『もう一度、同じ台所で』
第10回『もう一度、同じ台所で』
数日後。
『喫茶ドレス』の記事も無事に掲載され、草壁金目の生活は、ひとまずいつもの調子へ戻っていた。
少なくとも――仕事用のメールボックスを開くまでは。
昼過ぎ。
自宅の仕事机に向かっていた金目のスマートフォンが鳴る。
画面に表示された名前を確認した瞬間、金目の眉がほんの少しだけ動いた。
これまでにも何度か仕事を持ち込んできた、例の編集者だった。
電話に出る。
「はい、草壁です。お疲れさまです」
『お疲れさまです。次の取材なんですけど、今回は本当に普通です』
「…………」
開口一番の言葉に、金目は黙った。
『いや、本当に。今回は古いホテルでも、閉鎖施設でも、海でもないです』
「そこまで言われると、逆にちょっと不安なんですけど……」
苦笑しながらも、金目は話を聞く。
今回の依頼は、新しくオープンする二十四時間営業の無人書店。
店名は『頁灯書房 西小路店』。
昼間は通常営業を行い、深夜帯のみ完全無人になる小型書店で、利用客は事前登録したスマートフォンを使って入店し、購入から退店までをセルフで行う。
金目に依頼されたのは、正式開業前のテスト営業を体験し、女性一人でも利用しやすいか、深夜でも安心感があるか、有人書店と比較した時の使い勝手はどうか――そうした点を記事にまとめることだった。
「無人書店って……また珍しいですね」
金目は送られてきた資料へ目を通しながら言った。
コンビニや無人販売所なら耳にする機会も増えたが、本屋となると少し珍しい。
「女性目線っていうことは、男性目線の記事の方はもうできてるってことですか?」
男性ライターによるテスト利用はすでに行われており、認証や決済、設備面についてはある程度の情報が揃っているらしい。
今回はその補完として、女性利用者から見た安全性や安心感を確認したいとのことだった。
「そのテスト利用の方たちと、一緒にやる感じですか?」
『同じ時間帯には何人かいますけど、グループで動くわけではないですね。それぞれ自由に店内を見てもらう形式です』
スタッフはバックヤードにはいる。
何かあれば呼び出せる。
ただし、本番営業と同じ条件に近づけるため、基本的には表へ出てこない。
そこまで聞いたところで、金目は少し考えた。
「うーん……そもそも、なんで本屋を無人にしようと思ったんですか?」
主な理由は、人件費と営業時間。
夜間は客数が少ないため、有人で開け続けると費用が大きい。
一方、仕事帰りなど遅い時間に本を見たい利用者もいる。
静かな空間で、店員を気にせずゆっくり本を選べることも売りの一つらしい。
「なるほど……」
一応、理屈としては分かる。
そこで金目は、先に行われた男性側のテスト結果についても尋ねた。
全体としては好評。
認証が少し分かりづらい。
決済は簡単。
静かで落ち着いている。
ただし、
『夜だと店内の奥が思ったより暗く感じる』
という意見があった。
金目の眉が寄った。
「その点って、男性テスターの方の意見を受けて、もう対策はされてるんですか? それとも、まだ暗いままなんでしょうか」
多少の照明調整は入った。
ただし店側は「夜でも落ち着いて本を選べる静かな空間」という雰囲気を大切にしているため、昼間の書店のような明るさにはしていないという。
金目は少し首を傾げた。
「でも……本を選ぶ時って、照明の明るさ、結構大事ですよね」
夜は外も暗い。
それなのに店内まで暗くしてしまえば、背表紙も見づらくなる。
女性が一人で利用するなら、奥まで見通せないだけでも不安になる。
「むしろ全体的にちゃんと明るくした方がいいんじゃないでしょうか」
編集者も、そこは今回の重要なチェックポイントになるだろうと答えた。
金目はさらに条件を確認していく。
今回も、もし普通の取材を明らかに超える事態が起きた場合は追加報酬を出す。
その話になったところで、金目はすぐに念を押した。
「……今、“追加報酬は前と同じ扱いでいい”って言いましたよね?」
『ええ、言いましたけど……』
「でしたら今回、もし本当に通常の取材を超えるようなことが起きた場合は――追加報酬、基本報酬の四倍でいきますけど。それで大丈夫なんですね?」
電話の向こうが一瞬静かになった。
『……四倍?』
「はい。前にもお伝えしましたよね。変な案件が続くなら二倍、三倍って上がっていくって」
少し間を置いて、
「なので今回は四倍です」
編集者は観念したように了承した。
金目はそこで、少しむっとしたように付け加える。
「一応言っておきますけど……私が悪いんじゃないですからね」
『はい?』
「編集者さんの方が悪いんです。変な依頼ばっかり持ってくるから」
『……否定しづらいですね』
「私は普通に取材して、普通に記事を書いて、普通に帰りたいだけなんですから」
言い切ると、金目は小さく息を吐いた。
それから話を戻す。
テスターは金目を含めて五人。
ただし一斉に入るのではなく、数分ずつ時間をずらして入店する。
店内中央は低い棚を中心にし、背の高い棚は壁際。
防犯カメラも含め、見通しを確保した設計になっているという。
それでも金目には、何かが引っかかっていた。
説明自体は普通だった。
事故歴もない。
新築テナント。
スタッフも裏にはいる。
テスターも複数いる。
それなのに。
「……すみません。ひとつ確認しておきたいんですけど」
金目はとうとう、その違和感を口にした。
「私って、今回はあくまで取材ライターとして参加するんですよね?」
『ええ、もちろんです』
「女性利用者として実際に店内を体験して、その感想を書く必要があるのは分かります。でも……二時間ずっと店内にいないといけない理由って、何かあるんでしょうか」
金目はテスターではない。
ライターだ。
ならば、最初にスタッフから説明を受け、十分から二十分ほど実際に利用してみる。
その後は店外へ出て、テスト終了後に参加者へ感想を聞く。
最後にスタッフとも意見交換をする。
それで記事としては十分成立するはずだった。
「むしろその方が、私一人の感想だけじゃなくて、実際の利用者の意見も入れられますし」
そして最後に、
「……それでは駄目なんですか?」
と尋ねた。
編集者は少し資料を確認してから、
『いや、それで駄目という理由は、少なくとも私にはないですね』
と答えた。
依頼書には二十時から二十二時までのテスト営業を体験すると書かれているが、金目が二時間ずっと利用者として残る必要までは指定されていなかった。
そこで、金目の提案した形式で問題ないか運営側へ確認することになった。
