『三十六人目』 金目調査編・前半
数日後。
天文資料館の内覧会が行われてから、まだそれほど日は経っていなかった。
その日の午後。
金目は自宅で、ノートパソコンに向かっていた。
画面に開かれているのは怪談でも失踪事件でもない。
少し前に取材した飲食店の記事と、その時に撮影した料理写真だった。
「……こっちの方が美味しそうですね」
同じ料理を少し角度を変えて撮った二枚を見比べ、片方に印を付ける。
こういうのでいい。
店へ行き、話を聞き、写真を撮り、文章を書く。
できれば毎回、こういう仕事だけで生活していきたい。
そう思っていたところで、机の端に置いていたスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見る。
担当編集者。
「…………」
金目は数秒だけ眺めてから、通話ボタンを押した。
「はい、草壁です」
『あ、草壁さん。今、大丈夫ですか?』
「仕事中ですけど、電話に出られる程度には」
『よかった』
妙に安堵したような声だった。
金目は眉を寄せる。
「……なんですか、その声」
『いや……ちょっと、お話しておいた方がいいことがありまして』
「先に聞きますけど、新しい仕事の話ですか?」
『……仕事の話でもあります』
「“でも”?」
電話の向こうで、編集者が小さく息を吐いた。
『草壁さん。この前、断った天文資料館の取材、覚えてます?』
金目の表情が止まる。
「……覚えてますよ。私が断って、別の人にお願いすることになったやつですよね」
『はい』
「それが?」
少し間があった。
『代わりに取材へ行ってもらったライターが――帰ってきてないんです』
「はい?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「え、待ってください」
『はい』
「その天文資料館の取材、私が断ったあとに別のライターさんへ頼んだんですよね?」
『……はい』
「で、そのライターさんが……帰ってきてないんです?」
『そうです』
金目の表情が曇った。
内覧会には参加している。
受付記録も残っている。
他の記者からも、その姿を見たという証言がある。
だが、その後から連絡が取れない。
電話も繋がらず、自宅にも戻っていない。
原稿も提出されていない。
警察にも話は行っているという。
『それで……草壁さんに、ひとつ確認してもらいたいことがあるんです』
「確認って?」
『そのライターが使ってたカメラです』
現場近くで発見されたデジタルカメラ。
その中の写真を確認した人物によると、普通ではない画像が何枚か残されているらしい。
「……それ、仕事です?」
『え?』
「いや、私ただのフリーライターですけど」
金目は本気で理解できないという顔をした。
「普通のフリーライターが、別のライターさんの残した写真を確認して、それでどうすればいいんです? そういうのって、普通は警察の仕事じゃないですか?」
『まあ、普通に考えればそうなんですけど……警察は警察で確認してます。ただ、写真そのものが事件性のあるものなのかどうかまでは、何とも言えないみたいで』
しかも施設側は、妙な噂として先に広まることを嫌がっている。
そこで、写真を扱える人間に一度見てもらいたいという話になったらしい。
『その中で、草壁さんの名前が出たんです』
「というか、それ……本当にあなたの仕事ですよね?」
『え』
「写真の内容を確認するとか、むしろ編集者がやるべきことじゃないですか。ライターの私じゃなくて。あなた編集者でしょ?」
『いや、まあ、それはそうなんですけど……』
「編集者が写真を確認しないでどうするんですか」
『一応、私も見ましたよ』
「見たんですか」
『見ました』
「じゃあ、それで終わりじゃないですか」
『終わらなかったんですよ』
編集者の声から、言い訳じみた調子が消えた。
『同じ場所を撮ってるはずなのに、写真ごとに写ってる人数が違うんです』
金目の表情が少し変わる。
「……それって、前にあなたが言ってた、あの……人数が増えてるとかいう話です?」
『そうです。たぶん、関係してると思います』
同じ時間帯。
同じ観測室。
