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10/23

継景

 仕事の依頼を受けた時、草壁金目が最初に抱いた感想は、期待ではなく疑念だった。


「……本当に、普通の取材なんですよね?」


 電話の向こうで、担当編集者が呆れたように答える。


『普通だって。地方の工芸展。市の文化交流館で二日間。木工とか陶芸とか、染め物とか、ガラスとか。そういうのを見て、職人さんに話聞いて、写真撮って記事にしてくれればいいから』


「怪談とか都市伝説とか、そういうのじゃないですよね?」


『違う』


「本当に?」


『調べたよ。今回で六回目。過去に大きな事故なし。変な噂もなし。地元の掲示板も心霊サイトも一応見た。何にもない』


「昼間だから安全、とかいう理屈じゃないですよね?」


『だから何もないって』


 そこまで言われても、金目はすぐには信用できなかった。


 なにしろ前回、前々回と、あまりにも普通とは言い難いものに立て続けに関わっている。


「……最近の依頼を考えると、編集さんの『大丈夫』って、ちょっと信用できないんですよね」


『ひどくない?』


「事実です」


 即答した。


 しばらく交渉した末、金目は一つ条件をつけた。


「じゃあ、もし本当に何もなかったら通常料金で構いません。でも、万が一、現地で明らかにおかしなことが起きた場合は、怪異記事分として通常の記事料金の二倍を追加してください」


『二倍?』


「だって、何が起きるか分からない怪異なんて、対策方法すら分からないんですよ?」


 言っているうちに、本当に嫌になってきた。


「それくらいないと……私、やる気出ませんよ……」


 声が少し泣きそうになる。


『分かった分かった。何かあったら二倍追加』


 それを聞いた金目は少し嬉しそうにするが、すぐに声のトーンを落とした。


「……でも本当は、追加料金なんていらないんですけどね」


『え?』


「何にもなくて、普通の取材だけして帰りたいんです」


 それが本音だった。


 電話を切ったあと、金目はリビングにいた面々へ今回の仕事について説明した。


「というわけで地方の工芸展です。普通の文化交流館で、昼間に二日間。過去の事故も妙な噂もなし。編集さん曰く、今回は本当に普通の仕事らしいです」


 千鶴が少し安心したように頷く。


「じゃあ今回は大丈夫そうだね、かなちゃん」


「たぶん。というより、そうであってほしいですね」


 そこで金目は、ふと思いついた。


「……だったら、今回はみんなで行きません?」


 千鶴と金鶴だけではない。


 レコードジャケットに宿るSIDE Bと、写真の中の少女にも目を向ける。


「せっかく普通の依頼なんですし」


 SIDE Bには、もっと楽しい記憶を増やしてほしい。


 写真の少女についても、いつか彼女を本来つながりのある誰かのもとへ返すことができればと思っている。けれど、それだけが彼女の存在理由ではない。外の世界を見て、本人にも楽しんでほしい。


