お帰りなさい
第六回の取材を終えてから、数日後。
草壁金目のもとへ、担当編集者から新しい仕事の連絡が入った。
今回の取材対象は、市内にある古い集合住宅――朝凪団地。
築五十年以上。全六棟のうち、最も古い六号棟は老朽化によってすでに全住民が退去しており、来月から解体工事が始まる予定だという。
記事のテーマは、『姿を消す昭和の団地と、そこに残された暮らしの記憶』。
元住民へのインタビュー。
団地の風景。
自治会に残る古い資料。
そして、解体前の六号棟内部。
話だけ聞けば、どこからどう見ても普通の地域文化取材だった。
だが、金目はもう、担当編集者の言う『普通』を素直に信用できなくなっていた。
「……今回は、本当に何もないんですよね?」
『ないって。ちゃんと調べたから』
「前も似たようなこと言ってませんでした?」
『今回は本当に大丈夫』
「…………」
金目は電話を耳に当てたまま、じっと虚空を見る。
このところ、普通の取材だと言われて現場へ行くたびに、どういうわけか普通では済まない。
別に怪異に会いたいわけではない。
むしろ、できることなら二度と会いたくない。
「じゃあ……もし今回も怪異だったら、追加報酬三倍で」
『三倍!?』
「嫌なら別の人に頼んでください」
編集者が少し黙った。
『……分かった。三倍』
「言いましたね?」
『言ったよ』
「重大事件に巻き込まれた場合もですよ」
『分かったって』
そこまで確約を取って、金目はようやく依頼を受けた。
その後、自宅で事前調査を始めたが、朝凪団地そのものに目立った事件は見つからなかった。
大規模火災。
殺人。
集団失踪。
自殺の名所。
心霊スポット。
そういった分かりやすい不穏な記録は、何一つ出てこない。
ただし、一つだけ。
六号棟には昔から、少し変わった習慣が残っていた。
――退去した住民の表札を、捨てずに残す。
古い新聞写真を追うと、年代の違う送別会の写真が何枚も見つかった。
そのどれにも、六号棟入口付近の同じ位置に、小さな板のようなものが写っている。
二十数年前の記事には、老朽化した名札掛けを新しいものへ交換し、古いものは自治会倉庫へ保管するとあった。
だが、習慣そのものがいつ始まり、なぜ続いていたのかまでは分からない。
「……まあ、人情味のある昔の習慣ってだけかもしれないけど」
金目はノートパソコンの画面を見ながら呟いた。
横から、金鶴がひょこりと画面を覗き込んでいる。
金目はその頭を見て、何となく手を伸ばした。
「金鶴ちゃん」
「はい?」
わしゃわしゃ。
「……何をしているんですか」
「精神安定」
「またですか」
「またです」
そのまま何度か頭を撫で回す。
人間とは思えないほど冷たい体温。
だが今では、その冷たさにもすっかり慣れてしまった。
続いて千鶴を見る。
「つるちゃんも」
「はいはい」
こちらもわしゃわしゃ。
「かなちゃん、本当にそれ好きだね」
「落ち着くから」
写真の中にいるちなつには、裏側を指先でこちょこちょと撫で、黒いレコードジャケットに収められたSIDE B――東ビートには、ジャケットの裏を軽く掻いた。
精神安定は重要である。
少なくとも金目にとっては。
◇
取材当日。
朝凪団地の自治会集会所で、金目たちは自治会長の三枝隆一と顔を合わせた。
金目はすぐに名刺を取り出し、両手で差し出す。
「フリーライターの草壁金目です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げる。
三枝は名刺を受け取り、金目の顔を見ると、すぐに表情を和らげた。
「こちらこそ。わざわざありがとうございます」
「今日は六号棟について、いろいろお話を伺わせていただければと思ってまして」
「ああ。分かることなら何でも聞いてください。記事になるかどうかは別として、気になることがあれば話しますよ」
「いいんですか? すごく助かります」
金目は嬉しそうに笑った。
本人はただ礼儀正しくしているだけのつもりなのだが、こういう時、妙に相手の警戒が解ける。
本人に自覚はない。
