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『三十六人目』 金目調査編 後編

 外部技術者への連絡を施設職員に頼んだあとも、金目たちは一階の打ち合わせスペースに残っていた。


 二階の旧観測室へ入るのは、まだ早い。


 写真と証言だけでも、そこが異常の中心に近いことは十分すぎるほど分かっている。入らずに調べられるものがあるなら、先にそちらを潰した方がいい。


 金目は机いっぱいに改修工事の記録を広げ、異常が報告された日と、何も起こらなかった日を並べていった。


「……工事そのものが原因ではなさそうですね」


 壁や床、配線だけを触った日は何も起きていない。


 対して、反射板やガラス、磨かれた金属面の位置が変わった日には、作業員が「人数がおかしい」と訴えたり、観測室で体調を崩したりしている。


 だが、単純に鏡を動かした日すべてで異常が起きているわけでもなかった。


 写真を重ねるように見比べていた金目は、やがて一つの共通点に気づいた。


「……反射面の数じゃない」


 小さく呟き、指先で写真の中を辿る。


「同じ人の像が、こっちからこっちへ……その先にも続いてる」


 隣で写真を見ていたウェブ媒体のカメラマンも、同じ箇所へ顔を寄せた。


「確かに。鏡が多いっていうより、像が途中で切れてない感じですね」


 異常が起きなかった日の写真では、同じような位置に作業員が立っていても、像は途中で終わっている。


 異常が起きた日だけ、一枚の可動反射板が別の反射面を拾い、その先へ像を繋いでいた。


「誰がいたかじゃなくて、その時どういう道ができてたか……」


 金目の脳裏に、内覧会の記録が浮かぶ。


 名前を答えられなかった男。


 その男へ近づき、顔を覗き込み、胸ぐらを掴んだ薬壱。


 もし、どこにいても保存対象になるわけではないのだとしたら。


 完成した反射経路の終点へ入った人間だけが、次の対象になるのだとしたら。


「……脇さん、自分からその位置に入った可能性がある?」


 仮説にすぎない。


 だが、安全策としては十分だった。


「知らない人が出てきても、近づかない方がいいですね」


 金目は皆へ向き直った。


「まず反射経路を確認する。どこが終点なのか分からない間は、誰もそこへ入らない。それだけは決めておきましょう」


 誰からも反対は出なかった。


 次に必要なのは、不要な反射を減らす準備だった。


 施設内にある厚手の遮光布や、艶のないカバーを集めてもらう。必要のないガラスや金属面を覆い、光路そのものを切るためだ。


「最悪、コートみたいなものでも代用できますか?」


「面を完全に隠せるなら、一時的には」


「じゃあ、使えそうなものは多めにお願いします」


 人の身体そのものを濃色の布で覆う案も残した。ただし、それで安全になるとは誰も言わない。


 輪郭や表情といった、人間として識別される情報を反射面へ渡しにくくできるかもしれない。その程度の期待しかない。


 一方、追加の鏡については慎重になった。


 鏡は光路を切るためのものではない。


 使い方次第では、新しい道を作る。


「必要になったら、専門家の指示で使いましょう。今は増やさない方がいいです」


 管理区画へ続くスタッフ用通路を調べると、そこには思わぬ利点があった。


 壁も扉も設備表面も、ほとんどが艶消し処理されている。人の顔がはっきり映るような反射面は少ない。


 さらに、展示替えに使う黒い遮光布がまとまって保管されていた。


 古い保守マニュアルからは、可動反射板の一部を管理区画側から個別に止められることまで分かった。


「……これなら、いきなり観測室へ入らなくても済みそうですね」


 少なくとも、最初から一番危険そうな場所へ踏み込む必要はない。


 金目はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。


