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17/23

返却期限までに

「草壁さん、次の取材なんですけど」


編集者からそう切り出されたのは、いつものように仕事の話をしていたときだった。


草壁金目は、手元のメモ帳へ視線を落とす。


「はい。どんな内容ですか?」


「図書館です」


「……図書館?」


思っていたものと違ったのか、金目がわずかに目を瞬かせる。


今回連絡をくれたのは、これまでオカルト絡みの案件を持ってきていた担当とは別の編集者だった。


以前、商店街の取材を担当したときにも仕事を回してくれた人物で、金目の書く文章についても、きちんと評価してくれている。


だから今回も、怪談や心霊スポットの取材ではない。


普通の地域取材だった。


「南ヶ丘図書館って知ってます?」


「名前くらいなら」


「来月で閉館するんですよ。新しくできる中央図書館に機能を移して、古い建物の方はいずれ取り壊しになるそうです」


編集者は資料を確認しながら続ける。


「それで地域誌の方で、閉館前に一度ちゃんと特集を組みたいって話になりまして。五十年近く使われてきた建物なので、昔の写真とか、職員さんの話とか、利用者さんの思い出とか。その辺をまとめてもらえたらと」


「なるほど……」


金目はメモを取る。


図書館そのものの歴史。


建物。


長年勤務している職員への取材。


昔の貸出カードや写真など、公開できる資料。


閉館を惜しむ利用者の声。


それらを文章と写真でまとめる。


「写真も私でいいんですよね?」


「お願いします。草壁さん、前回の写真も良かったですし」


さらっと言われて、金目のペンが一瞬止まる。


「……ありがとうございます」


「文章も読みやすかったですよ。変に大げさにしないのに、その場所の雰囲気はちゃんと分かるというか。今回もそういう感じでお願いしたくて」


少し前なら、褒められてもどう反応すればいいのか分からず、曖昧に笑って終わっていたかもしれない。


今でも少し照れくさいことに変わりはない。


けれど。


「……頑張ります」


金目は、素直にそう答えた。


報酬は通常の取材案件と同程度。


特別な危険手当も、追加報酬もない。


当然だ。


ただの図書館取材なのだから。


取材日は三日後。


午後一時から。


先方にもすでに話は通っている。


「じゃあ、よろしくお願いします」


「はい。分かりました」


通話を終えたあと、金目は念のため南ヶ丘図書館について調べた。


開館からおよそ五十年。


設備の老朽化。


新しい中央図書館への機能移転。


建物は閉館後、いずれ取り壊される予定。


東側の古い閲覧室など、一部はすでに劣化のため使用されていない。


けれど、特に有名な事件が起きたという話はない。


怪談も、都市伝説も、少なくとも表立って知られているものはなかった。


古い建物らしい曖昧な噂が多少ある程度。


今回は、本当に普通の仕事らしい。


そう判断して、金目は取材当日を迎えた。


     ◇


三日後。


午後一時。


草壁金目は南ヶ丘図書館の前に立っていた。


正面玄関のガラスには、大きな紙が貼られている。


『長い間、ありがとうございました』


その文字を一度見上げてから、金目は肩に掛けたカメラバッグを直した。


受付で名乗ると、ほどなく一人の男性がやってくる。


五十代後半ほど。


短い髪には白いものが混じり、シャツの上から落ち着いた色のカーディガンを羽織っている。


「草壁さんですね。お待ちしていました」


「はい。本日はよろしくお願いいたします」


男性は、副館長の久世隆文と名乗った。


南ヶ丘図書館には二十七年ほど勤めているという。


取材可能な範囲について説明を受ける。


一階には受付、一般書架、児童書、新聞・雑誌。


二階には郷土資料、閲覧室、会議室。


閉架書庫などの職員専用区域についても、必要があれば職員同行で入れる。


ただし東側の旧閲覧室だけは天井の劣化が進んでおり、現在は立入禁止。


利用者の顔が分かる写真は本人の許可なしでは撮影しない。


職員についても、撮影前に本人へ確認する。


閉館は午後五時。


必要なら閉館後、一時間程度は職員が残っているという話だったが、金目としては営業時間内に必要な取材を終えるつもりだった。