ただ、先輩から教えられた通り身だしなみを整え、清潔な服を着て、きちんと笑顔を作っているだけだと思っている。
三枝の案内で、六号棟に関する古い資料を見せてもらう。
六号棟は、団地の六棟の中で最初に完成した棟だった。
工期の差自体は一年にも満たないが、長期居住者が多く、他の棟より昔の習慣が残りやすかったらしい。
「退去した人の表札を残すのって、六号棟だけだったんですか?」
「そうですね。他の棟にも名札掛け自体はありましたけど、出ていった人のものまで残すのは六号棟だけでした」
「どうしてなんでしょう」
「昔聞いたのは……『出ていったからって、いなかったことにはならないだろう』って」
「……素敵な考えですね」
金目は笑った。
「出ていってしまった方のことも、ちゃんと覚えておこうって」
そう言いながら、頭の片隅には別の考えも残しておく。
人が去っても、その人がいたという記憶は場所に残る。
もし怪異というものが、そういう『残ったもの』に関わっているのなら――。
だが、今はまだ考えすぎだ。
さらに送別会の写真を見せてもらった。
二週間前。
六号棟最後の住民だった藤代という女性の送別会。
住民たちは穏やかに笑っている。
その写真の中で、金目は一つの札に目を留めた。
『おかえりなさい』
「……え?」
思わず顔を上げた。
「これ、送別会の写真ですよね?」
「そうですよ」
「でも……『おかえりなさい』なんですね」
三枝は写真を覗き込む。
「ああ。昔からそうなんです」
「書き間違いとかではなく?」
「違いますね」
「……不思議ですね」
さらに古い写真を調べると、『おかえりなさい』の札は送別会だけではなく、新しい住民を迎える歓迎会でも使われていた。
「入ってくる人にも、出ていく人にも……?」
「ええ。昔の人は、『来る人も帰る人。出ていく人も帰る人』って言ってましたね」
「……どこに帰る人なんでしょうね」
三枝も首を傾げる。
答えは知らないらしい。
そこから金目の資料調査は、少しずつ深くなっていった。
古い自治会記録に、
『退去者名札、旧例に従い帰札へ移す』
という記述が出てきた。
「帰札……?」
別資料にも、
『帰札整理』
『帰札木枠補修』
という言葉がある。
退去した住民の表札を収める名札掛けを、昔は『帰札』と呼んでいたらしい。
さらに古い回覧には、
『転出の際は札を処分せず、従来通り帰札へ。送別後三日は空室を閉め切らないこと』
とあった。
「三日……ちょっと長いような気もしますね」
そして裏面。
薄い鉛筆書き。
『札を入れてから戸を閉める』
「……これは?」
三枝にも分からない。
だが、昔の帰札は木箱型で、前面に木戸がついていたらしい。
ならば、退去した人の表札を帰札へ入れ、戸を閉める。
そういう意味とも読める。
調べれば調べるほど、単なる『人情味のある習慣』にしては妙に手順が細かい。
さらに備品記録。
『帰札予備木札 十二』
『不足時使用』
「予備?」
本人が実際に使っていた表札を残すなら、予備など必要ない。
そして古い住民記録には、
『早瀬』
『札あり』
『部屋なし』
という不可解なメモ。
「……部屋がないのに、札がある?」
さらに最後。
古い帰札整理表。
そこには住民名の横に、
『帰/不帰』
という欄があった。
ほとんどは『帰』。
だが一部だけ――『不帰』。
そして、不帰の者には部屋番号も転出年月もない。
早瀬も、その一人だった。
用紙の下には、薄い鉛筆書き。
『住まぬ者は帰らぬ。帰らぬ者は納める』
「…………何これ」
金目の表情から、少しずつ笑みが消える。
さらに古い図面を確認する。
六号棟一階の共用物入れ。
昔の図面では、現在より奥行きが二十センチほど深い。
その奥に、小さく、
『旧札納』
と記されている。
後年の図面では、その名称は消え、共用物入れの背面板に覆われていた。
そして図面への鉛筆書き。
『帰らない札はこちら』
「……本当に嫌な書き方ですね」
三枝も同意した。
金目は写真を探す。
旧札納がまだ見えていた頃の古い白黒写真。
小さな木製収納。
