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外伝1 ローレン・ブルックス編 〜観光〜

九月。まだ夏の名残を引きずる平地とは違い、山あいの霧ヶ沢温泉には少しだけ早い秋の気配が混じっていた。


ローレン・ブルックスは、小さな旅行鞄を片手に、温泉街の石畳をゆっくり歩いていた。


古い木造旅館。軒先の風鈴。土産物屋から漂う甘い匂い。浴衣姿で歩く観光客。アメリカで長く社長付きの秘書兼ボディーガードとして働いてきた彼女にとって、こうして時間を気にせず町を眺めながら歩くこと自体が、まだ少し新鮮だった。


前の仕事を失った――という言い方は、少し違う。長年仕えてきた社長は高齢で、穏やかに人生を終えた。そのあと、十分すぎるほどの貯蓄を抱えたローレンは、以前から好きだった日本へ移り住んだ。


今は就職活動の合間を使って、日本各地を見て回っている。


今日の宿は、水月荘。


だが、チェックインにはまだ早い。


三叉路に立ったローレンは案内板を見上げた。右へ行けば温泉街の中心部。直進すれば水月荘。左は川沿いの遊歩道で、水守神社と白糸滝へ続いている。


少し考えたあと、彼女は左へ向かった。


川沿いの道はきちんと整備されていた。やがて現れた観光案内には、『白糸滝 徒歩十五分』『水守神社 徒歩五分』とある。


その少し脇に、もう一本。


風化した古い木製の標識が立っていた。


――御返し道。


その下にも何か書かれているが、古びた文字は、日本語をかなり使えるローレンにもすぐには読み取れない。柵も通行止めの札もない。ただ、観光用に整備された道から外れ、木々の奥へ細く続いている。