なのに、十九人だったり、二十人だったりする。
さらに何枚かには、顔だけが真っ黒に潰れた人物が写っていた。
「編集者のあなたから見て、それってどういうふうに真っ黒なんですか? 写真の上から塗り潰した感じです?」
『いや……そういう感じじゃないです。顔の部分だけ、最初から光が入ってなかったみたいに抜けてるんです。輪郭はある。髪も首も服も写ってる。でも顔だけが黒い』
金目はしばらく黙った。
それから、ゆっくり天井を見上げる。
「……あなた」
『はい』
「そんなところに、私を放り込もうとしてたんですか」
『いや、その言い方は――』
「しかも実際に一人、放り込まれてるじゃないですか。その気の毒なライターさん……帰ってきてないんですよね?」
『……はい』
「うわぁ……」
金目は額を押さえた。
「私、あの時断って本当によかった……」
『そこ、今言います?』
「言いますよ。むしろ今だから言います」
編集者が黙る。
金目は深くため息を吐いた。
「……で、とりあえず、その写真の確認だけすればいいんですか?」
『現時点でお願いしたいのは、写真の確認です』
「現地に行けとか、その人が消えた理由を調べろとか、そういう話じゃなくて。まずは写真を見るだけ?」
『はい。ただ、写真を見たうえで、草壁さんが現地を見た方がいいと判断した場合は、その時点で改めて相談させてほしいです』
金目は少し考えた。
「……一応、ちゃんと仕事って形にしてくれるなら、写真の確認くらいはしますよ」
『本当ですか』
「ただし、写真を確認するだけですからね。この仕事。現地に行くとか、行方不明になったライターさんを探すとか、怪異をどうにかするとか。そこまで込みじゃないです」
『分かってます』
「あと、写真を見るだけとはいえ仕事として受けるんですから、原稿一本分くらいの報酬はいただきますよ」
『原稿一本分ですか』
「今回は五倍とか言わないので」
『そこ基準なんですね……』
「むしろ良心的だと思ってください。それでいいなら見ます」
『……分かりました。原稿一本分、出します』
「じゃあ、それで」
通話を終える。
金目はスマートフォンを机へ置いた。
「……鶴ちゃん、金鶴ちゃん」
苦笑しつつ何気なく二人へ声をかける。
「今回もちょっとやばそうな件ですよ」
「“ちょっと”で済む話だった?」
千鶴が眉を上げる。
「かなめ、いやそう」
金鶴も小さく言った。
「嫌ですよ」
そこだけは即答だった。
金目は、自分が以前断った天文資料館の取材を別のフリーライターが引き受けたこと、その人物が内覧会後に行方不明になったこと、現場近くで見つかったカメラの画像に異常があることを説明した。
「……それ、かなり嫌な話ね」
「人数が増える話と写真がおかしい話が同じ場所なら、偶然で片づけるには重なるね」
「ですよねぇ……」
その時。
スマートフォンが震えた。
担当編集者からのメッセージ。
添付ファイルあり。
金目は嫌そうな顔をしながら、一枚目を開いた。
*
最初の数枚は普通だった。
改装された展示スペース。
天体写真。
説明パネル。
観測機器。
廊下。
階段。
取材記録として何の問題もない。
そして――観測室。
広い円形の室内。
上にはドーム。
参加者らしい人間が何人も散らばっている。
その奥。
一人の人物だけが妙に目についた。
顔が黒い。
髪も服も身体の輪郭も写っている。
なのに顔だけが、すっぽりと情報を抜き取られたように暗く落ちていた。
「……これが、編集者さんの言ってたやつですか」
金目は画像を拡大する。
髪には照明が当たっている。
首元にも光がある。
近くの人物の顔も正常だ。
それなのに、その人物だけ顔が黒い。
「……やっぱり、普通の影じゃないですね」
さらに拡大する。
黒く塗ったような加工痕も見当たらない。
露出ミスや逆光なら、周囲も影響を受けるはずだ。
そして偶然、展示ケースのガラスにその人物が小さく反射している。
「……ん?」
金目の指が止まった。
反射の中では、顔が黒くなっていない。
顔立ちまでは分からない。
それでも、肌らしい明るさがある。
金属製の縁に映った像も同じだ。
「写真そのものから顔が消えてる……っていう単純な話じゃなさそうね」
