探し物はなんですか?
九月に入ったばかりの、まだ夏の暑さが残る日のことだった。
草壁金目は、仕事ではなく純粋な買い物のために家を出ていた。
財布とスマートフォン、折り畳み傘。それから、ちなつの写真と、黒いレコードジャケットに収まったビート君。
夕食の材料を買い込み、そろそろ家へ戻ろうとしていたところだった。
古びた五階建てのマンションの向かい側に、小学生くらいの女の子が一人で立っている。
何となく気になって声をかけたところ、その少女――美咲から聞かされた話は、買い物帰りに聞くには少々重すぎるものだった。
母親が、昨日マンションへ入ったきり帰ってこない。
その前には、母親の妹である叔母も同じマンションへ入り、そのまま行方が分からなくなっている。
しかも、二人を探すために入った警察官まで戻ってきていないという。
もちろん、金目が一人でどうにかしようなどと思うはずもなかった。
近くに警察車両を見つけ、美咲をそこまで連れていく。
現場には私服姿の男女二人の警察官がおり、女性警察官は美咲の顔を知っていた。
父親は仕事中だが、すでに連絡は取っており、戻るまで警察側で美咲を保護するという。
「それならよかったです」
それを聞いて、金目はようやく少し安心した。
そこで帰ってしまってもよかった。
本来なら、そうすべきだったのかもしれない。
ただ、美咲から聞いた話の中に、どうしても気になる部分があった。
金目はあくまで一般人に話せる範囲で構わないと前置きしたうえで、二人の警察官へ事情を尋ねた。
最初に消えたのは、美咲の母親の妹。二十代の女性。
次に、その妹を探しに来た美咲の母親。
そして三人目が、二人を捜索するためマンションへ入った警察官だった。
不可解なのは、その消え方だった。
三人ともマンション正面の防犯カメラには、確かに入っていく姿が残っている。
ところが、その先――エレベーターや階段へ向かう内部通路を映す二台目のカメラには、誰一人映っていない。
管理人室にも姿を見せていなかった。
マンションそのものは現在も普通に使われており、住民たちは問題なく出入りしている。
そして三人には、もう一つ共通点があった。
建物へ入った直後、全員が足を止め、郵便受けのそばに置かれた古い部屋案内板を見ていた。
普段、住民がわざわざ見るようなものではない。
特に警察官は、すでに建物の構造を把握したうえで入っていた。それにもかかわらず、案内板の前で立ち止まり、無線へ最後にこう残している。
『あれ、こんな部屋あったか?』
その直後、連絡は途絶えた。
案内板には一階から五階まで、101から104、201から204といった、ごく普通の部屋番号しか書かれていない。
地下住居も存在しない。
警察は管理資料と照合し、板そのものも調べているが、異常は見つかっていなかった。
金目は少し迷ったあと、男性警察官へ尋ねた。
「……その案内板、少しだけ見てもいいですか?」
もちろん、一人では行かない。
警察官に隣についてもらい、異常があれば絶対に建物へ入らない。
そこまで確認したうえで、案内板の前へ立った。
一見すると何もおかしくない。
だが、透明なアクリル板の最下部。
一階の表示よりさらに下、何も書かれていないはずの余白部分に、三つの指先の跡が重なるように残っていた。
「……これ」
ちょうどそのとき、道路を通った車の反射光がアクリル板を斜めから照らした。
一瞬だった。
何もないはずの場所へ、薄い長方形の枠が浮かぶ。
その中には、
――001。
「……え?」
光が消える。
同時に001も消えた。
「今、ここに……001って」
隣にいた警察官も確かめる。
しばらく角度を変えているうちに、彼の目にも同じ文字が浮かんだ。
男は数秒それを見つめ――それから意識的に顔を背けた。
金目が気になったのは、その反応だった。
「……大丈夫ですか?」
思わず近づき、腕へ手を添える。
顔を覗き込まれた警察官は別の意味でも驚いたようだったが、受け答えは正常だった。
「大丈夫です。少し……見入ってたみたいで」
「頭痛とか、気分が悪いとかは?」
「ありません。草壁さんは?」
「私は大丈夫ですよ」
そう答えると、金目はすぐに手を離し、半歩距離を取った。
必要だったから近づいただけで、男性との距離が近い状態を好むわけではない。
警察官はその場で無線を取り、案内板に通常存在しない表示を確認したことを報告した。
ここから先は、警察の仕事だった。
美咲のところへ戻り、頭を軽く撫でる。