まずは館内を撮影する。


受付。


書架。


古い案内板。


窓から差し込む午後の光。


何十年も人が歩いてきた床。


写真はかなりいい出来だった。


閉館する古い図書館という場所の空気が、必要以上に寂しくなりすぎず、写真の中へ収まっていく。


そんなふうに受付周辺を見ていたときだった。


金目の視線が、カウンターの奥で止まった。


一冊の帳面。


濃い茶色の布張り。


背表紙に題名はない。


バーコードもない。


現在使われている図書館資料とは、明らかに雰囲気が違う。


「……すみません。あれって、図書館の資料ですか?」


久世が振り返る。


「ああ。それですか」


帳面のそばには、小さなメモが置かれていた。


『8/30 朝・返却ポストより回収 蔵書登録なし 所有者不明』


昨日の朝。


返却ポストの中から出てきたものらしい。


表紙には、薄れた文字で、


『返却記録』


と書かれていた。


近くにいた女性職員が、その文字を見て足を止めた。


六十歳前後。


藤崎という、南ヶ丘図書館に長く勤めている職員だった。


「あら……これ、まだ残ってたのね」


「ご存じなんですか?」


「昔、使ってたんです」


三十年以上前。


貸出管理が完全にコンピューター化される以前。


利用者は返したと言っている。


しかし図書館では貸出中になっている。


逆に図書館では返却済みなのに、資料が見つからない。


そうした返却上の食い違いを記録するための業務帳簿だった。


当然、個人情報も含まれている。


金目は中を見せてほしいとは言わなかった。


「でも……どうして返却ポストに?」


「それが分からないんです」


藤崎が首を傾げる。


廃止された帳簿は二階の旧行政資料室に保管されていたはずだった。


しかも本来なら、最後のページへ『廃止』の印を押し、紐で縛って保管する。


目の前の帳面には、その紐がない。


職員が確認のために持ち上げた。


そのとき。


ひらり。


中から、一枚の古い紙片が床へ落ちた。


藤崎が拾う。


そこには、


『未返却 一冊』


とだけ書かれていた。


資料名もない。


管理番号もない。


ただ、一冊。


「これも昔のものですか?」


「ええ。未解決の案件なんかに使った確認票だと思います。ただ普通なら、何の資料か分かるように書くんですけど……」


妙ではある。


けれど、まだその程度だった。


古い図書館なら、由来の分からない書類の一枚や二枚が出てきても不思議ではない。


金目はいったん、本来の取材へ戻った。


     ◇


二階には、閉館に合わせた展示が設けられていた。


『南ヶ丘図書館 五十年の歩み』


昔の写真。


開館当初の案内。


貸出カード。


館内報。


昭和五十年代の受付カウンターを写した写真には、当時使われていた帳簿類も写っていた。


貸出簿。


予約受付簿。


返却記録簿。


先ほどの帳面が本当に業務で使われていたことは間違いない。


展示を見ていた七十代ほどの男性利用者が、写真を覗き込みながら呟いた。


「これ、まだ残ってたんだな」


金目が声をかけると、男性は意外なほど気さくに昔話をしてくれた。


昔、この辺りの利用者はあの帳面を、


「返却帳」


と呼んでいたこと。


そして昭和五十年代の初め頃、子供や学生の間で妙な噂があったこと。


「あの帳面に名前を書かれると、返してない本が一冊増えるってね」


昔、一人の学生がいた。


本人は本を返したと言う。


けれど図書館では見つからない。


返却帳に名前を書かれた。


その後、家に知らない図書館の本が置かれていた。


借りた覚えはない。


貸出記録もない。


図書館へ返す。


ところが翌日には、また別の知らない本が家にある。


それを返しても、また次が来る。


「それでな。知らない本は読んじゃいけない、なんて言われてた」


「読むと……どうなるんですか?」


「返さなきゃいけないものが増えるんだとさ」


もちろん、昔の噂話だ。


男性自身も笑いながら話している。


それでも金目は、その言葉をメモに残した。


さらに話を聞くと、男性はもう一つ思い出した。


『借りなかったから、貸された』