 その後、薬壱のカメラに残されていた異常写真を見直しているうちに、別の疑問が浮かんだ。


 薬壱自身がデジタルカメラを持っている姿を、あり得ない高さから写した写真。


 その位置には監視カメラも、撮影機材も存在しない。


 だが、反射面だけはあった。


「……これ、カメラで撮られた写真じゃない可能性ありませんか?」


 金目が画面を示す。


「反射面が取った情報を、脇さんのカメラに入れてるとか」


 自分で言っておきながら、ひどく突飛な話だと思う。


 だが、普通の写真撮影だけでは、すでに説明がつかない。


 施設職員に旧設備側の記録領域を調べてもらうと、薬壱の異常が進んでいた時間帯だけ、古い設備用の記録領域へ断続的な書き込みが発生していた。


 改修工事中に異常が起きた日にも、規模は小さいながら同じ動きがある。


 逆に、何も起こらなかった日はほとんど静かだった。


 使用量は段階的に増え、ある瞬間に大きく減る。


 削除記録も、通常の移動記録もない。


「一時的にここへ溜めて……別のところへ渡してる?」


 職員が古い処理名の断片を拾った。


 読めるのは、ほんの一部。


 ――像――転――。


「虚像……転送、とか?」


 鏡に生じるのは虚像。


 そう考えると、これまでの現象と妙に噛み合う。


 処理先を追う。


 行き着いたのは反射光学ユニットの制御系統だった。


 さらにその先。


 反射板の駆動系とは別に、もう一つ古い設備番号が繋がっている。


 用途欄には、欠けた文字。


 ――光学像――保持/再――。


「……何ですか、これ」


 施設職員にも分からない。


 現在の展示設備一覧にはない。


 だが、反射光学ユニットと同じ旧研究設備群として、この資料館へ移設された記録は残っていた。


 台帳をさらに辿ると、その装置は二階の機器管理区画に現存していた。


 配線も残っている。


 現在の観測業務には使われていない。


 反射光学ユニット自体も、いまや歴史資料として展示されているだけだ。


「……今、何のために繋いでるんですか?」


 金目の疑問に、施設職員は保存と保守のためだと説明した。


 旧設備を完全に切り離さず、必要なら状態確認できるよう系統を残した。


「でも、それなら少し変じゃないですか?」


 金目は配置図を見比べた。


「当時の構成を残したいなら、ユニットだけ観測室に展示して、こっちは管理区画に置く理由が弱いですよね。一緒に使う設備だったなら、一緒に見せた方が自然です」


 展示計画書には、その理由も残っていた。


 反射光学ユニットは見た目にも特徴があり、旧観測設備を象徴する展示物として採用された。


 一方、保持・再投影装置は大きな筐体と制御機器が中心で、一般来館者へ見せる価値が低い。内部機構を守り、誤操作を防ぐため管理区画へ収容した。


 そこまでは筋が通っている。


 だが、移設記録には別の記述があった。


 主電源停止。


 自動起動系統無効化。


 それでも、配線そのものは撤去されていない。


「……これ、誰が決めたんですか?」


 置物として残すだけなら、そこまで生かしておく必要はない。


 保存・移設仕様書を遡っていくと、一人の名前に行き着いた。


 相良恭一郎。


 当時七十二歳。


 大学の元教授で、専門は光学計測と古典光学機器の保存・復元。


 最初の人体実験に関わった世代ではない。


 だが、旧研究棟が閉鎖されたあと、残された光学設備の調査と保存に携わっていた。


 相良は反射光学ユニットについて、


 ――不可逆的な解体・配線撤去を避け、原構成への復元が可能な状態で保存すること。


 そう残している。


 さらに、


 ――本装置は主要部のみを切り離した場合、研究史上の意味を失う。


 ――反射系・制御系・保持系は一体の実験装置として扱うべきであり、将来的な再検証が可能な状態を維持することが望ましい。


「……再検証」


 金目はその言葉に引っかかった。


 相良は、旧研究棟で行われた「多重反射による像の保存性」の資料も閲覧していた。


