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SIDE B ──メッセージ──

 水月荘から帰って、三週間が経った。


 草壁金目は、自宅のパソコンの前で頬杖をついていた。


 画面には、先日公開した記事への反応が並んでいる。


『写真がすごく綺麗』


『料理がおいしそう』


『温泉の写真、雰囲気あるなあ』


『写真だけでも行きたくなる』


「……」


 金目は無言でスクロールした。


 もう少し下へ。


『写真いいですね』


 さらに下。


『建物の写真好き』


「……文章は?」


 誰もいない部屋で呟いた。


 記事はちゃんと書いた。


 温泉について。


 料理について。


 宿を守っている主人と女将について。


 あの夜を一緒に乗り越えた、中年夫婦について。


 怪異のことは一切書かなかった。


 書けば面白い記事にはなったかもしれない。


 けれど、面白半分で水月荘へ行く人間が現れる。


 二度ノックされたら返事をしてみよう、などと考える人間だっているだろう。


 だから書かなかった。


 記事の最後に、


『ご宿泊の際は、できれば日中にしっかり観光して、夜はぐっすり眠れる状態で泊まることをおすすめします』


 という、事情を知らない人間には少し意味の分からない一文を入れただけだ。


 それについての反応は――。


『なんでそんなに寝かせたがるんだ、このライター』


「安全のためですー」


 金目は画面に向かって答えた。


 もちろん誰にも届かない。


 そこへ、メールの通知音が鳴った。


 新しい仕事だった。


 都内の古い中古レコード店。


 四十年近く営業してきたが、近いうちに閉店するらしい。


 店主へ話を聞き、店の歴史と街の変化を記事にしてほしい。


 依頼文の最後には、わざわざ一文添えられていた。


『今回は怪談ではありません』


「……」


 金目はしばらくその一文を眺めた。


「そこ念押しされるの、逆に怖いんだけど」


 それでも仕事は仕事だった。


 音羽堂は、古い商店街から一本入った場所にあった。


 五階建ての雑居ビル。


 外壁はくすみ、入口横のテナント一覧には、剥がされた店名の跡がいくつも残っている。


 目的の店は三階だった。


 階段を上がり、廊下の一番奥まで歩く。


 ガラス扉に、小さな文字で、


『中古レコード・古書 音羽堂』


 と書かれている。


「こんにちは」


 金目が扉を開けると、ベルが乾いた音を立てた。


「はい、いらっしゃい」


 奥から現れたのは、七十代ほどの男性だった。


 白髪。


 細身。


 柔らかい顔つき。


「えっと……今日、取材で伺った草壁です」


「ああ、ライターさんですね。音羽です」


 名刺を渡す。


 いつもの最初の一歩。


 少し緊張する。


 けれど、話し始めてしまえば大丈夫だった。


「今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ。こんな古い店を記事にしてもらえるとはねえ」


 音羽宗一郎は笑った。


 店内には、びっしりとレコードが並んでいる。


 洋楽。


 邦楽。


 ジャズ。


 クラシック。


 棚の隙間には古本も積まれていた。


 独特の紙と埃と、古い木の匂い。


 金目はカメラを取り出した。


「最初に店内の写真を何枚か撮っても?」


「どうぞどうぞ」


 その時だった。


 ――カタン。


 店の奥から、小さな音がした。


 金目の手が止まる。


「……今、音しませんでした?」


「ん?」


 音羽が奥を見る。


 ――サッ。


 今度は何かが擦れる音。


 紙。


 あるいは、レコードジャケット。


「ああ。古いジャケットが倒れることがあるんですよ」


「なるほど」


 そういうこともある。


 古い店だ。


 棚も少し傾いている。


 普通。


 普通の取材。


 今回は怪談じゃない。


 そう思いながら奥へ向かう。


 そして。


「あれ?」


 床に一枚の黒いジャケットが落ちていた。


 金目がしゃがむ。


 表には写真も絵もない。


 歌手名も。


 レコード会社も。


 タイトルらしい文字は、一つだけ。


『SIDE B』


「これですかね、さっき落ちたの」


 音羽が覗き込む。


