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大切な約束

居間の床に残った、痛々しく黒い焦げ跡。 その中央にぽっかりと口を開けた、地下書庫への入口。 そして、その前で小さく肩をすぼめるユイの姿を前に、アンナはしばらくの間、ただ動けずにいた。

「…お母さん、ごめんなさい」

消え入るような謝罪に、アンナは答えなかった。怒っているわけではない。ただ、目の前にある光景に息を飲んでいた。 忘れたかった場所。ずっと、存在しなかったことにしていた場所。 そこには、父と母の研究が眠っている。偉大な賢者ユリウス・ベルナーと、彼と共に魔法の理を追い続けたマルタ・ベルナー。アンナにとって、あの二人は誇るべき両親だった。

同時に――自分を縛り続けた存在でもあった。

『偉大な賢者の娘なのだから』 『これくらいできて当然』 『もっと魔力を扱えるように。もっと正確に。もっと高みへ』

幼い頃から積み重なる周囲の期待は、いつしかアンナ自身の願いよりも大きくなっていた。魔法が嫌いだったわけではない。ただ、魔法しか見えなくなる自分が怖かった。 だから逃げ出した。すべてを捨てて、この小さな町へ。

「ユイ」

「…はい」

「あなた、怖くなかったの?」

静かな問いに、ユイは少しだけ首をかしげて考えた。

「火が暴れたときは、怖かった」

「そう……」

「でも」

ユイは開いたままの地下書庫を振り返った。

「どうして失敗したのか、知りたいの。式は間違ってなかったと思うの。なのに、魔法が壊れた。だったら、絶対にどこかに理由があるはずで……」

その瞳にあったのは、恐怖ではなく純粋な好奇心だった。 アンナは静かに目を閉じた。その言葉を聞いた瞬間、悟ってしまったのだ。

(この子は、もう止まらない――)

書庫を閉ざしても、魔法を禁じたとしても、きっとどこかで答えを探し続ける。そしていつか自分一人で、さらに危険な魔法に手を伸ばすだろう。それなら。

「地下書庫は、もう隠さないわ」

「え?」

「好きに使いなさい」

「いいの…?」

アンナは焦げた床板を見下ろした。

「ただし、約束して。分からない魔法を、分からないまま使わないこと」

「うん!」

「それから、自分の魔力を力任せに流さないこと。今回みたいなことは、二度としないで」

「わかった!」

「魔法は、強ければいいものじゃないのよ」

その言葉に、ユイは少し考えてから尋ねた。

「じゃあ、どうすればいいの?」

アンナは答えない。代わりに、ほんの少しだけ微笑んだ。

「それを、あなたが自分で見つけなさい」


翌日から、ユイの生活は変わった。 昼間は母の手伝いをこなし、夜になると床下の扉を開ける。冷たく乾いた空気と、古い紙の匂い。

机の上に広げた祖父母の研究記録を、ユイは一冊ずつ最初から読み直していった。分からないところがあれば別の本を開き、それでも分からなければさらに別の本を探す。 命令型魔法とは何なのか。現象型魔法と何が違うのか。なぜ魔法は発動し、なぜ術式は崩れるのか。知れば知るほど、分からないことが増えていく。それがユイにはたまらなく楽しかった。

(知れば知るほど、世界が広がっていく…!)


ある夜。

ユイは一冊の古びた本を開いた。 『魔力適性の判定について』 ページの端に、見覚えのある文字があった。

――ユリウス・ベルナー。

「おじいちゃんの方法……?」

書かれていたのは、魔力の性質を調べる簡単な実験だった。水、風、光、闇、そして炎。それぞれ異なる属性の媒体を用意し、自身の魔力を触れさせる。もっとも強く反応した属性が、生まれ持った適性となるのだ。

ユイは胸を躍らせながら実験を始めた。 水には、ほとんど反応しない。風も闇も同じ。光も、ごくわずかに揺らぐ程度だった。 そして最後に、炎。指先を近づけた、その瞬間。

――ボッ!

「わぁ…!」

炎が大きく揺らめいた。ユイは目を輝かせ、さらに魔力を流し込む。 炎は他の三つとは比べものにならないほど強く反応し、赤々と燃え上がった。

「私、炎属性なんだ…!」

小さく呟く。なんだか、それだけのことが嬉しかった。自分の中にもちゃんと理由があるのだと、そう思えた。

それから三年間、ユイはひたむきに魔法を学び続けた。最初は失敗ばかりだったけれど、少しずつ魔力の量をコントロールできるようになっていった。 大きな魔法を使うのではなく、必要な分だけ魔力を流す。術式を急がず、一つずつ確認する。失敗したら原因を探し、また試す。その繰り返しだった。

十五歳を控えた年には、村の大人たちが驚くほど精密な魔法を扱えるようになっていた。けれど、ユイにはまだ足りなかった。地下書庫の本を読み終えるたびに、もっと先が知りたくなる。


そんなある日。

一冊の本の中に、王都の名を見つけた。

『王立魔道学園エーデルブルク校』

魔法を専門的に学ぶ者が集う、国内最高峰の学び舎。貴族の子どもたちが多く通う場所であり――そして優秀な者には、学費を免除する特待生制度がある。

ユイはその文字を、何度も何度も読み返した。

「お母さん」

夕食の席で、ユイは顔を上げた。

「私、ここに行きたい」

アンナの手が止まった。

「王都の学園に?」

「うん」

「どうして?」

「もっと知りたいから!」

即答だった。

「命令型魔法も、魔法そのものも。おじいちゃんやおばあちゃんが何を研究してたのかも!」

アンナは黙ってユイを見つめた。その瞳には、かつての自分と同じ熱があるようにも見えた。 けれど、違う。この子は誰かに背中を押されているわけではない。自分自身の足で、そこへ行こうとしているのだ。

「……学費は?」

「それは……」

ユイの顔が少し曇る。

「特待生になるんでしょう?」

アンナが言った。ユイは弾かれたように顔を上げた。

「え?」

「あなたが見つけたんでしょう、その制度。だったら、挑戦してみなさい」

アンナは笑った。少し寂しそうで、けれどどこまでも優しい笑顔だった。

「私が止める理由は、もう何もないわ」

「お母さん…」

「ただし」

アンナは指を一本立てた。

「無茶はしないこと。分からないことを、分からないままにしないこと。それから――」

アンナは少しだけ言葉を止めた。

「魔法だけが、あなたの人生にならないこと」

ユイはその意味を、まだ完全には理解できなかった。 それでも。

「分かった!」

元気よく笑った。


数ヶ月後。

十五歳になったユイ・ベルナーは、王立魔道学園エーデルブルク校の門前に立っていた。

辺境の小さな町から来た少女。背負っているのは小さな荷物と、地下書庫から持ち出した数冊の本だけ。 目の前には、見上げるほど巨大な学園が構えている。

「……ここで、私の魔法を学ぶんだ」

胸の奥で高鳴る鼓動を感じながら、ユイはゆっくりと顔を上げた。その瞳に、恐れはなかった。ただ「知りたい」という強い思いだけがあった。

まだ彼女は知らない。 この場所で出会う三人の少年少女が、いつか自分の人生を大きく変えることを。 そして、この学園で学ぶ魔法が、やがて世界そのものの運命を変えていくことを。

少女はまだ、何も知らない。

ただ一歩。

未来へ向かって、踏み出した。


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