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最後の一席

 八月下旬。


 午後の陽射しがまだ強く残る中、草壁金目は自宅の仕事机に向かっていた。


 開いたノートパソコンの横には、飲みかけのアイスティー。机の上には必要なものだけがきちんと整えられ、それ以外はいつものように片付いている。


 ここ最近、妙な事件が続いていた。


 鏡。


 消えた人間。


 そして、帰ってきた三十五人。


 ようやくひとつの事件が片付き、今日は珍しく、命の危険も怪異の気配もない、ごく普通の仕事の日だった。


 少なくとも、今のところは。


 金目は届いている依頼メールを上から順番に確認していた。


 新商品の紹介記事。


 飲食店の取材。


 地域イベントのレポート。


 その中で、一件のメールに手が止まった。


 件名は、


『取材依頼/旧ホテル改装前の記録記事について』


「…………」


 まだ本文すら読んでいない。


 けれど、『旧ホテル』という四文字だけで、金目には十分だった。


 最近の経験上、古い建物というだけで警戒する理由になる。


 それでも仕事のメールを件名だけで無視するわけにもいかず、恐る恐る本文を開いてみる。


 内容自体は拍子抜けするほど普通だった。


 市内にある小規模なホテルが来月から全面改装に入るため、その前に館内の様子を記録する記事を作りたいというものだった。


 建物は三十年ほど前に建てられたもので、歴史的建造物というほど古くもない。


 取材内容も、館内写真と従業員への簡単なインタビュー。


 報酬も悪くない。


 ただし、メールの最後には妙な一文があった。


『今回は心霊スポットなどではありません。普通のホテル取材です』


「……わざわざ書かれると、逆に不安なんですけど」


 金目は小さく呟いた。


 そのまましばらく画面を見つめ、ほんの少し嫌そうに目を細める。


 やがて、メールを閉じた。


「……まあ、いいですか」


 そして、ひとつ下に並んでいた別の依頼を開く。


『新規オープン飲食店・取材記事のお願い』


「……こっちにしましょう」


 決断は早かった。


 駅から徒歩十分ほどの場所に新しくできた、小さな洋食店。


 店主へのインタビューと店内写真、看板メニューの撮影。


 少なくとも、食べ物は勝手に喋らない。


 鏡から人も出てこない。


 たぶん。


 金目はその依頼元へ電話をかけた。


「お世話になっております。草壁金目です。先ほどいただいた飲食店の取材依頼なんですが……こちらの件についてお話をお聞かせ願いますか?」


 電話の向こうで、編集者の声が明るくなる。


 取材日は二日後。


 店主は取材慣れしていないらしく、少し緊張するかもしれない。


 そんな話をしていた編集者が、最後に何気なく言った。


「今回は、本当に普通の飲食店取材ですから」


 金目の眉がぴくりと動いた。


「……え?」


 嫌な予感がしたように、受話器を持ち直す。


「まさかと思いますけど……私のこと、ほかの編集の方から何か聞いてます?」


 編集者は少し慌てた。


「いやいや。そんな大した話じゃないですよ。最近、草壁さんがちょっと変わった案件に当たることが多いって、雑談で聞いたくらいで」


「……私、編集者さんたちの間でそんな噂立ってるんですか……?」


 金目は目に見えてショックを受けたように肩を落とした。


「いや、噂ってほどじゃないです。本当に」


「それ、十分広まってません……?」


 編集者はさらに取り繕う。


「悪い意味じゃないですって。むしろ、変な案件でもちゃんと記事にして帰ってくる人、みたいな感じで……」


 そこで本人も失言に気づいた。


「……あ、今の言い方もよくなかったですね」


 金目の表情がさらに微妙になる。


「変な案件でもちゃんと記事にして帰ってくる人、って……それ、まるで帰ってこない人もいるみたいじゃないですか……」


 声が少し涙声になった。


 編集者は本気で慌てた。


「ち、違います違います! そういう意味じゃないです!」


「今の言い方、完全にそう聞こえましたけど……」


「本当に違います! 普通に取材行って、普通に帰ってきてください!」


 金目は少し頬を膨らませた。


「……もう」


 それから、むすっとした顔のまま続ける。


「そんな言い方するってことは……もちろん、その編集者さんから“例の件”も聞いてるんですか?」


