雨音の向こう側
雨は、昼を過ぎた頃から降り始めていた。
山間を走るバスの窓を、細かな水滴が絶え間なく流れていく。
草壁金目は窓際の席に座り、膝の上に置いた鞄を抱えながら、小さく息を吐いた。
「……遠いなぁ」
二十四歳。
職業、フリーライター。
一応、学生時代からなりたかった仕事には就いている。
ただし、思い描いていた姿とは少し違った。
文章に自信があるわけでもなく、人に話しかけることも得意ではない。
それでも学生時代は、少しでも慣れようと新聞部に入って活動していた。
でも思い描いていたような活動はできなかった。
取材を申し込もうとして、声をかけるタイミングを逃したことなど数え切れない。
それでも先輩たちの助言で私なりに頑張ってきた。
その結果。
遠くから相手を観察したり。
他人の会話へ耳を澄ませたり。
気づかれないよう写真を撮ったり。
そういう能力ばかりが妙に身についた。
大人になってから大手には雇ってもらえなかったけど、この能力を活かして、今はフリーライターとして頑張っている。
ただ、褒められるのは写真ばかりだ。
「……ライターって、こういうものだったっけ」
たぶん違う。
今回も、そんな自分のところへ流れてきた格安の取材案件だった。
山間の温泉地──霧ヶ沢温泉。
そこにある老舗旅館、水月荘。
表向きは、昔ながらの温泉旅館を紹介するだけの記事だ。
ただ、依頼を受ける前に口コミを調べた金目は、少し気になる書き込みを見つけていた。
――夜になると、誰もいない廊下から声が聞こえる。
――以前泊まった客の一人が、それから連絡のつかない状態になった。
「……まあ、口コミだし」
怖い話というのは、少し話を盛った方が広がりやすい。
古い旅館なら建物も軋む。
隣室の声が妙な場所から聞こえることだってある。
そう考えて、仕事を受けた。
そういうことにしていた。
バスが霧ヶ沢温泉へ着いた頃には、雨脚はさらに強くなっていた。
水月荘は、温泉街の少し奥まった場所に建っていた。
三階建ての木造旅館。
柱も外壁も相応に年季が入っているが、荒れた印象はない。
むしろ、長く大切に使われてきた建物なのだと分かる。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、五十代ほどの主人だった。
「草壁さんですね。遠いところをありがとうございます」
「あ、えっと……今日はよろしくお願いします」
いつものようにどもりつつも少し頭を下げる。
ここまでは普通だ。
本当に普通の取材。
金目は少しだけ安心しながら、玄関を上がった。
──その時だった。
廊下の奥。
二階の方から。
誰かが話している声がした。
金目の足が止まる。
「…………」
一人ではない。
二人くらい。
かなり遠い。
内容までは分からない。
宿泊客だろうか。
金目は何気なく二階へ視線を上げる。
「今日って、他にもお客さんいらっしゃるんですか?」
「ええ。一組だけ」
主人は答えた。
「ご夫婦で来られてます」
「二階に?」
「いえ」
一拍。
「二階の奥は、今は使っていません」
金目は主人を見る。
主人は笑っている。
ごく自然な笑顔。
ただ。
二階の奥について口にした瞬間だけ、その表情がわずかに硬くなった。
「……そうなんですね」
金目はそれ以上突っ込まなかった。
まずは普通に取材する。
宿の歴史。
温泉。
料理。
いつ頃から営業しているのか。
主人もそこまではよく話してくれた。
だが、二階奥について尋ねると、
「古くなりましてね。維持費もかかるので閉めたんですよ」
とだけ答えた。
嘘ではないのかもしれない。
けれどそれだけではない。
そんな気がした。
案内された客室も、古いが綺麗に整えられていた。
畳。
座卓。
窓の向こうには雨に霞む山。
写真映えは悪くない。
金目は何枚か撮影してから、何となく室内を見回す。
柱の低いところに、細かな擦り傷。
壁際にも似た跡がある。
古い旅館なら珍しくはない。
それでも妙に目についた。
荷物を置いた後、金目は館内の撮影を兼ねて廊下へ出た。
二階へ上がる。
客室が並ぶ廊下の奥。
そこだけ、明らかに雰囲気が違っていた。
木製の大きな扉。
鍵が掛かっている。
扉の手前には古いベンチが一つ置かれていた。
ここから先が、閉鎖された区画なのだろう。
金目は扉へ近づき、床を見る。
「……?」
すると扉の前だけ、床板の擦れ方が妙だった。
長い間、人が何度も立ったり歩いたりしたような摩耗。
閉鎖されている場所にしては、不自然に見える。