ローレンは数秒だけ眺めた。


そして、入らなかった。


知らない土地で、管理されているのかも分からない細道へ、理由もなく入る必要はない。


まずは近くの水守神社を見て、それから白糸滝へ行けばいい。


水守神社は、石段を二十段ほど上った先にある小さな神社だった。大きな観光名所というほどではないが、拝殿も社務所も手入れされ、何人かの参拝客が境内を歩いている。


ローレンも境内へ入り、周囲を眺めた。


そこで、一人の老婦人が目に留まった。


七十代ほどだろうか。小柄な女性で、参拝を終えたあとも鳥居の向こう――先ほどの御返し道がある方角を何度か気にしている。


「また、あれ……」


小さな呟きが聞こえた。


ローレンは少し迷ってから、自然な調子で声をかけた。


「すみません。少しお聞きしてもいいですか?」


老婦人は振り返った。


話を聞いてみれば、水守神社はその名の通り水に関わる神を祀る社で、そして先ほど見た御返し道には、昔から妙な話があるという。


昨日までなかった物が、道の途中へ置かれていることがある。


椅子。傘。古い鞄。


誰が置いたのかは分からない。


供え物でもない。


そして時には、自分が持っている物とまったく同じ品が現れる。


「同じ種類、ということですか?」


ローレンが尋ねると、老婦人は首を横に振った。


傷も、欠けも、同じなのだという。


本物が家に残っているのに。


ローレンは眉を少し上げた。


盗難。いたずら。精巧な複製。誰かが家へ入り込んで調べた可能性。


いくつか現実的な説明を頭の中で並べてみる。


「日本の忍者って、今もいるんでしょうか」


半分は冗談だった。


老婦人は困ったように笑ったが、そのあとで表情を曇らせた。


彼女がまだ二十歳にもならない頃、近所に住んでいた年上の少女の父親が山で行方不明になったことがある。


数日後。


その父親が履いていたものとまったく同じ草履が、御返し道に置かれていた。


だが、本物の草履は家にも残っていた。


そして翌朝、娘もいなくなった。


残されていたのは、


『お父さんを迎えに行ってくる』


という書き置きだった。


警察も住民も山を探した。


父親も娘も、見つからなかった。


老婦人の声には、誰かを怖がらせて楽しむような色がなかった。噂として聞いた話と、自分が実際に知っている昔の出来事を分けながら話している。


少なくとも、この人自身は本気で信じている。


ローレンはそう判断した。


「最近も、こういった事例で行方不明になっている人は出ているんですか?」


老婦人によれば、少なくとも近年は、昔のようにそのまま帰ってこない者が続いているわけではないらしい。山で迷って捜索になることはあっても、ここ数年は見つかっている。


最後に老婦人は、御返し道へ行く必要はない、と念を押した。


何か理由ができても、自分で入っていかなければならないわけではない。


「いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」


ローレンは丁寧に礼を言った。


怪異かどうかは分からない。


けれど、触らなくていい物には触らない。入らなくていい山道には入らない。


それで困ることもない。


話を終えた直後、境内の少し離れたところで、若い女性が慌てて鞄の中を探り始めた。


「ない……」


どうやらスマートフォンをなくしたらしい。


ローレンは声をかけ、旧職時代の習慣で持ち歩いている予備の端末を差し出した。


「よかったら、これで電話してみます?」


女性が礼を言い、自分の番号へ発信する。


その直後だった。


川音。風。境内を歩く人々の声。


その向こうに、ごく小さな電子音が混じった。


ローレンは顔を上げた。


着信音。


鳥居の外。


川沿いの分岐の方向。


白糸滝側ではない。


先ほど見た、御返し道の側だった。


しかも女性が立っていたおみくじ掛けの近くには、乾いた石畳の上へ、スマートフォンほどの長方形をした濡れ跡が残っていた。そこから小さな水滴が、鳥居の外へ点々と続いている。


偶然にしては、少し出来すぎている。


ローレンは女性へ、ひとりで探しに行かないよう勧めた。宿へ戻り、宿の人や警察へ相談した方がいい。


女性も不安そうにしながら頷いた。


その後、ローレンは神社の関係者からも御返し道について話を聞いた。


古い呼び名には『返守道』というものがあり、かつて山へ入ろうとする者を止める『返守』に関する記録も残っているらしい。ただし、今の御返し道と昔の返守道が同じものなのかまでは分からない。


分からないものを、分かったことにはしない。


ローレンはそうした話を頭の片隅へ置きながら、水守神社をあとにした。


その後に訪れた白糸滝は、拍子抜けするほど普通だった。


水音は涼しく、観光客もいる。岩場の近くには濡れた布袋が一つ落ちていたが、川や滝のそばなら誰かが落とした物が濡れていても不思議ではない。危険な足場へわざわざ近づく理由もなく、ローレンはそのまま滝を楽しんだ。


観光を終えて向かった宿は、水月荘。


古い木造三階建ての旅館だった。


新しい大型ホテルのような華やかさはない。しかし、長く使い込まれてきた木の色や、玄関を入ったときの空気には、妙な落ち着きがある。


主人と女将の二人で切り盛りしている宿らしく、迎え方もどこか家庭的だった。


ローレンはすぐに、その雰囲気を気に入った。


ただ、宿の夫婦からは夜について少し変わった注意も受けた。


夜中に知っている人の声が聞こえても、部屋から出ないこと。


二度、コン、コンと戸を叩かれても返事をしないこと。


誰の声なのか確かめようとしないこと。


ローレンは詳しい事情を知らなかったが、宿の主人たちが冗談で言っているわけではないことくらいは分かった。


ならば従えばいい。


その夜、ローレンは旧職時代から使っている手袋に金属板を入れ、いざというときすぐ動けるようにして眠った。荷物と布団を少し工夫し、扉から直接寝姿が見えにくい位置を選ぶあたりは、長年の警護習慣だった。


本人は「怖がっていない」とは言わない。


むしろローレンは、自分が怖がりであることをよく知っていた。


ただし、怖いから取り乱すことと、怖くても必要な行動を取ることは別だった。


それが彼女にとってのProfessionalだった。


夜半から雨が降り始めたが、その夜は何事も起こらなかった。


ローレンは朝まで眠り、目を覚ますと何事もなかったように装備を外した。


朝の水月荘は、夜の注意事項など嘘のように穏やかだった。


女将と主人の軽いやり取りに混ざりながら朝食を取り、身だしなみを整えれば、そこにいるのはただの日本旅行を楽しんでいるアメリカ人女性だった。


午前中は温泉街を歩いた。


足湯に入り、店を覗き、土地のものを眺める。


仕事を探すために日本へ来たはずなのに、こうして何も急がず町を歩く時間は思った以上に悪くない。


そして昼前、ローレンは小さな郷土資料館へ足を運んだ。


もともとは軽い興味だった。


水守神社で聞いた「返守道」という古い名が、少し気になっていたからだ。


資料を追ううちに、その軽い興味はいつしか本格的な調査へ変わっていった。


古い地図に描かれた返守道は、炭焼き場や水源などへ向かう実用的な山道だった。現在の御返し道と入口付近は近いものの、途中から向かう方向が違う。単なる付け替えや延長ではない。