 つまり、これが単なる古い観測機器ではないことを知っていた。


「この方、今もご存命ですか?」


 確認すると、存命だった。


 すでに大学は退職しているが、連絡先も残っている。


「でしたら、一度連絡をお願いできますか」


 金目は施設職員へ頼んだ。


「できれば、こちらまで来ていただきたいです。危険な可能性があることは、きちんと伝えてください。それでも協力していただけるなら」


 相良は、来ると答えた。


 手元に残っている旧研究資料も持参するという。


 外部技術者も到着待ち。


 相良も到着待ち。


 一階でできることは、かなりやり尽くしていた。


 金目は椅子へ座り、水を一口飲んだ。


 先に来たのは、外部技術者だった。


 古い図面ケースと工具鞄を持った男は、施設職員から簡単な説明を受けると、すぐ机上の資料へ視線を落とした。


「今まで分かったことを見せてもらえますか」


「分かりました。では、順番にご説明しますね」


 金目は調査結果を整理して伝えた。


 旧研究棟で行われた像保存実験。


 本人がその場を離れても残り、やがて独立して動いた反射像。


 現在の資料館で起きた異常。


 写真の中で、保存像らしき人間が反射面から反射面へ移っているように見えること。


 反射像が現実側とは違う動きをし、境界へ触れた痕跡らしきものまで残していたこと。


 複数の反射経路を一点へ集めれば、像を集約できる可能性。


 保存時とは逆に反射を減らしていけば、戻せるのではないかという仮説。


 像に意思が残っている可能性。


 異常が人物そのものではなく、連続した反射経路と強く結びついていること。


 遮光布を準備していること。


 追加の鏡は、救出に必要となる場合以外は使わないこと。


 旧設備へ異常時だけ書き込みが起き、その処理が反射光学ユニットの制御系と、さらに別の保持・再投影装置へ繋がっていること。


 そして薬壱のカメラに、本人がカメラを持ったまま写る、あり得ない角度の画像が残っていたこと。


 説明を終えると、金目は少し申し訳なさそうに笑った。


「……かなり長くなってしまいましたけど。専門家の方から見て、明らかにおかしいところとか、逆に設備の構造上あり得そうなところがあれば教えていただきたいです」


 技術者はすぐには答えなかった。


 写真、図面、ログ。


 一つずつ黙って見返す。


 やがて口を開いた。


「像が反射面を伝って移動している、という見方。少なくとも、この装置の構造としては筋が通ります」


 このユニットは、単に鏡を並べた装置ではない。


 反射経路を作り、像を複数回通すことを前提にしている。


「反射面を覆うのは賛成です。道を切るという意味では分かりやすい。ただ、鏡を増やすのは最後にしてください。分からない状態で増やせば、別の道を作る」


 人の身体を布で覆う案については、効果は保証できない。


 それでも、反射像の輪郭を崩すという意味なら試す価値はある。


 そして、像を一点へ集め、反射経路を減らすという仮説。


「理屈だけならあり得ます。ただし、先に現在の装置がどの光路を作っているか把握しないといけない」


 旧観測室へ入るより先に、管理区画から制御状態を確認する。


 保持装置が何を掴んでいるのか分からないまま、反射板だけを動かす方が危険だという。


 金目は最後まで口を挟まずに聞いた。


「だから、まず管理区画です。電源状態、制御状態、保持装置の稼働履歴。そこを見てからじゃないと、私は何も動かしたくない」


「もちろんです」


 金目は素直に頷いた。


「専門家の方の言うことをちゃんと聞きます。私は一介の、ただのフリーライターですので」


 少しだけ笑う。


「その上で、絶対にしない方がいいことがあれば、今のうちに教えてください」


 技術者は三つ挙げた。


 異常な表示や音が出ても、勝手に操作しない。


 見慣れない反射像や人影が見えても、近づかない。