「警察の方がちゃんと調べてくれますから。ここで一緒にいてくださいね」
そして警察へ名刺を渡した。
フリーライター、草壁金目。
もちろん今回のことを記事にするつもりはない。
「お母さん、早く見つかるといいですね」
そう言い残し、金目はその場を離れた。
◇
帰り道。
人通りを確認しながら、金目は小さな声でちなつとビート君へ話しかけた。
「ちなつちゃんも、見えましたよね?」
『うん。001って見えたよ』
「ビート君は?」
黒いジャケットに文字が浮かぶ。
『001だけ。』
続けて、
『002は見えなかった。』
「……地下の部屋だったりするんでしょうかね。101からなら、地下は001とか」
自分で言ってから、すぐ首を振る。
「まあ、これ以上考えても仕方ないですね。私、探偵さんじゃありませんし」
警察が本格的に動いている以上、民間人が首を突っ込む理由はない。
「帰りましょう。そろそろ帰らないと、金鶴ちゃんに怒られます」
◇
家では千鶴と金鶴が待っていた。
金目は夕食を作りながら、今日あったことを説明する。
当然、二人から返ってきた意見も同じだった。
もう警察が調べている。
それなら、わざわざ戻る必要はない。
金目自身も異論はなかった。
そして、その後の数日間は本当に何も起こらなかった。
普通の依頼を受け、取材内容を整理し、原稿を書く。
食事を作り、皆で過ごす。
001のことを気にし続けるようなこともなかった。
五日目の午後。
以前現場で話した男性警察官から、一本の電話が入った。
『草壁さん。確認したいことがありまして』
「はい?」
『あの案内板なんですが……今朝、表示が変わりました』
001はそのまま残っている。
その下に、新しい番号が現れた。
002。
そして、その横に。
『草壁金目』
「…………私ですか?」
『はい。いただいた名刺と漢字まで一致しています』
金目の表情から、少しずつ笑みが消えた。
三人の行方は、まだ分かっていない。
警察はマンションの共用部、空室、機械室、倉庫、屋上、図面上存在する地下設備まで調べた。
それでも001に該当する部屋は見つかっていない。
『こちらから連絡するまでは、絶対に近づかないでください』
「分かりました」
電話を切ったあと、金目はしばらくスマートフォンを眺めた。
「……なんで私なんでしょう」
◇
皆へ話すと、当然ながら空気は少し重くなった。
001に三人の名前はない。
だが、002には金目の名前がある。
最初に考えたのは単純なものだった。
001を見たから、自分にも何かが割り当てられたのではないか。
しかし、それでは説明できない。
「あの警察官の方も見てますよね」
金目だけではない。
隣にいた男性警察官も001を見ている。
それなのに、その人物の名前は表示されていない。
ちなつとビート君へもう一度当時の様子を尋ねると、二人とも一つだけ思い出した。
男性警察官は、001を見たあと、もう一度そこへ視線を戻しかけていた。
金目自身には、その感覚はなかった。
だからといって、それが超常的な誘導だったとは限らない。
職務上気になっただけかもしれない。
現時点では何も分からない。
そこで金目は、千鶴と金鶴に協力してもらい、安全を確保しながら過去の記録を調べてみることにした。
自分が画面へ異常に見入ったり、突然外へ出ようとしたりした場合は止めてもらう。
金目自身は、あくまで古い記録を探すだけだ。
現在のマンションは築三十年余り。
大規模な建て替えの記録もなく、地下住居が存在した形跡もない。
001という部屋が過去に実在した証拠もなかった。
ところが地域について調べているうちに、十年以上前の古い掲示板が見つかった。
『まだ見つからないなら、あの辺の“見つかる部屋”の話でも試してみれば?』
『探してるものがある人しか見つけられないってやつでしょ』
『見つかったらちゃんと迎えに行かないと駄目なんじゃなかった?』
さらに、
『場所を聞いて行くんじゃない。探してたら見つかる』
『部屋を探すんじゃなくて、なくしたものを探す。そうしたら部屋のほうが見つかる』
『見つけても、自分で取りに行かなきゃ意味ない』
『物だけじゃないらしい』
人でも。
その問いに対する答えは残っていなかった。
別の古い個人サイトには『探し部屋』という名前が記録されていた。
見る人によって部屋番号が違うという話。
中には探しているものがある。
見つけたなら、自分で迎えに行かなければならない。
そして奇妙な追記。
『何も探していないのに部屋を見た者もいる。その場合は、部屋のほうがその人を探す』
