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異世界でソロキャンプしてただけなのに、魔王に祭り上げられました  作者: 朝霧ナギ


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3/3

コーヒー、飲みます?(2)

 谷底まで降りると、湊はさっそくサイト選びに取りかかった。

 まず、河原の流木が引っかかっている高さを見る。大雨のとき、水はそこまで来る。張るなら、それより上だ。

 その草地の段丘に、湊は寝転んだ。

 クロが、不思議そうな顔でのぞき込んでくる。

「ちょっと待ってろ。いま、大事なところなんだ」

 背中で、傾きを確かめる。ほとんど平らだ。草は一方向にきれいに寝ていた。川下ではなく、谷の奥のほうへ。水ではなく、風が、いつもここを通り抜けているのだ。崩れた石垣(いしがき)が風よけになる場所まで三メートルほど横にずれて、もう一度寝転んだ。

 ここだ。

 崩れた城の、ちょうど真下だった。

 崖の上で、蝙蝠(こうもり)が一匹、くるりと向きを変えて、城跡のほうへ飛んでいった。


◇


 同じころ、城跡の地下深くで、ヴェスティナ・ノクターンは使い魔の蝙蝠の知らせを聞いていた。谷に降りてきた者が、崖の上で「良き地だ」とつぶやき、大地に身を横たえて地の声を聴いたのち、城の真下を選んだという。

 ヴェスティナは、すり切れた写本の同じ頁(ページ)を、また開いた。

 この五十年、谷の地上で一夜を越せた者はいない。


◇


 石垣の隙間(すきま)から、ひやりとした空気が流れてくる。クロがその暗がりに向かって、低くうなった。湊が振り向くと、クロはすぐにうなるのをやめ、何事もなかったように尻尾を振ってみせた。