さらにベンチの下を覗くと、紙の端が覗いていた。
しゃがんで引き出す。
古いメモ。
走り書きのような文字。
──また声がした。
──二人じゃない。
──奥──
そこで文章は途切れていた。
「…………」
金目は紙から扉へ視線を移す。
(……帰ろうかな)
一瞬、本気でそう思った。
でも仕事で来ている。
それに、少し気になる。
金目は扉に耳を近づけた。
呼吸を止める。
雨音。
木造建築の軋み。
その奥。
──声。
一人。
二人。
違う。
もっといる。
三人以上。
誰かが同時に喋っている。
言葉は聞き取れない。
その合間に、
──コン。
硬いものを叩くような音。
金目はゆっくりと扉から離れた。
「…………帰りたい」
小さく呟いた。
まだ到着して、それほど経っていない。
玄関近くの一角に、昔の水月荘を写した写真が何枚か飾られていた。
そのうちの一枚。
下に、
『昭和五十三年 水月荘二階改装前』
と書かれている。
金目は写真を覗き込んだ。
現在とは違う長い廊下。
何人かの人間が写っている。
その中の一人だけが、カメラではなく廊下の奥を向いていた。
さらに。
その視線の先。
人の形にも見える黒い影。
写真の端に記された部屋番号。
――旧207。
「……これ、人ですか?」
後ろから声がして、金目は肩を跳ねさせた。
「ひゃっ」
「す、すみません」
声をかけてきたのは女将だった。
主人の妻らしい。
「いえ……ちょっと集中してたので」
誤魔化しながら、写真を指す。
「これ、昔の二階ですよね」
「ええ」
「この辺って、207号室だったんですか?」
女将の表情が変わった。
ほんの一瞬。
けれど、はっきり分かった。
怖がっている。
「……昔は、そういう番号でしたね」
「今は使ってないんですよね」
「ええ」
金目は少し迷った。
でも、強く問い詰める気にはなれなかった。
「私、記事に変なこと書こうとしてるわけじゃないです」
できるだけ柔らかく言う。
「ただ、もし泊まる上で気をつけた方がいいことがあるなら……教えてもらえると助かります」
女将はしばらく黙っていた。
やがて。
「夜」
小さな声。
「声がしても、部屋から出ないでください」
金目の背中が冷たくなる。
「……声?」
「誰の声でも」
女将は続けた。
「返事をしないでください」
金目は、その日の午後を温泉街での聞き込みに使った。
雨は止まない。
傘を差しながら町を歩く。
老人に水月荘について尋ねると、最初は笑っていた。
だが「夜の声」という言葉を出した途端、顔つきが変わった。
「雨の日はな」
老人は言った。
「変な声を聞いても、ついてったらあかん」
「ついていく?」
「昔から言うんや。二回叩かれても、返すなってな」
「二回?」
老人は指を二本立てた。
「コン、コン。それだけや」
別の宿、松風館。
そこの女将にも話を聞いた。
「水月荘だけじゃないですよ」
女将は苦笑した。
「私も昔、一度だけ聞いたことがあります。誰も泊まってない上の階から、何人も喋ってる声」
「……見に行きました?」
「行くわけないでしょう」
「ですよね」
金目は真顔で頷いた。
この人は信用できる。
宿に戻った金目は、スマートフォンで古い記録を調べた。
最初は何も出てこなかった。
検索語を変える。
水月荘。
事故。
転落。
207号室。
そして。
一件の古い記事へ辿り着いた。
約五十年前。
三十二歳の会社員男性。
一人で水月荘旧207号室へ宿泊。
夜。
隣室の客が、男性の部屋から複数人の会話を聞いている。
午前二時頃。
──ーコン、コン。
二度のノック。
翌朝。
207号室の窓は開いていた。
男性は建物の下で死亡していた。
転落による頭部外傷。
事故か。
自殺か。
それは分からない。
「…………」
金目は画面をスクロールする。
さらに古い地域資料。
そこには、事故より前から「雨の夜に声を聞く」という話が残っていた。
つまり。
207号室の男が原因ではない。
むしろ。
事故の後から、
──声が増えた。
という記述がある。
「……やだなぁ」
スマートフォンを置く。
怖い。
普通に怖い。
帰りたい。
でも今から山道を帰るのは現実的ではない。
「……寝よう」
そうしよう。
寝ればいい。
何も聞かなければいい。
金目はそう決めた。
夕食は美味しかった。
本当に美味しかった。
具沢山の料理。
温かい汁物。
焼き物。
こんな状況でなければ、記事用の感想をもっと真面目に考えられただろう。
同じ食堂には、もう一組の宿泊客。
仲の良さそうな中年の夫婦がいた。