そこからさらに古い資料を辿っていく。
呼び名は『迎え部屋』。
『欲しいものを見つけたら、迎えに行く。だから迎え部屋』
『空の人が先に部屋を見つけたら、今度は部屋が迎えに来る』
『名前が出たら、もう向こうは知っとる』
名前が出る場所について聞かれた老人は、
『次の部屋』
と答えていた。
そして迎えが来る。
『戸を開けなきゃええ』
『部屋が来るんやない。戸が来る』
『開けたら迎えに行ったことになる』
戸は、玄関とは限らない。
いつもの扉なのに、その向こうだけがおかしい。
隙間から知らない光が見える。
夜なのに昼間の匂いがする。
風が吹く。
そんな話が複数残っていた。
ただし、戸を開けた瞬間に必ず終わるわけでもないらしい。
『入っただけならまだ帰れる。迎えられたら帰れない』
『戸を開けた男が、中を見てすぐ閉めた。三日ほど同じ戸が何度も現れたが、開けなかったら出なくなった』
『迎えに行った娘を兄が呼び戻した。まだ声が届いていたので帰れた』
断片ばかりだった。
だが、調べれば調べるほど、「誰かを一方的に奪う怪異」というだけでは説明しにくくなっていった。
さらに古い聞き書きには、こうある。
『迎えに行ったら、その人は帰ってくるんですか』
『帰ることもある』
『迎えに行った人は?』
『一緒に帰ればええ』
『代わりに残るんじゃないんですか』
『なんで残る。迎えに行ったんやろ』
一人を返すために一人を差し出す。
そういう話ではないらしい。
では、なぜ帰れない者がいるのか。
『迎えに来たんを忘れるからや』
『欲しかったもん見つけて、それで終わりと思うたら帰れん』
『迎えは連れて帰るまでが迎えや』
「……あ」
そこまで読んだところで、金目の中に一つの仮説が生まれた。
探し物を強く求める者が部屋を見つける。
その中で求めていたものを見つける。
目的を達成したと思い、そのまま留まってしまう。
だから別の誰かが迎えに行き、「帰る」ことを思い出させる。
「もしかして……001が探す人の部屋で、002が迎えに行く人なんでしょうか」
さらに、古い郷土資料の中から『失せ物迎え』という記述まで見つかった。
『失せたものを強く思えば、戸の向こうにそのものを見ることがある』
『見つけたと喜び、そこへ留まる者あり。ゆえに迎えを出す』
そして決定的だった。
『迎えの者は、失せ物を求めぬ者がよい。求むる者は共に留まるゆえ』
『迎えは名を示される。名なき迎えは戸を渡れぬ』
金目は画面を見つめた。
「……入居者じゃなくて、本当にお迎え係だった可能性が高くなってきましたね」
002。
草壁金目。
自分は、あの日何かを探していたわけではない。
ただ警察官と一緒に案内板を調べ、偶然、反射光によって001を見つけただけだった。
さらに記録は続く。
『迎えは戸を開き、留まる者に帰る道を思い出させ、ともに戸を越えるべし』
『失せ物に心を奪われてはならぬ。迎えまで留まれば、次の迎えを要す』
『迎えは一人とは限らぬ。ただし、戸に名のある者を先とせよ』
確定ではない。
だが、これまでの情報はかなり一本の線へまとまり始めていた。
◇
問題は、三人が何を探していたかだった。
最初に消えた美咲の叔母は、電話で、
『見つけた』
と言っている。
何を見つけたのか。
金目は警察へ連絡し、美咲から叔母についてもう少し話を聞けないか頼んだ。
やがて分かったのは、叔母――高瀬美由紀が、子供のころからずっと探していた人物がいたことだった。
幼いころの友達。
ある日、何の挨拶もなく突然いなくなった女の子。
学校では引っ越したのだと説明された。
それでも美由紀は納得できなかった。
『だって、ちゃんとさよならしてないから』
そう言っていたという。
昔の写真も残っていた。
そこから名前が判明する。
相沢ひより。
警察が現在の所在を確認したところ――ひよりは生きていた。
金目は警察を通して、自分の電話番号をひよりへ伝えてもらった。
連絡するかどうかは、本人に任せる。
そして数日後。
知らない番号から電話が入った。
『もしもし……草壁さんでしょうか』
「はい」
『相沢ひよりです。警察の方から、お電話番号をいただいて』
金目は事情を説明した。
昔の友人が現在行方不明になっていること。
その人物が、ひよりのことを長いあいだ気にしていたらしいこと。
そこで初めて、ひよりの口から友人の名前も確認できた。
『高瀬美由紀ちゃん……ですよね』
「はい」
『みゆちゃん……』
ひよりが何も言わず消えた理由は、怪異でも事件でもなかった。
