好奇心の扉
あの日の男の言葉と、ローブの隙間に見えた不気味で美しい幾何学模様は、その後もずっとユイの脳裏から離れなかった。
『魔法は願うものじゃない。書き換えるんだ』
翌朝、ユイは、朝の光の中で空高く輝く恒星「ノヴァリア」を見上げていた。
この世界の全ては、あの星からの恵みで満ちている。空から降り注ぐ目に見えない魔力は、人々にとって呼吸と同じ、無限に湧き出る慈悲だった。
朝、アンナが手をかざせば、井戸から汲んだ水がひとりでに桶を満たす。ユイが指先を鳴らせば、竈の薪に赤い火が宿る。
「お母さん、火はどうしてずっと燃えているの?」
「それはね、ノヴァリア様が魔力を与えてくださっているからよ。私たちはただ、その恵みを分けてもらうだけ」
アンナは微笑んでそう答える。村の人々にとって、魔法とは「感覚」で使う生活の一部だ。彼らにとって魔法は「極める」必要などなかった。ただ祈るように魔力を練れば、奇跡は当たり前に起きてくれるのだから。
けれど、あの男の言葉を知ってしまったユイは、その当たり前の外側に広がる「何か」に、強く焦がれるようになっていた。
(どうやって火は燃え続けるんだろう。どうして水は、あんなに重いのに浮かび上がるんだろう。……願うだけじゃなく、どうやって『書き換える』んだろう)
そんな膨らみ続ける好奇心が報われたのは、お祭りが終わって数日たった、ある静かな午後のことだった。
アンナは村の会合で出かけ、1人で居間の掃除をしていたユイは、重い棚をどかした拍子に、床板の不自然な継ぎ目を見つけた。
「…これ、扉?」
そこには取っ手も鍵穴もない。ただ、板の表面に銀色の細い線で、あの日の男の服で見かけたような、見たこともない複雑な模様が刻まれていた。
ユイは吸い寄せられるように、その模様に指を触れた。
その瞬間、指先からわずかに魔力が吸い取られる感覚がした。
「えっ…」
驚いて手を引っこめたが、模様が淡く発光し、家の奥底で重厚な機械音が響く。
カチリ、カチリ、と硬質な、これまでの人生で聞いたこともないような精密な機械音だった。
村の魔法はもっと、ぼんやりとしていて、暖かい。
けれどこの扉から感じる魔法は、まるで刃物のように鋭く、論理的だった。
やがて床板が音もなくせり上がり、下へと続く石造りの階段が姿を現した。
冷たく、乾いた、古い紙のにおいが這い上がってくる。
はじめて見る世界に、少し躊躇いながらも、早くなる鼓動と、求めていたものがこの先に広がっているという期待に急かされるように、
「灯火」
ユイは指先に小さな火を灯し、未知へと続く一歩を踏み出した。
一段、 また一段と降りるたびに、空気の密度が変わっていくのを感じる。
最下層に辿り着き、ユイはロウソクに火を灯す。オレンジ色の穏やかな光が周囲を照らした瞬間、彼女は息を呑んだ。
「なに、ここ…」
そこは、四方を天井まで届く書棚に囲まれた、小さな、けれど完璧な宇宙だった。
棚には背表紙に金糸で題名が記された魔導書がぎっしりと並び、中央の机には、天体の動きを模したような精密な銀細工が置かれている。
ユイは震える手で、机の上に広げられていた一冊のノートを手に取った。
そこには、驚くほど読みやすい、けれど力強い筆跡でこう記されていた。
『理を解する者へ。現象は結果に過ぎない。原因を記述せよ。命令せよ。それこそが魔法の真実である。—ユリウス・ベルナー』
「ベルナー…私の、おじいちゃん?」




