プロローグ 圏外へ
「新たなる、魔王陛下」
そう呼ばれて、篠原湊がまず見たのは、テントの張り綱だった。
踏まれてはいない。綱の三センチ手前で、銀色の髪の女性がひざまずいていた。
黒いドレスの裾が、朝露に濡れた草の上に広がっている。すり切れた古い本を抱きしめる腕が、細かく震えていた。日に当たったことがないような白い指の先にだけ、古い墨の染みがあった。赤い瞳が、まっすぐにこちらを見上げている。
呼び名には、長い前置きがついていた。お待ち申し上げておりました。最奥の地にて恐れず夜を越し、黒き炎を灯し、獣の王を従える御方――。古い芝居の台詞のような言葉を、彼女は震える声で、ひと息に言いきった。
湊は朝のコーヒーのために湯を沸かしたシェラカップを手にしたまま、女性の背後を見た。谷の底を這う薄紫の靄が、テントのまわりでだけ、見えない壁に当たったように向きを変えていく。足元では、黒い子狼が尻尾を振っていた。
頭の中で、勝手に書式が立ち上がる。
――事象:知らない女性に、魔王陛下と呼ばれている。
――影響範囲:自分ひとり、ではなさそう。
――原因:不明。
SEとして障害報告書を書きつづけてきた頭は、こういうときにも止まってくれない。
誰からも呼ばれない場所へ行きたくて、山へ来たはずだった。
休みが明けたら、チームリーダーになる予定だった。
魔王になる予定は、なかった。
谷に、川の音だけが流れていた。
◇
二日前、土曜の朝。湊は、知らない鳥の声で目を覚ました。
ひゅい、ひゅい、と高く鳴いたあとで、喉を転がすような低い音を三つ続ける。山で何度も夜を明かしてきたが、一度も聞いたことのない鳴き方だった。
ローチェアの上で、身を起こす。首が痛い。椅子で眠ってしまったのだ。
焚き火台の中は、白い灰だけになっていた。手をかざしても、熱はもう残っていない。
火の始末をしないまま、眠ってしまった。
十年で、初めてのことだった。
――火の始末だけは、ちゃんとしろよ。
きのう、杉と楢の薪の束を置いていきながら、管理人の山岸はそれだけ言った。薪がきれいに燃え尽きていたのは、ただの幸運でしかない。
ゆうべの火を、思い出す。
祖父の形見の肥後守で削った焚きつけに、火花をひとつ。火は、黙って見るもんだ。炭焼き職人だった祖父が、たった一度だけ口にした言葉を、湊はずっと守ってきた。火の前では、ダウンの上から、焚き火用の綿のジャケットを羽織る。ダウンを一着、火の粉で穴だらけにしてから、そう決めている。袋麺をすすり、スキットルのウイスキーをひと口。天気の絵を隅に添えるキャンプノートに、いつもどおり、と書いて顔を上げた。
炎が一瞬だけ、黒みがかった紫に揺れた。
楢の樹皮に、何か混じっていたのだろう。カリウムを含んだものが燃えると、炎は紫がかる。そう思うことにして、あと少しだけ、この火を見ていたくて、目を閉じた。
灰を見下ろしているうちに、ようやく気がついた。
川の音が、しない。
テントは、ある。焚き火台も、バックパックも、全部ある。けれど、川沿いの杉林だったはずの場所に、見たことのない白い幹の木が並んでいた。葉は手のひらほどの大きさで、縁がゆるく波打っている。
湊は立ち上がり――
最初にしたのは、しゃがんで、地面に手のひらを押し当てることだった。
よく締まった土だ。水はけは悪くない。傾きは、ほとんどない。
そこまで確かめてから、自分のしていることに気づいて、小さく息を吐いた。
こんなときに、何をしてるんだ。
夜明け前の空を見上げる。西の端に、月が残っていた。
二つ。
大きな白い月と、その少し上に、ひとまわり小さな、青みがかった月が並んでいる。見間違いではない。雲でもない。二つの月は、白んでいく空に、ゆっくりと溶けていく。
ポケットからスマホを取り出す。画面の左上に、「圏外」と出ていた。
いつもどおりだ。
そう思ってしまった自分に、湊は苦笑した。
きのうの昼、西武秩父の駅で電車を降りて、祖父の炭焼き仲間だった山岸の軽トラに揺られて、山へ向かう途中でも、この二文字を見た。
部長からの電話だった。押さない、という選択肢は、湊の中には最初からなかった。休み明けからリーダーだからな、それとな、週末の当番の件だが――。山の陰に入ったとたん、部長の声は砂のように崩れて、ぷつりと途切れた。
三十二歳。入社以来初めての、三週間あまりの休みだった。休みが明ければ、今よりいくらか多く、呼ばれるようになる。
かけ直さなくていい理由ができて、胸の奥がふっと軽くなった。その軽さに、少し後ろめたくなったのを覚えている。
去年より、いくらか疲れている。来年は、もっと疲れているのかもしれない。
白い灰の上に、朝の光が差しはじめていた。
ゆうべの紫は、気のせいでは、なかったのかもしれない。
魔王と呼ばれた、その翌朝。湊が寝不足の顔でこぼした、たったひと言の苦情が、魔族の国に新しい掟をひとつ作ることになる。
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