久しぶりに図書館へ来て、何も借りずに帰った人間へ、図書館の方から一冊貸される。


そんな噂だった。


「昔、必ず一冊借りて帰る爺さんがいてな。読みたい本がなくてもだ」


「どうしてです?」


「自分で選んだ方がいいからだよ」


男性は笑う。


「選ばずに帰ると、向こうが選ぶから」


――自分で選んだ方がいい。


――選ばずに帰ると、向こうが選ぶ。


金目は、その二つをメモ帳の中で囲んだ。


そこから、取材の形が少しずつ変わっていった。


     ◇


藤崎の記憶にも、昔の奇妙な利用者が残っていた。


四十代ほどの女性。


何度も図書館へやってきて、


「私はこの本を借りていません」


と訴えた。


貸出記録はない。


女性は一人暮らし。


それでも自宅には知らない本が現れる。


返却しても、また別の本が来る。


三度か四度。


そしてある日。


「今度は本じゃないんです」


女性は青ざめた顔でそう言った。


「これを、どこへ返せばいいんですか」


その頃の藤崎はまだ若かった。


対応したのは先輩職員だったという。


女性は、以前現れた一冊を読んでいた。


「私のことが書いてあるんです」


知らない本なのに、自分のことが書かれている。


子供の頃。


結婚。


娘。


そして昨日のことまで。


その女性に関する古い返却記録も見つかった。


同じ利用者番号。


『貸出記録なし』


『本人は借用を否定』


何度も繰り返される。


最後の一件だけ、資料名がない。


代わりに、


『返却物変更』


とあった。


正式な業務用語ではない。


担当者名も印もない。


筆跡は、藤崎の先輩職員のもの。


さらに当時の警察連絡記録を調べる。


『人骨様の物体を利用者が持参。職員が警察へ連絡』


警察は、


『材質不明。骨様加工品と推定。事件性なし』


として、それを持ち帰らなかった。


翌日の追記。


『保管物、夜間に消失』


その朝。


女性から電話。


『昨日返したものが、また家にある』


同じ日の午後、女性は再びその白い骨のようなものを持ってきた。


図書館は受け取らなかった。


警察も事件ではないと判断している。


図書館のものでもない。


女性は、


「これはここへ返すものだ」


と訴えたが、結局持ち帰るしかなかった。


そこから先。


その女性の記録には、奇妙な一件が何十年も残り続けていた。


資料番号――空欄。


資料名――空欄。


未返却数――一。


結果――継続。


コンピューター化後も、


『旧記録継続』


として残された。


引継書には、


『旧未処理案件 一件』


『未返却状態を維持すること』


『閉鎖・削除処理を行わないこと』


理由は書かれていない。


金目たちは、当時対応した藤崎の先輩職員へ電話をかけた。


すでに八十歳前後。


事情を伝えると、電話の向こうの声が明らかに変わった。


「まだ、未返却になってる?」


「はい」


久世が答える。


長い沈黙。


「絶対に返却済みにしちゃ駄目」


震えた声だった。


「返却済みにしたら、次が貸し出される」


『返却記録』が返却ポストへ戻ってきたことを伝える。


「だったら、もう貸し出されてる」


「何がですか?」


「一冊よ」


かつて彼女は、例の女性の未返却を一度だけ終了させたことがあった。


貸出記録もない。


何度も知らない物を持ってくる利用者を、いつまでも未返却扱いにすることが正しいと思えなかった。


だから返却済みにした。


翌日。


別の男性が図書館へ来た。


「これ、私、借りてません」


知らない本。


貸出記録なし。


受け取ると、翌朝には図書館から消え、男性の家へ戻った。


男性はその本を読んだ。


そこには、自分の人生が書かれていた。


昨日までの人生。


今日のページは最初、空白。


しかし見ているうちに文字が増える。


最後に、


『返却期限を過ぎました』


と記された。


翌朝。


現れたものは、本ではなかった。


先輩職員は慌てて、最初の女性の記録を未返却へ戻した。


すると男性の家に現れていた本も、その次に現れたものも消えた。


それ以来。


彼女はあの一件を、


「未返却一冊」


のまま残し続けていた。


     ◇