しかも古い返守道が使われなくなったあと、しばらくの間、現在の御返し道にあたる小径は地図にも写真にも存在しない。


それが、ある時期から突然現れる。


建設記録もないままに。


さらに資料をめくると、「返守」という言葉そのものが、道の名前だけではなかったことが分かった。


古い聞き書きの老人は言っている。


――あの道は、山へ行く道じゃない。山から返す道だった。


聞き手が山仕事から帰る道なのかと尋ねると、老人は否定した。


――行く者を返すんだ。


そして別の資料には「返守番」という記述まであった。


霧が深い日。夕刻以降。あるいは何らかの条件が重なった日。


返守番が置かれ、山へ入ろうとする者を止める。


しかし返守は、単なる見張り役ではなかったらしい。


誰でもなれるものではない。


山を知っているだけでも駄目だった。


――返されたことのある者だ。


その言葉が、ローレンの興味をさらに引いた。


古い記録を追えば、「返された」という表現には普通の帰還とは違う意味があるようだった。


ある若い山仕事の男は、予定よりずっと遅れて一人で戻った。それなのに本人は「まだ日も暮れていないと思っていた」と語った。


記録には、彼は「道に返された」とある。


後にその男は返守を務めた。


一方で、山へ入ろうとした若者を返守が止めた記録では、「返守、これを返す」と書かれている。


ローレンはメモに簡単な図を書いた。


『人→山:返守が返す』


『山→人:道が返す』


その横に、少し迷ってから書き足す。


『返守=道の代わり?』


ところが、現在の御返し道をそこへ当てはめようとすると、どうにも綺麗に収まらない。


最後期の返守だった老人は、現在の道についてはっきり言っていた。


――あれは返守道じゃない。


――わしらの道ではない。


では、現在の御返し道は何なのか。


さらに古い記録を探すと、奇妙な共通点が見つかった。


昔、山で行方が分からなくなった者が戻ってきた場所に、それまで存在しなかった細い踏み跡が現れたことがある。


別の例では、二人で山へ入り、一人が先に帰った。もう一人は翌日、違う場所から戻った。本人に長時間行方不明だった自覚は薄い。その帰還地点にも、後から小径のような跡が現れた。