父親の仕事による突然の引っ越し。
本当は最後の日に学校で伝えるつもりだった。
しかし、その日に登校できなくなり、そのまま遠くへ移ることになってしまった。
当時は子供同士。
携帯電話もない。
家の電話番号も住所も分からない。
手紙を出そうと思ったころには、どうすればいいのかも分からなくなっていた。
嫌いになったわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、伝えられなかった。
金目は、ひよりへ一つお願いをした。
「もしよろしければ、美由紀さんへの言葉を録音させていただけませんか」
何に使えるのかは分からない。
それでも、もし会うことができたなら。
彼女へ聞かせられるものを用意しておきたかった。
ひよりは了承した。
金目は録音機を置き、スマートフォンをスピーカーへ切り替える。
自分は何も言わず、録音を開始した。
『……みゆちゃん』
長い年月を越えて、かつての友人へ声が向けられる。
『久しぶり……って言っていいのかな。たぶん、すごく久しぶりだよね』
『私ね、あのとき、何も言わずにいなくなりたかったわけじゃないんだよ』
『ちゃんと、みゆちゃんに言いたかった。引っ越すことになったって。今までありがとうって。また会おうねって』
『でも、言えなかった』
『最後に学校へ行けると思ってた日に行けなくなって、そのまま引っ越すことになっちゃって……。連絡する方法も分からなくて。子供だったから、どうしたらいいのかも分からなくて』
『ごめんね』
ひよりは、ずっと探し続けていた美由紀へ、一つずつ言葉を届けていく。
『私は元気だよ』
『ちゃんと生きてるよ』
『だから、もう私を探さなくて大丈夫だよ』
『何も言わずにいなくなったんじゃないよ。みゆちゃんのことが嫌になったわけでも、忘れたわけでもないよ』
『あのとき一緒に遊んでくれて、ありがとう』
『友達でいてくれて、ありがとう』
そして最後に。
『さよならじゃなくて、またね』
『みゆちゃん。もう探さなくていいから』
『ちゃんと帰ってね』
『それで……もし、また会えたら』
『今度こそ、いっぱい話そう』
五秒待って、金目は録音を止めた。
「ありがとうございます」
この音声は今回の捜索以外には使わない。
必要がなくなれば削除する。
その約束も交わした。
ひよりは、美由紀が見つかったなら、自分の現在の電話番号を渡して構わないとも言った。
『今度は直接話そうって、伝えてください』
「はい。必ず」
◇
金目はさらに警察へ相談した。
美由紀だけではない。
美咲の母親は、美由紀を探してマンションへ入った。
警察官は、美咲の母親を探して入った。
ならば、それぞれに「帰る」ことを思い出させるものがあった方がいい。
美咲から母親への短い声。
家族の写真。
行方不明になった警察官にも、本人にとって大切な人物からの声と写真。
警察は奇妙な申し出を頭から否定しなかった。
001と002を実際に確認している以上、普通の事件としてだけ考えることも難しくなっていたのだろう。
ただし、金目自身が動くこととは別問題だった。
警察は繰り返し、マンションへ近づかないよう念を押した。
やがて許可の取れた写真や音声が揃い、警察官が金目の家まで届けに来た。
そのときも、金目は不用意に玄関を開けなかった。
インターホンの映像。
聞き覚えのある声。
金鶴にも変な気配がないか確認してもらう。
覗き穴から姿を見る。
チェーンを掛けたまま一度扉を開け、警察手帳まで確認したあと、ようやく正式に受け取った。
相沢ひよりと高瀬美由紀の幼いころの写真。
美咲たち家族の写真と、美咲から母親への声。
行方不明になった警察官へ向けられた、大切な人からの写真と音声。
これで準備できるものは、ほとんど揃った。
あとは――迎えの戸が来るのを待つだけ。
そう思っていた。
◇
ところが。
何も起こらなかった。
玄関にも、部屋の扉にも、クローゼットにも。
知らない光は差し込まない。
妙な風も吹かない。
昼と夜の匂いが入れ替わることもない。
「……来ませんね」
金目はソファに座ったまま、ぼんやり呟いた。
金鶴が周囲へ意識を向ける。
「うん。今は何にも感じないよ」
「そうですか」
待つ。
しかし、待つというのは存外難しい。
何か起きていれば対処できる。
調べるものがあれば調べられる。
何もないとなると、本当に何もすることがない。
結果として、金目たちは普通に暮らした。
仕事をして、ご飯を食べて、話をする。