千鶴が言った。
金目はさらに拡大する。
反射の中。
黒い顔の人物のすぐ近くに、もう一つ、人間らしい頭部がある。
だが、直接写真ではそこに誰もいない。
「……これ、被ってるっていうより……横にいる?」
二重反射なら、周囲にも似たズレが出るはずだ。
だが異常はそこだけだった。
「黒く潰れている本人の顔は、反射では普通に見える。それで、その近くに直接写真にはいないもう一人がいる……」
今の一枚から拾えるのは、そこまでだった。
次の画像へ進む。
今度は、観測室全体を高い位置から見下ろした写真。
「……これ、どこから撮ってるんでしょう」
内覧会参加者が普通に立って撮れる高さではない。
写真中央。
ドームの下。
一つの黒い人影。
「……何、これ」
人間らしい形はしている。
頭があり、胴があり、腕もある。
だが細部がほとんど拾えない。
そこだけ、人型の暗がりが立っているようだった。
周囲には、大柄な男。
くたびれたスーツ姿。
古びたデジタルカメラを構えている。
「……この人が、そのライターさんですかね」
編集者から聞いた特徴とは一致する。
しかも男のカメラの背面液晶には、ほぼ同じ瞬間の観測室が映っている。
「この人も撮ってる……」
なら。
高所からの一枚は、誰が撮ったのか。
答えはなかった。
次。
黒い人影そのものは見えない。
だが、その人影が立っていた場所から床を這うような黒い影が伸びている。
一本ではない。
一つ。
二つ。
三つ。
枝分かれし、それぞれ別の人間の足元へ繋がっている。
そして、その先の人物の顔が黒く潰れている。
「……つながってる?」
黒い人影。
影。
人間。
その人間の近くに、反射でだけ見える別の像。
まだ断定はできない。
金目は仮説だけを頭へ置いた。
次の写真は資料館の外。
以前、黒い影と繋がっていた人物がいる。
今度は顔も普通。
影も正常だ。
だが、写真の端にいる別の人物。
その人物には、本人らしい普通の影がない。
代わりに靴底から資料館側へ、糸のように細い黒い線が伸びている。
「……影がない?」
金目は線を追った。
地面の凹凸に沿っている。
柱の影と交差すると一度見えなくなり、その先からまた現れる。
「影の中を通ってる?」
千鶴が覗き込んだ。
「じゃあ、影そのものが道?」
「……分かりません。でも」
金目は首を傾げる。
「この人、影をなくしたんじゃなくて……細く伸ばしてる?」
細くすれば、遠くまで届く。
既存の影へ紛れれば見えにくい。
次の写真。
資料館から少し離れた道路。
六人の人間が走っている。
道路に落ちる影は七つ。
「……七?」
身体を持たない七本目。
その先は、大柄な男の影へ重なっている。
道路脇の車窓。
そこに映った大柄な男の背中へ、もう一人の人間が覆い被さるように重なっていた。
「……移動してる?」
「移動?」
「影の中を」
人間の影へ重なる。
その人間が移動する。
なら、その影を使って別の場所まで運ばれる。
「この人が逃げたことで……この人自身が移動先になってる?」
資料館から離れても安全にならない。
むしろ、何かを自分の影へ重ねたまま走っている。
さらに先。
車窓に映るもう一人は、先ほどより深く男へ重なっていた。
頭。
肩。
腕。
胴。
背後から抱き込むような姿勢。
大柄な男のジャケットの肩口が、本人の動きとは違う方向から押されたように沈んでいる。
「……重なり方が深くなるほど、現実側にも触れられるようになる?」
次の画像。
直接写真の男の輪郭まで、わずかに二重になっている。
反射を見る。
もう一人の身体が、ほとんど同じ位置へ重なっている。
頭。
肩。
腕。
胴。
脚。
「……作ってる?」
金目は以前の写真まで戻した。
最初は頭部。
次に肩。
腕。
胴。
脚。
「この人を、少しずつ作ってる……?」
さらに写真を進める。
大柄な男が道路脇でしゃがみ込み、自分の肩を必死に擦っている。
スーツの肩には、五本の指で掴まれたような窪み。
ガラス窓の反射では、もう一人が男の肩へ手を置いている。
「……ここまで来ると、物理的に干渉できるんですね」
次。
もう一人は、半透明ながら一人分の輪郭をほぼ完成させている。