最初の女性に現れたもの。


骨のような欠片。


自分の切られた髪。


抜けた歯。


そして――指。


朝起きると、右手から二本の指がなくなっていた。


痛みはほとんどない。


血もほとんど出ていない。


切断された二本の指だけが、枕元に置かれていた。


最後に女性は、右手を包帯で巻いて図書館へ来た。


「今度は、持ってこられなかった」


「大きすぎて」


その女性は、まだ生きていた。


久世が古い連絡先を辿り、孫娘へ連絡することができた。


女性は長年寝たきりになっていたが、意識はあり、短い会話ならできる。


そして自宅には――布に包まれた一冊の本が残っているという。


祖母から、


絶対に開くな。


読むな。


できれば触るな。


捨てるな。


そう言われていた。


本人の了承を得て、金目たちは会いに行った。


女性は藤崎の顔を見ると、長い時間を隔てても何かを思い出したようだった。


そして、自分の未返却記録がまだ残っていると知ると安堵した。


だが、その直後。


「……終わらせないでください」


弱い声で言った。


「返したことに……しないで」


そして、


「私のままでいいから」


女性は覚えていた。


知らない本が現れた。


何度返しても、また来た。


理由を知りたくて、とうとう読んだ。


そこには自分の人生が書かれていた。


幼い頃。


結婚。


娘。


その日の朝食。


そして、


『返却期限を過ぎました』


翌朝から、本ではないものが現れた。


骨。


髪。


歯。


二本の指。


最後に――自分。


朝起きると、隣に自分とまったく同じ女が横たわっていた。


同じ顔。


同じ身体。


同じ寝間着。


呼吸しているかどうかも分からない。


死体のようには見えない。


けれど動かない。


女性は触れなかった。


家族が戻る前に、そのもう一人の自分は消えた。


それから少しずつ身体が重くなった。


立てなくなった。


歩けなくなった。


やがて寝たきりになった。


関係があるかは分からない。


ただ、時期は重なっていた。


あの本は、それから一度だけ開いた。


何十年も閉じていたのに、自分の人生は続きを書かれていた。


最後には、


『貸出中』


とあった。


金目は本人の許可を得た。


ただし本文は読まない。


物語を追わない。


末尾の状態だけを見る。


そこには、


『貸出中』


『返却資料 未指定』


とあった。


返すものが決まっていない。


自分で選んだ方がいい。


選ばずに帰ると、向こうが選ぶ。


金目は念のため、自分自身も南ヶ丘図書館から普通の本を一冊借りていた。


何も借りずに出ることを避けるためだ。


さらに久世に頼み、女性が選べる本を五冊用意した。


ただし、最後に決めるのは女性本人。


女性はその中から、自分で一冊を選んだ。


「これがいいです」


金目は、これから行うことに保証がないことも説明した。


これまでの記録から考えれば、自分で選んだ正常な図書館資料を正式に借り、それを正式に返すことで、長年の未返却を終わらせられる可能性がある。


しかし逆に、止まっていたものを動かす危険もある。


女性は、


「……やってください」


と言った。


「本当に、私が返すものを私が選べるなら、私は、これを選びます」


候補の一冊を金目の貸出から外す。


女性の現在の利用登録を正式に作る。


古い利用者番号を無理に復活させることはしない。


そして女性自身が選んだ本を、正式に貸し出す。


その時点では、人生を書いた本に変化はない。


そこで久世が、女性の選んだ本を、何十年も残されていた旧未返却案件へ正式に関連づけた。


その瞬間。


人生を書いた本の末尾が変わった。


『貸出中』


『返却資料 指定済』


そして、女性が選んだ本の題名。


最後に、その本を正式に返却する。


貸出数、一。


返却数、一。


残り、ゼロ。


旧未返却案件も――ゼロ。


人生を書いた本には、


『返却完了』


と現れた。


ページが、ひとりでにめくれる。


本は薄くなっていく。


女性の人生を書いていた膨大なページが、破れ落ちるのではなく、最初から存在しなかったかのように消えていった。


残ったのは表紙と、わずかな紙。