妻が夫の料理を勝手に一口取って、夫が呆れた顔をする。
でも本気で怒ってはいない。
金目は、こういう夫婦っていいなぁ、などと思いながら見ていた。
その時。
──コン。
食堂の空気が止まった。
──コン。
二度目。
主人の箸が止まる。
女将の顔から血の気が引く。
そして廊下の向こうから、声がした。
誰かが喋っている。
複数。
遠い。
主人が立ち上がった。
「皆さん」
声を抑える。
「今日は、しばらくここにいてください」
夫婦が戸惑う。
「何かあったんですか?」
「少し……建物のことで」
金目は料理へ視線を落とした。
怖い。
怖いので。
「……これ、美味しいですよね」
突然言った。
三人が金目を見る。
「この煮物。味、すごく染みてますよね」
主人も一瞬ぽかんとした。
でも金目は続ける。
「記事に書くなら、やっぱり料理はちゃんと書かないと。あ、この魚も美味しいです〜」
別に料理談義がしたいわけではない。
声へ意識を向けたくなかっただけだ。
でも夫婦の妻が、少し笑った。
「確かに美味しいですね」
「ですよね!」
それだけで少し楽になった。
夜。
金目は中年夫婦にも事情を説明した。
「もし、誰かの声が聞こえても返事しないでください」
「知ってる人の声でも?」
「はい」
「宿の方でも?」
「はい」
「草壁さんの声でも?」
金目は少し嫌な想像をしてから、
「……はい」
と答えた。
そして金目は考えた末、主人たちに無理を言って、一階の彼らの部屋近くへ全員で移動することにした。
中年夫婦だけを別の階へ残すのは嫌だった。
2階に置いてあった荷物を持って移動する際、中年夫婦を先に歩かせる。
自分はその後ろ。
主人が最後尾。
一番危険そうな場所を主人一人へ任せるのも嫌だったが、土地勘のある人間が後ろにいる方がいい。
部屋へ入る。
扉に鍵を掛ける。
寝る位置を決める時、金目は少し迷って──扉に一番近い場所へ座った。
「草壁さん、そこ?」
妻が聞く。
「……はい」
本音を言えば一番奥がいい。
ものすごく奥がいい。
布団に潜って朝まで出たくない。
でも夫婦を扉側に置くのも嫌だった。
「もし何かあったら」
金目は妻の手を取った。
「こうやって手を握りましょう」
それから、妻の掌に指で大きく×を書く。
「これされたら、喋らない」
次に自分の口元へ指を持っていき、
すっ。
と横へ動かす。
「お口にチャック……です」
夫が少し笑った。
金目も笑う。
「旦那さんとは手を握らないですからね」
「なんでですか」
「奥さんに怒られたくないので」
妻も小さく笑った。
怖い。
でも少し笑えるだけで、かなり違った。
そのあとは宿屋の主人たちの馴れ初めなんかを聞いて時間を潰していった。
それから。
午前一時五十八分。
金目は浅い眠りから目を覚ました。
雨音。
それ以外は静か。
時計を見る。
もう一度眠ろうとした。
──コン。
身体が固まる。
──コン。
二回。
隣の妻も目を開ける。
金目は何も言わず、その手を握った。
扉の向こうから。
「……草壁さん」
主人の声。
「起きてますか」
金目は返事をしない。
「大丈夫ですよ」
主人の声。
「もう終わりましたから」
返事をしない。
妻の手に指を滑らせる。
×。
妻が小さく頷く。
しばらく沈黙。
次に。
「ねえ」
扉の外から、女の声がした。
金目の隣にいる妻と、まったく同じ声。
「開けて」
金目は隣を見る。
本物の妻がいる。
青ざめた顔で金目を見ている。
扉の下。
その細い隙間を影が横切った。
人の足元のような影。
金目の心臓が強く鳴る。
怖い。
でも扉は閉まっている。
鍵も掛かっている。
まだ大丈夫。
そう言い聞かせる。
そして次に聞こえた声で。
金目の全身に鳥肌が立った。
「……ねえ」
自分の声だった。
「開けてよ」
寸分違わない。
自分が録音した声を、扉の向こうで再生されているような。
金目は震えながら思った。
──声真似うんま。
こんな時に何を考えているのか。
でもそう思ったら、少しだけ怖さが薄れた。
もう一度、妻の掌に×。
ぎゅっ。
手を握り返される。
──ガチャ。
扉の取っ手が動いた。
一度。
二度。
けれど開かない。
鍵が掛かっている。
それだけのことが、今はたまらなく心強い。
その時隣の部屋から電話の着信音が聞こえた。
主人たちの部屋だ。
金目はそちらへ顔を向ける。
鳴り続ける電話。
誰も取らない。
自分の電話ではない。
なら知らない。
聞かなかったことにする。
やがて電話も止まった。
声も消えた。
廊下は静かになった。
