XXXV 王太子の夢
王太子の指先が鍵盤に触れられるたびに、綺麗な音色を奏でた。
心躍るような、素敵な、そして美しい音楽だ。
自慢じゃないけれど、わたしも公爵令嬢として、多少は音楽の嗜みがある。家庭教師に習っていたから。
けど、それは伝統的な弦楽器でのことだし、こんな鍵盤楽器を使ったことはなかった。
それに、わたしの腕は素人としては上出来という程度だけど、王太子は違う。
わたしの目から見ても、王太子の演奏の腕は圧倒的に優れたものだと思う。
フィルもシアも、王太子に対する警戒心を捨てたように、その演奏に聞き入っている。
王太子はぐっと前のめりになり、演奏に熱中していた。
高く跳ねるような音が響き、そして、徐々にテンポを早くしていく。
まるで、わたしたちを歓迎するかのような、心地よい旋律だ。
そして、曲は盛り上がりを見せた後、徐々に静かになっていき、消え入るように、けれど温かく終わった。
王太子はしばらくじっとしていたが、やがて、ゆっくりと、わたしたちの方を向いた。
わたしも、フィルも、シアも、自然と、心のこもった拍手をする。
「ど、どうだったかな?」
王太子がおずおずと切り出す。
わたしを監禁したときの自信に満ちた表情とはぜんぜん違う。
わたしは、自然と柔らかい笑みが浮かぶのを感じた。
「……素晴らしかったですよ!」
「本当に?」
「はい」
わたしはしっかりとうなずいた。フィルとシアも同じ感想だったみたいで、こくこくとうなずいている。
素晴らしいとしか言えない、自分の語彙力のなさが悔しい。けれど、王太子の演奏が素人離れしていて、そして、わたしの心をとらえたのは、本当のことだ。
「すごかったです。宮廷楽団の、本物の音楽家みたいでした!」
わたしの言葉に、王太子は照れたように、金色の美しい髪をかき上げた。
「クレアにそう言ってもらえて嬉しいよ。……この楽器をくれて、使い方を教えてくれたのは、宮廷楽長でね。私は彼を尊敬していて、彼みたいになりたいと思っていた」
「なれると思いますよ。わたしは素人ですけど、でも、あんなすごい演奏ができるんですから」
王太子は苦笑して首を横に振った。
「私は本職の音楽家になるわけじゃないし、音楽に使える時間は限られている。そんな私が、宮廷楽団の団員みたいになれるわけがない」
「でも……王太子殿下のおっしゃり方だと、本当は本物の音楽家になりたい、というふうに聞こえます」
わたしの指摘に、王太子ははっとした顔をした。
「そう。たしかに私ももっと幼い頃は、音楽家になりたいと思っていた。だが、私は王族で……」
王太子の瞳が揺れている。
わたしは意外だった。
王太子に音楽家になりたいという夢があったなんて、前回の人生ではぜんぜん知らなかった。
そんな王太子に、前回のわたしは、「国王になるんだから音楽なんていらない」「楽器が壊れたぐらい大したことじゃない」と言ったのだから、無神経だったかもしれない。
でも、今回のわたしは、王太子の内心を知ることができた。
前回の人生で、王太子は、王太子らしくなるべく、すごく努力してきた人で、何でもできる完璧超人だった。
でも……それ以外の面もあったんだ。
「なればいいじゃないですか」
「え?」
「音楽家になってもいいんじゃないですか。王太子をやめて。殿下がそう望めば……それは叶うと思います」
わたしの言葉に、王太子は虚をつかれたように、目を見開いていた。
王太子が王太子でなくなって、音楽家になるということだって、出来なくはないと思う。
後継者以外にも王族はたくさんいる。そういった人たちは、聖職者となるか、軍人となるか、または芸術家となるのが普通だった。
最終的に決めるのは、王太子だけれど。
でも、王太子は……王太子という立場から自由になりたがっているのかもしれない。
王太子はしばらく黙っていて、そして、笑い出した。
「それは、無理だよ」
「どうしてですか?」
「私は……王太子であることが存在価値のすべてである人間だ。私は皆のために王太子で居続けなければならない。そのために、君が必要だ」
「そんなことありません。殿下は何でもできますし、それにあんなに素晴らしい演奏ができるんですから、王太子でないとしても……」
「私たちは自由になんてなれないよ、クレア」
王太子は静かにそう言うと、わたしの手を握った。王太子の手はとてもひんやりとしていた。
そして、彼はにっこりと笑う。
その瞳には、楽器を手にしていたときの輝くような光はすでになかった。何の感情も読み取れない。
「私の弟のサグレスが、次の国王になったら、この国はおしまいだ。私も、私の重臣たちも、そして、我が母たる王妃も、そのような事態は防がなければならない。その鍵となるのが君だ」
「わたし?」
「そのとおり」
「もっと詳しく教えてくれませんか? わたしにも力になれることがあれば……」
と殊勝な態度を見せてみる。
わたしが一番知りたいのは、王太子がわたしを監禁した理由だ。その理由を知れば、脱出方法もわかってくると思う。
王位継承問題が関係することが今わかって、あと、わたしの身になにか危険が迫っていることも聞いた。
でも、それ以上の情報がないから、なんとしても聞き出したい。
けれど、わたしがどれだけ尋ねても、王太子は頑なに首を横に振った。
「今、言えることはそれだけだ。だが、すぐにすべてがわかるはずだ」
王太子はわたしに別れを告げて、部屋から出ていってしまった。
残されたわたしたちは顔を見合わせた。
フィルとシアがなにか言いたそうにしていた。
「……あのね、お姉ちゃん。気になることがあって」
「なに?」
なにかフィルが重要なことに気づいたのかも。
でも、全然違った。
「王太子殿下と手、つないでたよね?」
「? え、ええ……そうだけど?」
じーっとフィルが、黒い瞳でわたしを見つめる。
そして、その小さな白い手で、わたしの手を握った。温かくて、柔らかくて、とても気持ちいい手だ。
わたしは首を傾げた。
「どうしたの?」
「……ぼくもお姉ちゃんと手をつなぎたいなと思って」
「え?」
「王太子殿下だけずるいから……ぼくのお姉ちゃんなのに、勝手に手を握ったから……」
そういえば、わたしは全然気にしていなかったけど、王太子と手をつないだことって、前回の人生でもあまりなかったと思う。
前回の、王太子のことを好きだったわたしなら。
喜んでいたかもしれないけど。
でも、今はフィルの手のほうが、ずっと心地よく感じる。
「ありがと。フィル」
わたしは空いている手で、フィルの頭を軽く撫でると、フィルは嬉しそうに微笑んだ。
シアは「いいなあ、クレア様と手をつなげて……」と小さくつぶやき、それから、ハッとした顔をした。
「と、ともかく、クレア様は王太子殿下のものなんかじゃありません。早くここから出ましょう」
「シアもありがとう。わたしのことを助けようとしてくれて」
「当然です。だって、私は……」
とシアはなにかつぶやきかけた。
どうしたんだろう?
まあ、ともかく、シアの言うとおりだ。
早く監禁状態からは抜け出してしまおう!
フィルと、シアと、アリスと、そして、わたし自身のために。
次回、王太子視点……のはずです!
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