王太子という呪縛:con Alphonso el Asturias
おかしい。
クレアの様子が以前と違う。
僕はそんなことを考えながら、従者たちとともに、王宮の廊下を歩いていた。
これまでの僕にとって、クレア・ロス・リアレスという少女は、「王太子の婚約者」という以上の何者でもなかった。
僕自身の婚約者であり、公爵令嬢だから、丁重に扱うけれど、それだけだ。
べつにクレアのことを嫌いなわけじゃない。僕の、つまり、王太子アルフォンソ・エル・アストゥリアスの婚約者という意味では、理想的だと思う。
見た目も美少女と言ってよいし、性格も真面目だし、身分も高い。
でも……僕はクレアのことが苦手だった。
最初に会った時……六歳のときから、クレアは「アルフォンソ殿下」と僕の名を呼び、きらきらとした目を向けてくれていた。
そして、幼い彼女は「立派な王妃様になれるようにがんばりますね」と言って微笑んだ。
彼女は、自分が未来の王妃となることに、何の疑いも持っていないように見えた。そして、公爵令嬢として、王太子の婚約者として、努力をしていたみたいだ。
僕はそんな彼女のことを「理想の婚約者」だと呼び、彼女は嬉しそうに微笑んでくれていた。
でも……内心では、僕はクレアを見るたびに鏡を見せられているような気分になった。
公爵令嬢でなければ、王太子の婚約者でなければならないと教えられ、その枠の外から出ることを許されていない存在。
そんなクレアは、僕と同じだ。
僕は国王の第一子として生まれ、王太子らしくなれと教えられてきた。
父である国王も、母である王妃も、重臣たちも、家庭教師たちも、みな僕のことを「未来の国王」として見ていて、それ以外の役割を求めていなかった。
父も母も、家臣たちも、特別冷たいわけじゃなかった。ただ、王太子でなければ、僕には存在価値がない。
それは明らかな事実だった。
たった一人、宮廷楽長のスカルラッティだけは違った。彼は白ひげを生やした外国出身の一流音楽家だ。スカルラッティは、僕に王族に必要な以上の音楽の知識と、音楽の演奏技術を教えてくれた。
彼は厳しかったけれど、それは楽しい時間だった。「音楽は誰にとっても平等で、自由なものです」といつか彼は語っていて、その時間だけは、僕は王太子としての義務から解放されていた。
けれど……一年前、彼はカロリスタ王国を去り、故国へと帰ってしまった。そうして、僕はふたたび一人になった。
もはや、僕は王太子でいることしかできない。
だから、僕は努力した。正しく王太子であることができるように。
子どもなのに偉そうに話し、一人称も「私」だなんて気取ってみせて、けれど、家臣たちにはわがままを言わず。
ずっと勉強や剣術や行儀作法の習得に時間を当てて、遊ぶ時間もない。
僕には同い年の弟がいる。第二王子サグレス。
僕とは対照的に、サグレスは自由奔放に育った。サグレスの母は有力な宮廷貴族だったけれど、サグレスが王位を継承するとは誰も考えていなかった。
だから、彼は甘やかされて、子供らしくわがまま放題に育ち、そしてみんなから愛されていた。
僕はサグレスのことを内心では軽んじていた。何の役にも立たない、第二王子。未来の王となる僕とは違う。
ところが、雲行きが怪しくなり始めた。
もともと僕の母である王妃アナスタシアは、大陸東方のある大公国の娘で、その後ろ盾があって、僕の王太子という立場もある。けど、その大公国が隣国との戦争で滅ぼされてしまった。そのため、王妃と僕の立場は弱くなる。
それだけじゃない。
自由に育ったはずのサグレスは、あらゆることに高い才能を示した。僕よりもずっと少ない時間しか勉強せずに、ずっと難しいことまで習得していた。剣術の腕も彼のほうが上。
……しかも、サグレスには人気があった。
人を惹き付ける不思議な力だ。
僕にはそれがない。まだ十二歳だけれど、僕とサグレスの差は歴然としていた。
僕だって自分のことを優秀な人間だと思っている。だけど、サグレスは……天才だ。
しだいに、次期国王にサグレスを推す人々が増えてきた。
特に王都の宮廷貴族たちは、地方の大貴族を抑え、国王の権力を強化するためにサグレスを擁立しようとしていた。
となると、僕が頼れるのは地方の大貴族だ。その筆頭が七大貴族のリアレス公爵家だった。
クレアとの婚約は、いまや僕が王太子でいるための必須条件だった。クレアの父であるリアレス公爵の支持が得られなければ、僕は王太子から廃されるだろう。
王太子でなくなった僕は、サグレスを推す一派から殺されるかもしれない。そうでないとしても……王太子でない僕は、ただの無力な子どもで、何の価値もない。
僕はずっと……王太子であるべく育てられてきた。王太子でなければ、生きる価値がない。
みんなそう思っている。口に出しては言わないけれど。クレアだって、王太子でない僕には、何の興味もないだろう。
だから、クレアを失わないようにする必要がある。そして、敵もそのことを知っている。
サグレス王子派のクロウリー伯爵が、公爵令嬢クレアの暗殺を企んでいる。クレアを亡き者にすれば、王太子とリアレス公爵の結びつきは弱くなる。
その情報をつかみ、僕は震えた。
クロウリーの陰謀を示す証拠は無い。だから彼を告発することはできないけれど、クレアの身に万一のことがあれば……おしまいだ。
クレアの身には、公爵令嬢である以上に重要なことがある。
僕は歩きながら、肌身離さず持っている一冊の本の表紙を撫でた。
その古びた赤い本の書名は『聖クリストファーの預言』だった。
失われた魔法のなかで、今も生きる奇跡の一つ。王家に伝わる予言の書だ。
カロリスタ王国の歴史を陰から導いてきた、秘宝である。その預言は抽象的だけれど、外れたことがなかった。
この預言によれば、あと数年の後に、この国には大きな災が訪れる。
悲惨な飢餓と内戦。多くの人々の死。そして、現れる「夜の魔女」という災厄。
これらの破滅から王家を救い、そして次期国王となる王太子を救うのが「暁の聖女」だ。聖女は、教会に認められ、奇跡の魔法を操る存在。
そして、その聖女は、王太子の配偶者だと書かれている。
つまり、だ。クレアは聖女だということだ。
単に公爵令嬢というだけではなく、クレアが聖女となったことをアピールすれば、その力を利用して、僕の王太子としての地位は揺るぎないものとなる。
だからこそ、クレアを奪われるわけにはいかない。
たとえ暗殺という形でなくとも……クレアが別の男性に惹かれて、僕を捨てるようなことがあってもダメだ。
けど……久しぶりにあったクレアの様子はおかしかった。
以前は僕のことを大好きだと言ってくれていたのに、今はそうでもない。むしろ警戒されているというか……距離を感じる。
だから、僕はクレアを王宮の部屋に閉じ込めた。暗殺から彼女を守るために、僕の婚約者とするために。
本当は暗殺の危険のない旅行に連れ出すつもりだったけど、クレアの態度に不安を感じたから、王宮での監禁に切り替えた。
この機会にクレアとの関係を強化しなければならない。
だけど……どうすればいいんだろう?