金目はすぐには動かなかった。
耳を澄ませる。
何もいない。
何も聞こえない。
それでもしばらく待った。
午前二時十七分。
ようやく。
「……寝ます?」
ほとんど息だけで聞いた。
妻が頷く。
金目はそれを見て、頷くと目を瞑った。
緊張で寝れないかと思ったが。
不思議としばらくすると眠れた。
鳥の声で目が覚めた。
午前六時四十三分。
金目は目を開けたまま、しばらく動かなかった。
鳥。
遠くの車。
廊下を歩く人間の足音。
木造建築の普通の軋み。
それだけ。
「……朝だ」
力が抜けた。
生きている。
みんな生きている。
部屋を出る。
主人の部屋へ行く。
扉の前で手を上げて──止めた。
昨日のアレでコン、コンという音を鳴らすのは、嫌だから。
金目は少し考えてから、
カン。
カカカン。
カンカン。
妙なリズムで扉を叩いた。
中から主人が出てくる。
「草壁さん?」
「おはようございます」
金目は少し涙目になりながらも無理に笑顔を作りながらVサインをした。
「めっちゃ声真似うまかったです」
「……はい?」
「私の声までやってました」
口元に手を当てて、チャックを閉じる仕草。
「でも、お口チャック忘れてなかったので」
主人はしばらく金目を見たあと。
力が抜けたように笑った。
朝食の後。
主人は、ようやく二階奥のことを詳しく話した。
旧207号室。
昔の死亡事故。
何度か閉鎖区画を取り壊そうとしたこと。
工事中に、誰もいない場所から声がした。
置いたはずの工具が移動した。
壁の向こうからノックされた。
業者が仕事を放棄した。
「もう宿を閉めようと思ったこともあります」
主人は言った。
「売ろうとも。でも……ここは、家でもありますから」
家族が長い間守ってきた宿。
怖いからといって簡単に捨てられるものでもない。
金目は黙って聞いていた。
記事に書くべきだろうか。
夜な夜な声の聞こえる旅館。
怪談記事として出せば、話題にはなるかもしれない。
アクセスも増えるかもしれない。
でも。
「……このこと、記事には書きません」
主人が顔を上げた。
「いいんですか?」
「はい」
金目は少し笑った。
「料理、美味しかったですし」
「温泉も良かったですし」
「ご夫婦もいい方でしたから」
少し考える。
「そっち書きます」
帰る前。
昨夜を一緒に過ごした夫婦と、少し話をした。
「お二人って、ずっと仲いいんですね」
金目が言うと、妻が笑う。
「そう見えます?」
「見えます」
「昔はもっと喧嘩しましたよ」
夫も笑った。
二人が出会ったのは二十代。
共通の友人たちとの旅行だったという。
帰り道、雨で電車が止まった。
予定外に長い時間を一緒に過ごすことになり、何時間も話した。
それがきっかけで連絡を取るようになり。
付き合い、結婚した。
今もこうして二人で温泉旅行をしている。
「雨がきっかけだったんですね」
金目が言う。
「そうですね」
妻が笑った。
金目は外を見る。
昨日から続いていた雨は、もうほとんど止んでいる。
怖い雨もある。
でも誰かにとっては、大切な時間の始まりになった雨もある。
「……なんか、いいですね」
金目は素直に言った。
数日後。
草壁金目は、自宅の机で記事を書いていた。
水月荘の料理。
温泉。
昔ながらの木造旅館の雰囲気。
主人夫婦の人柄。
宿で出会った仲の良い夫婦。
怪異については、一文字も書かなかった。
ただ最後に一文だけ加えた。
『ご宿泊の際は、できれば日中にしっかり観光して、夜はぐっすり眠れる状態で泊まることをおすすめします。』
「…………」
金目は読み返す。
「意味分かんないな、これ」
でも消さなかった。
それから記事を公開する。
反応を待つ。
しばらくして感想がついた。
『写真が綺麗』
『料理美味しそう』
『温泉行きたくなった』
「…………」
金目は机に突っ伏した。
「文章……」
また写真ばかり褒められている。
「とほほ……」
しばらくそうしていたが。
ふと、あの夜を思い出す。
怖かった。
自分の声が扉の向こうから聞こえた瞬間なんて、今でも思い出すだけで嫌になる。
それでも全員、生きて朝を迎えた。
最後には笑った。
あの夫婦も、今頃また二人でどこかへ出かけているのだろう。
怖かった記憶は残る。
でもそれだけではない。
金目は顔を上げる。
「……まあ、いっか」
そして次の仕事を探すため、パソコンへ視線を戻した。
ほんの少しだけ祈りながら。
「次は普通の取材がいいなぁ」
窓の外。
雨上がりの街には、薄い朝の光が差していた。
END「返事をしなかった夜」