 途端に眉をひそめた。


「……こんなの、あったかな」


「お店のじゃないんですか?」


「少なくとも、私は覚えてませんね」


「四十年近く店やってる人の『覚えてない』は、ちょっと怖いですね」


「そう言われてもねえ」


 金目は苦笑した。


 立ち上がろうとして。


 棚の一番下へ視線が止まる。


 そこだけ、妙に埃が薄い。


 さらに壁との隙間。


 細長い紙が挟まっている。


「……なんだろ」


 引き抜く。


 古びた紙片だった。


 鉛筆のような文字が二行。


『B面は、最後まで聴くな。』


『止まったら、振り返るな。』


「……」


「……」


 二人は黙ってしまった。


 金目は黒いジャケットを見る。


「これ、SIDE Bのことだったりします?」


 半分冗談だった。


 半分は、もう笑えなかった。


 その直後。


 棚の向こうで。


 ──カチッ。


 金目の背中が固まった。


 古い試聴用プレーヤー。


 そこから聞こえた。


 電源コードは。


 コンセントから抜けていた。


「……」


 金目は泣きそうになりながら天井を見上げた。


「……連続……」


「草壁さん?」


「い…いえ。こっちの話です」


 次こそ普通の仕事だと思っていた。


 ザ……。


 プレーヤーから微かなノイズが流れ始めた。


 盤は載っていない。


「音羽さん」


「はい」


「一回、外出ましょう」


「え?」


「変な音が聞こえそうなら、すぐ外です」


 金目は音羽の腕を取り、半ば引っ張るように店を出る。


 共用廊下へ。


 背後で。


 ――カタン。


 ――プツン。


 ノイズが止まった。


 金目は振り返らなかった。


 音羽にも振り返らせなかった。


 店の外に出たあと。


「三十年くらい前だったかな」


 音羽は黒いジャケットのことを思い出していた。


「似たものを持ってきた若い人がいましたよ」


「似たもの?」


「いや……たぶん、同じものです」


 二十代半ばくらいの青年。


 痩せていた。


 髪は少し長く。


 かなり疲れた顔をしていたという。


「買い取ってほしいと」


「買い取ったんですか?」


「いいえ。何の商品か分からなかったので」


 タイトル不明。


 製造元不明。


 盤面にもまともな情報がない。


 商売として買い取れない。


 そう伝えると、青年は妙に落胆した。


 値段を気にしている様子ではなかった。


 ただ手放したかった。


「その人、帰る時に何か言ってませんでした?」


「……言いましたね」


 音羽の顔から笑みが消えた。


「最後まで聴かないでください、と」


 金目は紙片を見る。


『B面は、最後まで聴くな。』


「それから」


 音羽は続ける。


「もしまた戻ってきたら、捨てないでください、と」


「……また」


「ええ」


「戻ってきたら?」


「当時は意味が分かりませんでした」


 買い取り確認のため、一度だけプレーヤーへ載せたこともあった。


 最初はノイズ。


 そのあと人の声になりかけたような音が聞こえた。


 すると青年は慌てて針を上げた。


 そして盤を持ち帰った。


 それが三十年前。


「で、それが今日ここに?」


「そうなりますね」


「……嫌だなぁ」


 心の底から出た。


 店の外から、中を見る。


 先ほど床に落ちていたはずのジャケット。


 それが。


 プレーヤーの横へ移動していた。


 さらに。


「音羽さん」


「はい」


「盤、最初からあそこにありました?」


「……ありませんでしたね」


 ターンテーブルの上。


 真っ黒なレコード盤。


 誰も中には入っていない。


 金目は深く考えないように、音羽の肩を少し強めに叩いた。


「大丈夫です」


「な、何がです?」


「レコード載ってなくてもさっき音鳴ってたんだから、今載っててもそんなに関係ないと思いましょう」


「……慰めになってますか、それ」


「……私もそう思います」


 怖いから外から店内を観察していると気付いた。


 ジャケットの裏。


 白い文字が見える。


 角度を変える。


『……聞こえたら、外へ……』


「もう少し見えそう」


 さらに身体をずらす。


『声が聞こえたら、外へ出ろ』


『止まったあと、背後を見るな』