 小石を払い、テントを張り終えるころには、谷は青い夕闇に沈んでいた。

 今夜は、ハンモックではない。三代目になるポリコットンのワンポールテントは、綿の混じった生地が重いかわりに、火の粉で穴があきにくい。焚き火を、すぐそばに置ける。

 薪は、白く晒(さら)された流木と、崖のふもとの枯れ枝。枝には、あの森の木と同じ紫の筋が、いっそう濃く走っている。

 肥後守で削り木をこしらえ、ほぐした麻(あさ)ひもに火花を飛ばす。細い薪を一本、また一本。炎が立つのを見届けて、湊は止めていた息を吐いた。

 そして、気づいた。

 炎が、黒かった。

 正確には、黒みがかった紫だった。炎の芯(しん)は深い紫で、外側に向かうにつれて、夜の色に溶けていく。

 黒樹海の枝のときより、ずっと濃い。源流の森で一瞬だけ見た、あの色だった。今度は、消えなかった。

「……変わった色だな」

 手をかざすと、ちゃんと温かい。火は火だ。湊には、それで十分(じゅうぶん)だった。

 黒紫の炎が、ぱちん、とはぜる。誰(だれ)にも見られていないのに、口の端が少しだけ上がる。

 夕飯は、二合目の米にした。メスティンに顆粒(かりゅう)のコンソメを振り入れ、ベーコンの角切りを散らして、焚き火の端の弱い火にかける。

 ふたのすきまから噴き出す湯気は、駅前の洋食屋の前を通りかかったときのような、ひどく懐(なつ)かしい匂いがした。

 ふたを開けると、ベーコンの脂を吸った米が、つやつやと光っていた。底には、薄くおこげができている。

「……うまい」

 声に出してから、湊は自分で笑ってしまった。聞いているのは、クロだけだった。それで、ちょうどよかった。


◇


 夜が更けると、谷は深い静けさに包まれた。

 崖に縁取られた細長い夜空を、知らない星座がびっしりと埋め尽くしている。崖の端から、白い月と、青い小さな月がのぼってきた。

 ここは、日本じゃない。たぶん、地球ですらない。

 今さらのように、その事実が、すとんと胸に落ちてきた。

 会社のことを考えた。家族のことを考えた。弟の航(わたる)と、妹の灯(あかり)。実家の両親。湊がいなくなったと知ったら、どう思うだろう。

 考えるべきことは山ほどあるのに、最初に浮かんできたのは、焦りでも、恐怖でもなかった。

 ――静かだな。

 聞こえるのは、川の音と、薪のはぜる音と、足元で眠るクロの寝息だけだった。誰も、湊を呼ばない。

 それが、怖いくらいに心地よかった。

 湊はキャンプノートを開いた。

 ――晴れ。知らない星。月が二つ。谷底の段丘。炎、黒紫。ベーコンとコンソメのご飯、おこげつき。

 少し迷ってから、もう一行だけ書き足す。

 ――いいサイト。

 明日も、ここにいよう。

 連泊の朝には、撤収も移動もない。コーヒーを淹れて、ただ座っていればいい。

 その夜は、最後まで火の番をした。燃え残りを崩して広げ、どこにも赤い火が残っていないのを見届けてから、テントに入る。あの夜のようなことは、もう二度としない。

 テントの入口のすぐ外で、クロが丸くなる気配がした。

 湊は、すぐに眠りに落ちた。夢も見なかった。


◇


 旧魔王城の地下深く、書庫の奥の小部屋で、ヴェスティナはひと晩じゅう眠れずにいた。

 蝙蝠の知らせを、本気にしたわけではない。夜魔族でさえ、城跡の地下に張った結界の内側でしか暮らせない。

 降りてきた者がいるなら、朝までには死んでいる。

 それでも、石壁に穿(うが)たれた細い物見の穴を、のぞかずにはいられなかった。

 谷の底で、黒い炎が燃えていた。

 ヴェスティナは開いたままの写本に、目を落とした。祖父の遺(のこ)した、何百回と読み返した頁。三つの徴(しるし)を満たす者が現れるとき、魔族はふたたび王を戴(いただ)く。

 ――黒き炎を灯(とも)す者。

 ひとつ、と、声に出さずに数えた。

 見たこともない三角の天幕の前で、男がひとり、その火を焚いていた。足元に、子どもの魔狼(まろう)が丸くなっている。耳の先の赤い毛は、黒牙(くろきば)の血筋の印。魔狼族(まろうぞく)の族長の血を引く者だけに現れる色だ。誇り高い族長の子が、見知らぬ者の足元で眠るなど、ありえない。

 ――獣の王を従える者。

 ふたつ。

 写本を押さえる指が、震えた。

 先代の魔王陛下の側近だった祖父は、最期の床で、この写本をヴェスティナの手に握らせ、ひとことだけ言った。

 ――待て。

 何を待つのかは、言わなかった。ヴェスティナは、それから五十年、ずっと待っていた。

 男は、黒い炎が熾火(おきび)になり、灰になるまで見届けてから、天幕の中へ消えた。

 残るひとつは、夜が決める。

 天幕は、朝まで一度も揺れなかった。

 谷の上の空が、白んでいく。

 天幕の入口が、内側から開いた。

 男が、あくびをしながら出てきた。

 ――最奥の地にて、恐れず夜を越す者。

 みっつ。

 男は大きく伸びをすると、丸い小さな金属の缶を取り出し、その上に何かを取りつけて、指先でつまみをひねった。

 かちり、と音がした。ぼっ、と青い炎が灯った。

 呪文(じゅもん)も、火打ち石もなかった。

 ヴェスティナは、生まれてから一度も、自分で火を起こしたことがない。夜魔族は火を好まず、書庫の灯(あか)りも、使用人たちが絶やさぬように守ってきた。火とは、誰かに守ってもらうものだった。その火を、あの男は、指先ひとつで灯してみせた。湯を沸かす、ついでのように。

 写本を胸に抱いて、地上へ続く長い螺旋(らせん)階段を駆け上がる。最後の扉(とびら)の向こうは、結界の外だ。谷の瘴気が、夜魔族の体さえ焼く場所。

 ヴェスティナはためらわずに、扉を押し開けた。

 空気が、やわらかかった。

 谷を満たしているはずの瘴気が、男の天幕のまわりでだけ、凪(な)いだ湖面のように静まっていた。

 ふらつく足で、草地を歩く。男は、小さな金属の器で湯を沸かしていた。黒い子狼が、その足元で尻尾を振っていた。

 男が、顔を上げた。

 ヴェスティナは天幕から張られた細い綱のすぐ手前で、膝(ひざ)をついた。

「お待ち申し上げておりました」

 声が、震えた。五十年、胸の中でだけくり返してきた三つの徴を、ヴェスティナは初めて、声に出して告げた。

「……新たなる、魔王陛下」

 谷に、川の音だけが流れていた。


◇


 頭の中の障害報告書は、「原因」の欄が、まだ「不明」のままだった。

 なんと答えればいいのか、湊には分からなかった。

 分からなかったので、とりあえず、いつもどおりにすることにした。

「……おはようございます」

 湊はドリップバッグの袋を、もうひとつ取り出した。数えながら飲むはずのコーヒーだった。

「コーヒー、飲みます?」

お読みいただき、ありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークで追いかけていただけると嬉しいです。

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