そして話題は当然、怪異とはまったく関係のない方向へ転がっていった。
「もっと広い家には住みたいですよね」
金目が何気なく言う。
「今はさすがに人数増えましたし」
「増えたね」
金鶴が楽しそうに笑う。
「いっそ大金持ちの人と結婚して、大きい家買ってもらいましょうか」
「金目、それ結婚相手の条件がお金になってない?」
「違いますよ。ちゃんといい人が前提です」
千鶴から即座に突っ込まれ、金目は真顔で否定した。
「私だって別にお金だけで結婚しませんよ。ちゃんと私のこと大事にしてくれる人じゃないと嫌です」
少し考えてから付け足す。
「……あと、皆さんも一緒に住んでいい人」
「そこ必須なんだ」
「当たり前じゃないですか」
金目にとっては冗談でも何でもなかった。
「結婚したからって、皆さんと離れて暮らすの嫌ですよ」
千鶴が一瞬黙り、それから小さく笑う。
「じゃあ、かなり条件厳しいね」
「別に今すぐ探してませんから大丈夫です」
「もし、ものすごくいい男の怪異だったら?」
「え?」
そんな話まで出た。
金目は少し考える。
「……ちゃんと話が通じて、勝手に家へ入ってこなくて、変なところに私の名前を書いたりしなくて、私たちを大事にしてくれるなら……」
「そこまでいったら、人間か怪異か関係なくなってない?」
「いい人ならいいんじゃないですか?」
金鶴が笑い、ちなつも写真の中から楽しそうな声を上げる。
ビート君のジャケットには、
『審査項目:多い。』
と出た。
「多くないですよ。普通です」
『再判定:多い。』
「ビート君?」
そんなくだらない会話をしながら過ごす。
別の日には、モデルの話になった。
きっかけは、三人で出かけたらどう見えるだろう、という程度の雑談だった。
「鶴ちゃんは絶対モデルとか向いてそうですよね」
「私?」
「はい。綺麗ですし。大人っぽい服とか似合いそうです」
「金鶴ちゃんは?」
「金鶴ちゃんは可愛い系ですね。明るい服とか、ワンピースとか」
「着たい!」
「ほら」
金鶴は即答だった。
千鶴が金目を見る。
「じゃあ金目は?」
「私は二人の横でサポートしますよ」
「なんで?」
「いや、二人がメインで。私はちょっと後ろとか」
「無理じゃない?」
「なんでですか」
「目立つから」
「いやいや」
金目は笑って手を振った。
「私は顔だけですよ」
黒いジャケットに文字が出る。
『配置案:三人とも前列。』
「ビート君まで」
さらに、
『影役:不適任。』
「なんでですか!」
金鶴が声を上げて笑った。
金目は不満そうにビート君を睨むが、文字が消える気配はなかった。
けれど、そうやって将来の話をしているうちに、金目はふと金鶴へ尋ねた。
「金鶴ちゃんは、何かやってみたいことってあります?」
「やってみたいこと?」
「仕事でも何でもいいですよ。せっかく外に出られるんですし」
金鶴は少し考える。
「まだ、分かんない」
「そうですか」
「でも、いろんなところ行ってみたい。お店とか、ご飯とか。服も見たいし……金目ちゃんと鶴ちゃんと、いろいろやってみたい」
それで十分だった。
「じゃあ、いっぱいやりましょう」
金目は笑った。
「そのうち好きなもの見つかりますよ」
千鶴にも同じことを尋ねる。
彼女も、まだ具体的にこれという仕事が決まっているわけではなかった。
ただ、いつまでも金目に頼りきりではなく、自分でも何かできるようになりたい。
人の話を聞いたり、誰かの役に立ったりする仕事には興味がある。
「それなら、やりたいこと見つかったら言ってくださいね」
「うん」
「私、できることなら協力しますから」
そんな話の中で、ちなつとビート君についても話題になった。
ビート君は、以前とは違うものを知るために金目についてきた。
恐怖や後悔だけではないもの。
今はどうなのか。
「ビート君、楽しいです?」
しばらくして文字が浮かぶ。
『前より、楽しい。』
続いて。
『怖いものだけじゃない。』
『ご飯の時間。』
『みんなの話。』
『笑う声。』
『外の音。』
『今日の話も。』
『残してる。』
金目はしばらくそれを眺め、それから小さく笑った。
「なら、よかったです」
ちなつには、まだ写真の向こうに帰りたい人たちがいる。
金目は以前、それを手伝うと約束していた。
けれど最近は、自分たちが楽しく暮らすことばかり考えて、肝心のことをあまり進められていなかった。
「……ごめんなさいね、ちなつちゃん」
『なんで?』
「私、ちょっと忘れてたわけじゃないんですけど……皆で楽しくすることばっかり考えてました」