 そして、誰か一人でも違和感を覚えたら、その場で止める。


 危険条件が分からない以上、違和感そのものを警報として扱う。


 金目はそれを皆へ共有した。


 その直後だった。


「草壁さん。相良先生がお見えになりました」


 施設職員の後ろから、一人の老人が姿を現した。


 白くなった髪。


 年齢相応に痩せてはいるが、足取りはしっかりしている。


 片手には古びた革鞄。もう片方には厚い資料ファイル。


 相良恭一郎は部屋へ入るなり、机の上に並ぶ資料へ視線を落とした。


 写真。


 旧設備ログ。


 一時保持・再投影装置の記録。


 薬壱の異常写真。


 数秒。


 表情が変わった。


「……まだ、動いたのか」


 低い声だった。


「最初から聞かせてください。今、この装置が何をしたのかを」


「もちろんです」


 金目は、今まで分かったことをもう一度整理して伝えた。


 そして過去の記録を年代順に照合した結果、この現象に関係した人物が、薬壱まで含めて少なくとも三十六人に及ぶことも。


「……三十六人」


 相良の反応は明らかだった。


 人数の多さではない。


 数字そのものに心当たりがある。


「先生は、この数字に何か心当たりがあるんですか?」


 相良は少し黙り、持参した資料を開いた。


「あります」


 古い実験資料。


 そこに、欠損しながらも読める一行が残っていた。


 ――保持数上限 36。


 さらに別紙。


 ――像保持枠。


 ――登録。


 ――再投影対象。


 金目が資料を追っていると、欄外の薄い注記が目に入った。


 ――第36枠は通常保持枠として使用せず、終端処理確認用として予約。


 その下には、


 ――終端確認後、保持像を順次――。


 続きは傷んで読めない。


 だが、三十六番目だけ扱いが違うことは分かった。


「三十六に到達した時点で、装置が別の段階へ移る設計だった可能性があります」


 相良と技術者、施設職員が、現在のログと旧資料を並行して追い始めた。


 その間に、金目は作業協力者の人数を確認した。


 危険性を説明した上で、管理区画までなら協力すると答えた職員は七人。


 設備と配線に詳しい者。


 展示機器の保守担当。


 搬入や館内設備に慣れた者。


 連絡と安全確認を担える者。


 人数だけでなく、役割も十分に揃っている。


 さらに、待機中に無線機が目に入った。


「あ……これも班ごとに持てるくらい用意できますか?」


 大声が届くとは限らない。


 何かが音へ干渉する可能性もある。


 連絡手段は別にあった方がいい。


 無線機も確保された。


 そして、三人の調査が終わる。


 現在のシステムには、


 ――終端保持確認。


 ――再投影シーケンス待機。


 という処理が生成されていた。


 旧資料側には、


 ――終端確認後、保持像を順次再投影系へ移行。


 ――各保持像について帰還経路を確立後、順次保持解除。


 という記述が残っている。


「……つまり、三十六に達したら全部消す装置ではない?」


 金目の問いに、技術者が頷いた。


「少なくとも設計上は。保持している像を再投影側へ送り、帰還経路が成立したものから解除する」


 だが現在は待機したまま。


 旧研究時代と今では反射板の配置が違い、帰還用の光路が成立していない。


 さらに資料を追うと、


 ――終端対象照合後、帰還基準像を確立。


 ――基準一致時、順次再投影。


 という記述が出てきた。


「……それって、本人がいないと無理ってことですか?」


 相良は首を横に振った。


「まだ断定できません。必要なのは本人そのものではなく、帰還先と照合するための基準像です」


 そこで金目には、別の疑問が生まれた。


「でも先生。そこまで仕組みが分かっていたなら、どうして当時の研究者たちは捕らえられた人たちを戻さなかったんでしょう」