しばらくして返事が来る。
スタッフが最初に表へ出て設備や防犯、緊急時の対応を説明。
金目は十五分から二十分程度利用者として体験。
その後は店内へ残らず、テスト終了後に参加者やスタッフへ聞き取り。
その形で問題ないとのことだった。
「なるほど……」
一つ、違和感は解消した。
だが。
金目は念のため、先に行われた男性テスターの簡易レポートにも目を通すことにした。
そこで、ある一文に目が止まった。
『奥の棚付近で他の利用者とすれ違った時、少し通路が暗く感じた』
それ自体は、ごく普通の感想に見える。
しかし添付された入退店記録を見ると、その時間帯、店内にいたテスターはその男性一人だけだった。
前の利用者は退店済み。
次の利用者はまだ入店していない。
スタッフも表へは出ていない。
金目は画面を見つめた。
「……編集者さん。ちょっといいですか?」
その食い違いを伝える。
「これって、単純にテスターさんが時間を勘違いされたんでしょうか。それとも、この時間に誰かスタッフさんが店内へ出ていたとか……何か分かります?」
編集者自身も、その場では説明できなかった。
金目はさらに念を押す。
「もしシステム側のバグや認証エラーで、入店した方をちゃんと記録できていない可能性があるなら、それはそれで防犯上かなり問題だと思うので」
運営側へ確認してもらうことになった。
通話を切ったあと。
金目は近くにいた千鶴と金鶴へ顔を向けた。
「……私、ちょっと心配性すぎますかね」
千鶴は首を横に振った。
「ううん。かなちゃんの場合、今までが今までだし……気になるところをちゃんと確認してるだけだと思うよ」
金鶴も小さく頷く。
「……変だったら、聞いた方がいい」
金目は少し安心したように笑った。
「二人とも、ありがとうございます」
そして返事を待つあいだ、改めて男性テスターのレポートを読み込んだ。
文章そのものを意識して追っていくと、妙な点がある。
他の箇所では「客」「テスター」「人」など具体的に書いているのに、例の箇所だけ、
『他の利用者』
という少し曖昧な表現になっている。
まだ正式オープン前だ。
そこにいるのは一般客ではなく、テスト参加者のはず。
ならば普通は「他のテスター」と書きそうなものだった。
さらに。
店内は見通しを良くするため、中央に高い棚を置いていない。
なのに、この男性は「奥で他の利用者とすれ違った」とだけ書いている。
それまで、その人物が店内にいることに気づいていなかったのだろうか。
金目の中で、ぼんやりしていた違和感が少しずつ形になっていく。
他のテスターのレポートも読み比べた。
すると、別の男性が、
『奥の方に誰かいると思ったが、近づいたらいなかった。照明のせいかもしれない』
と書いている。
さらに別の意見には、
『奥側は人がいると少し狭く感じる』
という表現があった。
全員ではない。
だが、「奥側」に関する妙な記述が、いくつか重なっている。
金目は入退店記録とテスト日程を照らし合わせる。
最初の男性と、二人目の男性は別の日の参加者。
同じ人物を同時に見間違えたわけではない。
それでも、違和感が起きた位置はどちらもほぼ同じだった。
店内奥。
壁沿いの本棚と、非常口へ続く通路の境目付近。
さらに資料を整理している最中、一枚の内部申し送りに目が止まる。
『奥側センサー、再確認。反応履歴と映像が一致しない箇所あり』
金目はその一文を見た瞬間、露骨に嫌そうな顔をした。
「……もう……」
大きくため息をつき、椅子へ深くもたれる。
「最近、警戒心が強くなりすぎて嫌になりますけど……こういう嫌な感じって、案外馬鹿にできないんですよね……」
さらに資料を横断して調べる。
『奥の非常口付近だけ、少し空気が冷たく感じた。空調の風かもしれない』
『奥側で一度、何かが落ちたような音がした。確認したが商品は落ちていなかった』
そして、
『奥側の人感センサー、無人時に一度反応。映像上は該当なし。再現せず』
金目は黙り込んだ。
暗さ。
人影。
存在しないはずの利用者。
物音。
温度。
そして、防犯映像には映らない人感センサーの反応。
全部、同じ奥側へ集中している。
とうとう金目は千鶴を呼んだ。
「つるちゃん、つるちゃん。ちょっと来てもらえます?」
資料を順番に見せる。
「これ、どう思います?」
そして困ったように苦笑した。
「……もう私、嫌な予感するんですけど」
千鶴は少し考え、
「一個ずつなら普通に説明できると思う。でも……全部同じところなんだよね?」
と返した。
「だったら、私もちょっと嫌かな。何かあるって決めつけるほどじゃないけど……わざわざそこに近づきたい感じはしない」
金目は深くため息をついた。
「……つるちゃんも、近づきたくない感じになりますよね」
断る方が無難かもしれない。
もし行くとしても、かなり安全対策を固める必要がある。
そう考えながら編集者からの返事を待っていると、やがてスマートフォンが鳴った。
運営側からの回答。
まず照明について。
奥側へ照明を増設するには電気工事が必要で、正式オープンまでに間に合わない。
簡易照明も一度案には上がったが、表紙や背表紙への光の反射、人感式ライトの点滅が利用者の感覚へ影響する可能性を理由に見送っていた。
ただ、金目の意見を受けて、次回テストまでに仮設フロアライトを一台追加する方向で調整するという。
そしてセンサー。
やはり人感センサーだった。
無人時間帯に一度反応している。
防犯カメラには誰も映っていない。
さらに、例の男性テスター本人にも連絡がついた。
本人は、
『確かに誰かとすれ違ったと思う』
と答えた。
顔は見ていない。
服装も覚えていない。
男女も分からない。
暗かったため、他のテスターだと思って気にしなかった。
ただし記録上、その時間帯に他のテスターはいない。
スタッフも出ていない。
金目は片手で額を押さえた。
「……無人販売店で、暗いって致命的じゃないですか……」
簡易照明も、試して問題があれば修正すればいい。
テストとはそのためにあるのではないか。
やる前から可能性だけで却下していては、何のためのテストなのか分からない。
しばらく考えて。
金目は決めた。
「……すみません。これだけいろいろ確認していただいたあとで、本当に申し訳ないんですけど」
「もし可能でしたら……今回、別のライターさんに代わっていただくことってできますか?」
編集者はあっさり了承した。
金目はほっと息を吐く。
ただし、最後にもう一つだけ頼んだ。
「もし他のライターさんに回すのでしたら、今回私が気にしたところも、一応参考程度に伝えておいてくださいね」