その中から、古い貸出票が一枚出てきた。


『貸出先――南ヶ丘図書館』


『貸出資料――〔空欄〕』


『返却――完了』


借りていたのは、女性だけではない。


南ヶ丘図書館自身も、何らかの貸借の当事者になっている。


     ◇


その後、女性には変化が起きた。


失われていた二本の指が戻った。


若い頃に失った歯も戻った。


痛みもない。


出血もない。


ただ、元の場所にある。


一方で、寝たきりの状態は変わらなかった。


さらに、あの図書館や怪異に関する記憶の多くが抜け落ちていた。


藤崎を見れば、どこかで会った気はする。


だが、なぜ知っているのか分からない。


戻った指を見ながら、


「これ、私の指だったのね」


と不思議そうに言った。


そして、


「ずっと借りていたような気がする」


とも。


金目たちは、同じ現象の過去例を調べた。


少なくとも六件。


そのうち二件は、明確に解決していた。


一人の男性は、自分で『海辺の植物図鑑』を選び、正式に借り、返した。


『返却完了』


『貸出物 返還確認』


別の若い女性も、自分で選んだ図書館資料を借り、返却。


『返却処理完了』


『貸出物返還済』


その後、


『本人より、以前より続いていた耳鳴り消失との申告あり』


借りたものを返す。


すると、向こうが借りていたものも返される。


少なくとも、それまでの事例はそう見えた。


     ◇


では、どこから始まったのか。


調査は南ヶ丘図書館の開館以前へ遡った。


最初の異常が起きる少し前。


故人の蔵書が大量に寄贈されていた。


所有者は、


榊森宗一郎。


かつて『榊森貸本処』を営んでいた男。


その中に、


『一点 資料種別判定不能』


という、題名も著者も出版社もない一冊が混じっていた。


登録は保留。


榊森家へ返そうとしたが、家族は引き取りを拒否。


「そちらで処分してください」


家族の古いメモには、


『父の貸出帳』


と書かれ、それを取り消すように、


『帳面ではない』


『開かないこと』


とある。


榊森宗一郎自身も、晩年には奇妙な決まりを守っていた。


『借りるものは客が決める。』


『返すものも客が決める。』


『こちらで決めてはならない。』


裏には、


『貸したものは、返す。必ず。』


榊森がその一冊を手に入れた経緯を追う。


その前は、製本職人の御厨玄蔵。


さらにその前は、久我家が営んでいた私設の『久我文庫』。


久我文庫にも、


『薦められた本は借りないこと』


『何も借りずに帰る者は、帳面に名を残さないこと』


という規則があった。


久我清一郎の日記には、


『また一冊、書架にあり。我が家のものにあらず。誰に問うても知らぬという。』


『昨夜返したはずのものが、また机上にある。帳面には何もない。』


そして、


『開いてはならぬ。あれは読む者のことを書く。』


『返す物は己で決めねばならぬ。決めぬなら、あれが決める。』


最後には、


『済んだ。戻ってきた。これで借りはない。』


さらに遡る。


行商人、篠宮冬一。


彼も題名のない一冊を持ち歩いていた。


売らない本。


「これは俺の本じゃない」


「預かっている」


いつ返すのかと聞かれ、


「向こうが取りに来るまで」


その前。


山間の共同書庫。


旅の僧。


焼けた寺。


貸経所。


そこでも、


『借覧帳に名なき返納あり』


『返納物、書にあらず』


という記録が残っていた。


しかし、それでもまだ起源ではない。


さらに古い村。


村では本だけでなく、農具、衣服、食料、種、家畜まで貸し借りしていた。


そこには古い決まりがあった。


借りたものは返す。


同じものを返せないなら、借りた側が代わりのものを選ぶ。


貸した側が代用品を指定してはならない。


『返す物を選ばざる者、己が物より取らる』


最初は身体のことではない。


返すものを選ばないなら、自分の所有物から取られる。


ただ、それだけの共同体の決まりだった。


村の貸借を一冊へまとめた男。


野々宮惣兵衛。


最初の数年間は、ただの帳面だった。


異変のきっかけは飢饉。


ある家が穀物を借り、返せなくなった。