 再投影は、最初から備わっていた安全装置ではなかった。


 像の残留と独立運動が確認され、その後に失踪事故が起きた。


 そこで初めて、保存した像を戻す必要が生まれた。


 つまり再投影機構は、事故のあとに追加された救出機構だった。


 だが、人体で安全に使えるところまで完成する前に研究は止まっている。


「危険すぎるから研究そのものを止めた可能性は?」


「あります」


 相良は即座に認めた。


 中止命令そのものは残っていない。


 だが、事故報告や安全記録なら残っているかもしれない。


 金目たちは、資料をさらに絞った。


 そして見つけた。


 ――帰還基準像の不一致時、再投影を実施しないこと。


 ――基準照合に失敗した状態で保持解除を行った場合、像情報の欠損・混成・帰還先誤認の可能性あり。


 欄外には、さらに一文。


 ――全対象について個別基準像を確保するまで人体再投影試験凍結。


「……これですね」


 昔の研究者が恐れたのは、再投影そのものではない。


 誰を、どこへ戻すのか確定できていない状態で、保持を解除することだった。


 別人へ重なる。


 複数の像が混ざる。


 欠けた状態で戻る。


 それを避けるため、人体での実行を止めた。


 なら、今の装置には個別基準像が残っているのか。


 帰還基準像の生成方法を調べる。


 本人を反射面へ置き、その現在像を直接取得する方法。


 保存開始時に取得された初期像情報を使う方法。


 初期像が欠けていれば、外部記録像から補完する方法。


 現在の保持枠を一件ずつ確認した。


 一番。


 二番。


 三番。


 十番。


 二十番。


 三十五番。


 すべて残っている。


 通常保持枠三十五件。


 さらに終端枠一件。


 合計三十六件。


 全件について、保存開始時の初期基準像が残されていた。


「……全部あります」


 技術者がもう一度確かめる。


「欠損なしです」


 しかも、それぞれの保持枠と基準像は一対一で紐づいている。


 少なくとも、別人の像を誤って使う危険は大きく減った。


「では先生。この基準像を使って、実際に帰還用の光路を成立させるには、どうすればいいんでしょうか」


「ここからは我々の仕事です」


 相良と技術者は、そこで初めてそう言った。


 一件だけ基準像を呼び出す。


 保持解除はしない。


 再投影系へ渡し、どの反射経路なら基準照合が成立するかを確認する。


 照合が一致した時だけ、解除へ進む。


 準備が整い、金目たちは管理区画へ向かった。


 全員が黒い布を被って歩くわけではない。


 管理通路そのものは、強い反射面が少ないことをすでに確認している。


 ただし、急がない。


 周囲を確認できる速度で進む。


 光沢面があれば止まる。


 人影が成立するほど映るか確かめる。


 必要なら先に覆う。


 前後の間隔も空ける。


 相良は後方で資料照合。


 機器へ触れるのは技術者と設備職員。


 管理区画の扉が開く。


 入口から見える範囲を確認する。


 床も壁も艶がない。


 ただ、奥の旧制御盤にわずかな光沢があった。


「そこ、先に塞ぎます」


 非反射布で覆う。


 固定。


 再確認。


 問題なし。


 一人ずつ中へ入った。


 部屋の中央に、古い大型筐体が置かれている。


 前面の操作盤。


 側面へ伸びる配線。


 銘板の型番は、相良が持ってきた資料と一致した。


 光学虚像一時保持・再投影装置。


 主電源スイッチは停止位置。


 なのに、補助系統の表示灯だけが弱く点いている。


「……電源、入ってます」


 技術者の声に、金目が聞き返す。


「外部制御から給電されてるっていうのは、別のところから電気が来てるってことですか?」


「そうです。この装置自身の主電源ではありません」


「じゃあ、当初の保存状態とは違う?」


「違います」


 給電元を追う。