その中に、同じ大きさの木札が何枚も納められている。
そして一枚に――早瀬。
金目はしばらくその写真を見つめた。
帰札。
不帰。
帰らない札。
「……つるちゃん、金鶴ちゃん」
二人を少し離れた場所へ呼ぶ。
「ちょっとだけ知恵貸してほしいんだけど」
千鶴は資料を見比べてから、眉を寄せた。
「これ、単純に記念して残してるっていうより……名前を分類して管理してるように見える」
「やっぱり?」
「帰る人、帰らない人。それで札の置き場所まで分けてる」
金鶴は古い旧札納の写真をじっと見つめる。
「……私は、これが少し気になります」
「怪異?」
「そこまでは言えません。でも、この写真そのものじゃなくて……写っている場所が」
旧札納。
金鶴はそこに、弱い違和感を感じていた。
◇
三枝に案内され、金目たちは六号棟へ向かった。
すでに全住民が退去した建物は、まだ廃墟と呼ぶほど荒れてはいない。
ただ、生活音だけが抜け落ちている。
廊下。
名札掛け。
そして一階の共用物入れ。
金目は周囲を調べる。
物入れ前の埃には、何かを置いて動かしたような比較的新しい擦れ跡。
扉と床の隙間から、細い木片。
そして。
――コ。
「……?」
物入れの中。
――コト。
小さな硬いものが触れ合うような音。
金目は金鶴を見る。
「大丈夫?」
「私は大丈夫です。でも……写真で感じた時より、近いです」
「旧札納?」
「たぶん」
千鶴も音は聞いていた。
そこで三枝に確認を取る。
最近、自治会側で物入れを整理した記録はない。
解体業者が建物全体の確認には入っているが、物入れを整理したとは聞いていない。
その話をしている最中。
――コト。
今度は三枝にも聞こえた。
「……今、何か音しました?」
「しましたよね。……また」
金目は慎重に物入れを確認することにした。
三枝、千鶴、金鶴には少し離れてもらう。
「私が開けてみます」
だが、扉に手をかける直前。
金目はもう一度耳を澄ませた。
物入れの奥から、微かな空気の流れる音。
そして扉の下に挟まっていた木片が――ころりとこちら側へ転がり出る。
「……これ」
拾う前に観察する。
ただの木屑ではない。
薄く加工された木札の一部。
黒い筆文字の一部。
縁に、細い赤褐色の線。
しかも表面は古いのに、割れた断面だけは比較的新しい。
金目は慎重に拾い上げた。
「……冷たい」
木とは思えない、芯のある冷たさ。
手にした瞬間、金鶴がこちらを見る。
皆のところへ戻り、見せる。
金鶴は触れずに木片を見つめた。
「……何かあります」
「これに?」
「この破片そのものに何かがいるわけじゃありません。ただ……何かと繋がっていたものが途中で切れたような感じがします」
そして視線は共用物入れへ。
「残っている方は……あっちです」
金目は開けるのを中止した。
今度は現在の名札掛けを調べる。
藤代の表札は残っている。
だが二週間前の写真と比べると、位置が一つ左へずれている。
その右側。
不自然な空白。
埃には、札が一枚置かれていたような長方形の跡。
木粉。
赤褐色の小さな欠片。
金目は送別会写真を徹底的に拡大した。
そして――見つける。
「……あった」
二週間前の写真。
藤代の表札の右隣。
人の身体にほとんど隠れているが、一枚の木札が存在している。
他の住民の表札とは違う。
同じ形。
同じ厚み。
そして――赤褐色の縁。
◇
ここから金目たちは、古い六号棟を知る人々への聞き込みを始めた。
最初は、四十年以上六号棟に住んでいた久世。
「帰札ですか。懐かしい名前だね」
久世によれば、帰札とは単なる『名前を書いた札』ではない。
その人物が六号棟で実際に暮らしている間、玄関に掛けていた表札そのもの。
「六号棟から出ていっても、札だけは家に帰しておくんだ」
「だから帰札……」
「ああ」
そして、
『来る人も帰る人。出ていく人も帰る人』
という言葉。
「新しく入ってくる人は、六号棟へおかえりなさい。出ていく人は……向こうへおかえりなさい」
「向こうって、どこですか?」
「それは私も知らない」