 金鶴にも、千鶴にも、もっと外のことを知ってほしい。


「……まあ、私自身そんなに外の世界を知ってるわけじゃないんですけど」


 金目が少し困ったように笑うと、千鶴が言った。


「じゃあ、一緒に知っていけばいいんじゃない?」


「……そうですね」


 金目はその言葉に頷いた。


「それが一番いいかもしれません」


 そこで、また一つ思い出す。


「そういえば」


 SIDE Bと写真の少女を見る。


「金鶴ちゃんにはちゃんとお名前がありますけど……お二人も、お名前欲しいですか?」


 SIDE Bのジャケットに、ゆっくり文字が浮かんだ。


『SIDE Bでもいい』


 少しして、次の文字。


『でも、名前をもらえるなら、それも嬉しい』


 写真の少女も、少し考えてから答えた。


「私も……名前、あってもいいと思う」


「じゃあ、どんな名前が欲しいか聞いてから決めましょうか」


 SIDE Bは、


『あたたかい名前』


『呼ばれた時に、うれしくなるもの』


 と答えた。


 写真の少女の希望は、もっと素朴だった。


「普通の名前がいい。街で呼ばれてても、おかしくないような……普通の女の子の名前」


「なるほど……」


 金目はしばらく悩んだ。


「あたたかくて呼ばれると嬉しい名前……難しいですね」


 そして、SIDE Bを見て言った。


「じゃあ……東ビートってどうです?」


 自分で言ってから少し笑う。


「ごめんなさい、カタカナ入っちゃってますけど」


 ジャケットに、


『東ビート』


 と浮かぶ。


 少しして、


『好き』


 と続いた。


「ほんとですか? じゃあ、これからはビートさんですね」


 続いて写真の少女を見る。


「あなたは……ちなつちゃん、ってどうですか?」


 少女は、自分で確かめるように呟いた。


「……ちなつ」


 もう一度。


「ちなつ……ちゃん」


 やがて、小さく笑った。


「うん。好き」


「じゃあ決まりですね」


 金目も嬉しそうに笑う。


「ビートさんと、ちなつちゃん」


 そうして、今まで便宜的に呼ばれていた二人にも、ようやく名前ができた。


     ◆


 名前を決めたあと、金目は今回の工芸展について、自分でも調べておくことにした。


 編集者が確認したとはいえ、それだけで安心できるほど、最近の金目は素直ではない。


 調べてみると、工芸展は確かに今年で六回目。地域の工芸振興団体が主催し、市の文化交流館で毎年開催されている。


 木工、陶芸、染織、革細工、ガラス、金属細工。


 単純な販売会ではなく、職人が制作工程を実演したり、簡単な体験を行ったりすることも特徴らしい。


 さらに毎年、


『今年の一品』


 という企画が行われていた。


 各工房が、その年を代表する一作を出品し、来場者投票と審査で一作品が選ばれる。


「なるほど。販売より、職人さんそのものを見せるイベントなんですね」


 その中で、少し気になった工房があった。


『鳴代工房』


 金属工芸・小物。


 今年初参加で、ネット上にはほとんど情報がない。


「……一体どんな工房なんでしょう」


 さらに調べると、七、八年前に別の工芸市へ出ていた記録が見つかった。


 店舗を持たず、紹介と注文を中心に活動しているため、そもそも表へ出ることが少ないらしい。


「なんだ。考えすぎたみたいですね」


 金目は苦笑した。


「危ない危ない。最近立て続けに変なことばっかりやってたから、ちょっと疑り深くなっちゃってました」


 だが、その後。


 出展一覧を眺めているうちに、別の工房が気になった。


『久世陶房』


 今年の一品として出す作品は、


『継景』


 深い藍色の器に、金継ぎの線が走る作品だった。


 もともとは別の作品を出す予定だったらしい。


『白雨鉢』


 それが開催直前に差し替えられている。


 理由を追うと、久世陶房の作業場で棚が倒れ、数点の陶器が破損したという小さな記事が見つかった。


「……事故?」


 けが人なし。


 地震なし。


 棚の固定金具にも異常なし。


 原因は荷重の偏りと推測されている。


「まあ……事故なら、事故なんでしょうけど」


 さらに見ていく。


 すると、久世陶房だけではなかった。


 今年の一品へ出す予定だったガラス作品にも亀裂。


 木工作家の展示箱にも破損。


