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異世界でソロキャンプしてただけなのに、魔王に祭り上げられました  作者: 朝霧ナギ


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2/7

コーヒー、飲みます?(1)

 夢にしては、土が冷たすぎる。

 手のひらの土を払って、湊(みなと)はバックパックの中身を地面に並べた。何ひとつ、なくなってはいない。

 減っていくものだけ、指を折って数えた。

 ドリップコーヒーが、六袋。無洗米が、三合。醤油(しょうゆ)は、小さなボトルに一本。卵が二つと、厚切りのベーコンと、ソーセージ。袋麺(ふくろめん)が、ひとつ。ガス缶(かん)が、二本。モバイルバッテリー。

 ひとつしかないものも、数えた。シェラカップが、ひとつ。それから、祖父の肥後守(ひごのかみ)。

 ここがどこかも、帰れるのかどうかも、分からない。

 でも、道具はある。道具があれば、とりあえず今日一日は生きられる。それだけは、体が知っていた。

 メスティンで米を一合炊くあいだに、ベーコンを二枚焼いた。じゅっ、と鳴った脂に卵を割り落とし、白身の縁が縮れてきたところで、醤油をひとたらし。

 焦げた醤油の匂(にお)いが立った瞬間、湊は少しだけ、泣きそうになった。

 いつもと同じ味だった。それが、たまらなかった。

 それから、キャンプノートのいちばん後ろのページを開いた。

 ――事象:キャンプ場のまわりの森が、知らない森に変わった。月が二つある。

 ――影響範囲:自分ひとり。ギアはすべて無事。

 ――原因:不明。

 ――暫定対応:水と、今夜の寝床を確保する。

 ――恒久対応:検討中。

 恒久対応の欄に「検討中」と書くのは、十年で何度目だろう。

 原因が分からなくても、暫定対応はできる。

 休みが明けるのは、三週間後の月曜。それまでに戻(もど)れなければ、無断欠勤だ。湊はその考えを、ノートと一緒(いっしょ)に閉じた。

 まず、水を探そう。それから、今夜のサイトを。

 西のほうから、人の声が近づいてきたのは、そのときだった。


◇


「おい、ケルン! そっちに追い込め!」

 リーダーのガストンの声が、森じゅうに響いた。

 斥候のケルンは、角の生えた兎(うさぎ)を追って、茂みを蹴(け)散らした。魔術師のミラが杖(つえ)を振ると、乾いた破裂音が木々のあいだを跳ね回った。

 そのとき、ケルンは見た。

 木立の切れ目に、見たこともない三角の天幕が張られていた。その前の低い椅子(いす)に、見たこともない服を着た男が座っている。

 男の眉(まゆ)が、わずかに寄った。唇(くちびる)が短く動く。声は聞こえなかったが、ケルンには、こう言ったように見えた。

 ――うるさいな。

 それから男は、天幕を畳みはじめた。

 速かった。柱を抜き、布を畳み、金属の杭(くい)を次々に引き抜いては、指で数えて袋に収める。男の足元には、すぐに大きな背嚢(はいのう)がひとつだけ残った。焚(た)き火の跡さえ、なかった。