 電話の向こうに沈黙が落ちた。


「……例の件、というのは?」


 どうやら本当に分かっていないらしい。


 金目は少し眉を下げた。


「……追加報酬の話ですよ」


「追加報酬?」


「その編集者さんが持ってくる依頼、だいたい変なのばっかりだったので。私、途中から追加報酬を要求するようになったんです」


 編集者は妙に納得したような声を出した。


「なるほど……」


「普通の取材だと思って行ったら、全然普通じゃないことが何回もあったので……さすがに割に合わないなって」


 編集者は笑いを堪えるように答えた。


「それなら安心してください。今回の店は、少なくとも私が把握している限りでは、本当に普通の新規オープン店です。追加報酬が必要になるような要素は……たぶん、ないです」


「……そういう言い方をされる時が、一番不安なんですけど」


 金目はじっとりした声で返した。


「じゃあ、すみませんが……追加報酬の方も、一応話を進めましょうか」


「えっ」


 今度は向こうが固まった。


「いや、まだ何も起きてないですよ?」


「何も起きてないうちに決めておきたいんです。現地で何かあってから、『そういう話は聞いてませんでした』ってなるの、もう嫌なので」


 編集者は観念したように息を吐いた。


「分かりました。通常の取材内容を明らかに超えるような事態が発生した場合は、こちらで追加報酬を出せるようにしておきます」


「今回はまだ初回なので、普通の追加報酬でいいですけど……もし万が一、今回も追加報酬が必要になるようなことがあったら、次からはほかの編集者さんと同じように、二倍とか三倍とかに上がっていきますから。そこだけ注意してくださいね」


「え、累積なんですか」


 金目はその反応を無視して、少し身を乗り出した。


「私としては──追加報酬なんて、ない方が嬉しいんですけど!」


 そこだけは、はっきり声を張った。


 編集者はしばらく黙ってから答えた。


「……はい。そこは、よく分かりました」


 金目はさらに念を押す。


「ちなみに……本当に何もないんですよね、ここ。編集者さんが調べた限りでは」


「はい。私が確認した範囲では普通の新規オープン店です。店主さんにも変な評判はないですし、建物も今回の開店に合わせて改装されています。事故とかトラブルとか、そういう話も特に出てません」


 金目は少しだけ警戒を緩めた。


「分かりました。じゃあ、一応この新規オープンのお店について、分かっている情報をいろいろお願いできますか? 私の方でも、取材前に少し調べておきますので」


 電話を切ったあと、金目は自分でも店について調べた。


 店名は、洋食店『ル・トレフル』。


 店主は以前ホテルレストランで働いていた四十代の男性。


 看板メニューは煮込みハンバーグとオムライス。


 事故歴も事件歴も、妙な噂もない。


 調べれば調べるほど、普通だった。


 ただ。


 地域SNSに投稿された、開店準備中の店内写真。


 そこにひとつだけ、妙なものが写っていた。


 店主らしき男性と若い女性。


 その少し奥。


 厨房へ続く扉の近くに、もう一人。


 黒っぽい服を着て、こちらに背を向けている人物。


 それ自体は何もおかしくない。


 けれど、同じ投稿者が数分違いで撮影した三枚の写真すべてで、その人物だけがまったく同じ位置、同じ姿勢のままだった。


 肩の傾き。


 腕の位置。


 頭の角度。


 服の皺まで。


 さらに、厨房扉の金属部分に映る反射を見ると、店主と女性は確認できるのに、その人物だけが見当たらなかった。


「……嘘でしょう……」


 金目はすぐに編集者へ電話した。


「普通に、やばそうな案件になりそうなんですけど。大丈夫ですか?」


「え?」


「追加報酬、発生しそうですけど」


 写真を送ると、編集者も黙った。


「……これ、確かにちょっと変ですね」


 金目はしばらく迷った末、尋ねた。


「……ごめんなさい。これ、キャンセルとかできます?」


「できますよ」


 返事は思ったよりあっさりしていた。


 金目は少ししょんぼりした声で言った。


「正直なところを言いますけど、最初からこんな写真を見つけちゃうと、私としてはちょっと行きにくいんですよね。それに……あんまり、追加報酬目的でこういうところに行ってるとか、私自身がこういうものを引き寄せてるとか、そういうふうに思われたくないですし……」