 鳴代工房の金属製装飾品も、一部が潰れて交換されている。


「……ええ?」


 金目は思わず声を漏らした。


「本当に、賞狙いで嫌がらせとかしてる可能性あるんですか?」


 千鶴が言う。


「まだそうとは決まってないけどね」


「いや、まあそうなんですけど……」


 それでも金目は嫌そうな顔をする。


「みんな頑張って作ってるのに。人が一生懸命作ったもの壊してまで取りたい賞なんですかね」


 ふと、先輩の言葉を思い出す。


「先輩も言ってました。こういった芸術の展示会っていうのは足の引っ張り合いじゃなくて、能力の高め合いだって。互いに頂きを登ろうとしてるからこそ美しいって」


 けれど、調べるほど人為的な嫌がらせ説にも違和感が出始めた。


 ガラス作品は、細い亀裂。


 代替品は、縁がほんの少し欠けた。


 金属工芸品も、完全に破壊されたわけではなく、一部だけが妙に潰れている。


「誰かが壊してるんだったら……かなり繊細な壊し方してますよね」


 金目は写真を拡大する。


「ガラスだったら、もっと派手に壊せるでしょうし。なんでこんなちょっとだけ……」


 そこで思いついた。


「……壊すのが目的じゃない?」


 作品に興味を持って近づいた。


 細部を見る。


 その結果として、壊れている。


 そんな可能性。


 だが次の瞬間、金目は首を振った。


「いやいやいや。ここ別に曰く付き物件じゃありませんし」


 自分自身へ言い聞かせる。


「編集者さんもちゃんと確認したって言ってましたし。まあ最近の依頼を見るとあんまり信用できないですけど」


 さらに調べても、怪談や怪異の噂は出てこない。


「ないですよ。ないない」


 そう言いながら、金目はまたスマートフォンへ視線を落とした。


 すると今度は、設営中の写真に、同じような灰色の作業着の人物が複数回写り込んでいることに気づいた。


 調べると、その人物は相川修司。


 会場の配置調整担当スタッフだった。


「……じゃあ、怪しい人じゃなくて仕事してるだけですね」


 さらに調べる。


 相川が作品を確認した時点では無傷。


 その後、時間が経ってから破損が見つかっているケースが多い。


「相川さんが間違えて壊して隠してる、とかでもなさそうですね」


 ただ、一つ奇妙な共通点があった。


 展示位置を調整したあと。


 しばらくすると、作品周辺から、


『カチッ』


『ピシッ』


 という小さな音を聞いたスタッフがいる。


 誰も触っていないのに、展示台がほんの少しずれていたこともあった。


 金目はすうっと息を吸う。


「……きっとすごいエアコンなんでしょうね」


 乾いた笑い。


「それか扇風機。とっても風が強いところみたいですね」


 そして、わざとらしく。


「スカート、めくれないようにしなきゃ」


 自分で言っていて、まったく納得していなかった。


     ◆


 工芸展当日。


 会場となる文化交流館は、ごく普通の公共施設だった。


 入口には大きな案内板。


 館内へ入れば木の香り、革の匂い、陶器や金属が触れ合う小さな音。


 人々の声。


 職人たちの実演。


 家族連れや若い客。


 少なくとも見た目には、本当に何もおかしくない。


 金目はカメラを手に、普通の取材として会場を回った。


 記事用の写真を撮りながら、千鶴や金鶴と展示を楽しむ。


 ちなつは、金目が「一緒に連れている」と認識している間、金目の視界を通して外の景色をある程度共有できる。そのため、写真を人前で掲げて歩く必要もない。


 ビートも一緒だ。


 しばらく会場を歩いたところで、金目は一つの違和感に気づいた。


『今年の一品』が置かれている独立した小型展示台。


 床には位置合わせ用のテープが貼ってある。


 ところが、一部の台だけ、そのテープから数センチずれている。


 しかも方向が似ていた。


 中央寄りへ。


 より正確には、久世陶房の『継景』へ近づくように。


「……これ、全部なんとなく同じ方に寄ってない?」


 共通展示エリアへ行く。


 そこには各工房の代表作が、一作品ごとに独立した展示台へ載せられていた。


 中央付近の『継景』。


 その周囲だけ、作品同士の距離がわずかに狭い。


 スタッフが話している。


「これ、またずれてない?」


「朝直したよな?」


「直した。相川さんと確認した」