『B面を最後まで再生するな』


『途中で止めるなら、針を上げろ』


「……針、上がってますね」


「上がってますねえ」


 なのに鳴った。


 つまり。


 書かれたルールだけで対応できる状態ではない可能性がある。


 そして。


 店の奥から。


 ――すぅ。


 金目は目を見開いた。


 人が。


 息を吸った。


「え、息してんの?」


 ザ……。


「き……」


 声。


「……こ……」


 言葉になりかけている。


 金目は青い顔をして一歩下がった。


「音羽さん」


「はい」


「誰か呼べません?」


「誰か?」


「こういうの詳しい人。霊能者じゃなくてもいいです。建物とか、古い話とか、変なの調べてる人」


音羽は少し考えたあと。


「一人、います」


「呼びましょう」


 即答だった。


 一人で解決しようという気はない。


 怖いものは怖い。


 助けを呼べるなら呼ぶ。


 それでいい。


 音羽が電話をする。


 久世修一。


 郷土史や古い建物、地域の怪談などを長く調べている人物らしい。


 一時間ほどで来られるという。


「一時間」


 金目は露骨に安心した。


「よかったぁ……」


 だが、その場に留まる気もなかった。


「一階まで下がりましょう。階段近いところにいたほうがいいです」


 音羽と一緒に移動する。


 その途中。


 上から。


 ――コツ。


 ――……コツ。


 二度。


 何か硬いものが床を踏んだような音がした。


 金目は足を止めた。


 近づいてくる足音ではない。


 二回だけ。


「……今の何?」


 答えはなかった。


 一階の喫茶店。


 金目はスマートフォンを睨んでいた。


「黒いレコード……SIDE B……戻ってくる……」


 普段、ネットで古い情報を掘るのは得意ではない。


 けれど今日は妙に引っかかった。


 古い個人掲示板。


『黒いB面について知ってる人いませんか』


 タイトルなし。


 黒い盤。


 ジャケットには『SIDE B』。


 再生するとノイズ。


 そのあと、声。


 返信。


『それ、捨てても戻ってくるやつじゃないか?』


 投稿者の最後の書き込み。


『戻ってきた。今度は再生してないのに音がする。』


 以後。


 書き込みなし。


「……嫌な終わり方するなあ」


 別の書き込みもあった。


『声は毎回同じじゃない。前は知らない男。今日は女の声。まだ言葉までは聞き取れていない』


 さらに。


 埋もれた個人サイトの記録。


『戻ってきた後は、捨てるな』


『鳴っていても近づくな』


『声が止んだ後もしばらく待て』


『再び無音になれば、その日は終わる』


『翌朝、ジャケットの裏に新しい文が増えていた』


「警告が増える……」


「誰かが書いてるんでしょうか」


 音羽が尋ねる。


「分かりません」


 分からないことを、勝手に決めない。


 水月荘で学んだことだった。


 怪異は怖い。


 だからこそ。


 思い込みで動かない。


 久世修一は、六十代前半の男性だった。


 白髪混じりの短い髪。


 眼鏡。


 手には小さなノート。


「久世です」


「あっえっと草壁です」


 金目は名刺を渡した。


『フリーライター 草壁金目』


 久世は名刺へ目を落としてから、穏やかに頷いた。


「最初から聞かせてもらえますか」


「はい」


 金目はすべて話した。


 黒いジャケット。


 警告文。


 三十年前の青年。


 無電源のプレーヤー。


 ノイズ。


 息。


 声。


 コツ、コツという音。


 久世は途中でほとんど口を挟まなかった。


 最後に最初の質問をした。


「声に返事は?」


「してません」


「音羽さんも?」


「してません」


「名前を呼ばれましたか?」


「まだです」


「知っている人の声は?」


「それもまだ」


 金目は少し嫌そうな顔になる。


「……それ、今後ありそうな聞き方ですね」


「可能性を切り分けているだけです」


「別の場所で自分の声真似されたばっかりなんですけど」


「それはまた」


「めっちゃ声真似うまかったですよ」


 久世が一瞬、言葉を失った。


 久世が来てもすぐには戻らなかった。


 三階から、まだ一度だけノイズが聞こえたからだ。