身長。
肩幅。
頭。
身体の比率。
大柄な男とほとんど同じ。
カーブミラーでは、顔立ちまでよく似ている。
そして二人の影。
完成した側の影が、今度は大柄な男本人の影へ重なり始めていた。
「……逆なんだ」
千鶴が金目を見る。
「逆?」
「最初は、この人の影を使って入ってきた」
金目は写真を逆順に辿った。
「それで身体を作って……身体ができたら、今度は本物の影を覆ってる」
もし影が、その人物の存在そのものと関係しているなら。
「……最後は、この人そのものに成り代わる?」
だが、まだ最後ではない。
次の写真。
二人。
ほとんど同じ姿をした男が、二人立っている。
二つの身体。
二つの影。
そして最後の一枚。
大柄な男らしき人物が一人だけ立っていた。
もう一人はいない。
顔も普通。
影も一つ。
一見すれば、何もおかしくない。
だが――。
「……違う」
金目は一つ前へ戻した。
顔を見比べる。
髪の分け目。
眉の高さ。
口元。
細かな左右差が反転している。
「……鏡?」
道路脇のガラスへ映ると、反射によってもう一度左右が逆になる。
その結果、元の男の顔に近く見える。
「この人……本人そのものを見本にしたんじゃなくて、鏡に映った本人を見て作った?」
重なっている間、もう一人の側には本人の顔を直接見ることができない。
だから鏡やガラスに映った顔を参照した。
鏡像は左右反転している。
「それをそのまま作ったから……完成した方も左右が逆になった?」
筋は通る。
だが、それならなぜ直接写真で顔だけ黒くなるのか。
金目は最初の画像へ戻った。
「カメラが顔を黒くしてるんじゃなくて……二人を一人として撮ろうとして、おかしくなってる?」
本人が一人。
別の像が一人。
同じ位置に二人いる。
一枚の写真へ固定しようとした瞬間だけ、矛盾が表面化する。
「……写真に固定する時だけ、二人分の情報がぶつかる?」
そこまで考え、金目は画像フォルダを閉じた。
「……写真だけで考えるなら、ここまでですね」
*
「そもそも……あそこ、何なんでしょう」
金目はブラウザを開いた。
本来、自分が取材へ行くはずだった天文資料館。
公式サイト。
自治体資料。
地方紙。
工事関係の記事。
調べていくうちに、一つのことが分かった。
「……新築じゃない?」
現在の資料館以前。
同じ場所には旧観測所が存在していた。
さらに十数年前。
旧観測所で夜間観測中の事故があり、参加者一人が行方不明になっている。
遺体は見つからなかった。
事故数日前の集合写真。
十三人で撮ったはずなのに、十四人写っている。
「……また人数」
古い写真を拡大する。
入口脇のガラス。
直接写真には十四人。
ガラスの反射には十三人。
さらに、削除された古いブログを引用した記録に一文が残っていた。
――増えた一人には、鏡像がなかった。
「……最初から多い?」
今回のように、何かがその場で身体を作ったのか。
あるいは――。
「前に消えた人が、後になって出てきてる?」
さらに調べる。
旧観測所の設備はほとんど撤去されている。
だが、一つだけ。
現在の資料館まで引き継がれた設備があった。
大型望遠鏡に付属していた、古い反射光学ユニット。
複数の鏡を使い、望遠鏡へ入った光を別方向へ導く装置。
現在は観測には使われず、歴史資料として展示されている。
「……鏡」
しかも、十数年前の調整記録。
――像の重複および反転を確認。原因特定できず。
「…………」
金目は最後の写真を思い出す。
左右が逆になった男。
「……これ、一番怪しいですね」
ただし、そこで断定はしない。
「これが絶対に原因とはまだ言えないですけど。でも昔から今まで残ってる設備がこれだけなら……調べる価値はありますよね」
さらに台帳を追う。
この反射光学ユニットは、旧観測所で購入されたものですらなかった。
――旧研究棟より移管。
「……旧研究棟?」
もっと古い。
「これ、そもそも旧観測所の設備じゃなかったんですね」
そして、もう一つ。
「……なんで、これだけ新しくしなかったんでしょう」
建物は変わった。
他の設備も更新された。
それなのに、このユニットだけが何十年も残されている。