照明。
奥側。
入退店記録。
センサー。
そして、
「もし万が一、現地で変なことがあったとしても、軽率な行動だけはしないようにって。そういう時って、慌てて確認しに行ったり、パニックになったりするのが一番危ないですから」
少し苦笑する。
「まあ……何もなければ、“変なことばっかり経験して警戒心がおかしくなったライターの戯言”で終わるんですけどね」
『その方がいいですよ、本当に』
「はい。私もそう思います」
こうして、無人書店の依頼は正式に別のライターへ回された。
電話を切った金目は、長く息を吐いた。
「……じゃあ、他の依頼を見てみますかね」
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「……ビアガーデンは、なしですね」
金目はそこだけ迷わず除外した。
酒に極端に弱い自分が、酒を売りにした記事を書いても仕方がない。
そして視線が止まったのは、
『新設シェアキッチンの体験取材』
だった。
「……これ、ちょっと気になりますね」
前回、喫茶ドレスで久世から料理を教わったばかりだ。
最近は家でも料理する機会が増えている。
依頼内容は、新しくオープンした会員制シェアキッチンの設備紹介。
スタッフから説明を受けたあと、実際にキッチンを使って簡単な料理を作り、使いやすさや清潔さ、設備の充実度などを記事にする。
昼間。
スタッフ常駐。
完全予約制。
料理撮影向けの設備も用意されている。
金目は再び編集者へ電話をかけた。
「お世話になっております。草壁です。先ほどの件とは別なんですけど……新設シェアキッチンの体験取材、こちら少し気になりまして」
『お、そっちですか。あれなら昼間ですし、スタッフも常駐ですよ』
「……そこを強調されると、またちょっと嫌なんですけど」
『いや、今回は本当に普通の意味で言いました!』
金目は思わず苦笑した。
依頼では、完成した料理だけでなく、調理中の写真もあると助かるという。
「料理の写真は、まあ私が作った料理を撮ればいいと思うんですけど……料理してるところっていうことは、他にも参加者がいるってことですか?」
同じ時間帯に、一般利用者が一組入る予定。
取材用のテスターではなく、純粋に施設を利用する一般客。
金目はそこでも少し気になった。
「私、一応取材で入るので……スタッフさんと設備について話したり、途中でいろいろ質問したりすると思うんです」
「普通にお料理を作りに来てる方の横で、ずっと取材の話をしてたら邪魔になりませんか?」
一般利用者には、同時間帯に取材が入る可能性を事前案内している。
設備説明も最初にまとめて行い、必要以上に相手の作業スペースへ近づくことはない。
それを聞いて、金目はようやく胸を撫で下ろした。
「なるほど、そうなんですね。それでしたら……」
そして、少しにこやかに続ける。
「今回の依頼なんですけど、追加報酬の方は、さっきのこともありますから二倍にしていただいて大丈夫ですよ」
『……二倍ですか』
「はい。今回は今のところ普通そうですし、四倍までは言いません」
編集者は苦笑しながら了承した。
金目は、そのあと少し申し訳なさそうに無人書店の件も尋ねた。
自分があれだけ細かく口を出したことで、先方へ迷惑をかけていないか。
編集者によれば、照明やセンサーの確認は先方にも有益だったらしい。
次のライター候補もすでに見つかっており、金目が指摘した点はすべて引き継ぐ予定だという。
「それなら、よかったです」
金目は安心した。
そして、改めて告げる。
「それでしたら、今回はこのシェアキッチンの方、受けさせていただきます」
正式に依頼を受けたあと、金目は施設について事前に調べた。
施設名は、
『Kitchen Share Lien』
駅から徒歩七分ほどの雑居ビル二階。
オープンから一か月ほどの新しい施設だった。
三口コンロ。
オーブンレンジ。
大型冷蔵庫。
複数の作業台。
基本的な調理器具。
撮影用の照明スタンドや背景ボードまで揃っている。
レビューもほとんどが好意的。
一件だけ、
『使っていないはずの調理台に、前の人のものらしい食材が少し残っていた』
という書き込みがあったが、スタッフがすぐ片付けたとある。
金目はそれを見ても、特に気に留めなかった。
「まあ、そういうこともありますよね」
それよりも。
「せっかくですし、何かレパートリーでも増やしておきますかね……」
料理本を手に取り、近くにいる金鶴へ声をかける。
「金鶴ちゃん、何か食べたいものあります?」
金鶴が料理本を覗き込み、しばらくページを眺める。
そして一枚の写真を指さした。
「……これ」
「シチューですか。いいですね」
金目は笑った。
「じゃあ、今日の晩ご飯はこれにしましょうか」
その夜は、クリームシチュー。
そして数日後。
シェアキッチン取材当日。
今回は、いつものようなきっちりしたスーツ姿ではない。
一般利用者と同じ空間に入ることを考え、金目は明るめの色を使った、流行を押さえたカジュアルな服装を選んだ。
頭には小さなベレー帽。
化粧も派手になりすぎないよう、ごく薄く整える。
さらりと整えられた金髪に、清潔感のある服装。
もともと整った顔立ちに、今では自然な立ち振る舞いや柔らかな表情まで加わっている。
本人が意識していなくても、初対面の相手が一瞬目を留めるくらいには目立つ。
『Kitchen Share Lien』へ入ると、受付にいた女性スタッフも一瞬だけ視線を止めた。
けれどすぐに仕事用の笑顔へ戻る。
「こんにちは。ご予約の草壁様ですね?」
「はい。草壁です。本日はよろしくお願いいたします」
金目は軽く頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。今日は取材ということで、最初に簡単に施設の説明をさせていただきますね」
「はい。よろしくお願いいたします」
金目は手帳とペンを取り出した。
最初は口を挟まず、説明を聞く。
三口コンロ。
家庭用より少し強めの火力。
パンや焼き菓子にも使えるオーブンレンジ。
利用者ごとに区画が分けられた大型冷蔵庫。
包丁、まな板、鍋、ボウル、食器類。
消毒設備。
洗い場。
ゴミの分別。
撮影用照明や背景ボード。
金目は説明を聞くたび、必要なところだけ手帳に書き留めていった。
一通り案内が終わる。
「基本設備については以上になります。何か気になったところや、先に確認しておきたいことはございますか?」