クレアは僕に対する態度だけじゃなくて、以前とは考え方も変わったようだった。自由になりたい、とクレアが言っていたのを聞いて、僕は内心で驚いた。
王太子の理想の婚約者であろうとしていた、以前のクレアとはかなり違う。
そして、僕が鍵盤楽器の音楽を披露したとき。
あのときだけ、クレアは目を輝かせて、僕の演奏の腕を褒めてくれた。
褒めてくれたというより、絶賛だった。本物の音楽家にもなれると言ってくれた。
正直……嬉しかった。
鍵盤楽器の演奏技術は、僕が王太子であるためにはまったく必要ない。
だからこそ、「王太子」ではない僕のことを認めてくれたクレアの言葉は、僕の心に響いた。
以前はクレアのことが苦手だったけれど……今は違う。
もしかしたら、本当の彼女はもっと違う存在なのかもしれない。
それを知りたくて、今日も僕はクレアの部屋へと足を運んでいた。
部屋の前には、一人のメイドの姿があった。
くすんだ灰色の髪をした、年上の女の子だ。
あら、と彼女は僕の方を向き、微笑んだ。
「王太子殿下もクレア様にお会いになるのですか?」
「ああ。君はたしか……」
「アリスです。クロイツ男爵の娘で、クレア様の専属メイドです」
「そうだったね」
アリスという少女は、王族の僕を前にしても、動揺した様子もなく、かといって、僕を警戒するでもなく、柔らかく微笑んだ。
クレアのお気に入りのメイドだけあって、なかなか可愛らしく品がある。
くすっとアリスは笑う。
「いくら可愛いからといって、わたしにみとれていては困ってしまいます。殿下はクレアお嬢様の婚約者なのですから」
「ああ、すまない……ええと……」
そんなにじろじろ見ていただろうか。慌てて僕が言うと、アリスはくすくすっともう一度笑った。
「冗談です、殿下」
「ああ、なるほど……」
いたずらっぽく目をつぶったアリスに、僕は肩をすくめた。
この子は……なかなか……度胸もあるらしい……。
ノックをしても返事がないので、アリスは軽くドアを押した。従者に待っているように命じて、僕も一緒に部屋に入る。
クレアはメイドと一緒のベッドで……昼寝をしていた。
とても幸せそうに、すやすやと。
僕はぽりぽりと頭をかいた。
「悪いタイミングで来てしまったな。女性が寝ている部屋に入るなんて、不作法だ」
「あら、たしかにそうですけど、でも、可愛らしいクレア様の寝顔を見れたから、ラッキーではないですか」
アリスは冗談めかして言う。
そして、愛おしそうにクレアの髪を軽く撫でた。
「クレア様はとっても良い子ですよ。だから、大事にしてあげてくださいね」
「まるで君はクレアの姉みたいな口ぶりだな」
「そうですね。わたしはクレア様の使用人にすぎませんから。姉、だなんて言うと、怒られちゃうかもしれません。でも……わたしはクレア様のことを妹以上に大事に思っていますよ。自慢のご主人さまです」
アリスは頬を緩めて、僕を見つめた。
そして、僕の内心を見透かすかのように言う。
「きっと殿下も、クレア様のことを好きになりますよ」
「クレアは僕の婚約者だ。もちろん、今もクレアのことを好きだよ」
僕は淡々と言う。
アリスは首を横に振り、不思議な笑みを浮かべた。
そう。僕はクレアのことを女の子として好きなわけじゃなかった。あくまで政治的に必要な存在だというだけだった。アリスには見抜かれているんだろう。
だけど……これから変わらないとは言えないかもしれない。
僕は、ベッドで寝ているもうひとりの少女を見る。クレアのメイドで、今は王宮のメイド服を着ている。
まあ、女の子同士だから良いのかもしれないけど、やけに仲が良いなと思う。
一緒のベッドで寝るなんて。
僕はもう一度、そのメイドの顔をしげしげと見た。
……あれ? どこかで見たような……?
そのとき、クレアが小さく寝言をつぶやいた。「フィル」と。
フィルの正体が……。
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