 金目は、まず久世陶房のスタッフへ声をかけた。


「すみません。私、フリーライターをしております草壁金目と申します。本日はこちらの工芸展の取材で来させていただいています」


 取材者として名乗り、『継景』について尋ねる。


 そこで、金継ぎの線の先に、ごく細い新しい亀裂が入っていることに気づいた。


「これ、デザインとして入れたものではないんですよね?」


「少なくとも、朝には気づいてなかったと思います」


「どなたか触ったりは?」


「見てないですね」


 さらに話を聞く。


 金目の自然な物腰と柔らかな笑顔に、スタッフも少しずつ口が軽くなっていった。


「実は……この作品を別の場所に動かしたことがあるんです」


「別の場所に?」


「そうしたら、周りの展示台がずれる方向も変わったんですよ」


 金目は黙って聞く。


「『継景』を右へ移したら右へ寄る。元に戻したら、また中央へ寄る」


 そして。


「誰もいない時に、『継景』のすぐ近くからカチッて、小さい音がしたこともあります」


「……カチッ?」


「陶器の内側で、何かがひび割れたような」


 金目は礼を言い、次に相川修司へ話を聞いた。


 相川も、展示台のずれを認識していた。


「朝直しても、しばらくするとまたずれてるんですよ」


「相川さんが直した時点では、作品は無事なんですよね?」


「基本は。位置を触る時に確認しますから」


「それで、あとから傷が?」


「そうです」


 異音について尋ねると、相川は少し躊躇した。


 金目は柔らかな声で促す。


「覚えていらっしゃる範囲で大丈夫です。もしよろしければ、聞かせていただけませんか?」


 相川は息を吐く。


「……一回だけじゃないんです」


 展示台を直して少し離れる。


 しばらくすると、


「カチッ、とか、ピシッ、とか」


 音がする。


「ただ、音の直後に見ても壊れてないことが多いんです。十分後、一時間後に傷が見つかる」


 さらに、


「作品より、床とか展示台の下から聞こえる気がする」


 とも。


 そして、『継景』を別の場所へ動かした時には、その異音も移動先から聞こえた。


「……まるで『継景』が磁石みたいに作品を引き寄せてるみたいですね」


 金目が冗談めかして言う。


 相川は笑わなかった。


「……俺も、昨日それに近いこと考えました」


     ◆


 金目はもう一度『継景』へ戻った。


 しばらく見ている。


 すると。


 ――カチッ。


 小さな音。


 隣の展示台が、ほんのわずかに揺れる。


 金目は近くのスタッフへ声をかけた。


「すみません。今気づいたんですけど……横の展示台、少しずれてるような気がします」


「……まただ」


 スタッフが元の位置へ戻す。


 金目は、その直後から観察した。


 何食わぬ顔で。


 千鶴たちと話しながら。


 ただ視線だけは、展示台と『継景』へ。


 しばらくして。


 ――カチッ。


 今度ははっきり見えた。


 小型展示台の脚が、床からほんのわずかに浮いた。


 数ミリ。


 そしてそのまま、数ミリだけ『継景』側へ移動し、再び床へ着いた。


 誰も触っていない。


 直後。


 ――ピシッ。


 今度は『継景』自身から。


 先ほどの細い亀裂が、わずかに伸びる。


「……」


 金目は考える。


 次は、台を直さず、そのまま放置してみた。


 すると再び展示台が少し近づいた。


 しかし、ある距離まで行くと、それ以上は動かない。


 そして今度は、展示台に載っていた木工作品へ小さな擦れ跡が生まれた。


「……どっちが傷つくか、決まってない?」


 さらに観察。


 今度は『継景』に新しい亀裂。


 次は木工作品。


 一見すると交互に見える。


 しかし、そこで金目は別の要素に気づいた。


 木工作品が傷つく直前、一人の来場者がかなり近くから、その細かな彫刻を熱心に見ていた。


 そして『継景』が傷ついた時は――金目自身が、その細部をかなり集中して見ていた。


「……まさか」


 金目は仮説を確かめる。


 今度は意図的に、木工作品だけを細部まで凝視する。


 しばらくして。


 ――コツ。


 金目が見ていた彫刻部分に、新しい小さな欠けが生まれた。


『継景』は無傷。


「……やっぱり」


 次に、『継景』から四メートルほど離れた別の作品を見る。