金目は手帳を閉じ、スタッフへ柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。すごくいろんな設備が整えられていて、扱いやすそうなキッチンですね」
スタッフは一瞬目を瞬かせ、それから少し表情を緩めた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
そこから、少しずつ雑談も交えた取材へ移っていった。
料理だけでなく、お菓子作りや写真撮影に利用する客も多いこと。
SNSや動画撮影を目的に利用する人もいること。
金目自身も普段から家庭料理を作っていること。
「一応、こちらで作らせていただいた料理も撮ろうと思っているので、取材用に何かご用意されているものがあればそちらでも大丈夫ですし……特に決まっていないようでしたら、私が作りますので」
そう言ったあと、金目は少し慌てるように付け加えた。
「あ、でも豪勢なものとか、そういうのは期待しないでくださいね。あくまでも一般家庭レベルの料理ですから」
スタッフは笑った。
「それで十分ですよ。むしろ実際に普段作られるような料理を作っていただいた方が、使い勝手も分かりやすいです」
調理中の写真についても話した。
金目は撮影そのものを嫌っているわけではない。
ただ、自分の視界にカメラが入り、撮られていると意識すると少し苦手だった。
「手元中心で何枚か撮っていただく分には全然大丈夫です。あまり私の視界に入らないところからでしたら、顔が映っても特には気にしないんですけど……撮られてるって意識しちゃうと、ちょっと苦手で」
「分かりました。できるだけ自然な形で撮影しますね」
取材はその後も続いた。
施設が特に重視しているのは、衛生面、安全面、利用者同士の距離感。
共用調味料は塩、砂糖、サラダ油程度。
それ以外はアレルギーや味の好みを考え、基本的に持ち込み。
予約はネット中心で、電話でも受け付けている。
基本利用時間は二時間。
一時間単位で延長可能。
スタッフは通常二名体制。
繁忙時や料理教室が入る日は三名になることもある。
金目は一つ一つ確かめながら、時折器具にも触れた。
包丁の重さ。
柄の握りやすさ。
フライパンの取り回し。
ボウルの深さ。
全体的に扱いやすく、管理状態も良い。
ただ、細かな見落としはいくつかあった。
使われていない調理台の利用札だけ向きが逆。
収納扉がほんの少し閉まりきっていない。
包丁の柄元に白い粉がわずかに付着している。
調味料棚に、小さな計量スプーンが一本だけ横になっている。
砂糖の容器の下には、白い粉の輪が残っていた。
どれも異常というほどではない。
まだオープンして一か月。
管理がこれだけ行き届いていれば、少しくらい見落としがあっても不思議ではない。
金目自身もそう考えていた。
「少し細かな見落としはありますけど、それでもかなりきちんと管理されていると思います。利用者の方々も、すごく安心して使える空間ですね」
そう柔らかく伝えると、スタッフも少し安心したように笑った。
金目はその後、片付け確認の方法や清掃体制についても尋ねた。
利用者自身がチェックを行い、退室前にスタッフが火元、冷蔵庫、危険な器具などを中心に最終確認する。
細かな汚れや器具の位置までは、その後の清掃に回る場合もある。
「でしたら、この部分は少し改善の余地があるかもしれませんね」
金目は押しつけにならないよう慎重に言葉を選んだ。
「監視されているように感じさせる必要はないと思うんです。ただ、『水洗いや水拭きはお済みでしょうか』と一言確認するだけでも違うと思いますし、収納扉なんかも軽く点検されると、細かな見落としは減るんじゃないでしょうか」
スタッフは真面目に頷いた。
「確かに、それなら利用者さんにも負担を感じさせにくそうですね」
取材の途中。
同じ時間帯に利用していた二人組の女性客にも、金目は声をかけた。
いきなり話を聞くのではなく、少し遠慮がちに距離を取る。
「すみません。お料理中にお邪魔してしまって、ごめんなさい」
二人が顔を上げたところで、金目は柔らかく微笑んだ。
「もしよろしければ、いくつかお話を聞かせていただきたいんですけど……大丈夫ですか? 今お料理中ですので後にしてほしいということでしたら全然大丈夫ですし、あまりこういう取材を受けたくないということでしたら、断っていただいても大丈夫ですので」
二人は顔を見合わせ、それから笑った。
「私は大丈夫です」
「私も。今ちょうど混ぜてるだけなので」
一人は今日で三回目。
もう一人は二回目。
二人はキッシュを作っていた。
「キッシュですか。すごいですね」
金目は少し驚いたように言った。
「私、キッシュはまだ作ったことがないんですよね」
二人はパウンドケーキやグラタンを作ったこともあるらしい。
設備についての評価は高い。
ただ、以前一度だけ、使っていないはずの台に食材が残っていたことがあったという。
野菜の切れ端と、ラップされた小さな容器。
スタッフがすぐ片付けたため、その時は特に気にしなかったらしい。
金目は少し気になり、スタッフへ確認した。
「野菜の切れ端は分かるんですけど、ラップされた小さい容器というのは、前の利用者さんが何か作られていて忘れていかれた感じだったんでしょうか?」
「はい。中身は刻んだ玉ねぎと、少量のひき肉だったと思います」
前の利用者にも連絡し、「たぶん自分たちのものだと思う」と返答があったため、処分したらしい。
それなら、それもただの忘れ物だ。
金目はそう思った。
取材を終えた二人には、
「いろいろとご意見を聞かせていただいて、ありがとうございました」
と頭を下げた。
「お料理中にお時間いただいてしまって、すみません。すごく参考になりました」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
「記事、頑張ってください」
最後には、
「もし今度キッシュ作ることがあったら、ここ使ってみてください」
とまで言われた。
「はい、ぜひ」
金目は笑った。
ここまで聞ければ、基本的な取材は十分だった。
そこで今度は、自分自身が利用者として設備を試すことにした。
作るのは、パイシチュー。
簡単なサラダ。
そして、喫茶ドレスで久世から教わったプリン。
普通のクリームシチューは最近作ったばかりだったため、せっかく設備が揃っているなら少しだけ挑戦してみようと思った。
五人分。
自分。
千鶴。
金鶴。
スタッフ一人。
そして一般利用者用として念のため一人分。
クリームシチューを作り、耐熱容器へ分け、パイ生地をかぶせてオーブンへ。