 待つ。


 さらに待つ。


 完全に静かになってからも時間を置く。


 しばらく耳を傾けたが何も聞こえない。


「今なら行けそうです」


 金目が立った。


 三階。


 店の前。


 耳を澄ます。


 ノイズなし。


 声なし。


 呼吸音なし。


 コツ、という音もない。


「久世さんは外にいてください」


「分かりました」


「何かあったらすぐ逃げられるように」


 中へ入るのは金目と音羽。


 金目は口元へ指を当てた。


 そのあと。


 ファスナーを閉めるような仕草。


 音羽が首を傾げる。


 金目が小声で言った。


「お口チャック」


「……前もやったんですか?」


「はい」


 自分で言ってから苦笑する。


「またお口チャックしないといけないやつだ」


 二人で店へ入った。


 床板の軋みそうな場所を避ける。


 衣擦れすら抑える。


 音羽は棚へ。


 金目は黒いジャケットへ。


 新しい文字が増えていた。


『次に呼ばれるまで、名前を言うな。』


 音羽も紙を見つける。


『声が名前を呼んでも、返事をするな。』


『返事をすると、次は近くから聞こえる。』


『三度目は、扉の外。』


「……」


 金目は喋らず、音羽へ外を指さした。


 先に出てもらう。


 一人になる。


 怖い。


 ものすごく嫌だ。


 それでもジャケットを拾う必要があった。


 何かのヒントになるなら持っていかないと。


 台の下。


 隠れていた文字。


『持ち主は、声が決める。』


 金目は眉を寄せた。


 そしてジャケットを持つ。


 何も起きない。


 ゆっくり。


 店外へ。


 久世と音羽のところまで戻る。


「……持ち出せました」


 ようやく息を吐いた。


 床へ置いた黒いジャケットを、三人で見つめる。


 金目はしばらく考えた。


「声が名前を呼ぶ」


 警告文。


「返事をすると、次は近くから聞こえる」


 三度目。


 扉の外。


 持ち主は声が決める。


「もしかして」


 金目は言った。


「呼ばれて返事するたびに、この子との繋がりが強くなる?」


 久世が頷く。


「可能性はあります」


「三回返事したら、持ち主になる?」


「筋は通ります。ただ」


「まだ確定じゃない」


「はい」


「じゃあそこは保留で」


 金目はジャケットを見る。


 そして。


 ふと思った。


 警告文が増える。


 呼ぶ。


 声。


 持ち主。


 つまり何か。


 考えているのではないか。


「……あなた」


 久世が顔を上げる。


 音羽も見る。


 金目は何気なく黒いジャケットへ話しかけた。


「私たちの声、聞こえてたりする?」


 数秒。


 何も起きない。


「さすがに──」


 ジャケットの表面に。


 白い文字が浮かんだ。


『聞いている』


「……」


 音羽が固まる。


 久世も黙る。


 金目は。


「……あ」


 少しだけ表情を明るくした。


「意思疎通できるタイプだ」


 二人が金目を見る。


「よかった」


「草壁さん」


「はい?」


「普通そこ、安心します?」


「話通じないより全然いいですよ」


 そして。


 金目は黒いジャケットの前へ座った。


「じゃあ、ジャケットさん」


 白い文字が一瞬揺れた。


「いろいろ聞いてもいいですか?」


『聞いている。』


「なぜ鳴るのか」


『呼ぶため。』


「誰を?」


『次の持ち主を。』


「もう決めてる?」


『まだ。』


『声に答えた者から選ぶ。』


 やっぱり返事が鍵だった。


「持ち主になった人に、何してほしいんですか?」


『最後まで聴くこと。』


『私を終わらせること。』


 金目の表情が変わる。


「……終わらせる?」


『そう。』


「最後まで聴いたら、あなたが終わる?」


『終わる。』


 少し間。


『どちらかが。』


 空気が冷えたように感じた。


「どういう意味?」


『最後まで聴いた者が、耐えられなければ終わる。』


『耐えられれば、私が終わる。』


「何を聴かされるんですか?」


『音楽ではない。』


『声を、最後まで。』


「声?」


『聞いた者の中に、見せる。』


「何を」


『失ったもの。』


『恐れているもの。』


『忘れたいもの。』