金目は旧研究棟について調べた。
戦後間もない頃、大学が設置した光学・天体観測研究棟。
そこで行われていた研究の一つ。
――多重反射による像の保存性に関する実験。
「……像の保存?」
複数の鏡を向かい合わせ、その中に置いた被写体を何度も反射させる。
その像を写真乾板へ記録する。
原像が視界から外れた後も、反射系内部に残った像をどこまで再取得できるか。
最初は純粋な光学研究だった。
だが、途中から記録がおかしくなる。
被写体を装置の外へ移動させた後も、一部の鏡に像が残る。
通常の残光より長い。
角度を変えても消えない。
保存像には反転、重複、欠損が生じる。
「……反転」
研究末期。
被写体が物体から人間へ変更される。
手。
顔。
そして助手一人の全身。
打ち切り直前の記録。
――被験者退出後、反射像の消失を確認できず。
――像は被験者の動作を追従せず、独立した運動を開始。
――像は鏡面内を移動し、他の反射像との接触を試みる。
翌朝。
被験者となった助手は、行方不明になった。
「……独立した」
金目は小さく呟いた。
「最初から、人を取り込む何かがいたわけじゃない?」
像を保存しようとした。
その結果、保存された像そのものが原像から独立して動くようになった。
「実験で保存された像そのものが……怪異みたいになった?」
なら。
もともと人間を奪う怪異がいたのではない。
人間を保存する仕組みそのものが壊れた。
「……保存された像が、次の人間を保存し始めた?」
生物の増殖ではない。
処理の連鎖。
「だから人数が増える……?」
金目は、最初に消えた助手の顔写真を探した。
そして、十年以上後。
旧観測所で撮影された「十三人のはずなのに十四人写った」集合写真。
「…………」
同じ人物だった。
数十年前に失踪した助手が、後年の写真に写っている。
「やっぱり……消えたあとも、何らかの形で残ってる」
ただし、本当に本人なのか。
姿だけなのか。
意識も含めて残っているのか。
それはまだ分からない。
さらに過去の失踪例を調べる。
失踪したままの人間だけではなかった。
数時間から数日後、現実側で保護された人間もいる。
失踪中の記憶だけはない。
だが、それ以前の家族、学校、仕事、個人的な記憶は保っている。
声。
筆跡。
本人しか知らない出来事。
「……記憶まである?」
ただ。
失踪前後の写真を比べると、身体的な左右差が反転している。
髪の分け目。
眉。
ほくろ。
今回の最後の写真と同じだ。
さらに、生還後に鏡を異様に嫌うようになったという証言が複数残っていた。
一人は数年後に病死。
別の生還者は、その後も長く生活している。
つまり、戻った人間がすぐに死ぬわけでもない。
さらに調べると、一連の事件を何十年も個人的に追っていた大学関係者の記録へ辿り着いた。
その人物は最初の研究へ直接参加した研究者ではない。
だが、最初に消えた助手の友人だった。
友人が消えた後。
彼は停止していた反射光学ユニットを確認した。
個人手記。
――鏡面内に彼を確認した。
金目の指が止まった。
鏡の前に本人はいない。
それでも、鏡の奥には消えた助手が立っていた。
記録者が右へ動けば、鏡の中の助手が目で追う。
記録者が鏡へ手を置けば、助手も内側から同じ位置へ手を重ねる。
「……やっぱり、向こうにいる」
だから後年、現実側へ戻った生還者に対しても、鏡を用いた確認が行われていた。
現実側の生還者は、鏡像を見て「自分ではない」と主張した。
一方、観察者には鏡像の側も、現実側の人物を怯えて見ているように見えたという。
「……両方に、本人らしい反応がある?」
一人が二つに分かれたのか。
片方がコピーなのか。
両方とも本人なのか。
答えは出ない。
さらに手記には、再統合を試みた記録まであった。
多重反射で像が保存された。
なら、逆をする。
複数の鏡に存在する像を一つずつ減らす。
最後に、原像と一枚の鏡像だけを残す。
実験中。
鏡面側と現実側の人物が、数秒間だけ完全に同じ動きをした。
失踪後に生じていた左右差も、一時的に消えた。
「……戻ろうとしてる?」
だが、生還者は激しい頭痛と眩暈を起こして失神。
