コーヒー、飲みます?(1)
夢にしては、土が冷たすぎる。
手のひらの土を払って、湊はバックパックの中身を地面に並べた。何ひとつ、なくなってはいない。
減っていくものだけ、指を折って数えた。
ドリップコーヒーが、六袋。無洗米が、三合。醤油は、小さなボトルに一本。卵が二つと、厚切りのベーコンと、ソーセージ。袋麺が、ひとつ。ガス缶が、二本。モバイルバッテリー。
ひとつしかないものも、数えた。シェラカップが、ひとつ。それから、祖父の肥後守。
ここがどこかも、帰れるのかどうかも、分からない。
でも、道具はある。道具があれば、とりあえず今日一日は生きられる。それだけは、体が知っていた。
メスティンで米を一合炊くあいだに、ベーコンを二枚焼いた。じゅっ、と鳴った脂に卵を割り落とし、白身の縁が縮れてきたところで、醤油をひとたらし。
焦げた醤油の匂いが立った瞬間、湊は少しだけ、泣きそうになった。
いつもと同じ味だった。それが、たまらなかった。
それから、キャンプノートのいちばん後ろのページを開いた。
――事象:キャンプ場のまわりの森が、知らない森に変わった。月が二つある。
――影響範囲:自分ひとり。ギアはすべて無事。
――原因:不明。
――暫定対応:水と、今夜の寝床を確保する。
――恒久対応:検討中。
恒久対応の欄に「検討中」と書くのは、十年で何度目だろう。
原因が分からなくても、暫定対応はできる。
休みが明けるのは、三週間後の月曜。それまでに戻れなければ、無断欠勤だ。湊はその考えを、ノートと一緒に閉じた。
まず、水を探そう。それから、今夜のサイトを。
西のほうから、人の声が近づいてきたのは、そのときだった。
◇
「おい、ケルン! そっちに追い込め!」
リーダーのガストンの声が、森じゅうに響いた。
斥候のケルンは、角の生えた兎を追って、茂みを蹴散らした。魔術師のミラが杖を振ると、乾いた破裂音が木々のあいだを跳ね回った。
そのとき、ケルンは見た。
木立の切れ目に、見たこともない三角の天幕が張られていた。その前の低い椅子に、見たこともない服を着た男が座っている。
男の眉が、わずかに寄った。唇が短く動く。声は聞こえなかったが、ケルンには、こう言ったように見えた。
――うるさいな。
それから男は、天幕を畳みはじめた。
速かった。柱を抜き、布を畳み、金属の杭を次々に引き抜いては、指で数えて袋に収める。男の足元には、すぐに大きな背嚢がひとつだけ残った。焚き火の跡さえ、なかった。
男は背嚢を背負うと、ケルンたちに軽く頭を下げて、東へ歩き出した。
「おい、そっちは黒樹海だぞ」
男は足を止めて振り返り、東の木立とガストンの顔とを、一度だけ見比べた。
「大丈夫です。人の少ないほうが、好きなんで」
男はもう一度頭を下げて、歩き出した。
人が少ない、どころではない。黒樹海に、人はいない。入った者が、出てこないからだ。
境の森の東から先は、瘴気の森だ。吸い込めば喉が焼け、半日ともたない。冒険者でも、護符なしに入る者はいない。
「護符、持ってたか?」
「さあな。口も覆ってなかったぞ」
ガストンは鼻で笑った。その笑い声が、いくらか上ずっていた。
「死にに行ったな」
ケルンだけが、男の消えた木立を見つめていた。黒樹海の入口には、いつも薄紫の靄がかかっている。男はその靄の中へ、散歩でもするような足取りで入っていった。
振り返りもしなかった。咳ひとつ、しなかった。
ケルンはその背中を、長いあいだ忘れることができなかった。
◇
森に入ったとたん、熟れすぎた果物のような、甘い匂いがした。
さっきの連中の言葉は、聞いたことのない響きなのに、意味だけが分かった。死にに行ったな、とも。ひとりで山に入ると言うと、昔から決まってそう言われる。
苔の上で、角の生えた兎が一匹ひっくり返って、腹を上下させていた。のんきなやつだ。
木の根元で、キノコの笠が青白く光っていた。きれいだ、と湊は思った。そして、触らなかった。
沢で湯を沸かしてボトルに詰め、その上の二本の木に、新品のハンモックを吊るした。
◇
夕方、ハンモックから離れた風下に、焚き火台を広げた。
拾った枝の木目には、うっすらと紫がかった筋が走っていた。湿っているのに、火はあっさりと付いた。
炎の根元が、ときおり紫がかって見えた。筋の薄い枝のせいか、気にとめるほどの色ではなかった。
スキレットに、ソーセージを二本並べる。皮がはじけたところで、醤油をほんの少し。焦げた醤油の匂いが、森の甘い匂いを押しのけて広がっていく。
すぐそばの茂みが、がさりと鳴った。
黒い影が、のぞいていた。柴犬ほどの、真っ黒な子犬。けれど、尖った耳の先にだけ、炎のような赤い毛が混じっている。目は、焚き火を映した琥珀色だった。
狼の子だ、と湊は思った。
子狼は、湊ではなく、スキレットを見ていた。あばらが、浮いていた。焚き火の光の届くところまで来て腹ばいになると、腹が、きゅう、と鳴った。
湊は頭を抱えたくなった。
野生動物に餌をやってはいけない。キャンプ場で最初に教わる鉄則だ。
でも、ここは日本じゃない。親の姿もない。それに、ソーセージ二本は、たぶん食べきれない。
食べ残しを出すくらいなら。
自分にそう言い訳をして、少し冷ました一本を、子狼の前の地面にそっと置いた。
子狼は、湊の顔とソーセージを何度も見比べてから、ひと口で食べた。尻尾が、ぱたぱたと地面を叩いた。
「……もう、ないぞ」
子狼は焚き火の前で丸くなり、湊の足元に鼻先を寄せて、すうすうと寝息を立てはじめた。
ここは、よく眠れる場所なのかもしれない。
「お前、名前は……ないよな」
黒い。だから、クロ。
我ながら、ひねりがない。
「クロ」
子狼の耳が、ぴくりと動いた。
その夜、ハンモックの中で、ポケットのスマホに触れた。ここでは、何があっても鳴らない。闇の中で、光るキノコが、地面に落ちてきた星のように浮かんでいた。
◇
翌朝、クロはまだ足元にいた。ドリップコーヒーを、一袋だけ淹れる。六袋あるうちの、一袋。数えながら飲むコーヒーは、初めてだった。
撤収してバックパックを背負うと、クロが当然のような顔で前を歩きはじめた。行き先を、知っているみたいだった。
午後、流れの速い川に行き当たった。前脚を浸しては引っこめるクロを、両腕で抱き上げる。思ったよりも、軽かった。荷物は、背負える分だけ。祖父は、そう言っていた。
子狼一匹くらいなら、まだ背負える。
日が傾きはじめたころ、木立が途切れた。
目の前に、谷が開けていた。
両側を切り立った崖に挟まれ、その底を、澄んだ川が流れている。川の両岸には、白い小石の河原。谷の奥の斜面には、石の城の跡。塔の半分が崩れ落ち、壁には蔦が絡みついていた。
川の音のほかには、何も聞こえない。
通い慣れた源流の森でさえ、管理棟があり、軽トラの音があり、ほかのキャンパーの話し声があった。ここには、川と石と、崩れた城と、夕方の光だけがある。
湊は長いあいだ、その景色を見ていた。目は、いつのまにか、河原から一段上がった平らな草地にばかり向いていた。
「ここ、いいサイトだな」
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