 金目は黙った。


 幻覚。


 そう呼ぶには違うらしい。


『記憶に沈む。』


『外の声は遠くなる。』


「一人じゃないと駄目?」


『声を受ける者は一人。』


『だが、そばにいる者まで拒まない。』


『触れていれば、戻れる。』


 誰かが触れていること。


 それが現実へ戻る糸になる。


 金目は黒いジャケットを見つめた。


「……結構危ないことしてますよね、ジャケットさん」


 文字がしばらく出なかった。


「店の中で聞こえた、コツ、コツって音」


『私ではない。』


「じゃあ誰?」


『最後まで聞けなかった者。』


 金目の目が細くなる。


『残ることがある。』


「……残る」


 最後まで聞いて。


 耐えられなかった者。


 その一部が。


 今も。


 SIDE Bの近くにいる。


 普通なら。


 怖い話だった。


 けれど金目は別のことを考えた。


「あなたのために」


 ジャケットを見る。


「命張ってくれた人、結構いたんですね」


 文字が止まった。


「あなたを終わらせようとしてくれたんでしょう?」


『……』


「死んでもそばにいてくれた」


 金目は少し笑った。


「優しい人だったんですね」


 長い沈黙。


 やがて。


『そうかもしれない。』


『私は、そう思ったことがなかった。』


 そして。


『ありがとう。』


 金目は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目元を緩めた。


「どうして」


 金目は尋ねた。


「そこまでして終わりたいんですか?」


 返事は早かった。


『終われないから。』


『忘れられない。』


『聞いたすべてを、私は残してしまう。』


『恐怖も。』


『後悔も。』


『最後の声も。』


『増え続ける。』


 文字が。


 一つずつ。


 浮かんでは消える。


『もう、持てない。』


 金目は、ようやく理解した。


 これは。


 人を苦しめたいから呼んでいるわけではない。


 少なくとも今は。


 終わりたい。


 そのために。


 誰かを呼ぶしか知らなかった。


 そして失敗するたび。


 また恐怖が増える。


 後悔が増える。


 最後の声が増える。


 自分を終わらせようとして。


 さらに自分を苦しめ続けている。


「……楽しいものは?」


『?』


「楽しい声とか。嬉しい声とか」


『記録できる。』


「できるんだ」


『でも、残りにくい。』


『強いものほど、深く残る。』


『恐怖は、強い。』


「まあ……そうですよね」


 金目は少し考えた。


 そして。


「私、この前」


 話し始める。


「旅館の取材に行ったんですよ」


 雨。


 山奥。


 誰もいない廊下。


 二度のノック。


 人の声を真似する怪異。


「私の声まで真似されて」


 金目は苦笑した。


「めっちゃ声真似うまかったです」


『怖かった?』


「めちゃくちゃ怖かったですよ」


 でも。


 皆で一つの部屋に集まった。


 返事をしなかった。


 手を握った。


 掌に×を書いた。


 朝まで耐えた。


「で、朝になったら」


 金目は笑った。


「皆で、スリリングな体験でしたねって笑って別れたんです」


『それも、残る?』


「もちろん」


 金目は自分の胸へ手を置いた。


「現に今、私の中に残ってます」


『恐怖のあとにも、残るものがある。』


「ありますよ」


『私は、それを知らなかった。』


 少し間を置いて。


『私は、最後しか聞いてこなかった。』


「たぶんですけど」


 金目は言った。


「終わりたい一心で人を呼んでたから、怖い声とか、後悔とかばっかり聞くことになったんじゃないですか?」


『そうなのかもしれない。』


『終わることしか考えていなかった。』


 白い文字が、一度消える。


 そして。


『終わらなくても、変われる?』


 金目は、少し驚いた。


 それは。


 自分に向けられた質問だった。


「……変われますよ」


『簡単?』


「簡単じゃないです」


 即答した。


「私も昔、人に全然話しかけられなかったですから」


『今は話している。』


「今はね」


 金目は頭を掻いた。