昔の老人に聞いた時、
『帰る場所を知らなくても、札は知ってる』
そう言われたらしい。
不帰についても久世は知っていた。
「赤茶色の縁の木札だよ。旧札納に入ってた」
「誰の札なんですか?」
「六号棟に住んだ人間の札じゃない。それしか知らない」
そして。
『住まぬ者は帰らぬ。帰らぬ者は納める』
について聞くと、久世の表情が変わった。
「六号棟に住んだ者は帰れる。住まなかった者は帰れない。だから、帰れない者は札にして納める」
「旧札納へ?」
「ああ。不帰はあそこから出しちゃいけない」
さらに久世は、子供の頃に不帰の一つ――早瀬を見たことがあった。
「その名前を見て『この人誰?』って聞いたら、ものすごく怒られたよ」
「何て?」
「名前を覚えるな。呼ぶな。帰れないものに、帰る場所を教えるな」
金目はそこで、一つの仮説を頭に置いた。
もし名前を呼ぶことが、帰る場所を教える行為なら。
建物ではなく――呼んだ人間そのものが『家』になるのではないか。
退去時の手順にも意味が見え始めた。
表札を帰札へ戻す。
三日間、部屋を閉め切らない。
「三日間って、何のためだったんでしょう」
「部屋から人の気配が抜けるまでだって聞いてたよ」
そして古い言葉。
『人が出ても、部屋がすぐ空になるとは限らない』
入居する時には帰札へ、
『今日からここで暮らします』
と挨拶する。
退去する時は送別会。
表札を帰札へ。
部屋は三日間開ける。
「もし手順を間違えたら?」
「帰すものを帰さないと、帰る場所を間違える」
「……誰が?」
「そこまでは知らない」
久世は旧札納について、最後に忠告した。
『不帰は、数えるな。読むな。呼ぶな』
◇
次に長谷部。
世話好きで、少し大雑把な元住民。
二週間前の送別会後、長谷部は『おかえりなさい』の札を共用物入れへ戻しに入っていた。
「中がごちゃごちゃしててさ。棚とか箱とかちょっと動かしたんだよ」
金目は赤褐色の縁の古い木札について尋ねた。
「ああ。一枚あったな」
「どこに?」
「奥に落ちてた。古い名札みたいだったから、名札掛けから落ちたんだと思って」
一拍。
「表の名札掛けに戻しといたよ」
金目は内心で、ほぼ確信した。
――この人だ。
だが顔には出さない。
「まあ、そうですよね。そんなところ、普通はあまり意識しませんよね」
笑ってメモを取る。
長谷部に悪意はなかった。
不帰というもの自体を知らず、落ちた表札を元へ戻したつもりだった。
しかもその時、札は割れていなかった。
送別会以降、長谷部は六号棟へ行っていない。
つまり、現在の破片はその後に壊れたもの。
長谷部の後に共用物入れへ入ったのは小宮だった。
小宮は掃除道具を戻しただけ。
だが。
「奥に木の板みたいなものが立て掛けてあったのは覚えてます」
「『おかえりなさい』の札では?」
「違いますよ。もっと小さい。表札くらい」
「割れてました?」
「いいえ。普通の一枚の札だったと思います」
退出する時。
――コト。
奥から、小さな音も聞いていた。
だが箱でもずれたのだろうと思い、そのまま扉を閉めた。
◇
最後に話を聞いたのは、六号棟最後の住民――藤代だった。
藤代も、不帰を知っていた。
「名前を見ない。読まない。覚えない。昔からそう言われてました」
「もし帰札と不帰を混ぜたら、どうなるかご存じですか?」
藤代は少し考えた。
「……帰れないものが、帰る人についていく」
金目のペンが止まる。
「どちらが帰る人なのか、分からなくなるんですって」
「もし、そうなってしまったら?」
「帰る人が六号棟を出る前なら、不帰を元へ戻せばいい。でも……出た後なら、札だけ戻しちゃいけない」
「では?」
「ついていったものを先に六号棟へ連れ戻す。それから札を戻す」
「どうやって連れ戻すんですか?」
「帰る人を、もう一度六号棟へ帰す」
古い言葉。
『連れを戻してから、札を戻せ。札を先に帰せば、連れは帰れない』
そして藤代自身も、送別会後に不帰を見ていた。
午後三時前。
最後の荷物確認をして、窓を開け、玄関表札が外れていることを確認した。