初挑戦ながら、焼き上がりはかなり良かった。
パイはきれいに膨らみ、焼き色も美しい。
その横にはサラダ。
さらに、久世から教わったプリンも綺麗に仕上がった。
料理を並べた金目は、撮影用の照明を使いながら写真を撮る。
パイシチューの焼き色。
割れたパイの隙間から覗くクリームシチュー。
サラダの色合い。
プリンの艶。
写真を確認したスタッフが感心したように言った。
「すごく綺麗ですね。料理雑誌みたいです」
「ありがとうございます」
金目は普通に礼を言った。
写真を褒められること自体は珍しくない。
むしろライターなのに、文章より写真の方を褒められることの方が多いくらいだった。
調理スペースから少し離れた飲食用のテーブルへ料理を運ぶ。
二人組の利用者のキッシュもちょうど焼き上がっていた。
スタッフにも、
「よろしければ先にどうぞ」
と料理を勧める。
二人組にも、一人分余分に作ったパイシチューを分けてもらうことにした。
穏やかな昼食の時間。
ここまで。
本当にただの、普通の取材だった。
――その時。
調理スペースの方から、
カタン。
小さな音がした。
スタッフが顔を上げる。
二人組も振り返った。
今は全員、飲食スペースにいる。
調理スペースには誰もいない。
「何か、落ちちゃったんですかね」
金目は立ち上がった。
その前に二人組へ、
「よろしければ、パイシチュー一人分多めに作ってあるので、お二人で分けて食べてください」
と声をかける。
それから、
「じゃあ私、ちょっと見てきますね」
と調理スペースへ向かった。
未使用の調理台。
その上に、小さな計量スプーンが一本置かれている。
さっき金目自身が、調味料棚のケースへ戻したものとよく似ていた。
「あら……」
金目は不思議に思いながら近づく。
すると、スプーンへ手を伸ばす前に気づいた。
さっきスタッフが閉めたはずの収納扉が、またほんの数ミリだけ開いている。
しかも、その隙間から白いものが覗いていた。
金目はスプーンには触れず、ゆっくり収納扉を開ける。
中には予備の布巾やキッチンペーパー、簡単な清掃用品。
そして、そこには本来ないはずのものがあった。
茶色い染みのついた紙ナプキン。
小さな透明の保存容器の蓋。
棚の奥には乾いた食材の欠片。
蝶番の近くには、白い粉。
さっきまで「少し細かな見落とし」だと思っていたものとは、少し違う。
金目は何も触らず、スタッフを呼んだ。
「すみません。少しこちらを見ていただいてもよろしいですか?」
スタッフと一緒に収納を確認する。
「ここって、もともと何が入っている場所か分かりますか?」
「基本的には予備の布巾とキッチンペーパー、それから簡単な清掃用品ですね」
スタッフは眉をひそめる。
「なので、このナプキンと……この蓋は、本来ここに入っているものではないです」
金目は蝶番付近の白い粉も指した。
「すみません。さっきはあまり気にしなかったんですけど……この白い粉って、何だと思いますか?」
「小麦粉……か、片栗粉ですかね。ただ、ここに付くのはちょっと変ですね」
二人で周囲を見ていると。
コト。
少し離れた、別の未使用調理台から小さな音がした。
そちらを見る。
木べらが一本。
さっきとは向きが変わっている。
スタッフが表情を曇らせた。
「……今、動きました?」
金目はすぐには断定しない。
「……さあ、どうですかね」
けれど。
計量スプーン。
紙ナプキン。
容器の蓋。
白い粉。
木べら。
どれも、何かを料理する途中で使うものばかりだ。
まるで、誰もいないはずの場所で、誰かが料理の続きをしているような。
金目は三つの品を慎重に取り出し、調理台の上へ並べた。
計量スプーン。
紙ナプキン。
透明の容器の蓋。
スタッフも見比べる。
「……並べて見ると、なんだか変ですね」
金目は蓋をよく観察した。
油っぽい曇り。
薄茶色の小さな欠片。
白っぽい粉の跡。
そして、ふと口にする。
「……これ、もしかしてハンバーグ?」
スタッフも思い出した。
以前、忘れ物として見つかった容器。
中身は刻んだ玉ねぎと、ひき肉。
「前に忘れ物で出た容器、中身が玉ねぎとひき肉だったって話でしたもんね」
「ちなみに、その時の方って、何を作られてたか覚えてますか?」
スタッフは記憶を辿る。
「たしか……煮込みハンバーグだったと思います」
茶色い染み。
白い粉。
玉ねぎ。
ひき肉。
計量スプーン。
少しずつ、一つの料理が見えてくる。
その利用者は、一人で来ていた。
けれど作っていたのは二人分ほど。
完成した料理は持ち帰る予定だった。
金目はスタッフへ尋ねた。
「その方の電話番号って……こちらでは分かりますか?」
もちろん、金目へ直接伝えることはできない。
ただし施設側から連絡することはできる。
「それはもちろんです」
金目は柔らかく笑った。
「もしよろしければ、その形で一度お伺いしてみていただけませんか。説明が難しいようでしたら、途中で私に代わっていただいても大丈夫ですので」
しばらくして、電話はつながった。
金目はスマートフォンを受け取る。
「突然のお電話、申し訳ございません。私、フリーライターの草壁金目と申します。今、お時間の方はよろしいでしょうか?」
女性は戸惑いながらも、話を聞いてくれた。
以前、この施設で煮込みハンバーグを作ったこと。
材料を忘れたこと。
小さな容器の蓋を忘れた可能性があること。
ソースを少しこぼし、ナプキンかキッチンペーパーで拭いたこと。
計量スプーンで小麦粉か片栗粉を量ったこと。
ただし。
『それ、全部ちゃんと片付けたと思うんですけどね』
女性は不思議そうに言った。
金目はさらに尋ねる。
「ちなみに……煮込みハンバーグの方は、お一人分だけ作られた形でしょうか?」
少し間があった。
『……いえ。二人分、です』
『私の分と……もう一人分』
そして。
『……母に、持っていくつもりだったんです』
声が少し重くなった。
金目はすぐには踏み込まない。
相手が話せるまで待った。
やがて女性は静かに語った。
母親は当時入院していた。
食欲が落ちていた。
けれど煮込みハンバーグだけは昔から好きだった。
だから作って持っていこうと思った。
しかし。
『……母、亡くなったんです』
『私があそこでハンバーグを作った日、その日の夜に』
病院へ持っていくつもりだった。
けれど料理に思ったより時間がかかった。
病院へ着いた時には、もう間に合わなかった。
『結局、一口も食べてもらえませんでした』
金目は静かに謝った。
「申し訳ございません。辛い記憶を思い出させるような真似をしてしまって……」