しばらくすると消える。


現在の御返し道と違うのは、そこだった。


昔の小径は一時的だった。


今の御返し道は、見えたり見えなくなったりしながらも、何十年も同じ一帯に繰り返し現れている。


しかも行政が封鎖しようと入口を確認すると、道そのものが見つからないことがあった。


柵を設置しようとしても、対象となる分岐が確認できない。


ところが一般の観光写真には写っていたり、失せ物や人を探していた者が偶然見つけていたりする。


中には「いつもの口ではなかった」という証言まである。


ローレンは、資料館の紙へ書き込むような真似はせず、自分のメモ帳へ簡単な見取り図を写した。


そして、その横へ一言。


『本当に入口は一つ?』


調べれば調べるほど、答えより疑問が増えていく。


だが、それが面白かった。


最初に現在の御返し道が現れたとされる時期には、一人の男が行方不明になっている。


数日後、男は無事に戻った。


本人は「昨日からずっと歩いていた」程度の感覚しかない。


捜索した者は、彼が戻った場所について「道なんかなかった」と証言している。


ところが数日後、そこに細い道ができていた。


最初から「御返し道」と呼ばれていたわけではない。


「返ってきたところの道」――やがて「返しの道」――そして後に「御返し道」。


人が返ってきた。


そのあとで、道が現れた。


ローレンはしばらく記録を見つめ、それから小さく呟いた。


「……面白いですね、これ」


結局、資料館ではかなりの時間を使った。


それでも旅行を調査だけで潰すつもりはない。


昼になれば資料を閉じ、土地の料理を食べ、温泉街を歩いた。土産物屋では霧ヶ沢の山を意匠化した小さな木製の飾りを買った。


そんなふうに観光へ戻ったところで、ローレンは鞄の中にわずかな違和感を覚えた。


配置が、少しだけおかしい。


確認する。


水月荘の部屋の鍵がない。


「……Oh」


資料館へ戻った。


受付に尋ねたが、鍵の届け出はない。


自分が座っていた場所。机の下。椅子の隙間。資料棚の近く。歩いた経路。


細かく探したが見つからない。


昼食を取った場所、土産物屋、足湯。その日立ち寄った場所を一つずつ辿り直し、店員にも尋ねた。


それでも見つからなかった。


ローレンは諦め、水月荘へ戻った。


「ごめんなさい。観光が楽しすぎて、鍵をなくしてしまったみたいです」


女将へ頭を下げ、弁償するつもりだと伝える。


そのときだった。


女将の視線が、玄関脇の小さな飾り棚で止まった。


「あれ……?」


そこに、鍵があった。


水月荘の部屋番号が付いた木札。


ローレンが持っていたものと同じ形。


木札の角の小さな欠けも、金属部分の細かな傷も、覚えている限り一致している。


そして鍵は、濡れていた。


棚の表面にも小さな水滴が残っている。


外は雨ではない。


女将も、少し前までそこにそんな鍵があった記憶はないという。


「触らないでください」


女将が先に言った。


ローレンは鍵を見つめ、それから小さく息を吐く。


「本物の鍵はなくしちゃったみたいですので、弁償させていただきます」


目の前にあるものを、自分の鍵として扱う気はなかった。


主人も呼んでもらった。


やって来た主人へ、ローレンは黙って鍵を指さした。


「あんなん連れ込んで、ごめんなさい」


主人は苦い顔をしたが、ローレンが原因だと決まったわけではないと言う。


いつ見つけたのか。触ったか。途中の記憶に抜けはないか。


一つずつ確認した。


ローレンの記憶は途切れていない。


資料館で鞄を開け閉めしたことも覚えている。途中で宿へ戻った記憶もない。鍵を棚へ置いた覚えなど当然なかった。


朝には足湯にも入った。


もしそこで落とし、親切な誰かが拾って宿まで届けた――そう考えること自体はできる。


しかし、それなら黙って玄関の飾り棚へ置くより、主人か女将へ渡すだろう。


しかも午後まで濡れたままというのも変だった。


「もしこれが本当にJapanese Mysteryでしたら、触らないほうがいいですね」


ローレンはそう結論づけた。


二人にも絶対に触らないよう伝える。


寝ぼけていても駄目。


自分も触らない。


話はそこで終わらなかった。


夕方には、もう一組の宿泊客が来る予定だという。


知らない客が玄関に鍵を見つければ、落とし物だと思って触るかもしれない。


主人と女将は、到着した客にも先に注意することにした。


ローレンもその時間までに戻り、必要なら玄関付近にいると申し出た。


「私が睨んでおきます」


「それ、鍵よりローレンさんのほうが怖がられません?」


女将にそう言われ、ローレンは楽しそうに笑った。


「触られないなら成功です」


その後、鍵の弁償についてもきちんと話をつけた。


百万円までは払えます、と冗談を言えば、女将にそんなに取らないと笑われる。


普通の交換費用を支払い、主人から予備の鍵を受け取った。


今度は鞄ではなく、いつでも確認できるポケットへ入れる。


濡れた鍵は、そのまま玄関に残された。


ローレンは、温泉旅行をそこで終わらせるつもりはなかった。


近くにある松風館では日帰り入浴ができることがあるらしい。


女将がわざわざ電話をして確認してくれた。


「今日なら大丈夫みたいですよ。今はそんなに混んでいないそうです」


「ありがとうございます」


ローレンは素直に喜ぶ。


他の宿へ風呂に入りに行って失礼ではないかと尋ねたが、二人は笑って送り出してくれた。