 それから遠慮がちに続けた。


「もしよろしければ……今回は、ほかのライターさんに行ってもらえませんか?」


 編集者は穏やかに了承した。


 こうして、金目が『ル・トレフル』へ取材に行く予定は正式に取り下げられた。


「……ごめんなさい」


 再び受信箱へ戻る。


 夏祭り。


 雑貨店。


 劇団の稽古場。


 キャンプ施設。


 体験型ミステリーイベント。


 そして、


『閉店前の老舗喫茶店・最後の一週間を取材してほしい』


 金目は一覧を見比べて、とうとう小さく息を吐いた。


「……もう、どれ見ればいいのか分からないです」


 そこで金鶴を呼んだ。


「金鶴ちゃん、ちょっと来てくれます?」


 金鶴が画面を覗き込む。


「もう、金鶴ちゃんが選んでいいですよ」


 半ば投げるように言うと、金鶴が指さしたのは、閉店前の老舗喫茶店だった。


「……これかな」


「じゃあ……それにしましょうか」


 金目は依頼元へ電話をかけた。


 店の名前は、『喫茶ドレス』。


 三十年以上営業してきた、小さな個人経営の喫茶店。


 店主は高齢になり、体力的な理由から今月末で店を閉じるという。


 記事としては、店の歴史と店主の思い、常連客にとってどんな場所だったのかを残してほしいという依頼だった。


 特に怪しい話はない。


 金目はこの件を正式に引き受けた。


 取材前に軽く店について調べてみる。


 厚切りトースト。


 昔ながらのナポリタン。


 自家製プリン。


 常連客の評判も穏やかだった。


「……プリン、美味しそうですね」


 金鶴も写真を見ていた。


「……これ、食べたい」


 特に編集者さんからも変な感じの話も出なかったので。


 今回は、それ以上深く調べなかった。


 何もない。


 普通の取材。


 そう思って、当日を迎えた。


 ***


 取材当日。


 金目はいつものように身支度を整えた。


 髪も服装もきちんと整え、取材道具をバッグへ入れる。


 そして千鶴や金鶴たちとともに、『喫茶ドレス』へ向かった。


 駅前の商店街から一本脇の通りへ入ると、大通りの賑やかさが少し遠のいた。


 昔からある個人商店や、小さな飲食店が並ぶ静かな一角。


 そこに、深緑の看板を掲げた喫茶店があった。


 入口には、


『長い間ありがとうございました。今月末をもちまして閉店いたします』


 という紙が貼られている。


 その下には、


『寂しいです』


『学生の頃からありがとうございました』


『最後にまたプリン食べに来ます』


 といった小さな付箋が並んでいた。


 (愛されてたんだなぁ……)


 金目は少しだけ表情を和らげる。


 扉を開けると、小さなベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 白髪の混じった男性がこちらを見る。


「ああ……もしかして、今日の取材の方ですか?」


 金目は柔らかく微笑み、丁寧に頭を下げた。


「はじめまして。フリーライターの草壁金目と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」


 店主の久世正一は、少し緊張していたらしい。


 けれど金目の穏やかな態度に、すぐ表情を和らげた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 まず店内を案内してもらうことになった。


