賢者の遺産
ノートの表紙に刻まれた『ユリウス・ベルナー』の名。間違いなくユイと同じ姓だった。
ユイが生まれる前に亡くなったと聞かされていた祖父。村のだれもその名を知らず、アンナも滅多に口にすることのなかった存在だった。だからユイ本人も今の今まで忘れていたほどだ。その人が、この地下書棚の主であり、この恐ろしいほど整然とした空間を作り上げた人物だったのだ。
夢中でページをめくると、見たこともない複雑な数式と魔法陣がびっしりと並んでいた。
それは、魔法使いを志す者の中でも、限られた一握りのエリート、英才教育を受けた貴族や、探求を極めた賢者たちのみが扱うことができるとされる「命令型魔法」の原典だった。
『現象型魔法とは環境に依存しているに過ぎない。世界の真理は論理によって記述されている。―マルタ・ベルナー』
(え……マルタって、おばあちゃん……!?)
ノートの端に添えられた女性の名を目にし、ユイは息をのんだ。
母の口から聞いたきり、忘れかけていた名前。祖父だけじゃない。幼い頃に思い描いていた優しそうなおばあちゃんもまた、この圧倒的な知を紡いだ賢者の一人だったのだ。胸の奥から湧き上がる誇らしさと高揚感に、思わず口元がほころぶ。
村の誰もが感覚で操る「現象型魔法」とは次元が違う。魔法そのものに命令を与え、世界の法則を書き換える、理知の結晶。
ユイがずっと物足りないと感じていた世界の「理由」が、この暗い地下室には溢れていた。
(火はただ燃えてるんじゃない。計算されて、そこに『在る』んだ)
ノートを読み進めるうちに、ユイは命令型魔法の絶対的な性質を理解していった。
命令型魔法とは「魔力によって生み出された現象(術式)」そのものを書き換える命令だ。
つまり、魔法によって生み出された火なら制御・改変できるが、マッチや薪から自然に燃え上がった「自然の炎」には命令が届かない。あくまで「魔法という言語で記述された存在」にしか干渉できない、魔法に対する魔法なのだ。
(自然に発生したの火には効かない……でも、魔法の火なら完璧に支配できるんだ!)
猛烈な欲求に突き動かされ、ユイは机の上の蝋燭に向き合った。ノートに記された初歩的な命令式を頭に描き、精神を研ぎ澄ます。
「命令」
パシッ、と空間が静かに爆ぜた。
ゆらゆら揺れていた蝋燭の火が、まるで透明なガラスで固定されたかのように、完璧な3センチの円錐形を保って静止する。
「できた!」
歓喜の直後、つ、と胸の奥が痛んだ。針で刺されたように疼き、静止した火が一瞬だけ影のように沈む。けれど痛みはすぐに消え、美しい火だけが残り続けた。ユイは天才だった。命令型魔法の初歩とはいえ、少し読んだだけで一発成功させたのだ。
母はあまり語らなかった、かつて賢者と呼ばれた祖父母の遺産。
少女はまだ、自分が何者であるかも、魔法世界の真実も、まだ何も知らない。
けれど、目の前に開かれた圧倒的な「知」の深淵に、胸を高鳴らせていた。初めて目にする「世界の理」に心を奪われ、ユイは時が経つのも忘れて、ロウソクの光の中でページをめくり続けた。