温泉地では、宿ごとの風呂を楽しむのも旅の一部なのだという。


出かける前には、主人へまた余計な冗談も言った。


「Driving techniqueでしたら、私かなりの腕前ですよ」


以前の仕事で運転も担当していたという話から、もし夫婦で運転手が必要なら雇ってください、と続ける。


「刺激的なDriveをお約束します」


女将は景色の良いドライブのことだと思って笑ったが、主人の顔だけが微妙に引きつった。


ローレンはさらに「私は高いですよ。ちゃんとした額を提示してくださいね」と笑い、松風館へ向かった。


道中、ポケットの鍵は何度か指先で確認した。


今度は、ちゃんとある。


松風館は水月荘より少し大きく、建物も新しい。従業員も複数いる。


受付では、水月荘から日帰り入浴の連絡が来ていることも伝わっていた。


そこでローレンは、一つだけ気になっていたことを尋ねた。


「Hi。少しお聞きしてもいいですか?」


昨日、水守神社で会った若い女性。


スマートフォンをなくし、自分のダミー端末を借りて電話をかけた女性が、松風館に泊まっている可能性が高かった。


個人情報を聞くつもりはない。


ただ、無事かどうかだけ知りたかった。


受付の女性は名前や部屋番号、行動予定は答えられないとしたうえで、前日にスマートフォンをなくしたと申し出た宿泊客がいることは認めた。


まだ見つかったという報告はない。


ローレンは、自分が神社で偶然会ったことを説明した。


そして何気ない調子で言う。


「その様子だと、別にその方自身が携帯を探すために御返し道のほうへ行ってないみたいで、良かったです」


受付の女性の表情が、一瞬だけ固まった。


御返し道という言葉を知らない反応ではない。


むしろ知っているからこその緊張だった。


どこでその話を聞いたのかと尋ねられ、ローレンは神社の老人と水守神社から聞いたと答えた。


受付は、それなら大丈夫だと思うと言った。


女性が宿へ戻ったあと、松風館側からも注意していたらしい。


もし携帯が山や御返し道の近くにあると思っても、自分で取りに行かないこと。警察や宿へ相談すること。


その話を聞き、ローレンはようやく安心した。


「それなら良かったです。ちょっと心配だったんですよ」


それ以上、彼女を探す必要はない。


目的だった温泉へ向かった。


松風館の浴場は、水月荘とはまた違っていた。


広い内湯と露天風呂。


湯気の向こうに山の緑が見える。


ローレンは身体を洗い、ゆっくり肩まで浸かった。


午前から資料を読み続け、午後には鍵を探して町を歩き回った。


湯に入ると、その疲れがほどけていく。


「……これはこれで、いいですね」


今度こそ、純粋な温泉旅行だった。


長湯しすぎない程度に楽しみ、身支度を整える。


ポケットへ触れる。


予備の鍵は、まだそこにある。


松風館を出たあと、ローレンはすぐ水月荘へ戻らず、少し離れたところから宿の全体を眺めた。


古い木造三階建て。


近くで見るより、離れて見たほうが建物全体の形がよく分かる。


二階奥には、使われていない区画があると聞いている。


「あれだけ広いのに、全部封鎖してるのはもったいないですね」


少し惜しそうに呟く。


「まあ、危ないんでしたら使い物にはならないですけど」


それ以上は考えず、水月荘へ戻った。


「ただいま戻りました」


女将と主人は、もう一組の宿泊客を迎える準備をしていた。


松風館の風呂はどうだったかと聞かれ、ローレンは嬉しそうに答える。


「ここにはこことはまた違う良さがありましたよ。日本のお風呂は、本当にいろいろな雰囲気を楽しめるから面白いですね」


女将も主人も笑った。


ローレンはいったん部屋へ荷物を置き、一階の共用スペースへ戻った。


メモ帳を開き、今日集めた資料を読み返す。


鞄から殻付きのクルミを取り出した。


親指と人差し指で挟み――。


パキッ。


中身を取り出して、ぽりぽり食べる。


もう一つ。


パキッ。


女将がちらちらこちらを見る。


ローレンは気づいて顔を上げた。


「クルミ、いります?」


「えっ。あ、いただいてもいいんですか?」


「もちろん」


女将は受け取ったあと、ローレンの指とクルミを見比べた。


「……これ、どうやって食べたらいいです?」


「あ、ごめんなさい」


ローレンは受け取って、指二本で軽く力を入れる。


パチッ。


殻に亀裂を入れて返した。


「はい、どうぞ」


女将が黙る。


主人までこちらを見る。


「アメリカの秘書さんって、みんなこうなのかしら」


「たぶんローレンさんだけだと思うよ」


主人の言葉に、ローレンはいたずらっぽく笑った。


「女将さん、大丈夫ですよ。ご主人もたぶんできますから」


当然のように主人へクルミが渡される。


力を込めても割れない。


「……これ、本当にストレス解消になります?」


「ん?」


ローレンは本当に少し分からないという顔をした。


「じゃあ、私の顔を見ててくださいね」


今度は人差し指と中指の間にクルミを挟む。


ゆっくり力を込める。


ミシ……。


ピシッ。


パチッ。


殻が割れた瞬間、ローレンは満足そうに息を吐いた。


「……ふぅー……」


ものすごくいい顔をしている。


女将が吹き出した。


「すごく満足そう!」


「まあ、実際これがストレス解消になるのは本当ですよ」


ローレンは割れたクルミをつまみながら、昔を思い出すように笑う。


「ボスから言われたことに腹が立ったときとか、ボスの目の前でこれをやると何も言わなくなってくれますからね」