「学生の頃、取材しようとして声かけたんですけど、緊張しすぎて聞こうと思ってたこと全部飛んで」


『?』


「『今日はいい天気ですね』って言いました」


『……』


「取材で」


『天気を聞いた?』


「はい」


『何の取材?』


「天気と一切関係ないやつ」


 白い文字がしばらく出なかった。


「その日、家帰って布団に顔突っ込みましたからね」


『失敗したのに、今は笑える。』


「まあ」


『恥ずかしかったことも、楽しい話になる。』


「時間はかかりましたけど」


『不思議。』


 金目は少し笑う。


「あの時のあれがあるから、今の私があるんです」


 そして。


「今の私を見て、どうですか?」


 SIDE Bは少し考えるように沈黙した。


『ちゃんと話せている。』


『怖くても、逃げるだけではない。』


『人を気にしている。』


 最後に。


『変われた人に見える。』


「でしょう?」


 金目は胸を張った。


 ほんの少しだけ。


「昔、こんな私にも一人だけ友達がいて」


 金目は続けた。


「その子に言われたんですよ」


『何を?』


「『あんた、顔だけはいいんだから』って」


『褒めている?』


「たぶん半分くらい」


 金目は笑った。


「でも、その子にいろいろ言われて。それでちょっとずつ頑張ったんです」


『その人は、あなたを見ていた。』


「そうかも」


『今のあなたを見たら、喜ぶ?』


 金目の笑みが少し弱くなる。


「喜んでくれたら嬉しいですね」


 少しだけ目を伏せる。


「今の私でも、これだけ喋れるようになったよって言いたいです」


『あなたは、その人の言葉を残している。』


「はい」


『それも、記録?』


「もちろん」


 金目は迷わなかった。


『残すものは選べる?』


 SIDE Bが尋ねた。


『私も、選べるようになる?』


「全部忘れるのは無理だと思います」


『……』


「怖いものって残りますから。嫌だったことも。恥ずかしかったことも」


 金目自身。


 忘れてはいない。


 水月荘の夜も。


 あのノックも。


 自分の声も。


 学生時代の失敗も。


「でも」


 金目は続ける。


「嫌なことを覚えた分、それ以上に良かったこととか、嬉しかったこととか、楽しかったことを増やしていけばいいんじゃないですか?」


『消さなくてもいい?』


「いいです」


『増やせばいい?』


「はい」


『怖いものが残っていても、変われる?』


 金目は自分の胸を軽く叩いた。


「変われますよ」


 笑う。


「その証明が私です」


 沈黙。


『怖いことを忘れていない。』


『失敗したことも。』


『恥ずかしかったことも残っている。』


『それでも、今は笑っている。』


「はい」


『なら』


 文字が少しずつ現れる。


『私も変われるかもしれない。』


『終わらなくてもいいのかもしれない。』


「私が言えるのはここまでです」


 金目は、そこで一歩引いた。


『?』


「私があなたに、こうしなさいって決めることじゃないから」


 黒いジャケットへ。


 静かに言う。


「ここからは、あなたがどうしたいかです」


 長い沈黙。


 音羽も。


 久世も。


 何も口を挟まなかった。


 やがて。


『変わってみたい。』


 金目は待つ。


『まだ、終わりたくない。』


 そして。


『楽しいものを、もっと聞きたい。』


 金目の表情が綻んだ。


「私一人の話なんて、たかが知れてますよ」


『?』


「外に出たら、もっといっぱいあります」


 笑い声。


 嬉しい声。


 くだらない話。


 歌。


 喧嘩のあとに仲直りする声。


 食事をして美味しいと言う声。


 誰かを祝う声。


「たくさんの人の笑い声聞いたら、きっと嬉しくなりますよ」


『行きたい。』


『たくさん、聞きたい。』


『笑う声を。』


 一拍。


『あなたと。』


 その直後。


 三階にあるプレーヤーの方向から。


 ──カチ。


 そんな音が聞こえた。


 三人が身構える。


 しかし。


 ノイズは流れなかった。


 代わりに。


 遠く。


 とても遠くから。


『……ふふ』


 誰かの。


 小さな笑い声。


 ジャケットに文字が浮かぶ。


『こういうの?』


 金目は笑った。


