出した。
閉じ込めたままにしてもいい。
むしろ、そのほうが安全ではある。
だが、警察だけでこの生物を扱えるのかという問題が残る。
「……せっかく捕まえたんですけどね」
少し惜しそうに呟いて、管理室へ戻った。
監視映像で四体の位置を確認する。
隔離扉を開けた。
一体目。
二体目。
二体目が完全に線を越えた瞬間、扉を閉じて再びロック。
外に二体。
中に二体。
テーブルに置いていたレンチを持ち、先ほど大型と戦った広い空間へ向けて思い切り投げた。
――ガァンッ!
金属音が響く。
二体は音へ反応した。
だがポンプのような継続振動ではないため、走ってはこない。
ゆっくりと音の方向へ動く。
ローレンもその速度に合わせ、距離を保ったまま移動した。
やがて二体がローレンを見つける。
ローレンはにこやかに笑って、三本爪をつけた手をひらひら振った。
「やっほー」
二体が身体を低くする。
「あらあら、せっかちですね」
一体目が飛び込んでくる。
その正面へ、ローレンも踏み込んだ。
低く身体を落とす。
そのまま床を滑った。
鉤爪の下へ潜り込み、通り抜けざまに腹側へ三本爪を引っ掛ける。
三本の傷が長く走った。
ローレンはそのまま背後へ抜ける。
一体目は数歩進んだところで崩れ落ちた。
立ち上がる頃には、二体目が向きを変えている。
ローレンは先に踏み込み、三本爪を叩き込んだ。
二体目も倒れる。
「じゃあ、もう一回いきますか」
管理室へ戻る。
残り二体を解放。
今度は小型のスパナを投げた。
甲高い金属音。
二体がゆっくりとそちらへ向かう。
ローレンも同じように広い場所へ移動する。
三体目がこちらへ注意を向けた瞬間、ローレンが先に距離を詰めた。
一撃。
倒れる。
最後の一体が突進する。
ローレンは避けて離れるのではなく、その動きへ合わせて懐へ入った。
三本爪が走る。
最後の個体も床へ倒れた。
ローレンは四体を順番に確認する。
どれも動かない。
大型も同じ。
「……うん」
ようやく肩から力を抜いた。
「終わり、終わり」
左右の即席三本爪を外し、その場へぽいと投げ捨てる。
両腕を頭上へ伸ばす。
「んー……っ」
大きく身体を伸ばした。
今度こそ、やることは終わった。
それでも休日
ローレンは警察へ改めて説明しに戻ることはしなかった。
重要な資料は警備責任者へ渡した。
搬送作業員にも、警察へ素直に話すよう言ってある。
地下には端末も、監視映像も、生物の死体も、設備も残っている。
警察なら、そこから先を調べられる。
(……あとは警察のお仕事ですね)
地上へ出ると、施設内は当然のように大騒ぎだった。
警察。
消防。
救急。
施設スタッフ。
買い物客は退館を促されている。
ローレンも、その流れへ自然に混ざった。
「怖いですね……何があったんでしょう」
そんな顔をして、一般客として外へ出る。
この施設で買い物を続けるのは無理そうだった。
だから、少し離れた別の商業施設へ向かった。
そこから先は、驚くほど普通だった。
気に入った服を何着か選ぶ。
鏡の前で合わせ、良ければ買う。
書店へ寄る。
日本語の漫画を棚から抜いて、表紙や帯を眺める。
「……これ、面白そうですね」
好みに合いそうなものを何冊か買った。
夕方には、美味しそうな店へ入った。
食事もゆっくり楽しむ。
ほんの少し前まで地下で怪物と殴り合っていた日とは思えないほど、穏やかな時間だった。
帰宅する。
買った服と漫画を整理する。
最後に残ったのは、大型個体から外した一本の鉤爪だった。
このままでは、さすがに臭くなる。
ローレンは鉤爪を浴室へ持ち込み、自分が風呂へ入るついでにシャワーを当てた。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
血や汚れを洗い流す。
根元には、まだ肉と軟組織が残っていた。
爪を傷つけないよう、刃物で切り落とす。
切り落とした組織は紙でくるくると包んだ。
「……はい、これはこっちですね」
ゴミ箱へ、ぽい。
爪は水気を拭き、乾かせる状態にしておく。
自分の風呂も済ませる。
着替える。
ベッドへ入る。
長い一日だった。
それでも最後に残ったのは、事故の緊張よりも、好きな服を選び、漫画を買い、美味しいものを食べ、自分の時間を好きに使った満足感だった。
ローレンはそのまま、ゆっくり眠りについた。
後日談
数日後。
あの商業施設の事故は、地下設備で発生した事故と危険生物の逸走、それに伴う避難と負傷事故として表向き説明されていた。
もちろん、警察の捜査が終わったわけではない。
ローレンが渡した資料。
搬送作業員たちの証言。
管理端末。
監視映像。
現場設備。
そして、生物の死体。
追うための材料は十分にある。
会社や搬入元の研究施設への照会も、水面下では進み始めていた。
ただ、数日で会社が潰れたり、研究施設が摘発されたりしたわけではない。
そもそも研究自体が違法だったのかも、まだ確定していない。
表面上の日常は、思ったより早く戻ってきた。
ローレンも同じだった。
求人情報を眺める。
街を歩く。
気になった店へ入る。
買った漫画を読む。
美味しいものを食べる。
大型個体の鉤爪は、余分な組織を落として乾かしてある。
そのうち台座でも用意して、部屋に飾ればいい。
何の生物なのかと聞かれたら、説明には少し困るだろう。
それでも一本の大きな鉤爪は、日本へ来てから増えた少し変わった記念品として、静かに残った。
――第2回 END「やることはやりました」――