「それ、ストレス解消というより威圧じゃないですか?」


「ボスも男の子ですからね」


そう言って、ローレンはクルミを二個手に取った。


男性なら思わず身構えそうな腰より下の位置へ持っていき、ゆっくり握り込む。


ミシ……バキッ。


「嫌なことを言われたときは、これが一番でした。ボス、よく青ざめた顔をしてトイレのほうへ逃げていきましたからね」


主人が反射的に膝を寄せた。


女将が大笑いする。


「女将さんも、もしご主人に嫌なこと言われたりしたら、私に電話してくださいね」


「え?」


「ご主人のクルミ割りに駆けつけますから」


主人の顔が引きつった。


笑い声が共用スペースに広がる。


ローレンも一緒に笑っていたが、やがて少しだけ表情を和らげた。


「……やっぱり、いいですね。この雰囲気」


主人と女将が彼女を見る。


「記事を読んで気になって、ここまで来た甲斐がありました」


心からの言葉だった。


時刻を確認すると、もう一組の宿泊客が到着する頃だった。


ローレンはクルミの袋を机に置き、一個だけ指先に転がしながらメモを読む。


「ここまでお話に付き合ってくださって、ありがとうございました。お仕事、頑張ってくださいね」


主人と女将は笑って玄関へ向かった。


ほどなくして、三十代ほどの男女二人組が到着した。


夫婦か恋人かは分からないが、親しい間柄には見える。


ローレンはメモを見ているようにしながら、二人の動きと玄関の濡れた鍵を注意深く見ていた。


一度、客の視線が鍵へ向く。


女将が先に声をかけた。


「すみません。そちらの鍵には触らないようお願いしますね」


二人は不思議そうにしたものの、素直に従った。


その後、鍵に執着する様子はなかった。


ローレンは少し安心し、メモへ戻った。


古い返守道。


山へ行こうとする者を返す返守。


山へ入ったあと、時間感覚を食い違わせながら戻ってくる「道に返された」者。


人が返された場所に後から現れる細い道。


そして現在の御返し道。


水月荘については、主人たちから聞いた夜の注意事項しか知らない。自分自身は何も経験していない。


だから、そこを御返し道と結びつける理由はなかった。


別々に整理する。


そうして考え直しても、やはり現在の御返し道の正体は分からない。


ただ、古い返守道と同じものではないこと。


「返す」という現象そのものは、現在の御返し道より以前から存在しているらしいこと。


そして、人が「返された」場所に道が現れるという古い記録と、現在の道には似た部分があること。


そこまでは整理できた。


「……まあ、実害が出てないのであれば、本当にどうでもいいんですけどね」


ローレンはぽつりと呟いた。


答えが気になるからといって、自分から危険へ飛び込む理由にはならない。


その後は共用スペースでのんびり過ごした。


クルミをしまい、今度は鞄からかなり負荷の強いハンドグリップを取り出す。


ぎゅっ。


ゆっくり閉じる。


戻して、また握る。


館内から聞こえるのは普通の旅館の音だけだった。


主人と女将が働く足音。


戸の開閉。


先ほどの二人客の話し声。


妙なノックも、呼び声もない。


濡れた鍵にも変化はなかった。


「……平和ですね」


ローレンはそれで十分だった。


夕方が進み、やがて二人の客が階段を下りてくる音がした。


ローレンはハンドグリップをしまい、再びクルミを一つ指の間に挟む。


必要ならいつでも注意を向けられるように。


だが二人は玄関の鍵を気にすることなく、夕食の席へ向かった。


出番はない。


ローレンもクルミを片づけ、女将に呼ばれて夕食へ向かった。


山菜の小鉢、川魚の焼き物、煮物、汁物、炊きたてのご飯。


水月荘らしい、派手ではないが温かみのある食事だった。


「はい。昨日と同じく、とっても美味しいです。奥様は本当にお料理上手ですね」


主人にそう言うと、女将にも聞こえていたらしく、少し照れたように笑った。


今日もローレンのために何を作るか考えていた、と主人が余計なことまで話す。


「あなた、余計なこと言わなくていいの」


夫婦のやり取りに、ローレンは嬉しそうに笑った。


「私のことをそんなに考えてくださって、本当に嬉しいです」


そして、少しだけ声を通す。


「ここは温泉もすごく良かったですし、ご夫婦もあったかくて、すごく居心地がいいです」


近くの二人客にも聞こえた。


女性客が笑う。


「でも、分かります。ここ、なんか落ち着きますよね」


男性も頷いた。


そこから、自然に旅行者同士の会話が始まった。


二人は大阪から来たらしい。


ローレンがアメリカ出身で、今は日本に住んでいると話すと驚かれた。


「旅行で日本に来て、そのまま温泉巡りしてるのかと思いました」


「いえ。アメリカでやっていた仕事がなくなってしまいましたので。せっかくだったら、大好きな日本に住んでみようと思って、移住してきた感じですね」


前の仕事が一区切りつき、日本へ移った。


それだけを明るく話す。


さらに、今日松風館へ日帰り入浴に行ったことを話した。


「水月荘のお二人が、とても親切にしてくださって。普通、泊まっている旅館で『ほかの旅館の温泉にも入りたいです』なんて言ったら、少しくらい渋い顔をされると思うんですけど」


主人と女将を見る。


「ここのお二人は、それすら快く笑って送り出してくださって。しかも、その温泉宿にわざわざ電話までして、日帰り入浴できるか確認してくださったんですよ。私、とっても感動しちゃいました」