 金目は、古い配線の中に一か所だけ比較的新しい接続部が混じっていることへ気づいた。


 工事管理番号が残っている。


 台帳を照合すると、資料館改修時。


 ――旧光学設備群・保守確認用補助電源接続。


 現在の資料館へ改修する際、状態確認のため旧装置へ補助電源を繋ぎ直していた。


 そして、その仕様の根拠になったのが、相良の昔の保存方針だった。


 相良本人が今回の工事へ直接指示したわけではない。


 ただ、彼が残した「原構成へ復元可能な状態を維持する」という考えが、後年の改修担当者へ引き継がれた。


 施設職員と金目は、一瞬だけ顔を見合わせる。


 何とも言えない。


 それでも金目は表情を変えず、相良の方を向いた。


「相良さん。何か分かりましたか?」


「ええ。かなり重要なことが」


 表示には、


 ――保持数 35 / 35。


 ――終端枠 1 / 1。


 ――再投影 待機。


 相良が旧資料と照合する。


「この三十五は通常保持枠です」


 終端枠一件は別。


 通常保持枠がすべて埋まったあと、最後に一件だけ別枠へ登録し、終端処理を開始するための確認対象にする。


 三十六番目は、普通の三十六個目ではない。


 次の段階へ進めるためのトリガーだった。


 そして、三十六件すべての初期基準像も残っている。


 理屈の上では、生身の本人がその場にいなくても帰還照合はできる。


 ここから先は、本当に専門家の仕事だった。


 金目は少し離れ、邪魔にならない位置で待った。


 手帳を出しかけたものの、時刻、装置状態、操作内容、結果を黙々と記録している自分が、フリーライターというより研究助手に思えてきて、そっと閉じた。


 しばらくして。


 技術者が一件目の基準像をテスト呼び出しする。


 そこで、旧研究時代の自動照合補助機能がまだ生きていることが分かった。


 対象を保存した際の光路情報から、帰還用に使える候補経路を算出する機能。


 表示が切り替わる。


 ――帰還経路候補:1。


 ――基準照合:可能。


 ――保持解除:未実行。


 さらに幸運だったのは、現在の展示配置がその候補経路にかなり近かったことだった。


 必要な調整は、可動反射板一枚。


 それも管理区画側から操作できる。


 旧観測室へ人が入って、手作業で角度を変える必要はない。


「これなら、いける」


 技術者が言った。


 反射板をわずかに動かす。


 制御画面上の光路が一本へ繋がった。


 ――帰還経路:成立。


 ――基準照合:一致。


 ――保持解除:実行可能。


「ここから先は実行になります」


 相良も頷く。


「一件だけだ。異常が出れば即停止する」


 無線で待機班へ連絡。


 全員が位置につく。


「解除します」


 技術者が操作した。


 表示が一瞬揺れる。


 無線の向こうから声が入った。


『……像、出ました』


 誰も動かない。


『反射面に一人……動いてます』


「基準照合は?」


『維持』


「光路?」


『正常』


 数秒。


 ――再投影完了。


 ――保持解除完了。


 ――通常保持枠 34 / 35。


『……人がいます』


 旧観測室の床に、一人の男性が倒れていた。


 半透明ではない。


 胸が動いている。


 呼吸がある。


 旧研究棟で最初に失踪した被験者だった。


 何十年も前に消えたはずの男が、失踪当時とほとんど変わらない姿でそこにいる。


『この人、何十年も前に消えた人なんですよね?』


 無線越しの戸惑いに、金目はむしろ静かに答えた。


「いえ。むしろ、これが自然だと思います」


 鏡の中で生活していたわけではない。


 像として保存されていた。


 記録は、勝手に歳を取らない。


「保存された時点の情報が、そのまま残るものです。今回の基準像も保存時点の情報を使ってるんですよね。だったら途中で年齢や外見が変わったら、照合基準として成立しなくなると思います」