その時、自分の表札の隣に――赤褐色の縁の知らない札があった。
「不帰だと思いました」
「名前は?」
「読んでません」
「触りました?」
「いいえ。怖かったから」
「誰かに伝えました?」
「……昔話を持ち出したら笑われると思って」
そのまま藤代は、六号棟を出た。
昔の言い伝え通りなら。
その瞬間。
帰れないものが、藤代についていったことになる。
金目はしばらく黙った。
表情が硬くなる。
大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
そして藤代へ深く頭を下げた。
「藤代さん。申し訳ございません」
「え?」
「今から、取材とは関係のないことをお話しさせていただきます」
金目は、ここまで分かったことを一つずつ説明した。
怪異だと断定はしない。
長谷部にも悪意はない。
古い言い伝えが本当なのかどうかも分からない。
ただ。
名札掛けから不帰は消えている。
共用物入れ前には、最近割れた赤褐色の木札の欠片。
物入れの中からは音。
そして金鶴は、欠片と旧札納の間に何らかの繋がりを感じている。
「昔の六号棟の皆さんのお話を鵜呑みにするのであれば……藤代さんに何かがついていってしまった可能性があります」
金目は真剣な表情のまま続けた。
「でも、少しだけ気味の悪いことが起こり始めてるのは、事実なんです」
話し終えると、もう一度頭を下げた。
「快く取材を受けてくださったのに、こんな話までしてしまって、本当に申し訳ありません」
三枝にも謝る。
だが二人は、金目を責めなかった。
「何かあるかもしれないのに、黙って帰られる方が嫌です」
藤代はそう答えた。
◇
藤代はさらに一つ、昔聞いた話を思い出した。
旧札納から不帰がなくなった時。
『札を探すな』
『名を探せ』
『木を追うな。名を追え』
三枝のスマートフォンに残っていた送別会写真の元データを確認する。
金目は写真を拡大し、不帰に書かれている文字を解析した。
そこに書かれていた名。
――早瀬。
ただし、金目はそれを怪異に向けて呼びかけるような真似はしなかった。
自治会へ戻り、総動員で調査する。
早瀬宗一。
三十二歳。
六号棟が建つ以前、その土地に存在した住宅に住んでいた男性。
ある夜、自宅を出たまま行方不明。
遺体は見つかっていない。
六号棟完成後。
『夜間、六号棟にて早瀬を見たとの申し出三件。居住者に該当なし』
さらに。
『表札確認。早瀬札あり。部屋なし』
『早瀬札、旧札納へ』
記事の余白。
『家なし。帰れず』
古い引継ぎ。
『早瀬、旧地の者』
『棟に住まぬ』
『名を置けば寄る』
そして。
『呼ばれれば、その者を家とする』
「…………」
金目が序盤から考えていた仮説は、ほぼそのまま答えへ繋がっていた。
帰るべき家を失ったもの。
名前を呼ばれれば――呼んだ人間を『家』にする。
さらに資料を追う。
不帰が欠けた時。
『欠片を納めるな』
『欠けは、帰路の途切れ』
『残りを探し、元の一枚としてから納めること』
『残り見えぬ時、家を見よ』
早瀬の旧宅があった位置。
現在の六号棟。
その中でも――共用物入れに近い場所。
さらに。
『帰る家なきもの、名をもって家を得る』
『名を呼ぶ者あれば、その者を家とする』
『されど、元の家まだ在るならば――戸を開き、迎え入れよ』
手順は続く。
『戸を開く』
『札を内へ置く』
『呼ばず、待つ』
『帰りし兆しあらば、戸を閉じる』
『札を納める』
帰った兆候。
札が人の手を介さず、内側へ動く。
音が止む。
異常な冷気が引く。
そして、
『欠けたる札、片割れ帰れば相寄る』
さらに旧札納には、早瀬以外の不帰も存在していた。
小宮が見た別の木札。
管理上――第三不帰。
早瀬の不帰を帰札へ混ぜたことで、一時的に『帰る道』が成立し、他の不帰まで反応した可能性があった。
『一帰れば、帰らぬもの皆、道を見る』
『戸前へ出た札には触れるな』
『道閉ずれば、自ずと納へ戻る』
外戸。
内戸。
共用物入れの扉は外戸。
その奥の旧札納が内戸。