主人は照れたように笑った。


「ローレンさん、うちの宣伝までしてくれてますね」


「宣伝?」


ローレンは不思議そうに首を傾げたあと、笑った。


「宣伝じゃないですよ。私はただ、今の素直な感想をちゃんと言ってるだけです。これが本当に宣伝でしたら、お金取りますよ?」


食卓に笑いが起こった。


それからローレンは、二人が翌日どこへ観光するのかを尋ねた。


水守神社と白糸滝。温泉街。時間があれば別の湯にも入りたいという。


そこでローレンは笑顔のまま、少しだけ注意を加えた。


「でしたら、水守神社の辺りで、万が一何か変なものが置かれていても、絶対に手に取っちゃ駄目ですよ」


二人がきょとんとする。


「あと、道案内に変な表示があっても、興味本位でそちらへ入るような真似は絶対にしちゃ駄目ですからね」


危険な怪談として語るつもりはない。


知らない小道へ入ると戻るのに時間がかかることがある。山で遭難するかもしれない。


置かれている物も、もしかすると供え物かもしれない。勝手に拾えば神社に叱られるかもしれない。


そんなふうに、旅行者が受け入れやすい現実的な注意として伝えた。


「日本人の方は礼儀正しいですから、お供え物なんて触らないと思うんですけどね」


冗談めかして締めれば、二人も笑って頷いた。


さらにローレンは、自分が今日大切な物をなくしたことも話した。


「もし何かなくなったとしても、自分たちだけで探し回る前に、ちゃんと警察へ相談したほうがいいみたいですよ」


水守神社でも、自分一人で山へ探しに行かず、警察や地元の人間を頼るようにと言われた。


「ここのお二人を見ていれば分かると思いますけど、ここの人たちは、とっても温かい人たちですから。困ったことがあったら、きっといろいろ力になってくださると思いますよ」