『まだ終わってないだけだよ』
ビート君にも、
『未完了。』
少しして、
『失敗ではない。』
と浮かんだ。
「……そうですか」
急ぐ必要はない。
これから取材や旅行でいろいろな場所へ行く。
その途中で手掛かりのある場所へ寄ればいい。
ちなつの用事を手伝って、その土地のものを食べて、皆で景色を見て帰る。
「ゆっくりでいいですか?」
『うん』
「じゃあ、皆で行きましょう」
ちなつの声が明るくなる。
『うん。みんなで行こう』
怪異を待っていたはずの時間は、いつの間にか、これから先の生活について話す時間になっていた。
◇
それでも、迎えの戸は来なかった。
そこで金目は、ようやく一つの可能性に思い至った。
「……鶴ちゃん、鶴ちゃん」
「なに?」
「もしかしたらこれって、私ちょっと間違えたかもしれません」
千鶴が顔を上げる。
「何を?」
「これ多分……私が明確に『あの人たちを迎えに行きたい』って思わないと駄目なのかもしれません」
探すのではない。
美由紀たちを必死になって見つけたいと願うのでもない。
自分は迎えなのだから。
「私が『迎えに行きます』って、ちゃんと決めないといけなかったんじゃないでしょうか」
これまで何もせず待っていた理由もある。
古い記録では、戸は突然現れていた。
日常の中で、いつもの戸が変わる。
だから002に名前が出た時点で、いずれ向こうから来るものだと思っていた。
「でも、ここまで何もないんですよね」
ならば、自分から迎えに行く意思を持つ必要があるのかもしれない。
ただし――金目は一人で決めなかった。
「皆さんに聞いておきたいんです」
もし嫌なら、やらない。
今までこの件を考えないようにするためにしていた雑談すらやめ、完全に普段の生活へ戻る。
それとも、少し強く、
――私はあの人たちを迎えに行く。
そう思ってみるか。
千鶴は答えた。
「……私は、やってほしくない」
金鶴も、
「私も。今何も起きてないなら、自分から動かすのは怖い」
ちなつも同じだった。
ビート君には、
『今は、開けない。』
『来たら、考える。』
と浮かんだ。
そこまで言われれば、金目が勝手に試すことはない。
「分かりました」
金目はあっさり引いた。
「じゃあ、やめましょう」
怪異について考えないよう努力することすら、もうやめる。
普通に生活する。
「皆さんも、私に付き合って待ってなくて大丈夫です。各々自由行動ということで」
そして金目自身も、仕事へ戻った。
◇
取材資料を整理し、記事を書く。
原稿を読み返して修正する。
そうして一仕事終えたところで、金目はふと以前のことを思い出した。
白瀬写真館。
あの一件が解決したあと、お礼も兼ねて何枚か写真を撮らせた。
店に飾っても構わないと伝えていたが、その後どうなったのかまでは聞いていない。
「……一回、確認してみましょうか」
もし全然評判がよくなくて、むしろ邪魔になっているなら申し訳ない。
金目は白瀬へ電話をかけた。
『はい、白瀬写真館です』
「あ、ご無沙汰してます。草壁金目です」
『ああ、草壁さん。お久しぶりです』
まず確認したのは、写真ではなかった。
「あれから、何か変なこと起きてませんよね?」
『変なこと?』
「前みたいなのです」
『ああ。大丈夫ですよ。何もありません』
「よかったです」
そこを確認してから、ようやく本題へ入る。
「あの、以前撮ってもらった私の写真なんですけど」
『はい』
「まだ飾ってます?」
『飾ってますよ』
「……評判、大丈夫ですか?」
『大丈夫、というのは?』
「いや、その……あんまり反応よくなかったら、せめてものお礼のつもりだったのに、逆に白瀬さんに迷惑かけてるかなって」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
『草壁さん』
「はい」
『むしろ評判いいですよ』
「……え?」
『かなり』
予想外だった。
『立ち止まって見る人もいますし、この人モデルさんですかって聞かれたことも何度かあります』
「モデル……?」
『個人情報はもちろん話してませんよ。以前撮影させてもらった方です、とだけ』
「あ、それはありがとうございます」
『特に、最後の方に撮った自然に笑ってる写真。あれが一番評判いいですね』
最初は写真を撮られることを意識して、可愛らしく見えるようにポーズを取っていた。
けれど白瀬には、それがどこか無理をしているように見えていたらしい。
撮影が進み、緊張が抜けてから撮られた写真。