 男は背嚢を背負うと、ケルンたちに軽く頭を下げて、東へ歩き出した。

「おい、そっちは黒樹海だぞ」

 男は足を止めて振り返り、東の木立とガストンの顔とを、一度だけ見比べた。

「大丈夫です。人の少ないほうが、好きなんで」

 男はもう一度頭を下げて、歩き出した。

 人が少ない、どころではない。黒樹海に、人はいない。入った者が、出てこないからだ。

 境の森の東から先は、瘴気(しょうき)の森だ。吸い込めば喉(のど)が焼け、半日ともたない。冒険者でも、護符なしに入る者はいない。

「護符、持ってたか?」

「さあな。口も覆ってなかったぞ」

 ガストンは鼻で笑った。その笑い声が、いくらか上ずっていた。

「死にに行ったな」

 ケルンだけが、男の消えた木立を見つめていた。黒樹海の入口には、いつも薄紫の靄(もや)がかかっている。男はその靄の中へ、散歩でもするような足取りで入っていった。

 振り返りもしなかった。咳(せき)ひとつ、しなかった。

 ケルンはその背中を、長いあいだ忘れることができなかった。


◇


 森に入ったとたん、熟れすぎた果物のような、甘い匂いがした。

 さっきの連中の言葉は、聞いたことのない響きなのに、意味だけが分かった。死にに行ったな、とも。ひとりで山に入ると言うと、昔から決まってそう言われる。

 苔(こけ)の上で、角の生えた兎が一匹ひっくり返って、腹を上下させていた。のんきなやつだ。

 木の根元で、キノコの笠(かさ)が青白く光っていた。きれいだ、と湊は思った。そして、触らなかった。

 沢で湯を沸(わ)かしてボトルに詰め、その上の二本の木に、新品のハンモックを吊(つ)るした。


◇


 夕方、ハンモックから離れた風下に、焚き火台を広げた。

 拾った枝の木目には、うっすらと紫がかった筋が走っていた。湿っているのに、火はあっさりと付いた。

 炎の根元が、ときおり紫がかって見えた。筋の薄い枝のせいか、気にとめるほどの色ではなかった。

 スキレットに、ソーセージを二本並べる。皮がはじけたところで、醤油をほんの少し。焦げた醤油の匂いが、森の甘い匂いを押しのけて広がっていく。

 すぐそばの茂みが、がさりと鳴った。

 黒い影が、のぞいていた。柴犬(しばいぬ)ほどの、真っ黒な子犬。けれど、尖(とが)った耳の先にだけ、炎のような赤い毛が混じっている。目は、焚き火を映した琥珀(こはく)色だった。

 狼(おおかみ)の子だ、と湊は思った。

 子狼(こおおかみ)は、湊ではなく、スキレットを見ていた。あばらが、浮いていた。焚き火の光の届くところまで来て腹ばいになると、腹が、きゅう、と鳴った。

 湊は頭を抱えたくなった。

 野生動物に餌(えさ)をやってはいけない。キャンプ場で最初に教わる鉄則だ。

 でも、ここは日本じゃない。親の姿もない。それに、ソーセージ二本は、たぶん食べきれない。

 食べ残しを出すくらいなら。

 自分にそう言い訳をして、少し冷ました一本を、子狼の前の地面にそっと置いた。

 子狼は、湊の顔とソーセージを何度も見比べてから、ひと口で食べた。尻尾(しっぽ)が、ぱたぱたと地面を叩(たた)いた。

「……もう、ないぞ」

 子狼は焚き火の前で丸くなり、湊の足元に鼻先を寄せて、すうすうと寝息を立てはじめた。

 ここは、よく眠れる場所なのかもしれない。

「お前、名前は……ないよな」

 黒い。だから、クロ。

 我ながら、ひねりがない。

「クロ」

 子狼の耳が、ぴくりと動いた。

 その夜、ハンモックの中で、ポケットのスマホに触れた。ここでは、何があっても鳴らない。闇(やみ)の中で、光るキノコが、地面に落ちてきた星のように浮かんでいた。


◇


 翌朝、クロはまだ足元にいた。ドリップコーヒーを、一袋だけ淹(い)れる。六袋あるうちの、一袋。数えながら飲むコーヒーは、初めてだった。

 撤収(てっしゅう)してバックパックを背負うと、クロが当然のような顔で前を歩きはじめた。行き先を、知っているみたいだった。

 午後、流れの速い川に行き当たった。前脚を浸しては引っこめるクロを、両腕で抱き上げる。思ったよりも、軽かった。荷物は、背負える分だけ。祖父は、そう言っていた。

 子狼一匹くらいなら、まだ背負える。

 日が傾きはじめたころ、木立が途切れた。

 目の前に、谷が開けていた。

 両側を切り立った崖(がけ)に挟(はさ)まれ、その底を、澄んだ川が流れている。川の両岸には、白い小石の河原。谷の奥の斜面には、石の城の跡。塔の半分が崩れ落ち、壁には蔦(つた)が絡みついていた。

 川の音のほかには、何も聞こえない。

 通い慣れた源流の森でさえ、管理棟(かんりとう)があり、軽トラの音があり、ほかのキャンパーの話し声があった。ここには、川と石と、崩れた城と、夕方の光だけがある。

 湊は長いあいだ、その景色を見ていた。目は、いつのまにか、河原から一段上がった平らな草地にばかり向いていた。

「ここ、いいサイトだな」

お読みいただき、ありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークで追いかけていただけると嬉しいです。

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