完全な統合には至らなかった。
欄外には警告。
――像を破壊してはならない。
――鏡面を破壊しても、保存された者が解放される保証はない。
――むしろ観測不能となる可能性がある。
さらに。
反射光学ユニットの廃棄申請は、過去に却下されていた。
理由。
――内部に残存する可能性のある者を消失させる危険があるため。
「……だから、これだけ残されてたんだ」
旧研究棟。
旧観測所。
現在の天文資料館。
建物が変わっても、この装置だけは残った。
壊せなかった。
中に、人がいるかもしれなかったから。
金目は小さく息を吐く。
「……じゃあ、どうやったら解放できるんでしょう」
壊せない。
壊して助かる保証がない以上、試す気にもなれない。
「この人だけ戻せても意味ないですよね」
今回行方不明になったライター。
仮に彼だけを助ける方法があったとしても。
「戻すんだったら……全員ちゃんと戻してあげないと」
金目はこれまでの記録を年代順に並べていった。
旧研究棟。
旧観測所。
現在の資料館。
失踪。
保護。
鏡面で確認された人物。
写真に後から現れた人物。
重複を避けて積み上げる。
「……三十六人」
今回の行方不明のライターまで含めて。
少なくとも、三十六人。
ただし全員が現在も行方不明というわけではない。
現実へ戻った者。
そのまま消息不明の者。
すでに死亡した者。
古すぎて現在の消息を追えない者。
そして現実側に戻っていても、鏡面側に本人らしき存在が残っている例。
「……単純に三十六人探せばいい話でもないんですね」
金目は眉間を押さえた。
それでも、比較的最近まで所在を確認できる生還者が一人いる。
旧観測所時代。
一度失踪し、翌日に保護された女性。
失踪後に、身体の左右差が反転した人物。
そして少なくとも数年前までは、この県内に住んでいた。
「…………この人なら」
実際に向こう側を経験した人間から、話を聞ける可能性がある。
そこまで考え。
金目は、ふと我に返った。
「……というか」
頼まれたのは写真の確認だった。
現地調査でも。
失踪者の捜索でもない。
「私、なんでここまで調べてるんでしょう」
千鶴が横から画面を覗き込んだ。
「気になったからじゃない?」
「それはそうなんですけど……」
金目は少し不満そうに唇を尖らせる。
ともあれ、依頼された範囲の仕事は終わっている。
担当編集者へ電話をかけた。
「はい、草壁です。送っていただいた写真、確認しましたよ」
そこから、金目は写真から分かったことと、天文資料館の過去について調べて出てきた情報を一通り説明した。
編集者は途中から、何度か相槌を打つことすら忘れていた。
『……そこまで調べたんですか』
「気づいたら」
『写真を見るだけの仕事でしたよね?』
「私もそう思ってました」
しばらくして。
金目は、現地へ行くなら条件があると伝えた。
施設側との正式な調整。
警察との情報共有。
勝手に現場へ入り込むような形にしないこと。
そして、内覧会当日にその場にいた記者たちへ、できるだけ直接話を聞けるようにすること。
「現地でないと気づけないこともあると思います。もうあそこへ行きたくないって方には無理を言わなくていいですけど、来てくださる方がいるならお願いしたいです」
編集者は了承した。
最後に金目は念を押した。
「あ、ちゃんとスイーツ特集のこと忘れないでくださいね。忘れたら二度と受けませんからね」
『そんな重い約束だったんですか!?』
「重いですよ」
*
それから十日ほど。
施設側への連絡。
警察への情報共有。
内覧会参加者への確認。
編集者が調整している間、金目も天文資料館のことだけを考えていたわけではない。
別の出版社から回ってきた、近場に新しく整備された公園の紹介記事を受けた。
遊歩道。
休憩スペース。
展望エリア。
怪異はいない。
人数も増えない。
鏡の中から誰かが見てくることもない。
金目にとっては、それだけで随分と気楽な仕事だった。
そして十日後。
公園の記事を仕上げていた最中、担当編集者から電話が入る。
「はい、草壁です」
『施設側との調整がつきました。当日の参加者にも何人か連絡を取れて、現地で直接話してもいいという方が三人います』