 カウンター。


 使い込まれたコーヒーミル。


 サイフォン。


 整然と並べられたカップ。


 長年使われた椅子や棚には傷があったが、どれも丁寧に手入れされている。


 壁には、店の昔の写真が何枚も飾られていた。


「これが開店した年ですね」


 写真には、若い頃の久世と、まだ新しかった店内が写っている。


「そんなに長いこと使われてきたんですね」


 金目は周囲を見ながら言った。


「でも、すごく整えられていて……とても大事にされてきたことがよく分かります。このお店のこと、本当に大好きだったんですね」


 久世は少し照れたように笑った。


「気づけば人生の半分以上、ここにいますから」


 金目は写真や店内を撮影した。


 使い込まれたカウンター。


 カップ。


 昔の写真。


 現在の店内。


 その中で、一枚だけ気になるものがあった。


 額縁に入れられているのに、写真だけが裏返されている。


 けれど金目は、すぐには触れなかった。


 取材を続ける。


「久世さん、このお店を続けてこられる中で……一番大事にされていたことって、何かあるんですか?」


 久世は少し考えて答えた。


「……居場所、ですかね」


 一人で来ても落ち着ける。


 誰かと来ても気を張らなくていい。


 しばらく来なくても、また普通に戻ってこられる。


 そんな場所でありたいと、ずっと思っていたという。


「なるほど……だから、お店の中の雰囲気がとてもいいんですね」


 金目は椅子やテーブルを見ながら笑った。


「お客さんが座る席もすごく手入れが行き届いてますし。長く使われてきた感じはあるのに、ちゃんと大切にされてきたのが分かります」


「古いからって、汚くていいわけじゃないですから」


 久世は椅子の背に手を置いた。


「この椅子なんかも何度か座面を張り替えてるんですよ。買い替えた方が早いって言われたこともありますけど……なんとなく、手放せなくてね」


 金目はその言葉に、少し表情を和らげた。


「それだけ、愛着があったってことですよ」


 椅子や机へ目を向ける。


「それに……それだけ大事にされていたなら、たぶんこの椅子や机たちも、嬉しかったと思います。長い間ちゃんと使ってもらえて、手入れもしてもらえて。きっと、すごく嬉しいと思いますよ」