『外戸のみ開くは、道を開くにあらず』
『内戸開きて、初めて帰路となす』
そして最後の注意。
『帰る者、戸を開くべからず』
『帰す者、戸を開けよ』
『帰す者、一人とせよ』
戸を開ける者。
札を置く者。
最後に戸を閉じる者。
すべて同一人物でなければならない。
藤代は『帰る者』。
戸にも札にも触れてはいけない。
情報は、揃った。
◇
五人は再び六号棟へ戻った。
金目。
千鶴。
金鶴。
三枝。
そして藤代。
共用物入れの前。
金目は藤代へ念を押す。
「藤代さん。ここからは、何があっても札や扉には触らないでください。何か気になるものがあったら、まず私たちに教えてください」
「分かりました」
金目は外戸に手を掛ける。
ゆっくり開く。
中へは入らない。
まず内戸。
旧札納。
――閉じている。
「…………」
だが。
その手前。
床の上に、一枚の木札が立っていた。
何にも寄りかかっていない。
支えもない。
ただ。
垂直に。
こちらへ正面を向けて。
「…………」
第三不帰。
金鶴が小さく言う。
「小宮さんが見たものと……たぶん同じです」
金目は数秒見ただけで判断した。
「……一回閉めるね」
触らない。
近づかない。
外戸を閉じる。
数分待つ。
もう一度開く。
内戸は閉じたまま。
そして――第三不帰は消えていた。
「……戻った?」
「さっきの気配も、なくなっています」
資料通り。
触れずに待てば、自ら納へ戻る。
どのように戻ったのかは、考えたくなかった。
だが今は手順を優先する。
金目は共用物入れへ入った。
不帰の欠片を持つ。
呼ばずに待つ。
十秒。
二十秒。
――カ……。
棚の下。
何かが床を擦る。
――カリ。
暗がりから、もう一つの木片が数センチ姿を現した。
誰も触れていない。
――カリ……。
ゆっくり。
床の上を滑り。
金目の足元まで来て、止まる。
「…………」
片割れ。
金目は拾い上げる。
二つの断面を合わせる。
ぴたり。
元の一枚の形になる。
その瞬間。
空気が冷えた。
「金目さん」
金鶴の声が低くなる。
「来ています」
藤代は動かない。
金目は旧札納の内戸へ手を伸ばす。
ゆっくりと開ける。
中には何枚もの古い木札。
だが、見ようとはしない。
数えない。
名前も確認しない。
ただ、復元した一枚を戸の内側へ置く。
手を離す。
待つ。
…………。
やがて。
――コ……。
札が動いた。
人の手を介さず。
外ではなく――内へ。
もう一度。
――コ……。
さらに奥へ。
それまで物入れを満たしていた冷気が、ゆっくりと薄れていく。
微かに聞こえていた木の軋みも止まった。
金鶴が静かに頷く。
「……帰りました」
金目は内戸を閉じる。
共用物入れを出る。
全員が外にいることを確認する。
最後に、自分が開けた外戸を、自分の手で閉じる。
――カチャン。
静かだった。
◇
それでも金目は、すぐに終わったとは言わなかった。
藤代の状態。
金鶴の感知。
周囲の様子。
数分待つ。
異常な冷気は戻らない。
物音もない。
別の不帰も現れない。
「藤代さん、何か変な感じはありませんか?」
「……いえ。むしろ、さっきまで少し背中が重かったような感じがしたんですけど……それがないです」
金鶴も藤代を確認する。
「今は何も感じません。藤代さんと六号棟の間にあったような繋がりも……切れています」
最後の確認。
藤代を伴って、六号棟の敷地を出る。
古い記録では、
『帰る者、敷を離るれば道伸びる』
とあった。
もし本当に道が閉じているなら。
今度は、何も起きないはずだ。
藤代が境界を越える。
一歩。
二歩。
何もない。
冷気も。
物音も。
何かが追ってくる感覚も。
金鶴は六号棟を見たまま、やがて頷いた。
「……大丈夫です」
「何も伸びてこない?」
「はい」
藤代も振り返る。
「不思議ですね。前にここを出た時は……ほんの少しだけ、後ろから見られてるみたいな気がしてたんです。でも今は、何も」
金目はようやく、大きく息を吐いた。
「…………終わったぁ……」
千鶴も笑った。
「長かったねぇ」
「ほんとにね……」