貸した側は土地を要求した。


しかし村の決まりでは、代わりに何を返すか決めるのは借りた側。


それでも庄屋は、貸した側に理があると裁定した。


借りた家の当主は、その後死亡した。


惣兵衛は帳面を見た。


借りは残る。


だが、返す者はいない。


『ならば、帳面に決めさせるほかなし。』


『人が決めぬなら、この帳が公平に決めよ』


ただし借受人は死んでいる。


名を書く者がいない。


そこで惣兵衛は、


『名を書く者なし。ゆえに、名の代わりを置く。』


と記し、葬儀の際に切られた故人の髪を、名前の代わりとして帳面へ挟んだ。


翌朝。


帳面は勝手に記録を増やしていた。


『成った。されど、違う。これは公平ではない。』


返却物として家が指定された。


翌朝、その家が焼けた。


しかし返却は終わらない。


髪は帳面から消えた。


惣兵衛はページを切った。


戻った。


燃やそうとした。


燃えなかった。


水に沈めた。


翌朝、机に戻っていた。


そしてついに、


『借受人――野々宮惣兵衛』


『貸出物――〔空欄〕』


『返却物――未指定』


と書かれた。


惣兵衛は自分で返すものを選んだ。


髪。


消えた。


終わらない。


歯。


消えた。


終わらない。


そこで気づく。


『違う。これは返す物ではない。我が最初に入れたものを、繰り返している。』


最初に惣兵衛が入れたのは、人間の一部。


人の代わり。


惣兵衛が返却物を空欄に戻した翌朝。


帳面には、


『返却物――野々宮惣兵衛』


と書かれていた。


惣兵衛は、その後も生きていた。


ただし村の記録には、


『父に似て父にあらず』


『顔も声も同じなれど、以前の惣兵衛とは思えぬ』


そして本人は、自分について尋ねられたとき、


「返した」


と答えたという。


     ◇


無題の一冊そのものが起源ではない。


ずっと後になって現れた、何らかの形の一つ。


何百年も続いてきたものは、もっと単純だった。


借りる。


返す。


返せないなら、自分で代わりを選ぶ。


選ばなければ、向こうが選ぶ。


そこへ惣兵衛が、初めて人間そのものを「返すもの」として組み込んでしまった。


そう考えると、後世の現象にも一定の繋がりは見える。


けれど、まだ一件だけ残っていた。


女性の本から出てきた紙。


『貸出先――南ヶ丘図書館』


南ヶ丘図書館自身が、何かを借りている。


それなら。


貸した側。


貸出物。


借りた側。


その三つが揃った貸借記録がなければ成立しない。


金目は久世とともに、古い記録をもう一度洗い直した。


そして――見つけた。


通常の業務記録とは異質な一件。


『貸主――榊森貸本処』


『貸出物――無題 一冊』


『借受人――南ヶ丘図書館』


『返却物――未指定』


『返却――未了』


全部、揃っていた。


貸主は榊森家の遺族ではない。


榊森貸本処。


貸出物は、


無題 一冊。


借受人は、


南ヶ丘図書館。


そして返却物だけが、まだ決まっていない。


金目は記録を見つめた。


「……久世さん」


「はい」


「これ、私が決めたら駄目だと思います」


「返却するもの、ですか」


「はい」


金目は頷く。


「私は南ヶ丘図書館の人間じゃありません。借りたのは私じゃないですから」


返すものは、借りた側が決める。


そこだけは、何百年経っても変わらない。


「だから、南ヶ丘図書館が決めてください」


久世は少し考えた。


「でしたら、館長に――」


「……すみません。館長さん一人だけでも、やめた方がいいと思います」


借受人として書かれているのは、個人名ではない。


南ヶ丘図書館。


ならば現在の代表者一人で決めていい保証もない。


少なくとも、今この図書館を運営している人たち自身で話し合う。


「ここまで散々首を突っ込んでおいて、最後だけ全部そちらに任せるみたいで申し訳ないんですけど……」


金目は少し気まずそうに言った。


「でも、多分ここだけは、私が口を出しちゃいけないです」


久世が少しだけ笑った。


「ここまで調べていただいた方にそれを言われると、少し困りますね」


「……すみません」


「冗談です」


職員たちが集められた。