 久世は少しだけ目尻を下げた。


「……そうですかね」


「はい」


 取材は穏やかに続いた。


 看板メニューはナポリタン。


 飲み物ならブレンドコーヒー。


 甘いものならプリン。


「私たちもちょっと食べてみたいですね」


 金目が目を輝かせる。


「もちろん料金はちゃんとお支払いしますので。人数分、きちんと」


 久世は笑った。


「ナポリタンとプリン、両方いきます?」


「私はもちろん、両方いきます」


 千鶴も金鶴も両方を選んだ。


 料理を待つ間、金目は店内の客にも話を聞くことにした。


 新聞を読んでいた年配の男性。


 長年この店へ通っている常連客だった。


「こちらのお店には、ずいぶん長く通われてるんですか?」


「二十年以上になるかな」


 男性は、少し懐かしそうに話した。


 そして金目を見て、少し照れたように視線を逸らす。


「……しかし、こんな若くて綺麗な人に取材されるとは思わなかったな」


「き、綺麗って……」


 金目はわずかに頬を赤くした。


「ん、んんっ……お、お上手ですね」


 咳払いをして取材へ戻る。


「久世さんとも、すごく長いお付き合いなんですね。お店の雰囲気って、昔からこんな感じだったんですか?」


 男性は店内を見回した。


 昔はもっと客が多かった。


 それでも騒がしい店ではなかった。


 久世がそういう空気を作っていたのだと思う。


「……変わってないものも、あるしな」


 その言葉だけが、少し低かった。


 金目は何気なく聞き返した。


「変わってないものと言われますと……やっぱり、お料理の味とか、そういったものですか?」


「味もそうだよ」


 男性は奥にある二人掛けの席へ視線を向けた。


「ただ、俺が言ったのは、それだけじゃないけどね。まあ、その話は久世さんから聞いた方がいい」


 その頃、金目はすでにその席に気づいていた。


 二脚の椅子がきれいに引かれ、壁には『予約席』の木札。


 久世も時折、その席を確認するように見ていた。


 けれど、料理が運ばれてくると、金目はしばらく取材を忘れた。


「わあ……!」


 湯気の立つナポリタンに目を輝かせる。


「つるちゃん、金鶴ちゃん。おいしそうですね!」


 きちんと手を合わせる。


「いただきます」


 一口食べる。


 ケチャップの甘酸っぱさ。


 バターのまろやかさ。


 玉ねぎの甘み。


 ウインナーの塩気。


「……おいしい」


 久世へ顔を向ける。


「久世さん、これ、とっても美味しいです」


 食後にはプリンとブレンドコーヒー。


 固めのプリン。


 ほろ苦いカラメル。


 その甘みが残るうちに飲むコーヒー。


 金目はほっと息を吐いた。


「これ、すごく合いますね……」


 そして嬉しそうに久世へ言う。


「プリンもコーヒーも本当に美味しいです」


 常連客へも笑う。


「このコーヒー、おすすめしていただいてありがとうございます。おすすめされた通り、本当に美味しいです」


 穏やかな時間が流れた。


 食事が終わったあと。


 久世は、先ほど金目が尋ねていた予約席について話し始めた。


「あそこは、毎年この時期になると空けてるんです」


 昔、よく来ていた夫婦がいた。


 二人はいつもあの席に座っていた。


 予約しなくても、来る時間になると久世が自然と空けておくほどだった。


 けれど、ある年から来なくなった。


「事故で、二人とも亡くなったんです」


 金目はペンを止めた。


「……そうだったんですね」


 記事の材料として細かく書く気にはならなかった。


「とても大切な方たちだったんですね」


「二十年近くの付き合いでした」


 夫婦は結婚する前からこの店へ通っていた。


 奥さんはプリンが好きだった。


 旦那さんはブレンド。


 結婚記念日には、小さな苺のホールケーキを三人で分けて食べた。


 そんな話を聞いているうちに、金目は予約席に妙な変化があることに気づく。


 片方の椅子が、さっきより数センチ後ろへ引かれている。


 誰も触れていない。


 テーブルには、カップを置いたような丸い跡。


 年配の常連客が小さく呟いた。


「……今年も、か」


 金目は久世へ確認した。


「……久世さんは、ご存知だったんですか?」


 久世は小さく頷いた。


「正確には、“何かが起きることがある”とは知っていました」


 椅子が動く。


 誰も使っていないテーブルにカップの跡が残る。


 そういうことが、命日の近くになるとたまに起きた。


 金目はゆっくり息を吐いた。


「……ふぅ」


 それから金鶴へ声をかける。


「金鶴ちゃん。……何か、変な感じしますか?」


 金鶴は予約席へ目を向けた。


「……うん。なんか、いる感じはする。でも……すごく嫌な感じじゃない」


 敵意はない。


 けれど、何かはいる。


 金目はそこで、裏返されたままの写真について尋ねた。


「あのお写真、裏を向けられてますけど……あれは一体?」


 久世は、亡くなった夫婦が写っている写真だと答えた。


 命日の近くになると、何度表へ戻しても裏返ってしまう。


 だから、もう無理に直すのをやめたという。


 金目は慎重に頼んだ。


「もしよろしければなんですけど……あのお写真、少し見せていただくことはできますか? もちろん、無理にとは言いません。お嫌でしたら、何もしませんので」


 久世は了承した。