「そういうのです」


 そして。


 黒いジャケットを。


 そっと胸へ抱き寄せた。


『……』


「これからいっぱい増やしましょう」


『あたたかい。』


 金目の腕が止まる。


『これも、残していい?』


 金目は少しだけ強く抱いた。


「今まで嫌なものばっかりだったんだから」


 笑う。


「どんどん残してくださいね」


『残す。』


『今日のことも。』


『あなたの声も。』


「でも私の声より」


 金目は少し照れたように笑った。


「歌手さんのいい声とか残したほうがいいんじゃないですか?」


『上手い声が、いい声?』


「まあ、普通は」


『私は、あなたの声が好き。』


「……」


 金目が固まった。


『怖い時も、笑っていた。』


『私に、優しく話した。』


『だから、残したい。』


 数秒。


 金目は視線を逸らした。


「……それなら」


 頬を少し掻く。


「全然残してくれて構わないですけど」


『うれしい。』


『忘れない。』


 続いて。


『でも、閉じ込めない。』


『声は声のまま。』


『あなたはあなたのまま。』


 金目はその文字を。


 静かに見つめていた。


『どうやって外へ行けばいい?』


「え?」


『私は、ここから動けない。』


『持ち主が決まらなければ。』


「あ」


 問題が一つ残っていた。


「そうだった」


 旧来のルール。


 名前を呼ぶ。


 返事をさせる。


 三度応じれば持ち主になる。


 金目は少し考える。


「持ち主、誰がいいですか?」


 返事は。


 すぐだった。


『あなた。』


「……私?」


『でも、無理には選ばない。』


『あなたが嫌なら、待つ。』


「どうして私?」


『一緒に、嬉しいものを探してくれそうだから。』


 金目は黙った。


 怖い怪異だった。


 人を呼び。


 人を記憶の底へ沈め。


 何人もの人生を壊した可能性がある。


 けれど。


 今、目の前にいるこれは。


 もう。


 終わりたいと言っていた何かではない。


 変わりたい。


 外へ行きたい。


 楽しいものを聞きたい。


 そう言っている。


 金目は黒いジャケットへ手を伸ばした。


「私なんかでいいなら」


 指先で触れる。


「私と一緒に行きますか?」


『行きたい。』


『あなたと。』


『今度は、怖い声を集めるためじゃなく。』


『嬉しいものを探しに。』


 少しして。


『持ち主になってくれる?』


「一応確認なんですけど」


『?』


「私、最近こういう事情に二回連続で当たってるんですよ」


 金目の額に冷や汗が浮かぶ。


「もしかすると、怖い体験ばっかりになるかもしれませんけど」


『大丈夫。』


「即答なんだ」


『怖いものがあってもいい。』


『そのあとに、あなたが笑うなら。』


『それも、一緒に残したい。』


 金目は、しばらく何も言わなかった。


 やがて。


「じゃあ一緒に行きましょうか」


『ありがとう。』


 最後に。


『行こう。』


 金目は三階に行き、黒い盤を拾うと。


 静かにジャケットへ戻した。


 鞄の中には。


 黒いジャケット。


 SIDE B。


 音羽が呆然とした顔でこちらを見る。


 久世も同じだった。


「……草壁さん」


「はい」


「それ」


 音羽が鞄を指す。


「どうなったんです?」


 横で聞いていたはずだが、受け入れきれてないらしい。


 金目は鞄を抱える。


 そして笑った。


「友達になったので、これからは一緒です」


「……」


「……」


 沈黙。


「草壁さん」


 音羽が言う。


「取材に来ただけでしたよね?」


「はい」


 久世も眼鏡を押し上げる。


「怪異を一体、引き取って帰ることになりましたね」


「予定にはなかったんですけどね」


「でしょうね」


 金目はそこで。


 店内を見回した。


「じゃあ」


「え?」


「取材の続きしましょう」


 音羽が目を丸くする。


「するんですか?」


「しますよ」


 金目はカメラを構えた。


「この子引き取って帰るだけなんて真似しません」


「はあ」


「取材は取材です」


 笑顔で言った。


「ちゃんとネタいっぱいくれないと許しませんよ」


 音羽は、数秒ぽかんとして。