金目は話し合いには加わらない。


候補も出さない。


誘導もしない。


最後に何を返すのか。


そこだけは、南ヶ丘図書館自身で決める必要がある。


長い話し合いの末。


久世が戻ってきた。


「草壁さん。決めました」


金目は黙って聞く。


「旧蔵書印を返します」


開館当初から使われてきたもの。


何千、何万という本へ、


『南ヶ丘図書館』


という名を刻んできた印。


現在の業務ではすでに使っていない。


本来なら、閉館後に中央図書館へ歴史資料として引き継ぐ予定だった。


それを返す。


本だから本を返す、ではない。


貸した側に価値を決めてもらうわけでもない。


南ヶ丘図書館自身が、


これを返す。


と決めたもの。


金目は何も言わなかった。


     ◇


館長が職員たちへ最後の確認を取る。


全員が同意する。


記録へ、


『返却物――旧蔵書印』


と記入した。


印を、図書館の備品としてではなく、


返却するものとして置く。


「南ヶ丘図書館より、これを返却します」


静寂。


数秒。


十秒。


こつ。


小さな音。


旧蔵書印がわずかに傾いた。


記録の、


『返却――未了』


が薄れていく。


代わりに、


『返却――受領』


そして、


『貸出物――返還』


次の瞬間。


旧蔵書印が消えた。


誰も触れていない。


ただ、なくなった。


そして無題の本が、ひとりでに開く。


最後に残った一枚。


そこへ、


『返却完了』


と浮かんだ。


ぱたん。


表紙が閉じる。


そして。


無題の本も消えた。


燃えたのではない。


壊れたのでもない。


ただ――返却された。


久世が『返却記録』を確認する。


何十年も残り続けていた、


『未返却 一冊』


はない。


最後に記されていたのは、


『全件返却済』


その一行だけだった。


藤崎が、長い息を吐いた。


「……終わったんでしょうか」


誰にも断言はできない。


けれど、それ以上、新しい文字は増えなかった。


     ◇


そこから先は、驚くほど普通の時間だった。


金目も本来の仕事へ戻る。


館内を撮影する。


利用者から思い出を聞く。


藤崎にも改めて話を聞く。


久世から、閉館と中央図書館への移転について取材する。


当然、今日起きたことは記事には書かない。


夕方。


取材道具を片づけていると、久世が思い出したように声をかけた。


「それと、草壁さん」


「はい?」


「貸出中の本ですが」


「…………あ」


忘れていた。


最初に怪異への対策として借りた一冊。


女性へ見せる候補として借りたうち、残っている四冊。


合計五冊。


「……すみません。完全に忘れてました」


金目は少し気まずそうに鞄から出す。


今度は普通の返却。


五冊。


返却五冊。


残り、ゼロ。


端末に、


『返却完了』


と出る。


それだけ。


何も起きない。


金目は、ほんの少し安心したように息を吐いた。


受付の前で、久世たちへ改めて頭を下げる。


「今日は、取材の方でも本当にお世話になりました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


「新しい図書館でも、頑張ってくださいね」


久世が穏やかに笑う。


「ありがとうございます。草壁さんも、記事の方よろしくお願いします」


藤崎も、


「完成したら、ぜひ読ませてくださいね」


と笑った。


「はい。ちゃんと書きます」


金目は最後に一度だけ館内を振り返る。


古びた書架。


長く使われてきた受付。


夕方の光が差し込む閲覧席。


来月には役目を終える場所。


けれど今はもう、何もおかしくない。


金目は自動ドアを抜ける。


背後で扉が閉じた。


今度こそ。


何も、ついてこなかった。


     ◇


数日後。


金目は自宅の机に向かい、南ヶ丘図書館の記事を仕上げていた。


あの日に知ったことの大半は書けない。


けれど、それと取材は別だ。


約五十年。


そこに通った人たち。


働いた人たち。


本を借りた人。


返した人。


静かな場所を求めて訪れた人。