それでも、もう少しだけ話を聞いた。
ハンバーグそのものは完成していた。
二人分。
母親へ持っていく分も、ちゃんと容器へ入れていた。
忘れたのは、余った玉ねぎやひき肉など、調理途中の材料だけ。
ならば。
なぜ今ここに出てくるのは、完成した料理ではなく、途中の工程ばかりなのか。
金目は少し考えたあと、慎重に尋ねた。
「……煮込みハンバーグって、よくお母様と一緒に作られていたんですか?」
『……はい』
女性の声が少しだけ柔らかくなった。
子どもの頃から、よく一緒に作っていた。
玉ねぎの切り方。
ひき肉のこね方。
ソースの作り方。
ほとんど母親に教えてもらった。
『だから入院してから、何か食べたいものある?って聞いた時に……』
少し間があって。
『“あんたのハンバーグが食べたい”って言われて』
そこで。
金目は決めた。
「すみません。少しだけ、お待ちいただいてもよろしいですか?」
スタッフへ確認する。
本人が希望するなら、今から施設へ来てもらっても構わないか。
施設側としては問題ない。
金目は再び電話へ戻る。
「もしよろしければなんですが……本日、こちらの施設までお越しいただくことって可能でしょうか」
『……今から、ですか?』
「もちろん、お時間などに余裕がありましたらで大丈夫です。こちらから無理にお願いするつもりはありませんので」
女性は少し迷ったあと、
『今日は……大丈夫です。少し時間はかかりますけど、行けます』
と答えた。
女性を待つ間。
金目は、当時使った材料をできるだけ揃えることにした。
スタッフはかなり具体的に覚えていた。
合いびき肉。
玉ねぎ。
卵。
パン粉。
牛乳。
デミグラスソース。
ケチャップ。
ウスターソース。
しめじ。
にんじん。
小麦粉か片栗粉。
金目は千鶴と金鶴へ、
「ごめん、ちょっとここ少しの間見ててもらっていい?」
と頼み、自分で近くのスーパーへ向かった。
必要なものだけを手早く揃え、すぐに戻る。
「ごめんなさい、戻りました」
袋を置き、
「つるちゃん、何か変わったことあった?」
と尋ねる。
千鶴は首を振った。
「大きくは何もなかったよ。でも……一回だけ、あの木べらが置いてある方から小さい音がした」
金鶴も頷く。
「……並べてたものは、そのまま。誰も触ってない」
金目は礼を言い、キッチンの様子を見に行った。
並べた三つは変わっていない。
ただ。
別の未使用台に、細かく刻まれた玉ねぎの欠片が一つ増えている。
茶色いソース跡の近くには、指先でぬぐったような細い筋。
そして。
耳を澄ませると。
……とん、とん。
包丁で何かを刻むような、小さな音。
けれど。
そこには誰もいない。
金目は少し考えた。
そして、音のした台とは別の空いているキッチンへ移る。
まな板。
ボウル。
計量カップ。
木べら。
鍋。
必要な器具を丁寧に並べていく。
ただし、包丁だけは出さない。
危険だからだ。
少し距離を取って様子を見る。
まな板が、ほんの少しだけ斜めになっている。
布か袖が作業台を擦るような音。
木製の何かが置かれる音。
そして。
……とん。
さっきと同じ、食材を刻むような音。
今度は、金目が新しく器具を並べた方からだった。
金目は、そこにいるかもしれない何かへ、周囲には聞こえないほど小さな声で言った。
「……もう少しだけ、待ってくださいね」
数秒後。
木べらが、ほんの少しだけ動いた。
まるで、
分かった。
と返事をするように。
金目は穏やかに囁く。
「……ありがとうございます」
少しずつ後ろへ下がる。
何か変化があれば止まれるように。
一度、頭を下げる。
さらに離れたところで、
こと。
音がした。
見ると、ボウルがほんの少しだけまな板の方へ寄っていた。
まるで、本当に。
ここで待っている。
とでも言うように。
金目はもう一度無言で頭を下げた。
そのあと皆のところへ戻り、
「すみません。もう少し多分、お時間かかっちゃいそうなので。よろしければ先に召し上がっていてください」
と勧める。
千鶴と金鶴にも、
「つるちゃん、金鶴ちゃんもごめんね。もう少し時間かかりそうだから、先に食べてて」
と声をかけた。
食卓にいる二人組にも、
「どうぞ私のことは気にせずに、遠慮なく食べてくださいね」
と笑う。
そして二人のそばへ少し身を寄せ、
「つるちゃん、金鶴ちゃん。あとで味の感想、聞かせてね」
と小さく囁いた。
それから金目は、受付に残っていたスタッフと、取材の続きをしながら待った。
月の利用者数。
アクセス。
今後増やしたい設備。
製菓向けの拡張。
料理教室用スペース。
そうして時間をつないでいると。
やがて入口に、一人の女性が現れた。
三十代ほど。
緊張した表情で施設を見回している。
電話で話していた女性だった。
金目は食材の袋を持ったまま、入口へ向かい、丁寧に頭を下げた。
「改めまして……私、フリーライターをしております草壁金目と申します」
「無理を言って、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
女性の緊張を感じ取り、金目は必要以上に距離を詰めず、柔らかく微笑む。
「では、よろしければ……こちらの方まで来ていただいても大丈夫ですか?」
キッチンへ入る手前まで案内する。
「無理に近づいていただく必要はありませんので。まずは、ここから見ていただくだけで大丈夫です」
女性は中を見る。
計量スプーン。
紙ナプキン。
透明な容器の蓋。
表情が変わった。
「……何か、気づかれたことはございますか?」
「……これ……」
女性は蓋を見る。
「この蓋、たぶん……私のです」
さらにナプキン。
「それと……その染みも。私、ソースこぼして……こういう感じで拭いた気がします」
計量スプーンも。
「これも……使ったと思います」
そして。
「でも……おかしいです」
女性は不安そうに言う。
「私、あの日ちゃんと片付けたつもりでしたし……忘れ物も、連絡いただいた分はもう処分されたって聞いてました」
金目は声を柔らかくした。
「そうだったんですね」
それから、
「差し支えなければ、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「……佐伯、由美です。佐伯由美」
「佐伯さんですね。ありがとうございます」
そして金目は、買ってきた材料を見せた。
「よろしければ……私と一緒に、煮込みハンバーグを作っていただけませんか?」
合いびき肉。
玉ねぎ。
卵。
パン粉。
牛乳。
デミグラスソース。
ケチャップ。
ウスターソース。
しめじ。
にんじん。