「それはすごく助かります。ありがとうございます」
地方情報誌の記者。
ウェブ媒体のカメラマン。
フリーの記者。
三人とも、もう一度二階の観測室へ入ることには抵抗を示している。
それでも一階での聞き取りや、当日撮影した写真の提供には協力してくれるという。
警察も、薬壱の最後の行動を追うため、同じ日に周辺調査へ入る。
金目が警察の捜査をするわけではない。
必要な質問があれば応じる。
それだけだ。
*
現地調査当日。
金目たちは天文資料館へ向かった。
千鶴。
金鶴。
ちなつ。
東ビート。
いつもの面々も一緒だ。
資料館では、すでに施設職員と三人の取材関係者が待っていた。
警察は屋外。
薬壱が最後に確認された駐車場。
周辺道路。
カメラが発見された場所。
川へ続く経路。
そちらを中心に調べている。
金目たちは二階へは上がらない。
一階の受付・休憩スペースに近い、比較的安全な場所を借りた。
机を囲む。
「まず、当日の写真から確認させてもらってもいいですか?」
最初は、ウェブ媒体のカメラマンが撮影した写真だった。
外観。
入口。
展示スペース。
最初の数枚は普通。
やがて、旧観測室の写真へ入る。
そこに――最初に増えた男が写っていた。
薬壱のカメラでは、顔が真っ黒に潰れていた人物。
だが、こちらのカメラでは顔は普通に写っている。
それでも。
金目は写真から目を離し、もう一度見直した。
「……顔、覚えにくいですね」
見ている間は分かる。
目。
鼻。
口。
普通の男性の顔。
だが視線を外すと、印象がすぐにぼやける。
連続写真を追う。
男は、人間と同じように普通に歩いて移動しているようには見えなかった。
ある写真では壁際。
次に写る時には別の集団の近く。
その途中の写真には、男がいない。
だが――。
移動先の近くにあるガラス。
そこには、現実側に姿を現すより先に、男の姿が薄く映っていた。
「……なるほど」
金目が全員へ聞こえるように言った。
「反射面を使って移動してるんだ」
鏡だけではない。
ガラス。
磨かれた金属。
人の像が映る場所。
「実際に、人と同じように歩いて移動してるわけじゃない。反射の中を移動してる」
さらに写真を追う。
互いを映し合う反射面。
その中の反射。
さらに奥の反射にも、同じ人物がいる。
金目は、過去の生還者が鏡を異様に嫌ったという記録を思い出した。
「……自由に動いてるんじゃないのかも」
「どういうこと?」
千鶴が聞く。
「鏡に映るたびに、保存されている像の位置を変えられてる可能性があります」
鏡を見るのが怖い。
自分の姿を見るのが怖いのではない。
反射されることそのものが、その像にとって移動を強制される行為だったなら。
嫌う理由にはなる。
次の写真。
現実側の人物と、反射に映った同じ人物。
姿勢が違う。
現実側では腕を下ろしている。
反射側では、片手をガラスへ伸ばしている。
さらに指先。
ほんのわずかに、ガラスが曇っている。
「……触ってる?」
金目が画面へ顔を近づけた。
施設職員が確認する。
内覧会前、ガラスは清掃されていた。
もともとの汚れとは考えにくい。
「向こうから、こっちに干渉できる可能性がある……」
以前調べた再統合実験。
現実側と鏡面側が一時的に同じ動きをし、左右反転まで戻った記録。
「位置と動きと反射の条件を揃えれば……戻せる?」
ただし、問題がある。
現実側に本人がいない失踪者はどうするのか。
次の写真。
二人の人間が現実側で、ほとんど同じ位置へ重なるように立っている。
だが、反射面には一人分の輪郭しかない。
服の模様だけが、わずかに二人分重なって見える。
「……これ」
金目は以前の写真を開いた。
片方の人物は、その少し前には別の反射面にいた。
「偶然、同じ位置に集まった?」
しかも、その瞬間だけ、反射側の左右反転が正常に近づいている。
「位置を重ねること自体に意味がある……?」
金目の中で、再統合実験の記録と写真の現象が少しずつ繋がる。
保存時。
反射を増やす。
像を分散させる。
なら帰還時は。
像を一か所へ集める。
反射を減らす。
「……本人がいなくても、保存されてる像同士を一か所に集められれば?」