 やがて声を上げて笑った。


 音羽堂を始めた頃の話。


 最初は小さな棚しかなかったこと。


 給料日に必ずレコードを買いに来る常連がいたこと。


 一枚の輸入盤を何人もの客が取り合ったこと。


 レコードが最も売れた時代。


 CDが出始めた頃。


 街から小さな店が一つずつ消えていったこと。


 最近は若い客が、逆にレコードを珍しがって買いに来ること。


 そして。


 閉店を決めた理由。


「寂しくないですか?」


 金目が尋ねる。


「寂しいですよ」


 音羽は笑う。


「でもまあ、四十年近くやりましたからね」


 古い棚。


 店の看板。


 レコードを一枚手に取る音羽。


 金目は何枚も写真を撮った。


 最後に。


「いい顔してください」


「これ以上?」


「記事の写真なんで」


「注文が多いなあ」


「写真ばっかり褒められるんで、そこはちゃんとしないと」


 音羽が吹き出した。


 シャッターを切る。


 いい写真だった。


 記事の題名は。


『四十年続いた中古レコード店・音羽堂。店主が語る、街と音楽の記憶』


 SIDE Bについては。


 一文字も書かなかった。


 夕方。


 金目は電車に揺られていた。


 鞄は膝の上。


 普段より少しだけ。


 大事に抱えている。


「人、多いでしょう」


 小声で言う。


 周囲には。


 仕事帰りの会社員。


 学生。


 親子。


 友人同士。


 いろいろな声。


 笑い声。


 電話。


 電車のアナウンス。


 鞄の中で。


 小さく紙が擦れる。


 金目が少しだけ開けて覗く。


 白い文字。


『たくさん、声がする。』


「しますね」


『楽しい。』


 金目は笑った。


「この子が楽しそうなら、いっか」


 向かいの乗客が怪訝そうにこちらを見る。


「あ」


 金目は黙った。


 怪しい人になっている。


 自宅。


 机の上。


 金目はSIDE Bを立てかけた。


「狭いですけど」


 少し考えて。


「今日からここが、あなたの家みたいなものですね」


 黒いジャケット。


 白い文字。


『静か。』


「さっきまで電車でしたからね」


『でも、嫌じゃない。』


 金目は椅子へ座る。


 次の文字。


『あなたがいる。』


「……」


 少しだけ照れくさくなった。


「そうですね」


 金目はパソコンを起動する。


「じゃあ記事書きますか」


『聞いていていい?』


「どうぞ」


 キーボードを打つ。


 文章は。


 相変わらず、自信がない。


 書いて。


 消して。


 また書く。


「うーん……面白くないなぁ」


『私は、あなたの声が好き。』


「文章の話です」


『違う?』


「違います」


 少しして。


 金目は笑った。


 SIDE Bの表面に。


 新しい文字が浮かんだ。


『今のも、残していい?』


「……どうぞ」


 キーボードの音。


 小さな笑い声。


 誰かの記憶を残すために文章を書く女と。


 誰かの声を残し続けてきた怪異。


 二つの記録するものが。


 同じ部屋にいる。


 恐怖は消えていない。


 SIDE Bは今も、忘れていない。


 金目だって同じだった。


 雨の夜。


 二度のノック。


 扉の向こうから聞こえた自分の声。


 怖かった記憶は。


 今でも残っている。


 それでも。


 怖い記憶だけが。


 残るもののすべてではない。


 誰かと手を繋いだこと。


 朝になって笑ったこと。


 今日。


 一つの話を最後まで聞いたこと。


 抱き締めた時に。


 あたたかい、と言われたこと。


 それも。


 全部。


 残っていく。


 そしてこれから。


 もっと増えていく。


 金目は画面を見ながら呟いた。


「次こそは」


『?』


「普通の取材がいいなぁ」


 しばらくして。


 SIDE Bに文字が浮かんだ。


『普通って、何?』


「……」


 金目は天井を見た。


「そこからかぁ」


 小さく笑う。


 その笑い声を。


 SIDE Bは。


 静かに記録した。


END「SIDE Bと帰る夜」

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