 額縁を外し、表へ返す。


 その瞬間。


 金目は予約席の椅子が、誰も触れていないのに一瞬沈むのを見た。


 テーブルには二つの輪。


 額縁のガラスに映る反射の中だけ、二人分の人影のようなものが並んでいる。


 けれど、金目は何も言わなかった。


 写真には、若い頃の久世と夫婦が写っていた。


 三人とも笑っている。


 テーブルにはプリンとコーヒー。


 中央には小さな空の皿。


 裏面には、


『六月二十二日』


『結婚十周年。三人でケーキ。いつもの席で。』


『来年も、ここで。』


 という文字。


 さらに、薄く、


『……また三人で』


 と書こうとしたような痕跡。


 写真の端には、小さな染みもあった。


「ここ、少し染みがついてますけど……何かこぼされちゃったんですか?」


 久世はしばらく見てから、思い出した。


「この写真を撮った翌年……奥さんが一人で店に来たことがあったんです」


 旦那さんが心臓を悪くし、入院した。


 その時、奥さんが写真を見ながら泣き、涙が一滴落ちた。


 旦那さんは一度退院した。


 再び二人で店へ来るようになった。


 けれど。


 その翌年。


 二人で出かけた帰りに交通事故に遭った。


 旦那はその場で亡くなり、奥さんも病院で助からなかった。


「……それからですね。あの席を、この時期だけ空けるようになったのは」


 久世は静かに言った。


「あの二人が亡くなったのが、六月二十二日だったんです」


 金目は写真の裏面の日付へ視線を落とした。


 六月二十二日。


 三人で結婚十周年を祝った日。


 そして、二人が亡くなった日。


 金目は考えた。


 もし霊的なものとして考えるなら。


 二人は、その日もここへ来るつもりだった。


 前年と同じように。


 久世と三人で。


 小さな苺のケーキを分けて。


 けれど、来られなかった。


 それが、心残りになっているのかもしれない。


 金目は久世へ尋ねた。


「そのケーキって、この近くのケーキ屋さんで買われてたんですか?」


 今も営業している洋菓子店だった。


 毎年、四号ほどの苺のショートケーキを予約していたという。


 金目は予約席を見る。


 二つのカップ跡。


 椅子は二脚とも、少しだけ引かれている。


 テーブル中央には、小さな赤い染み。


 まるで、苺の果汁のような。


 金目は立ち上がった。


「じゃあ、せっかくですから」


 久世を見る。


「そのケーキ屋さん、今もまだ残ってるんですよね? でしたら、苺の小さいホールケーキ……今から買ってきましょうか?」


 久世は目を見開いた。


「……いいんですか?」


「もちろんですよ」


 金目は常連客へも頭を下げた。


「もしよろしければ、もう少しだけ一緒にいてくださいますか? おそらく、これからケーキを買いに行って戻ってくると、閉店時間を少し過ぎちゃうと思うんですけど……」


 男性は静かに頷いた。


「今日は、最後までいるよ」


 金目はさらに言った。


「ただ……もし少しでも変な感じがしましたら、すぐにお店から出てくださいね。このお店で過ごす最後の日が、嫌な思い出になるのは……私も、とても嫌なので」


 男性は金目を見て答えた。


「分かったよ。無理はしない。でもあんたも同じだ。何かおかしいと思ったら、無理に何とかしようとするなよ」


「お気遣い、ありがとうございます」


 金目は店を出た。


 幸い、目的の苺のショートケーキ四号は一つだけ残っていた。


 急いで戻る。


「久世さん、お待たせしました。こちらのケーキで、お間違いないですか?」


 箱を開ける。


 久世は中を見て、しばらく黙った。


「……ええ。これです」


 金目は予約席へ目を向けた。


 何も置かれていなかったはずのテーブルに、いつの間にか小さな白い皿が一枚置かれている。


 食器棚を確認すると、同じ種類の小皿が一枚だけ抜けていた。


 誰も取りに行った様子はない。


 金目はそれでも動揺を抑えた。


「久世さん。よろしければ、私、お皿の準備をさせていただきますね」


 食器棚から同じ皿を二枚取る。


 一枚は予約席へ。


 すでに置かれていた皿の隣に並べる。


「……これで、お二人の分ですね」


 もう一枚は久世の分。


 すると、予約席に最初からあった皿が、ほんの少しだけ動いた。


 金目が置いた皿の横へ、きれいに並ぶように。


 金目は小さな声で囁いた。


「……もう少しだけ、待っていてくださいね」


 写真を見る。


 裏面には、さっきまでなかった文字が浮かんでいた。


『今年も』


 さらに、


『三人で』


 そして、


『ありがとう』


『まってる』


 金目はその言葉を見て、柔らかく唇を噛む。


「……はい」


 やがて久世が、ブレンドコーヒーと紅茶、三等分した苺のショートケーキを用意した。


 金目は尋ねる。


「昔、どういう並べ方をされてたかって覚えてますか?」


 旦那は通路側。


 奥さんは壁側。


 旦那にはブレンド。


 奥さんにはストレートティー。


 久世は椅子をひとつ持ってきて、二人の横へ座っていた。


「では、今年も同じように置かせていただきましょう」


 金目は昔と同じ順番で、一つずつ丁寧に並べた。


「はい、どうぞ。……熱いので、気をつけてくださいね」


 久世へ確認する。


「……こういう形で大丈夫ですか?」