 現実と同じ時間を生きていたのではない。


 保存された時点の人間が、今になって戻された。


 そう考える方が自然だった。


 相良も、その解釈に頷いた。


 金目は少しだけ表情を緩めた。


「先生。ひとまず、成功例は確認できましたね」


「ええ」


「この調子でお願いします。ただ……最後まで気を抜かずにいきましょう。ここまで来て何か起きたら、さすがにもったいないですから」


 少し困ったように笑う。


「まあ、設備のことなんて何も分からない私が言うことでもないんですけど」


「いえ。そのくらい慎重でちょうどいいでしょう」


 二件目の準備へ入ろうとした、その時だった。


 装置の表示に新しい項目が現れる。


 ――帰還実証:1件成功。


 ――基準光路登録完了。


 ――同系統保持像 自動経路照合を開始。


 二件目。


 三件目。


 四件目。


 次々に判定が増えていく。


 ――帰還経路適合。


 ――基準照合一致。


 最後まで。


 三十五件すべて。


 一人目で確立した光路は、その人専用ではなかった。


 通常保持枠は、同じ帰還系統を使う前提で設計されていた。


「……これなら、かなり早く進められる」


 技術者が息を吐く。


 もちろん、一人ずつ確認する。


 対象選択。


 基準照合。


 再投影。


 帰還確認。


 手順は省かない。


 だが、最も危険な光路構築を毎回やり直す必要はなくなった。


 その後、通常保持枠の救出は順番に進められた。


 一人。


 また一人。


 年代も服装も違う。


 旧研究棟時代に消えた者。


 旧観測所時代に失踪した者。


 比較的新しい時代の者。


 全員が、保存された時点の姿で現実側へ戻ってくる。


 そして最後。


 ――保持解除完了。


 ――通常保持枠 0 / 35。


 三十五人。


 全員が帰還した。


 残る表示は一つだけ。


 ――終端枠 1 / 1。


 ここだけは、通常枠と同じ処理が通らない。


 相良も技術者も、すぐに諦めなかった。


 通常枠との差を確認し、帰還光路と基準照合を少しずつ調整する。


 解除はまだしない。


 あくまで、戻せる状態まで持っていけるかを探る。


 何度か試したあと。


 ――帰還基準照合:部分一致。


「……来た」


 技術者が呟く。


 反射強度をわずかに動かす。


 ――照合率上昇。


「このまま――」


 その瞬間。


 古い装置の奥から、低い駆動音が一段大きくなった。


「負荷、上がってます」


 施設職員が電源表示を見る。


「一旦戻します」


 技術者が操作へ手を伸ばした、その直前。


 バツンッ。


 管理区画の照明が落ちた。


 一瞬の完全な暗闇。


 すぐに非常灯が点く。


『設備系統のブレーカーです! 補助電源側、過負荷!』


「全員そのまま。触らないでください」


 技術者が即座に声を張った。


 相良は何も言わなかった。


 消えた操作盤を見つめている。


 額には、うっすら汗が滲んでいた。


 終端枠の処理は途中まで進んでいた。


 その状態で電源が落ちた。


 保持情報は無事なのか。


 処理途中のデータは壊れていないか。


 対象そのものに影響が出ていないか。


「……電源は戻せないのか」


「今すぐはやめた方がいいです」


 技術者は即答した。


「ブレーカーを戻せば通電自体はできるかもしれません。でも、終端処理だけ負荷が跳ねた理由を確認していない。ここで再投入して、もう一度落ちる方が危険です」


 相良は一度目を閉じた。


「……分かった。少し時間を置こう。それから状態を確認して、もう一度できるか考える」


 救出作業は、一時中断となった。


 通常保持枠から戻った三十五人は、そのまま現実側にいる。


 保持解除はすでに終わっている。


 電源が落ちたからといって、再び消えることはなかった。


 金目たちが一階へ戻ると、そこには三十五人の帰還者がいた。


 体調の悪い者は横になり、意識のはっきりしている者は椅子へ座らされている。


 服装も、年齢も、時代もばらばらだった。


「……ここは、どこですか?」


「さっきまで……研究室に……」


「何年……?」


 時間を飛び越えてきた人々。


 今度は機械ではなく、現実の問題が目の前にある。


 金目は近くの施設職員へ声をかけた。


「すみません。警察の方、まだ近くにいらっしゃいますよね?」


「はい。周辺を確認しているはずです」


「でしたら、こちらへ来ていただけるよう連絡してもらえますか」


 三十五人の身元確認。


 健康状態。


 何十年も前の失踪届。


 これはもう、金目たちだけで抱える話ではない。


 ほどなくして、周辺調査に出ていた警察官たちが資料館へ戻ってきた。


 一階へ入った瞬間、さすがに表情が変わる。


「……三十五人、全員ですか」


 そこから先は警察と救急の仕事だった。


 救急車両が入り、帰還者たちは一人ずつ診察を受ける。