 同じように集中して細部を見る。


 しかし、何も起きない。


 その作品の展示台そのものは、ごくわずかに『継景』側へ寄っている。


 つまり。


「台を引き寄せる範囲と……傷を作る範囲は別?」


 さらに傷のある作品を調べる。


『継景』から二メートル前後。


 その近辺では損傷が多い。


 二から三メートルで減り、四メートル前後では明確な損傷がない。


 そして傷が入る場所には共通点がある。


 木工なら細かな彫刻。


 ガラスなら光を反射する縁。


 金属なら意匠の集中部分。


 陶器なら釉薬や細線。


 つまり、


「人が近づいて、ついよく見たくなるところ……」


 に傷が生まれている。


 まるで。


 ――ほら、また新しいものが見つかったでしょう。


 そう言っているかのように。


     ◆


 金目は『継景』になる前の作品について、改めて調べた。


 元の名は、


『静景』


 深い藍色の器。


 細い白い線。


 久世が作品に込めたのは、


 近づくほど新しい細部が見える。


 一度見ただけでは終わらない。


 もう一度見れば、また違うものが見える。


 そんな作品だった。


「……もっと見てほしい」


 壊れたあと、金継ぎによって太い金色の線が加わった。


 それによって、以前の繊細な白線の一部は見えにくくなった可能性がある。


 金目は考える。


「もっと見せたい。新しいものを見つけてほしい……その思いが強くなりすぎて、新しい線を自分で作ってる?」


 亀裂。


 欠け。


 傷。


 すべて「新しく生まれた線」には違いない。


 そして、自分だけでは足りないから、周囲の作品を自分の影響範囲まで引き寄せる。


 そこで人が熱心に見れば、その場所へ新しい傷を作る。


「……自分でできなくなった役割を、周りの作品にまでやらせてる?」


 ただ、一つ謎だった。


 床下から聞こえる「カチッ」という音。


 調べると、この会場の床は二重床構造だった。


 展示台の荷重が抜けたり戻ったりすれば、床パネルが小さく鳴ること自体はあり得る。


「……じゃあ床下に何かいるんじゃなくて」


 展示台が一瞬浮く。


 床への荷重が抜ける。


 床が鳴る。


 展示台が着地する。


「床の音は結果……」


 なら、本当に異常なのは一つ。


「なんで台が浮くんですかね……」


     ◆


 午後一時を過ぎた頃。


 久世本人が会場へ到着した。


 金目は名刺を渡し、丁寧に挨拶する。


「私、フリーライターをしております草壁金目と申します。本日は工芸展の取材で来させていただいております」


 まず、『静景』を作った時の意図を尋ねた。


 久世は語った。


「遠くから見て終わる作品にはしたくなかったんです」


 近づけば白い線が見える。


 もっと近づけば、細い濃淡や途切れが見える。


「一度見て分かったと思ったあとに、もう一歩近づいたら、まだ知らないものがある。そういう作品にしたかった」


 そして、作品は一瞬で評価されてしまうことが多いとも。


「綺麗、地味、好き、嫌い。それで終わる。もちろん見る側が悪いわけじゃない。でも、作る側としては……もう少し見てほしいんですよね」


 金目の仮説と、あまりにも重なる。


「では、かなり思い入れのある作品だったんですね」


「……ありますね」


 壊れた時は、かなり堪えた。


 それでも捨てることはできなかった。


 だから金継ぎを施した。


「壊れたなら壊れたで、その後にしか見えないものがあるんじゃないかって」


 金目は、壊れた時の状況も尋ねた。


「棚が倒れたんです」


 低く、幅広い棚。


 地震もなく、固定具にも異常なし。


 その時、『静景』は棚の上ではなく、久世自身が作業台へ出して見ていた。


「昔より白い線が少なく見えるな、と思ったんです」


 気になった。


 もっと近づいて見ようとした。


 その直後。


 ――カチッ。


 棚から音。


 棚が倒れ始めた。


 だが。


「途中で少し向きがずれたんですよ」


「途中で?」


「最初は自分の方へ倒れると思った。でも少し横へ流れて……結果、『静景』へ当たった」


 久世自身は、腕を擦った程度。


 作品が代わりに壊れた。


 金目の中で、一つの考えが浮かぶ。


 ――作者を傷つけたくなかった?