「ええ。……これで合ってます。本当に、昔と同じです」


「ふふっ……良かったです」


 金目は写真と予約席へ目を向ける。


 写真の裏に、また文字が浮かんでいた。


『いっしょに』


『たべよう』


 床板が、小さく軋む。


 まるで、久世が座る場所を空けるように。


 金目は久世へ笑いかけた。


「久世さん。……どうぞ、座ってください。お二人も、きっと待ってると思います」


 久世は昔と同じ場所へ椅子を置き、腰を下ろした。


 写真の裏には、


『おかえり』


 と新しい文字が現れた。


 二人分のケーキは、誰も触れていないのに少しずつ減っていく。


 コーヒーと紅茶の液面も下がる。


 金目には、小さな声が聞こえた。


 女性の声。


「……おいしい」


 男性の声。


「……変わらないな」


 そして、


「……三人で、食べられたね」


「……待たせたな」


 金目は、それをそのまま伝えることはしなかった。


 ただ久世へ、安心させるように言う。


「久世さん。……また一緒にケーキを食べられて、お二方も、きっと喜んでいるみたいですよ」


 久世は驚いて金目を見る。


 けれど、金目はただ柔らかく笑った。


「……そうですか」


 久世は二人分の席を見る。


「……じゃあ、今年も三人で、ですね」


 そしてケーキを食べる。


 二つのカップが、小さく音を立てた。


 三人分の皿が、ほとんど同じくらい空いた頃。


 金目の耳に、二人の声がもう一度届いた。


「……今年も、おいしかった」


「長い間、ありがとう」


 そして二人の声が重なる。


「……もう、待たなくていいよ」


 写真の裏には、


『もう だいじょうぶ』


『ありがとう くぜさん』


『さようなら』


 という言葉が浮かび上がった。


 二脚の椅子が、ゆっくり元の位置へ戻る。


 テーブルの跡も消えていく。


 金目には分かった。


 消えたというより。


 帰ったのだ。


「……どうやら、帰られたみたいですね」


 久世は予約席を見つめた。


「……帰ったんですね……」


 しばらくして、静かに笑う。


 泣いているようにも見える笑顔だった。


 金目は言った。


「久世さん。よろしければ……お二人からの、最後の言葉をお伝えしてもいいですか?」


 久世は頷いた。


 金目はまず、写真の裏を見せた。


『もう だいじょうぶ』


『ありがとう くぜさん』


『さようなら』


 久世が読み終わるのを待つ。


 そして、静かに続ける。


「最後に、お二人の声が聞こえました」


 奥さんが、


『今年も、おいしかった』


 ご主人が、


『長い間、ありがとう』


 最後に二人で、


『もう、待たなくていいよ』


 久世はぎゅっと目を閉じた。


「……そうか」


 頬を涙が伝う。


「もう……待たなくて、いいのか」


 金目は何も言わず、その時間を待った。


 やがて久世は、空になった二人の席へ向かって小さく呟いた。


「……今まで、ありがとう」


 しばらくして、金目へ言う。


「今日は、本当にありがとうございました。まさか……こんな形で、ちゃんと見送れるとは思ってませんでした」


 久世は長い間、あの席を空けることしかできなかった。


 来ると本気で思っていたわけではない。


 でも片付けることもできなかった。


「でも、もう大丈夫なんですね」


 金目は安心させるように頷いた。


「はい。少なくとも、お二人は満足して帰られたみたいですよ」


 そして、ゆっくり続ける。


「きっと、お二人にも心残りがあったんです。久世さんとここでもう一度、あの時みたいにケーキを一緒に食べたい。この日を、また一緒にお祝いしたいって」


 六月二十二日は、久世にとって二人を亡くした悲しい日になってしまった。


 でも、二人にとっては、それだけではない。


 三人でケーキを食べた、大切な思い出の日でもある。


「だから、その日を久世さんの中で“悲しいだけの日”にして終わらせたくなかったんじゃないでしょうか」


 金目はそう伝えた。


 久世は少しだけ笑った。


「……そうだったら、いいですね」


「はい。私も……そうだったらいいなって思います」


 その後。


 取材は静かに締めへ向かった。


 金目は久世に、店を閉めたあとのことを尋ねた。


 久世はしばらく何もせず、旅行でもしようかと考えているらしい。


 常連客にも、店がなくなったあとどうするのかと尋ねる。


「近所に別の喫茶店もあるし。どこか新しい店を探すよ。それに、たまにはこいつとも店じゃなくて外で飯でも食えばいいしな」


 久世も笑った。


 金目は少しだけ羨ましそうに二人を見る。


「……本当に仲がいいんですね」


 それから小さく、


「私も、こういうふうに長く付き合える友達……いつになったらできるのかしら」


 と、少しとほほとした顔をした。


 続いて、閉店後の店内について尋ねる。


 物件は返却し、家具もすべては持っていけない。


 処分するものも多い。


 金目は寂しそうに店内を見回した。


「……せっかく、こんなによく手入れされたいい家具ですのに」


 そして、ひとつ思いついた。


「久世さん。これ、ただ『欲しい人いませんか』って常連さんに声をかけるだけじゃなくて……今回の記事の最後に、家具や食器の譲渡について少し載せてもらうことってできないでしょうか」