建物としての役目は終わっても、そこで積み重ねられた時間までなくなるわけではない。


最後まで読み返す。


誤字。


表記。


写真のキャプション。


取材相手の言葉。


公開して問題のない内容か。


そして送信ボタンの前で、指が止まる。


「…………」


「かなちゃん。また読み直すの?」


千鶴の声に、金目が振り返った。


「いや……もう一回くらいは」


「さっきも『最後にもう一回』って言ってたよ」


「…………」


金鶴も近くから画面を覗こうとする。


「かなめ、まだ終わってないの?」


「一応、終わってはいるんですけど……」


「じゃあ、終わり」


「そんな簡単に……」


写真から、ちなつの声が聞こえる。


「でも気になるんじゃない? 送ったあとで間違い見つけたら嫌だもんね」


「そうなんですよ、ちなつちゃん」


「でも、もう何回も見たんでしょ?」


「……はい」


机の近くに置かれた黒いレコードジャケットに、白い文字が浮かぶ。


『だいじょうぶ』


少し遅れて、


『かなめ がんばった』


「…………」


金目は四人を見て、それからパソコンへ向き直った。


「分かりましたよ。送りますよ」


送信。


「……終わったぁ」


椅子の背にもたれる。


「お疲れ、かなちゃん」


「おつかれ、かなめ」


「お疲れさま」


そしてジャケットにも、


『おつかれさま』


金目は小さく笑った。


「ありがとうございます」


     ◇


翌日。


編集者から返信が来た。


記事は読みやすい。


閉館への感傷に寄りすぎず、それでも長年利用してきた人々や職員への温度がある。


場所がなくなっても、そこで積み重ねられたものは次へ受け継がれていく。


その締め方が特に良かった。


大きな修正はなし。


細かな表記調整だけで、そのまま掲載。


金目は思わず、


「……よしっ」


と声を漏らした。


「何?」


千鶴が振り返る。


「原稿、そのまま通るみたいです」


隠しきれないほど、口元が緩んでいる。


「へえ。よかったじゃん」


「はい」


「かなめ、嬉しそう」


金鶴に言われ、金目は少しだけ取り繕った。


「そりゃ……まあ。褒められたら嬉しいですよ」


「素直になったね、かなちゃん」


「前から素直ですよ」


「それはどうかなあ」


「つるちゃん?」


ちなつの笑う声が聞こえる。


ビート君のジャケットにも、


『うれしい』


と浮かんだ。


     ◇


それからしばらくして。


南ヶ丘図書館を扱った地域誌が発売された。


誌面には、金目が撮影した受付。


夕方の閲覧席。


古い資料展示。


『長い間、ありがとうございました』


という閉館のお知らせ。


久世や藤崎、利用者たちの言葉。


怪異については、一文字もない。


それでいい。


あの日、本当に返さなければならなかったものは、もう返した。


さらに数週間後。


南ヶ丘図書館は、予定どおり最後の日を迎えた。


金目自身は閉館には立ち会わなかった。


けれど後日、久世から一通の連絡が届いた。


閉館作業は無事終了。


最後まで返却ポストへ見覚えのない本が入ることはなかった。


借りた覚えのない本を返しに来る利用者もいなかった。


中央図書館へ移管された資料にも、登録されていない一冊が紛れ込むことはなかった。


そして最後に。


『南ヶ丘図書館は、すべて返却を終えて閉館しました。』


金目は、その一文をしばらく眺めた。


「……終わったみたいですね」


「図書館?」


千鶴が尋ねる。


「はい。何も起きなかったみたいです」


「そっか」


金鶴がそばから画面を見上げる。


「もう、返すものない?」


金目は少しだけ考えた。


「たぶん。もう全部、返せたんだと思います」


今度は、どこからも訂正するような文字は現れない。


知らない本も置かれない。


返却を求める声もない。


金目はメールを閉じた。


机の上には、南ヶ丘図書館の記事が掲載された地域誌。


その隣には、次の仕事に使うメモ帳。


南ヶ丘図書館は、もうない。


けれど。


最後に残っていた借りもまた――


もう、どこにも残っていなかった。

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