金目自身があまり意識していなかった自然な笑顔の方が、人の目を引いていた。
「……そうなんですね」
嬉しいというより、まず安堵した。
「じゃあ、よかったです。本当に。白瀬さんのお役に立ててるなら」
『十分すぎるくらいですよ』
「でしたら、前に撮った写真は好きに使ってもらって構いませんからね。お店の宣伝とかでも」
『それはありがたいですけど……』
「元々お礼で撮ってもらったものですし」
金目は何度か念を押した。
白瀬が自分の写真館を宣伝するために使うのであれば、以前の写真については自由に使って構わない。
ただ、白瀬の返答は少し違った。
『もし今度、本当に広告用として草壁さんを撮らせてもらうなら、僕はちゃんと別で撮りたいですね』
「別で?」
『服も構図も用途も最初から決めて。広告用の撮影として』
「……それって」
『仕事として、ですよ』
金目が少し黙った。
「私、モデルなんてやったことないですよ?」
『だからこそ、ですよ。新しく仕事として頼むなら、どこに使うのか、どういう写真を撮るのか、報酬はいくらなのか。ちゃんと決めた方がいいです』
「報酬……」
『草壁さん、「何でもいいですよ」は仕事では言わない方がいいですからね』
「……はい」
心当たりがありすぎて、素直に返事をした。
もし本当にモデルを始めるなら、事務所へ所属してから。
そうなったら改めて連絡する。
白瀬との話はそこで一度保留になった。
電話を切った金目は、しばらくスマートフォンを見ていた。
ただの雑談だったモデルという選択肢が、少しだけ現実味を帯びていた。
「……鶴ちゃん、今お暇ですか?」
「うん?」
金目は千鶴を呼び、改めて相談した。
フリーライターは続けたい。
けれど、モデルの仕事もできるのならやってみてもいい。
その場合、最初からフリーで活動してマネージャーを雇うべきなのか。それとも、きちんとした事務所へ所属した方がいいのか。
千鶴の答えは、事務所だった。
金目にはモデル業の経験がない。
仕事先が信用できるか。
契約がおかしくないか。
写真がどこまで使われるのか。
撮影場所は安全か。
そういったことを最初から一人で判断するのは危険だ。
特に、これまで何度もストーカーなどの被害に遭っている金目なら、なおさらだった。
「なるほど……」
「それに、金目は断るの苦手なときあるでしょ」
「そんなことないですよ」
「あるよ」
「……多少は」
事務所へ所属するなら条件がある。
フリーライターを続けられること。
仕事ごとに相談できること。
そして何より、
「露出多い仕事は絶対嫌です」
「そこは最初から言っておいた方がいいね」
「水着とか下着とか、いくら積まれてもやりませんからね」
そこだけは迷わなかった。
条件を整理したあと、金目は千鶴と金鶴を見比べた。
「……ちなみに、お二人も一緒にやりません?」
「私たちも?」
「三人とも入れるところ探してみましょうよ。もちろん嫌なら私一人で探しますけど」
千鶴は少し考えて、
「一緒なら、調べてみてもいいかな」
と答えた。
金鶴は、
「やる!」
と、ほとんど即答した。
「じゃあ、三人で探しましょうか」
条件を一つずつ確認していく。
すると、驚くほど希望に近い事務所が見つかった。
兼業可能。
案件ごとに内容を相談できる。
受けたくない仕事を断ることもできる。
契約内容や写真の使用範囲も明確。
安全管理やプライバシーへの配慮もある。
露出の多い仕事を強制するような方針でもない。
そして、三人とも応募できそうだった。
「……こんな都合よくあります?」
黒いジャケットを見る。
『幸運。』
少しして、
『かなり。』
「まあ……私は運いいですからね」
そこで金目は募集要項をさらに読み込んだ。
「でも、肝心なのはお金ですよね」
どれだけ条件がよくても、仕事として成り立たなければ意味がない。
案件ごとの報酬。
事務所との取り分。
兼業時の扱い。
カタカタとキーボードを鳴らしながら、金目は報酬体系について調べ始めた。
そのときだった。
スマートフォンが鳴る。
「ん?」
知らない番号だった。
「……誰からでしょう」
首を傾げながら電話を取る。
「はい、草壁金目です」
『草壁金目さんのお電話番号でよろしいでしょうか』
「はい」
落ち着いた女性の声だった。
『突然のお電話、申し訳ございません。私、現在、例のマンションで三名の方が行方不明になっている事件について、捜査の指揮を担当している者です』
「あ……警察の方ですか」