さらに写真を追う。
反射光学ユニットから伸びる光路。
ガラス。
磨かれた金属。
そして別の反射面。
そこに、以前別の場所へ映っていた人物がいる。
前の反射面からは、その姿が消えていた。
「コピーじゃない」
金目は言った。
「移動してる。こっちから、こっちへ」
ユニットは単なる事件の発生源ではない。
反射像の位置を動かす装置として使える可能性がある。
次の写真。
施設職員によく似た保存像が、明らかにある方向へ指を差している。
「……これ、指差してますよね?」
その先。
可動式の反射板。
別の写真でも、視線と指は同じ方向を向いている。
「装置の動かし方、分かってる?」
保存されている側の人間たちは、長い間そこにいた。
理論を知らなくても。
どの反射板が動けば、自分たちがどこへ移るのか。
経験的に理解していてもおかしくない。
「……向こうの人たちと話せたら、早いのに」
そう呟いたあと。
金目は少し考えた。
「いや……話せなくてもいいのか」
「かなちゃん?」
「質問して、右手なら『はい』、左手なら『いいえ』とか」
声が届かなくてもいい。
指差し。
手の形。
紙。
タブレット。
番号。
かな表。
選択肢を積み上げれば、かなり複雑な情報までやり取りできる。
「どうすれば戻れるのか、本人たちに直接聞けばいい」
写真の中には、複数の保存像が互いを見ているように写ったものもあった。
単なる鏡写しではない。
違う手の形。
違う視線。
「……他の人も認識してる可能性があります」
金目は言う。
「一人と意思疎通できれば、その人から向こう側の他の人にも伝えてもらえるかもしれません。うまくいけば、三十六人全員に協力してもらえる」
そして次の写真。
一人の人物。
周囲の反射状態が変わっているのに、その人物だけが同じ位置へ留まっている。
近くには大きなガラス。
磨かれた金属面。
二方向から伸びた反射経路が、ほとんど同じ一点で交差している。
その交点に、人がいる。
「……位置を合わせるって、これかもしれない」
複数の光路を一点へ集める。
分散している像を、同じ座標へ集約する。
そのあと、保存時とは逆に反射を一つずつ減らしていく。
「これ、結構大掛かりな作業が必要になってきますかね」
金目は写真を見ながら、少し困ったように笑った。
「私一人じゃ手が回りません。それに、皆さんの中にも二階へ入りたくない方は絶対いらっしゃるでしょうし」
施設職員が答える。
現在の常駐職員には、展示管理や簡単な点検ができる人間はいる。
設備担当なら内部構造や、どの部分が固定でどこが可動かまでは分かる。
だが、反射角を精密に調整し、光路を組み直すほど詳しい技術者はいない。
ただし。
過去にこのユニットの移設や保守へ関わった外部技術者なら、図面や操作方法に詳しい可能性がある。
「その方、お願いしたら来ていただけそうなんですか?」
「可能性はあります。ただ、事情を説明した上で現地作業までお願いすれば、断られる可能性もあります」
「それはそうですよね」
「来られなくても、電話やオンラインなら助言をもらえるかもしれません」
「それでも十分助かります」
金目は頷いた。
「連絡、お願いできますか?」
施設職員が了承する。
そこで金目は、改修工事中に観測室で倒れた作業員のことも思い出した。
「そういえば、工事をされてた方で、一人倒れた方がいらっしゃいましたよね。その方は大丈夫なんですか?」
命に別状はなかった。
数日休んだ後、仕事にも復帰している。
ただし。
本人は「あの観測室にはもう入りたくない」と、この現場へ戻ることを拒否している。
「なるほど……その方は、反射光学ユニットの専門家ではないんですね」
なら、無理に呼び戻す理由はない。
必要なのは、実際に装置を理解している人間だ。
金目はメモへ書き込んだ。
――外部技術者。
――施設設備担当。
――現場作業は安全条件を整えてから。
写真の中から始まった調査は、ようやく現実の作業手順へ形を変え始めていた。
まだ、誰も二階の旧観測室には入っていない。
だが。
本当に三十六人を戻すつもりなら。
いずれ――あの場所と、正面から向き合わなければならない。