 止めるほどの力はなくても。


 少しだけ、向きを変えることはできた。


 現在の『継景』が展示台をほんのわずかに浮かせ、位置を変えるように。


「久世さんに大きなお怪我がなかったのは、本当によかったです」


 金目は少し寂しそうに続ける。


「でも、その代わりに……久世さんがそんなに大切にしていた『静景』が壊れてしまったのは、本当に残念ですね」


「……そうですね」


「捨てられなかったから、『継景』を作られたんですか?」


「ええ」


 傷を消すのではなく。


 壊れたことも、その作品が通ってきた時間として残した。


 そこで金目は、もう一段深く尋ねる。


「『静景』には、何度見ても新しい一本の線を見つけてほしい、長く楽しんでほしいという思いがあった。それは分かりました」


 少し間を置く。


「では、『継景』には……どんな思いを込められたんですか?」


 久世は黙った。


 やがて。


「……今度は、“見つけてほしい”だけじゃなかったですね」


 壊れた姿を見て、がっかりしてほしくなかった。


 前の方がよかった、と思ってほしくなかった。


「壊れたあとにも、壊れたあとだから見えるものがある。前にはなかった線を、“傷”じゃなく、“新しくできた景色”として見てもらえたらって」


 そして。


「見れば見るほど、まだ新しいものがある。壊れても、それで終わりじゃない。前より悪くなったんじゃなくて、違うものになったんだって……そう見てもらいたかった」


 金目は小さく呟いた。


「……ああ、なるほど」


『継景』を見る。


「これが……『継景』の想いなんですね」


     ◆


 金目は久世を、『継景』の前へ連れていった。


「こうして改めて『継景』を見た時のご感想を、少し教えていただけますか?」


 久世は作品を見つめる。


「……やっぱり、前とは違いますね」


 金継ぎをした時は、壊れたことも含め、新しい景色にできたと思っていた。


 けれど。


「自分が思ってたより、傷が前に出てる気がする」


 以前は近づけば白い線が見えていた。


 今はまず、金色の線が目に入る。


「この金継ぎは、失敗だったと思っているんですか?」


「……いいえ」


 久世は首を振った。


「失敗だったとは思ってません」


 ただ。


 自分自身が「前とは違う。それでもこれでいい」と、本当に受け入れるには、まだ時間が必要だったのかもしれない。


 金目はメモ帳を閉じる。


「久世さん」


「はい?」


「この子は……あなたにとって、ちゃんと“新しい作品”になれてますか?」


 久世は答えに詰まった。


「……なれてる、と思いたいですね」


 そして、自分で気づく。


「いや。それじゃ駄目なんでしょうね」


『継景』を見ているつもりで、ずっと『静景』だった頃の線を探していた。


「この子は新しい作品になろうとしてるのに、作った自分が……まだちゃんと新しい作品として見られてないのかもしれません」


 金目は少し寂しそうに、


「……なるほど」


 と呟いた。


 そして。


「ご不快に思われたら、申し訳ございません」


 一拍。


「あなたはまだ……『継景』を、ちゃんと見ていないのですね」


 久世は何も言わなかった。


「私は『静景』を実際に見たことがありません。おそらく本当に素晴らしい作品だったんでしょう。それは、この『継景』を見ても分かります」


 思い入れが深かったことも分かる。


「でも、ここにある『継景』は……『静景』と比べて、そんなに劣る作品でしょうか?」


 久世は長く作品を見る。


「……いや」


 やがて。


「劣ってるとは……思わないです」


 そこから金目は、優しく続けた。


「この新しい金継ぎの、太くて目を奪われる一本の線があるからこそ、その周りにある細い白い線が、前よりずっと際立って見えるような気がします」