『はい。部下から、草壁さんご自身も今回の件について色々とお調べになっていると聞きました。そのことで少し確認させていただきたいことがありまして』
一拍置いて、
『もしよろしければ、今からそちらのお宅へ伺ってもよろしいでしょうか』
「あ、分かりました。大丈夫ですよ」
◇
「何度も申し訳ございません」
そう言って頭を下げたのは、これまで金目が話してきた警察官たちより年上の女性だった。
身なりも立ち居振る舞いも整っており、現場の一警察官より明らかに上の立場にいることが分かる。
挨拶を済ませると、女性警察官は静かに本題へ入った。
「今回の件についてですが、私自身でも色々と調べさせていただきました」
「はい」
「おそらく、あの部屋は過去の伝承に残っている――『迎え部屋』と呼ばれるものに関係している。そこまでは分かっています」
「……え?」
金目が少し目を見開く。
女性警察官は、その反応を見て安心させるように微笑んだ。
「私自身、こういった現場へ入ることが何度かありましてね。こういったことにも、何度か首を突っ込んだことがあるんですよ」
「そうなんですか……」
「ですから草壁さん。もしよろしければ、あなたが今からやろうとしていたこと。あるいは、何か起きた場合に備えて準備していたことについて、教えていただけないでしょうか」
女性警察官は穏やかに続ける。
「教えていただけるのであれば、それを参考に、今回の一件については私が責任を持って対応させていただきます」
「…………」
「また、部下がお渡ししたものや、草壁さんご自身でご用意されたものが何かあるのであれば、それらも一度こちらへお預けいただけますでしょうか。必要がなくなった資料についても、こちらで責任を持って適切に処理いたします」
そして深く頭を下げた。
「今回の件とは本来まったく関係のない草壁さんに、ここまでのことをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」
「えっ」
「草壁さんご自身にも、不安を抱かせる結果になってしまいました。本当に申し訳ございません」
「いやいや、そんなに頭下げないでください」
金目は慌てて手を振った。
「私の方で勝手に調べて、勝手に考えてただけですから。私の憶測でよろしいんでしたら、いくらでもお話ししますので」
「ありがとうございます」
それから金目は、これまでに調べたことをすべて伝えた。
探し部屋。
迎え部屋。
さらに古い失せ物迎えの記録。
強く何かを探す者が戸を見つける可能性。
求めていたものを見つけたあと、そこへ留まってしまう者。
失せ物を求めない者が迎えに適するとされたこと。
迎えには名前が示されるという記録。
002に自分の名前が表示されたこと。
そして、迎えは留まる者へ帰る道を思い出させ、一緒に戸を越えるべきだという記述。
自分が考えていたことが正しい保証はない。
それでも、すべて話した。
高瀬美由紀が探していた相沢ひよりのことも。
ひより本人から預かった声も。
美咲たち家族の写真と音声。
行方不明になった警察官へ用意された写真と声。
金目は、手元にあったものをすべて女性警察官へ託した。
女性は一つずつ確認し、大切にまとめる。
「――確かにお預かりしました」
「はい」
「ご協力、感謝いたします」
立ち上がり、もう一度金目を見る。
「最善を尽くさせていただきます」
金目も立ち上がった。
「はい。頑張ってください」
「ありがとうございます」
玄関を出ていく女性警察官の背中を、金目は静かに見送った。
これで、本当に自分がすることはなくなった。
◇
後日。
警察から一本の連絡が入った。
詳しい話は聞かなかった。
ただ――今回の件は、無事に解決したという。
金目が提供した資料も、きちんと役に立ったらしい。
「……そうですか」
金目はスマートフォンを耳に当てたまま、ゆっくり息を吐いた。
「よかったです。本当に」
それだけで十分だった。
電話を切る。
机へ戻る。
そこに表示されているのは、もう001でも002でも、古い伝承でもない。
千鶴と金鶴と一緒に見つけたモデル事務所。
三人で話し合い、条件を確認したうえで、すでに応募は済ませていた。
「……どうなりますかね」
金目は画面を眺めながら呟く。
フリーライター、草壁金目。
その隣に、いつかもう一つ肩書きが増えるのかもしれない。
増えないかもしれない。
それはまだ分からない。
ただ少なくとも今、金目の前にあるのは、もう奇妙な部屋の番号ではなかった。
これから始まるかもしれない、ごく普通の新しい仕事の話だった。