 長く使われてきた家具を、大切に使ってくれる人へ。


 カップや食器も、欲しい常連客へ。


 金目は少し不安そうに尋ねた。


「……いかがですか? もし久世さんさえよければなんですけど……ダメ、ですか?」


 久世は首を横に振った。


「いや。いいと思います」


 金目はぱっと表情を明るくした。


「もちろんです。編集部の方にも確認してみますね」


 最後に金目は、久世へ頼んだ。


「せっかくですから……久世さんのナポリタンとプリンの作り方、それからコーヒーの淹れ方なんかも、教えていただけたら嬉しいです」


 久世は惜しみなく教えてくれた。


 ナポリタン。


 プリン。


 ブレンドコーヒー。


 豆の種類。


 ブレンドの比率。


 金目は取材用とは別に、自分用のメモへ細かく書き込んだ。


 さらに実際にナポリタンを作ってみる。


 久世が一口味見して、驚いた。


「……うまい。いや、これ……初めて作ったとは思えないな」


 常連客にも勧めてみる。


「これ、ちゃんと久世さんの味だな」


 それから笑って、


「店、継いでもらえばよかったんじゃないか?」


「いやいやいやいや……!」


 金目は一気に慌てた。


「私なんかが、お店なんて無理ですよ!」


 二人が笑う。


 金目も照れながら言った。


「まあ、お家でもちゃんと自分で料理してますからね。今は、つるちゃんや金鶴ちゃんたちもいますし。前みたいに、自分一人のためだけに作ることも……もうなくなりましたし」


 つるちゃんと金鶴ちゃんへ向き直る。


「だから、これからもし久世さんのナポリタンが食べたくなったら、いつでも言ってくださいね」


「じゃあ、かなちゃん。今度ほんとに作ってね」


「……食べたい」


「もちろん、いいですよ。久世さん仕込みのナポリタン。それに、プリンもちゃんと作ってあげます」


 そして、コーヒーについてもさらに聞く。


「ただ、やっぱりコーヒーに関しては……淹れ方だけじゃ、久世さんの味を再現するには足りないですよね。豆の種類とか、ブレンドの割合にもこだわらないといけないんでしょうか」


 久世は笑った。


「そこまで気づきましたか」


 豆の種類も。


 焙煎も。


 割合も。


 全部教えてくれるという。


「本当ですか?」


 金目は嬉しそうに、取材とは関係のないメモをさらに増やしていった。


 ***


 数日後。


 金目がまとめた『喫茶ドレス』の記事は、久世が三十年以上大切にしてきた「居場所」という言葉を軸に掲載された。


 開店当初の苦労。


 世代を越えて通い続けた常連客。


 何度も修理されてきた椅子やテーブル。


 昔から変わらないナポリタンとブレンドコーヒー。


 店がなくなることへの寂しさ。


 ただし、あの日予約席で起きたことは、記事には書かなかった。


 亡くなった夫婦のことも。


 六月二十二日に起きたことも。


 久世と二人だけの、大切な出来事として残した。


 代わりに、記事の最後へ家具や食器の譲渡について掲載した。


 反応は思った以上に大きかった。


 昔この店へ通っていた人。


 近所に住んでいた人。


 記事を読んで初めて店を知った人。


 椅子を譲ってほしい。


 カップを記念に残したい。


 自分の店でテーブルを使いたい。


 そんな声が集まり、処分される予定だった家具や食器の多くに、新しい行き先が決まった。


 月末。


 喫茶ドレスは、予定通り最後の営業日を迎えた。


 久世はあの二人掛けの席に、もう『予約席』の札を置かなかった。


 普通の客席として使った。


 もう待たなくていい。


 そう言われたから。


 その日以降。


 椅子が勝手に動くことも。


 誰もいないテーブルにカップの跡が残ることも。


 写真が裏返ることもなかった。


 久世は、あの写真だけは自宅へ持ち帰った。


 若い頃の久世と、笑顔の夫婦。


 裏には今も、


『もう だいじょうぶ』


『ありがとう くぜさん』


『さようなら』


 という言葉が残っている。


 そして金目の家にも、残ったものがある。


 ある日の夕食。


「今日は、久世さんのナポリタンにしましょうか」


 そう言えば、つるちゃんと金鶴ちゃんからすぐに賛成が返ってくる。


 ナポリタン。


 プリン。


 ブレンドコーヒー。


 喫茶ドレスという店そのものは、もうない。


 けれど。


 そこで過ごした時間も。


 大切にされてきた物も。


 そこで作られてきた味も。


 すべてが一緒になくなったわけではない。


 長く大切にされたものは。


 誰かが覚えている限り。


 誰かが受け継いでいく限り。


 きっと、どこかに残り続ける。


 TRUE END『三人で、もう一度』


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