藤代を自宅まで送り、金鶴が最後に異常がないことを確認する。
今度こそ。
誰も、帰る場所を間違えてはいなかった。
◇
数日後。
六号棟では、それ以降、妙な物音や札の移動は確認されていないという。
藤代にも異常はなかった。
金目は取材記事を書き上げる。
ただし、不帰や旧札納については書かない。
早瀬についても。
怪異を面白おかしく記事にして、長年そこに暮らしてきた人たちの記憶まで不気味なものに塗り替えるつもりはなかった。
記事にするのは。
古い団地。
そこで暮らしてきた人々。
去った人の表札を捨てずに残してきた習慣。
入ってくる人にも。
出ていく人にも。
『おかえりなさい』
と声をかけてきた、その記憶。
仮タイトルを入力する。
『おかえりなさい――朝凪団地六号棟に残る、名前の記憶』
「……これでいいかな」
「いいんじゃない?」
後ろから千鶴が画面を覗く。
「ちょっと綺麗すぎる?」
「記事なんだから、それくらいでいいよ」
「そっか」
保存する。
そして金目は、スマートフォンを手に取った。
担当編集者へ電話する。
『もしもし、草壁さん? 原稿できた?』
「その前に、お話があります」
『……あ』
「今回の取材なんですけど」
『うん』
「怪異でした」
『…………』
「怪異でした」
『二回言わなくても聞こえてるよ』
「大事なことなので」
金目はにっこり笑った。
もちろん電話の向こうには見えない。
「追加報酬、三倍です」
『……本気?』
「約束しましたよね?」
『したけど……』
「しましたよね?」
『……しました』
「ありがとうございます」
『切り替え早いなあ……』
「これでつるちゃんと金鶴ちゃんのお洋服も買えますし」
『誰?』
「こっちの話です」
通話を終える。
「……よし」
「取れた?」
「三倍」
「やったね、かなちゃん」
机の端。
写真の中から、ちなつの声。
『……おつかれさま』
「あ。ちなつちゃんもお疲れさま」
写真の裏を指先でこちょこちょする。
『くすぐったい』
「精神安定」
『また?』
「また」
SIDE Bの黒いジャケットにも文字が浮かぶ。
『今回も大変だったな』
「ほんとですよ」
金目はジャケットの裏を軽く掻いた。
『そこを掻く意味はあるのか?』
「精神安定です」
『君のか?』
「私のです」
少し間。
『なら仕方ない』
「ビートさん優しい」
千鶴が笑う。
「かなちゃん、最近それ便利な言葉になってない?」
「精神安定は重要だよ」
金目はそのまま千鶴の頭をわしゃわしゃ撫でる。
「……やっぱりやるんだ」
「今日の分」
「何のノルマなの?」
次に金鶴。
「金鶴ちゃんも」
「私は先ほど撫でられました」
「追加分」
「追加分……」
わしゃわしゃ。
冷たい。
だが、今では安心できる冷たさだった。
金目はようやく椅子へ戻り、完成した原稿を見る。
怪異が絡んでいたからといって。
六号棟で暮らした人たちの思い出まで、怖いものだったことにはならない。
誰かを迎え。
誰かを送り。
そこにいたという証だけは、捨てずに残した。
金目は記事の最後に、一文を置いた。
――おかえりなさい。
保存。
椅子の背にもたれる。
「……今度こそ普通の取材がいいなぁ」
「前も言ってなかった?」
「言った」
「その前も」
「言った」
金鶴が静かに言う。
「次も何かあるのでしょうか」
「やめて」
即答だった。
写真の中から、ちなつの笑い声。
レコードジャケットには新しい文字。
『三倍ならいいのでは?』
「よくないです」
即座に否定する。
少しだけ考えて。
「…………いや、三倍なら……」
「かなちゃん?」
「なんでもない」
窓の外は、もう夜だった。
いつもの部屋。
いつもの机。
いつもの仲間たち。
もう、妙な木の音はしない。
帰れない誰かの気配もない。
金目はパソコンへ向き直り、もう一度だけ原稿の最後を眺めた。
そこに残っていたのは、怪異ではなく。
長く暮らした人たちが、誰かの名前を忘れないために残してきた言葉だった。
――おかえりなさい。
今度こそ。
取材は、終わった。




