コーヒー、飲みます?(2)
谷底まで降りると、湊はさっそくサイト選びに取りかかった。
まず、河原の流木が引っかかっている高さを見る。大雨のとき、水はそこまで来る。張るなら、それより上だ。
その草地の段丘に、湊は寝転んだ。
クロが、不思議そうな顔でのぞき込んでくる。
「ちょっと待ってろ。いま、大事なところなんだ」
背中で、傾きを確かめる。ほとんど平らだ。草は一方向にきれいに寝ていた。川下ではなく、谷の奥のほうへ。水ではなく、風が、いつもここを通り抜けているのだ。崩れた石垣が風よけになる場所まで三メートルほど横にずれて、もう一度寝転んだ。
ここだ。
崩れた城の、ちょうど真下だった。
崖の上で、蝙蝠が一匹、くるりと向きを変えて、城跡のほうへ飛んでいった。
◇
同じころ、城跡の地下深くで、ヴェスティナ・ノクターンは使い魔の蝙蝠の知らせを聞いていた。谷に降りてきた者が、崖の上で「良き地だ」とつぶやき、大地に身を横たえて地の声を聴いたのち、城の真下を選んだという。
ヴェスティナは、すり切れた写本の同じ頁を、また開いた。
この五十年、谷の地上で一夜を越せた者はいない。
◇
石垣の隙間から、ひやりとした空気が流れてくる。クロがその暗がりに向かって、低くうなった。湊が振り向くと、クロはすぐにうなるのをやめ、何事もなかったように尻尾を振ってみせた。
小石を払い、テントを張り終えるころには、谷は青い夕闇に沈んでいた。
今夜は、ハンモックではない。三代目になるポリコットンのワンポールテントは、綿の混じった生地が重いかわりに、火の粉で穴があきにくい。焚き火を、すぐそばに置ける。
薪は、白く晒された流木と、崖のふもとの枯れ枝。枝には、あの森の木と同じ紫の筋が、いっそう濃く走っている。
肥後守で削り木をこしらえ、ほぐした麻ひもに火花を飛ばす。細い薪を一本、また一本。炎が立つのを見届けて、湊は止めていた息を吐いた。
そして、気づいた。
炎が、黒かった。
正確には、黒みがかった紫だった。炎の芯は深い紫で、外側に向かうにつれて、夜の色に溶けていく。
黒樹海の枝のときより、ずっと濃い。源流の森で一瞬だけ見た、あの色だった。今度は、消えなかった。
「……変わった色だな」
手をかざすと、ちゃんと温かい。火は火だ。湊には、それで十分だった。
黒紫の炎が、ぱちん、とはぜる。誰にも見られていないのに、口の端が少しだけ上がる。
夕飯は、二合目の米にした。メスティンに顆粒のコンソメを振り入れ、ベーコンの角切りを散らして、焚き火の端の弱い火にかける。
ふたのすきまから噴き出す湯気は、駅前の洋食屋の前を通りかかったときのような、ひどく懐かしい匂いがした。
ふたを開けると、ベーコンの脂を吸った米が、つやつやと光っていた。底には、薄くおこげができている。
「……うまい」
声に出してから、湊は自分で笑ってしまった。聞いているのは、クロだけだった。それで、ちょうどよかった。
◇
夜が更けると、谷は深い静けさに包まれた。
崖に縁取られた細長い夜空を、知らない星座がびっしりと埋め尽くしている。崖の端から、白い月と、青い小さな月がのぼってきた。
ここは、日本じゃない。たぶん、地球ですらない。
今さらのように、その事実が、すとんと胸に落ちてきた。
会社のことを考えた。家族のことを考えた。弟の航と、妹の灯。実家の両親。湊がいなくなったと知ったら、どう思うだろう。
考えるべきことは山ほどあるのに、最初に浮かんできたのは、焦りでも、恐怖でもなかった。
――静かだな。
聞こえるのは、川の音と、薪のはぜる音と、足元で眠るクロの寝息だけだった。誰も、湊を呼ばない。
それが、怖いくらいに心地よかった。
湊はキャンプノートを開いた。
――晴れ。知らない星。月が二つ。谷底の段丘。炎、黒紫。ベーコンとコンソメのご飯、おこげつき。
少し迷ってから、もう一行だけ書き足す。