 今までなかった金色の線を通して見るからこそ、以前とは違う白い線を発見できる。


「『静景』では出せなかった良さを、今の『継景』はちゃんと持ってるんじゃないでしょうか」


 少し笑う。


「それって、『静景』の代わりじゃなくて……『継景』自身の魅力なんじゃないかなって、私は思います」


 久世は黙って作品を見る。


 そこで金目は、少し照れたように。


「素人ながらの意見で言わせてもらいますと」


 続ける。


「私は、この『継景』という作品、すごく……すごく綺麗で、すごく興味深い作品だと思いますよ」


 専門家ではない。


『静景』を見たこともない。


 だからこそ、目の前にあるものをそのまま見て、そう思った。


「久世さんは……どうですか?」


 長い沈黙。


 久世は『継景』を見つめる。


 金色の線。


 細い白。


 壊れたあとに生まれた景色。


 やがて。


「……綺麗ですね」


 静かな声だった。


「自分で作ったのに、今さら何言ってるんだって話ですけど」


 少し笑う。


「今までは『静景』の続きとしてしか見られてなかった。でも……今は少し違って見えます」


 金継ぎの線も、過去の傷を隠すものではない。


 新しく生まれた景色だ。


「……これなら、『継景』って名前をつけてよかったのかもしれません」


 金目は嬉しそうに笑った。


「私も、そう思います」


     ◆


 その直後。


 金目はさりげなく周囲を確認した。


 展示台は、動いていない。


『継景』の亀裂も、それ以上伸びない。


 スタッフが、ずれていた展示台を元の位置へ戻す。


 いつもなら、しばらくするとまた『継景』側へ寄る。


 だが。


 動かない。


 時間が経っても。


 戻した位置のまま。


「……あれ?」


 スタッフが首を傾げる。


 金目は何も言わない。


 余計な検証もしない。


 ただ、久世と『継景』を静かに見守った。


 やがて久世が、小さく息を吐く。


「……ありがとうございます」


「?」


「草壁さんに言われなかったら、たぶん今日もずっと『静景』を探してました」


 少し照れたように笑う。


「でも……今はちゃんと、『継景』を見られてる気がします」


 そして。


「帰ったら、もう一回この作品の説明を書き直してみようかな」


「紹介文ですか?」


「ええ」


『静景が壊れて生まれた作品』ではなく。


「ちゃんと、『継景』の説明を」


 金目の表情が明るくなる。


「私も、それがいいと思います」


『継景』を見る。


「『静景』が壊れて生まれた作品じゃなくて……『静景』が生まれ変わって、新しい美しさを持った作品ですからね」


「……生まれ変わった、か」


 久世はその言葉を噛みしめる。


「そうですね。その方がずっとしっくりきます」


     ◆


 その後、金目は本来の取材へ戻った。


 木工。


 ガラス。


 染織。


 金属。


 さまざまな工房を見て回り、職人の話を聞き、記事用の写真を撮る。


 夕方。


 帰る前に、金目はもう一度だけ『継景』の前へ戻った。


 展示台は動いていない。


 亀裂も増えていない。


 周囲の作品にも、新しい傷はない。


 あの「カチッ」という音も聞こえなかった。


 金目は嬉しそうに頷く。


「うん。何度見ても、やっぱりとっても綺麗な作品ですね」


 千鶴を見る。


「つるちゃんはどうです?」


「私は好きかな。最初は金色のところが一番目に入るけど、ちゃんと見ると周りの細い線も綺麗」


「金鶴ちゃんは?」


「私は……金色のところ、好きです。壊れたところなのに、隠してないのが綺麗だと思います」


「ですよね」


 金目は次に、ちなつとビートへ。