 氏名を答えられる者から聞き取り。


 古い行方不明記録との照合。


 必要な応援も追加される。


 金目たちは少し距離を取った。


 その頃、管理区画から無線が入った。


『草壁さん。電源系統の確認、ある程度終わりました』


「どうでした?」


『ブレーカー自体に異常はありません。終端処理時の瞬間的な過負荷です。ただ、装置側をもう少し詳しく見ます』


 さらに時間を置いて、もう一度連絡が入る。


 表面的には、終端枠の識別情報も、初期基準像も残っていた。


 だから最初は、データそのものは消えていないように見えた。


 だが。


『……終端枠の保持データはあります。でも、帰還処理側が壊れてます』


 相良も無線の近くへ寄る。


 停電の瞬間。


 終端枠は、基準照合を進め、帰還用の状態情報を書き換えている途中だった。


 通常枠三十五件は、すでに再投影も保持解除も完了している。


 だが、終端枠だけは処理途中だった。


 ――終端対象識別:保持。


 ――初期基準像:保持。


 ――帰還状態情報:破損。


 ――整合性検証:失敗。


 ――再構成:不可。


「バックアップは?」


 相良が尋ねる。


『ありません。この部分は実行時にしか生成されない一時状態です』


「基準像から作り直せないのか」


『通常枠ならできます。でも終端枠は、専用状態へ移行した後に壊れてる。復元は……できません』


 長い沈黙が落ちた。


 帰還対象の情報が完全に消えたわけではない。


 そこに誰かがいたことは分かる。


 保存された姿も残っている。


 けれど、その人物を現実へ戻すための最後の橋だけが、途中で切れてしまった。


 相良は何も言わなかった。


 誰も、途中で諦めたわけではない。


 戻せるところまで進めた。


 それでも、そこから先へは進めない。


 やがて外部技術者と施設職員は、旧設備を安全な停止状態へ戻す作業に入った。


 今度は、ただ主電源を切るだけではない。


 補助電源。


 通信線。


 外部制御系統。


 今回、意図せず装置を動かせる状態へ戻していた経路を、一つずつ物理的に切り離していく。


 相良はその作業を黙って見届けた。


 かつて自分が「再検証可能な状態で残すべきだ」と判断した装置。


 その判断を、単純に正しかったとも間違っていたとも言えない。


 装置が残っていたから、三十五人を戻せた。


 装置が残っていたから、今回の事件も起きた。


 最後の配線が切り離される。


「これで、少なくとも勝手に起動することはありません」


「……ありがとう」


 相良は、それだけ答えた。


 終端枠については、残っている識別情報と初期基準像を勝手に消去せず、施設と警察の管理下で保存することになった。


 脇薬壱という人間が、確かに最後の対象になった。


 その痕跡として。


 その後、金目も警察から事情確認を受けた。


 何を調べたのか。


 どうやって三十五人が戻ったのか。


 説明できるところは説明する。


 分からないことは、無理に分かったふりをしない。


「……以上です」


 警察官は疲れた顔で手帳を閉じた。


「正直、全部理解できたとは言えません」


 金目は少し困ったように笑った。


「私もです」


「ただ、三十五人がここにいるのは事実ですからね」


「はい」


 それだけは、どうしようもなく現実だった。


 警察官が離れると、千鶴たちが近づいてくる。


「かなちゃん、お疲れ」


「……ほんとに疲れました」


 金目は椅子へ深く腰を下ろした。


 今日は、取材に来たはずだった。


 フリーライターとして施設を見て、話を聞き、記事になる材料を拾う。


 そのつもりだった。


 それが気づけば、失踪事件を調べ、旧研究設備を追い、専門家たちと救出方法を探り、何十年も前から消えていた三十五人を現実へ戻していた。


「……私、何しに来たんでしたっけ」


「取材じゃない?」


「ですよね」


 金目も、少しだけ笑った。


「途中から、全然ライターじゃなかった気がするんですけど」


 記事の材料だけなら、十分すぎるほどある。


 ただ、三十五人のこと。


 旧研究のこと。


 装置のこと。


 どこまで外へ出していいのかは、施設や警察と調整しなければならない。


「……記事になるのかな、これ」


 それは、後で考えればいい。


 資料館を出る頃には、外はすっかり慌ただしくなっていた。


 救急車。


 警察車両。


 行き交う人々。


 それでも、旧観測室から続いていた異常は止まっている。


 金目は一度だけ建物を振り返った。


 三十五人は戻った。


 一人は戻らなかった。


 完全な救いではない。


 それでも、三十五人分の止まっていた時間は、今日、再び動き始めた。


 金目はそれ以上振り返らず、千鶴たちとともに天文資料館を後にした。

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