二人は素直に頷いた。


ローレンはその表情を注意深く見た。


好奇心から御返し道へ入りたがっている様子はない。


忠告も、旅行上の注意としてきちんと受け止めている。


それを確認すると、ローレンはようやく気を抜いた。


「いきなり変なことばっかりお伝えしちゃって、ごめんなさいね」


そして話題を観光へ戻す。


「私も今日、いろいろ観光させていただいたんですけど、すごく楽しかったんですよ。もし何か聞きたいことがあれば、簡単なことくらいでしたらお伝えできますので」


白糸滝の話。


水守神社の雰囲気。


足湯や店の話。


女将も時折地元の情報を足し、夕食はすっかり旅行談義になった。


やがて、女性客がふと思い出したように玄関のほうを見る。


「そういえば、さっき玄関にあった鍵、触らないでくださいって言われたじゃないですか。あれって、何か理由があるんですか?」


主人と女将が一瞬だけ顔を見合わせた。


その前に、ローレンが口を開いた。


「あの鍵なんですけど――実はですね」


少しだけ意味深そうに声を落とす。


「あれ、どこぞの悪いやつが使って、ちょっと悪さをしようとしてたみたいなんですよ」


二人が耳を傾ける。


そこから先は、完全な即興だった。


あの鍵は宿の鍵を真似て作ったレプリカ。


悪質な動画投稿者たちが宿へ忍び込み、宿泊客へドッキリを仕掛け、その驚いた顔を勝手に動画へ流して収益を狙おうとしていた。


警察が今日その鍵を届けた。


濡れているのも悪ふざけの小細工。


証拠品のようなものだから、指紋を残さないよう触らないほうがいい。


「興味本位で触っちゃったら、あとで警察の人たちに『お前たちも仲間だったのか?』って言われちゃうかもしれませんからね」


ローレンはにこやかに笑う。


「寝ぼけて触るのも絶対NGですからね」


二人は完全に嫌そうな顔をした。


「そこまで言われたら、むしろ近づきたくないですね」


「そうです、そうです。せっかくの仲良しカップルでの観光なんですから。このまま、いい思い出で終わらせましょう」


ローレンが笑う。


二人も笑った。


主人と女将は、その横で表情を崩さないようにするのに少し苦労していた。


それでも、結果として二人が鍵へ近づく理由はなくなった。


夕食はそのまま穏やかに続いた。


御返し道の正体も、濡れた鍵の理由も、まだ分からない。


けれど今夜、水月荘の食卓にあるのは、温かい料理と笑い声だった。


少なくとも今のところは――それで十分だった。


夕食が終わったあとも、共用スペースにはしばらく人の気配が残っていた。


ローレンもすぐには部屋へ戻らず、椅子に腰を下ろしたまま、今日一日のことをぼんやり思い返していた。


御返し道。返守道。資料館の記録。なくなった鍵。そして玄関に現れた、同じ傷を持つ濡れた鍵。


分からないことは多い。


けれど、分からないからといって、全部を自分で確かめなければならないわけでもない。


今のところ、誰かが御返し道へ入ったわけではない。松風館の女性も宿へ戻っている。新しく来た二人も、忠告を聞いてくれた。


なら、今日はそれでいい。


長く座っていたせいか、腰回りが少し固まった気がした。


ローレンは立ち上がり、軽く身体を伸ばす。


腕を上へ。肩を回す。背中を伸ばす。


そこまでは、普通だった。


続いて片脚を持ち上げ、そのまま真っ直ぐ上へ伸ばした。


床についた片脚はぶれない。背筋もほとんど傾かない。上げた脚は頭の横を通り越し、ほとんど天井へ向かって一直線になっている。


いわゆるIバランスだった。


本人にとっては、長時間座ったあとに身体をほぐす程度の感覚だったのだろう。


数秒して。


視線を感じた。


「……あ」


ローレンの動きが止まる。


女将が見ている。


先ほどの女性客も見ている。


そして、その近くには男性陣もいた。


ローレンはゆっくり脚を下ろした。


「ごめんなさい」


さっきまで平然としていた顔に、珍しく分かりやすい照れが浮かんだ。


「ちょっと座りっぱなしだったので、いつもの癖で……」


パンツスタイルだから大丈夫だと思っていた。そう説明しながらも、さすがに人前でやる姿勢ではなかったかもしれない、と今さら気づいたらしい。


特に男性陣へ向けて、少し困ったように笑う。


下半身のあたりはあまり見ないでくださいね、と念を押した。


女性客と女将は笑っていたが、ローレン本人はまだ少し恥ずかしそうだった。


その気まずさをごまかすように、机の上のクルミへ手を伸ばす。


一個。


二個。


三個。


まとめて片手の中へ入れた。


ぎゅっ。


ミシミシッ――バキッ。


三つの殻がまとめて割れた。


共用スペースが一瞬静かになる。


ローレンは自分の手の中を見て、それから周囲を見た。


「……取り乱しました」


何事もなかったように微笑む。


今度は女将が堪えきれず吹き出した。


そこから先は、また普通の夜だった。


宿泊客同士で少し話し、主人と女将のやり取りに笑い、時間が来ればそれぞれの部屋へ戻る。


玄関の濡れた鍵には、誰も触れなかった。


ローレンも触れない。


夜になれば、水月荘で教えられた注意を守った。


知っている人の声が聞こえても外へ出ない。


二度のノックには返事をしない。


誰の声なのか確かめようとしない。


ただ、その夜も、ローレン自身がそれらを経験することはなかった。


雨夜の声も、二度のノックもない。


何かが扉の外を歩き回ることもなかった。


警戒する準備だけはしていたが、使う機会はないまま夜は過ぎていった。


翌朝。


目を覚ましたローレンが最初に聞いたのは、怪異の声ではなく、旅館の中を動く人の生活音だった。


身支度を整え、部屋を出る。


朝の水月荘は穏やかだった。


昨日までと同じように主人と女将がいて、宿泊客がいて、朝食の匂いがする。


結局、今回の旅行でローレンが御返し道へ足を踏み入れることはなかった。


山の奥に何があるのか。


なぜ、なくした物と同じものが濡れて現れるのか。


古い返守道と現在の御返し道に、どこまで関係があるのか。


答えは出ていない。


それでも、答えを出すためだけに危険な場所へ入る必要はない。


ローレンにとっては、それでよかった。


朝食を終え、荷物をまとめる。


チェックアウトの時間になると、彼女は主人と女将へ改めて礼を言った。


温泉も、料理も、宿の雰囲気も気に入った。


何より、この夫婦の空気が好きだった。


少々妙な鍵まで連れ込んでしまった旅行ではあったが、それを差し引いても、ここへ来たことを後悔する理由はない。


玄関を出る前、ローレンは二人へ笑顔を向けた。


また機会があれば来たい。


そんな言葉を残し、旅行鞄を手に取る。


霧ヶ沢温泉の朝の空気は涼しかった。


振り返れば、古い木造の水月荘がいつも通りそこにある。


怖い話を聞いた。


妙なものも見た。


結局、分からないものは分からないままだった。


それでも旅行そのものは楽しかった。


ローレンは温泉街を歩き出す。


怪異の正体を暴くためではなく、ただ日本を楽しむために来た旅行者として。


そして今度こそ、何もなくさないように。


ポケットの中身を一度確認してから。

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