「先ほどお話を伺って、できるだけその時と近いものを揃えてきました」
佐伯は材料を見つめた。
「……同じですね」
「たぶん……あの日と、ほとんど」
そして不安そうに尋ねる。
「……私で、いいんですか?」
金目はにこっと笑った。
「もちろんです」
むしろこちらからお願いするように、少しだけ頭を下げる。
「よろしければ、一緒に作らせてください」
佐伯は目を丸くし。
やがて。
「……はい」
と頷いた。
「じゃあ……お願いします」
その瞬間。
こと。
木べらが、小さく作業台へ触れる音がした。
二人は同じ作業台へ並ぶ。
まな板を二枚。
ボウル。
計量器具。
必要な調理器具。
そして、今度は包丁も出す。
材料を並べ終える。
ふと。
佐伯の前にあるまな板の端に、ごく薄く白い粉が付いていた。
計量スプーンの柄にも。
さらに。
……とん。
包丁で何かを刻むような音。
二人とも、まだ包丁には触れていない。
佐伯が息を呑む。
「……今……」
金目はすぐに柔らかく笑った。
「大丈夫ですよ、佐伯さん」
安心させるように、その手をそっと包む。
「では……一緒に、調理を始めましょうか」
「……はい」
二人で料理を始めた。
玉ねぎを刻む。
ひき肉。
卵。
パン粉。
牛乳。
昔の手順を、佐伯の記憶に合わせて進める。
途中。
粉を使う工程へ来た。
佐伯が手を止める。
「……あ」
「思い出しました」
「母と作ってた時……ここ、いつも母がやってたんです」
ハンバーグへ薄く粉をまぶすところ。
子どもの頃、佐伯はこれが下手だった。
粉をつけすぎて。
『そんなに真っ白にしたらハンバーグじゃなくなるでしょう』
と母親に笑われた。
金目も少しだけ笑う。
「それにしても……“そんなに真っ白にしたら”って。一体どれだけつけられてたんですか?」
佐伯は思わず笑った。
「……ほんとに、真っ白になるくらいです」
「小麦粉って、たくさんつければいいと思ってたんですよ。子どもの頃」
金目は穏やかに言う。
「じゃあ次は、真っ白にしないように作らないといけませんね」
「……はい。今度はちゃんと薄く」
二人で粉をまぶす。
こと。
木べらが小さく鳴った。
今度はどこか、満足したように。
調理は進む。
ハンバーグに焼き色をつける。
デミグラスソース。
ケチャップ。
ウスターソース。
しめじ。
にんじん。
鍋の中で煮込んでいく。
香りが立つ。
佐伯が手を止めた。
「……この匂い」
「母の家で作ってた時と……同じです」
ぐつ、ぐつ。
鍋が小さな音を立てる。
そして。
「……あれ?」
佐伯が作業台の端を見る。
そこには。
さっきまでなかったはずの、小さな白い取り皿が一枚置かれていた。
そのそばには小さなフォーク。
皿の縁には茶色いソースの跡。
まるで。
一人分、ここに置いて。
とでも言うように。
金目はそれを見て、穏やかに笑った。
「……ちょうどよかったですね」
「煮込みハンバーグができましたら、佐伯さんが作った分はこちらのお皿によそってください」
「私の分は、また後で取りますので」
「……はい」
料理は仕上がっていく。
佐伯は木べらでソースを混ぜる。
その時。
金目の耳に。
とても小さな、年配の女性の声が届いた。
「……上手になったね」
金目はそれをそのまま伝えず、佐伯へ柔らかく言う。
「……すごくお上手ですね」
「煮込み方も、火加減も。ちゃんと丁寧で」
「きっと、何度も作られてきたんだろうなって思いました」
佐伯は少し嬉しそうに笑った。
やがて。
「……できましたね」
煮込みハンバーグが完成する。
金目は先ほどの小皿を慎重に手に取り、佐伯へ差し出した。
「はい、どうぞ」
「ではこちらに、佐伯さんのハンバーグをよそってあげてください」
佐伯は震える手で皿を受け取った。
「……はい」
煮込みハンバーグを一つ。
ソースも丁寧に。
湯気が立つ。
こと。
フォークが小さく動いた。
金目は皿を受け取り、ゆっくりとフォークの前へ置く。
フォークもそっと皿の上へ。
「……どうぞ」
かちゃ。
誰も触れていないフォークが、皿の中央へ向くようにわずかに動く。
湯気が、不自然に揺れる。
まるで。
誰かがその料理を覗き込んだように。
佐伯が息を呑んだ。
金目は何も言わず。
ただ安心させるように、柔らかく微笑んだ。
そして。
静かに耳を澄ませる。
今度は。
はっきりと。
「……おいしいよ」
年配の女性の声。
少し間があって。
「ちゃんと、食べられたよ」
そして。
「ありがとう、由美」
かちり。
フォークが一度だけ鳴った。
金目は何も言わない。
佐伯の隣で。
ただ待つ。
やがて。
佐伯の唇が震える。
「……お母さん……?」
フォークが、ほんの少しだけ動いた。
佐伯の目に涙が浮かぶ。
金目はそれでも、何も言わず待った。
しばらくして。
佐伯が小さく言う。
「……食べてもらえたんですね」
金目は静かに頷いた。
「……そうですね」
それから、少しだけ柔らかく笑う。
「『おいしいよ』って、言われてましたよ」
佐伯が顔を上げる。
「それに……『ありがとう』って」
ほんの少し間を置いて。
「よかったですね」
佐伯の目から、また一粒涙がこぼれる。
でも。
今度ははっきりと笑った。
金目も。
その笑顔を見て、安心したように笑う。
けれど。
まだ終わったとは決めない。
金目は何も言わず。
最後の言葉を待った。
しばらく。
何も起きない。
皿のフォークも動かない。
木べらも鳴らない。
そして。
ごく小さく。
「……由美」
さっきと同じ声。
「もう、自分を責めなくていいよ」
少し間があって。
「ちゃんと、嬉しかったから」
その声は。
今度こそ、遠ざかるように薄れていった。
金目はそれを聞いたあとも、しばらく何も言わなかった。
佐伯も。
ただ立っていた。
やがて、目元を拭って。
「……すみません」
と掠れた声で言う。
「私……ずっと、間に合わなかったことばっかり考えてました」
「もっと早く作ればよかった、とか」
「もっと早く病院に行けばよかった、とか」
「そもそも、あの日ここで作ろうなんて思わなければよかった、とか……」
それから。
小さく笑う。
「でも……食べたかったって思ってくれてたんですね」
そして。
「……ありがとうございます、草壁さん」
金目は柔らかく笑った。
「どういたしまして」
それから。
ぱん。
小さく手を叩く。
「さて」
「私たちも食べましょうか」
佐伯は一瞬きょとんとして。
そして笑った。
「……はい」
金目は出来上がった煮込みハンバーグを一つ半分にし、その半分をさらに分けた。
四分の一ずつ。
千鶴と金鶴へ持っていく。