「お二方はどうですか?」


 ちなつが答える。


「私も綺麗だと思う。金色のところを見てから周りを見ると、いっぱい線があるの分かるし。何回か見たくなる」


 ビートのジャケットには、


『きずがあるから、きれい』


 そして。


『まえとちがうのも、いい』


 と浮かんだ。


 金目は少し笑う。


「……うん。私もそう思います」


 そして最後に。


 周囲に聞こえないよう、ほんの少しだけ『継景』へ顔を近づける。


「……もう、自分で自分を傷つけたり」


 金色の線を見る。


「ほかの作品さんのことを傷つけちゃ、ダメですよ」


 優しく。


「あなたはもう、そのままでちゃんと綺麗なんですから」


 返事はない。


 音もしない。


 金目は顔を離し、帰ろうとして――最後に一度だけ振り返った。


 誰にも見えない角度で、小さく手を振る。


「……バイバイ」


 そうして、『継景』の前をあとにした。


     ◆


 数日後。


 金目は工芸展の記事を書き上げた。


 怪異については、一切書かなかった。


 展示台が動いたこと。


 作品に傷が増えたこと。


 誰かが見つめることで亀裂が生まれたこと。


 そんなものは記事には必要ない。


 金目が書いたのは、工芸展の魅力と、職人たちが作った作品について。


 その中でも『継景』は、少し長めに取り上げた。


 壊れた器を元へ戻すのではなく、壊れたことそのものを新しい景色にした作品。


 太く目を引く金色の線があるからこそ、その周囲に残された細い白い線がより鮮明に見えること。


 何度も近づいて見たくなる、不思議な魅力を持つ作品。


 そして。


 数日後、相川から連絡が入った。


 あの日以降、展示台のずれは一度も起きていない。


 新しい作品破損もない。


『継景』自身の亀裂も、それ以上増えていない。


 久世は、本当に紹介文を書き直した。


『静景が壊れたため修復した作品』


 ではなく。


『静景から生まれ変わり、金継ぎという新たな景色を得た作品』


 として。


 金目はその文章を読んで、小さく笑った。


「……よかったですね、継景」


     ◆


 記事掲載後。


 編集者から電話がかかってきた。


『草壁さん、今回は大丈夫だったでしょ?』


「…………」


 金目の頭に、いろいろなものが浮かぶ。


 一人で動いた展示台。


 増えていく亀裂。


 傷つく作品。


 床から響いた小さな音。


 ――大丈夫ではなかったな。


 そう思う。


 でも。


 今回のものは、怖い怪異ではなかった。


 誰かを傷つけたくて暴れていたものでもない。


 少し不器用で。


 少し寂しくて。


 ただ、ちゃんと見てほしかっただけのものだった。


 金目は小さく息を吐く。


「……ええ、そうですね」


 少し笑った。


「久しぶりに、ちゃんとまともな取材だったと思いますよ」


『でしょ? じゃあ次もよろしくお願いします』


「あ、ちょっと待ってください」


 電話を切ろうとする気配。


「次もこんな感じのでお願いしますね?」


 返事がない。


「くれぐれもオカルト持ってきちゃ嫌ですよ。いいですか? 本当に――」


 プツッ。


「…………」


 金目はスマートフォンを耳に当てたまま固まる。


「……もしもし?」


 画面を見る。


 通話終了。


「もしもし、聞いてます?」


 当然、返事はない。


 しばらく画面を見つめたあと、金目は大きくため息をついた。


「……絶対聞いてないですよね、これ」


 こうして今回の取材は終わった。


 少なくとも。


 次の依頼が届くまでは。

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