――いいサイト。
明日も、ここにいよう。
連泊の朝には、撤収も移動もない。コーヒーを淹れて、ただ座っていればいい。
その夜は、最後まで火の番をした。燃え残りを崩して広げ、どこにも赤い火が残っていないのを見届けてから、テントに入る。あの夜のようなことは、もう二度としない。
テントの入口のすぐ外で、クロが丸くなる気配がした。
湊は、すぐに眠りに落ちた。夢も見なかった。
◇
旧魔王城の地下深く、書庫の奥の小部屋で、ヴェスティナはひと晩じゅう眠れずにいた。
蝙蝠の知らせを、本気にしたわけではない。夜魔族でさえ、城跡の地下に張った結界の内側でしか暮らせない。
降りてきた者がいるなら、朝までには死んでいる。
それでも、石壁に穿たれた細い物見の穴を、のぞかずにはいられなかった。
谷の底で、黒い炎が燃えていた。
ヴェスティナは開いたままの写本に、目を落とした。祖父の遺した、何百回と読み返した頁。三つの徴を満たす者が現れるとき、魔族はふたたび王を戴く。
――黒き炎を灯す者。
ひとつ、と、声に出さずに数えた。
見たこともない三角の天幕の前で、男がひとり、その火を焚いていた。足元に、子どもの魔狼が丸くなっている。耳の先の赤い毛は、黒牙の血筋の印。魔狼族の族長の血を引く者だけに現れる色だ。誇り高い族長の子が、見知らぬ者の足元で眠るなど、ありえない。
――獣の王を従える者。
ふたつ。
写本を押さえる指が、震えた。
先代の魔王陛下の側近だった祖父は、最期の床で、この写本をヴェスティナの手に握らせ、ひとことだけ言った。
――待て。
何を待つのかは、言わなかった。ヴェスティナは、それから五十年、ずっと待っていた。
男は、黒い炎が熾火になり、灰になるまで見届けてから、天幕の中へ消えた。
残るひとつは、夜が決める。
天幕は、朝まで一度も揺れなかった。
谷の上の空が、白んでいく。
天幕の入口が、内側から開いた。
男が、あくびをしながら出てきた。
――最奥の地にて、恐れず夜を越す者。
みっつ。
男は大きく伸びをすると、丸い小さな金属の缶を取り出し、その上に何かを取りつけて、指先でつまみをひねった。
かちり、と音がした。ぼっ、と青い炎が灯った。
呪文も、火打ち石もなかった。
ヴェスティナは、生まれてから一度も、自分で火を起こしたことがない。夜魔族は火を好まず、書庫の灯りも、使用人たちが絶やさぬように守ってきた。火とは、誰かに守ってもらうものだった。その火を、あの男は、指先ひとつで灯してみせた。湯を沸かす、ついでのように。
写本を胸に抱いて、地上へ続く長い螺旋階段を駆け上がる。最後の扉の向こうは、結界の外だ。谷の瘴気が、夜魔族の体さえ焼く場所。
ヴェスティナはためらわずに、扉を押し開けた。
空気が、やわらかかった。
谷を満たしているはずの瘴気が、男の天幕のまわりでだけ、凪いだ湖面のように静まっていた。
ふらつく足で、草地を歩く。男は、小さな金属の器で湯を沸かしていた。黒い子狼が、その足元で尻尾を振っていた。
男が、顔を上げた。
ヴェスティナは天幕から張られた細い綱のすぐ手前で、膝をついた。
「お待ち申し上げておりました」
声が、震えた。五十年、胸の中でだけくり返してきた三つの徴を、ヴェスティナは初めて、声に出して告げた。
「……新たなる、魔王陛下」
谷に、川の音だけが流れていた。
◇
頭の中の障害報告書は、「原因」の欄が、まだ「不明」のままだった。
なんと答えればいいのか、湊には分からなかった。
分からなかったので、とりあえず、いつもどおりにすることにした。
「……おはようございます」
湊はドリップバッグの袋を、もうひとつ取り出した。数えながら飲むはずのコーヒーだった。
「コーヒー、飲みます?」
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