「つるちゃん、金鶴ちゃん。これも少し食べてみて」
千鶴が金目を見る。
「かなちゃんは?」
「私は別にいいよ」
そう返して。
今度は佐伯へ向き直った。
「佐伯さん、せっかくここまで来ていただいたので……よかったら」
金目は自分用に用意していたパイシチュー。
サラダ。
プリン。
それから煮込みハンバーグを並べる。
「ここで座って食べてください」
「ただ、パイシチューの方はちょっと時間が経って冷めちゃったと思いますけど……」
スタッフへ尋ねる。
「これ、電子レンジで少し温め直した方がおいしいですかね? パイの感じ、悪くなっちゃいます?」
レンジで中を温め、そのあとオーブンで少し表面を戻すことにした。
佐伯は驚く。
「……こんなに、いいんですか?」
「いいですいいです。遠慮なく食べてくださいね」
金目は笑った。
その様子を見た受付スタッフが、ふと気づく。
「草壁さん、そういえば……草壁さん、ほとんど何も召し上がってないですよね?」
金目は「ああ、私は大丈夫ですよ」と答えようとした。
するとスタッフは、休憩用に買っていたフルーツを取り出した。
「これ、私たちが休憩の時に食べようと思って買っていたものなんですけど……よかったらどうぞ」
思っていたより、かなり量がある。
「え、こんなにいいんですか? ありがとうございます」
金目は受け取って。
余った卵。
牛乳。
砂糖。
そこへ視線を落とした。
そして。
「……せっかくですから」
フルーツを軽く持ち上げる。
「これを使って、もう一品デザートを作りましょうか」
金目は自家製カスタードを作り始めた。
卵と牛乳、砂糖。
火加減を丁寧に調整しながら、なめらかなカスタードクリームに仕上げる。
小皿へフルーツを彩りよく盛りつけ、その上にカスタードを添える。
今度は皆の分。
千鶴。
金鶴。
佐伯。
二人組の利用者。
スタッフ二人。
そして金目自身。
「せっかくですから、皆さんの分も作っちゃいました」
食事を終えていた皆へ、追加のデザートとして配っていく。
「どうぞどうぞ。遠慮なく食べてくださいね」
千鶴は笑った。
「かなちゃん、今日ずっと料理してるね」
金鶴も。
「……カスタード、好き」
二人組の利用者は、
「取材っていうより、料理会みたいになってきましたね」
と笑った。
スタッフも。
自分たちが渡したフルーツがデザートになって戻ってきたことに、少しおかしそうにする。
金目自身は。
佐伯に自分の料理をほとんど譲ってしまったため、煮込みハンバーグを少しと、フルーツのカスタード添えだけを食べた。
佐伯は煮込みハンバーグを一口食べ。
ふっと目を細める。
「……ちゃんと、あの時の味です」
そして。
「母に教えてもらった味でした」
穏やかに笑った。
その後。
キッチンでは。
もう何も起きなかった。
木べらは動かない。
収納扉も開かない。
計量スプーンも移動しない。
あれほど続いていた「料理の途中」の痕跡は、完全に止まっていた。
⸻
食事が終わる頃。
佐伯は最後にもう一度、例の未使用調理台へ目を向けた。
しばらく見つめてから。
小さく息を吐く。
「……来てよかったです」
そして金目へ向き直る。
「電話だけだったら、たぶん信じられなかったと思います」
もう一度頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
帰り際。
佐伯は入口で一度だけ振り返った。
さっきまで母親の気配があったキッチンを見つめ。
小さく。
「……また作ろうかな」
と呟いた。
今度は。
誰かに間に合わせるためではなく。
自分のために。
そうして佐伯は、穏やかな表情で施設を後にした。
スタッフたちは、例の未使用調理台を改めて確認した。
紙ナプキン。
透明な蓋。
白い粉。
もう増えることも。
動くこともない。
スタッフの一人が少し困ったように笑った。
「……これ、記事にはどうされます?」
金目としては。
施設そのものに大きな問題はなかった。
設備は使いやすい。
衛生面も全体としては良好。
スタッフの対応も丁寧。
利用者からの評価も高い。
今回の出来事は、少なくとも施設の欠陥として書くようなものではない。
記事は。
あくまで新設シェアキッチンの体験取材としてまとめられた。
設備の充実。
利用者同士の距離感。
予約のしやすさ。
衛生管理。
実際に料理を作った使い勝手。
途中で見つかった細かな清掃や確認の見落としについても、改善提案として柔らかく触れる程度。
不思議な出来事については。
記事には載せなかった。
⸻
数日後。
記事は無事に掲載された。
特に反応が良かったのは、設備紹介だけではなく。
金目が実際に料理をしている写真。
完成した料理の写真。
パイシチュー。
サラダ。
プリン。
フルーツの自家製カスタード添え。
編集者から連絡が来る。
『写真、今回もかなり評判いいですよ』
金目は少し間を置いて。
「……やっぱり写真の方なんですね」
と、ちょっとだけ複雑そうに返した。
文章については、
『読みやすくまとまってます』
くらい。
やっぱり。
写真の方を褒められた。
⸻
さらに数日後。
Kitchen Share Lienから、短いお礼の連絡が届いた。
記事を見て予約が少し増えたこと。
金目が提案した、
退室時の忘れ物確認。
水拭きや水洗い確認の声かけ。
収納扉など細部のチェック。
それらをスタッフ間で改めて見直したこと。
そして。
『佐伯様からも、草壁様へ改めてお礼をお伝えしてほしいとのことでした』
その少し下に。
『最近、久しぶりにご自宅でも煮込みハンバーグを作られたそうです』
という一文があった。
もう。
間に合わせるための料理ではない。
後悔を埋めるための料理でもない。
ただ。
母から教わった味を。
自分で作るために。
⸻
その日の夕方。
金目は自宅のキッチンに立っていた。
千鶴と金鶴が近くにいる。
今日の夕食をどうしようか考えながら、冷蔵庫を開ける。
すると金鶴が、小さく言った。
「……ハンバーグ」
金目は少しだけ目を瞬かせたあと。
笑った。
「またですか?」
千鶴も笑う。
「でも、今日ならいいんじゃない?」
金目はしばらく二人を見てから。
「……そうですね」
と頷いた。
「じゃあ今日は、煮込みハンバーグにしましょうか」
今度は。
誰かを待たせるためではなく。
三人で食べる夕食として。
キッチンには。
包丁がまな板を叩く、普通の音が響き始めた。
とん、とん、とん。
もう。
その音の中に。
知らない誰かの気配はなかった。
⸻
TRUE END『ちゃんと、食べられたよ』




