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26:中央街区 宮殿前練兵場 鐘楼4階:ヤリーロ(2)

 ヤリーロは身を固くしていた。恐れおののいていたと言っても良い。恐怖に似た感情が全身を襲い、瘧(おこり)のように指先が、足先が震えるのを止めることが出来なかった。震えは全身に巡り、止まらない。だがその震えの芯に、僅かにではあるが歓喜に似た感情が秘められていたのも確かであった。ヤリーロはそれを知っていた。間違いなく知っていた。それは過去に経験をしていた感情と感覚であった。


★★★★★


 ヤリーロは淡紅色をした絹織(シルク)のシャツと、乳白色の柔らかな毛織物(フランネル)の長裳(スカート)に身を包み、それらを女官長であることを示す精緻で厚みのある刺繍が刺された腰帯で締め上げていた。腰帯には一部、蒼玉(サファイヤ)と翠玉(スマラカタ)が縫いつけられている。そして同じ貴石を彩った胸飾りを身に付け、兵舎4階の屋根付窓(ベランダ)に立った。淡い紅も、白い毛織も、ヤリーロの透きとおるような肌に良く似合い、三十路を超えた中年女にはとても見えない若々しさと美しさを見せた。

 ヤリーロはこの装いが嫌いだった。大嫌いだった。だが女王が衆目に姿を現せない今、自身が若々しく見えること、見せることは重要な責務であった。ヤリーロが女王と同い年であり、女王の親しい友人であり、女王の傍仕えとして女王就任期に新人女官として宮殿仕えを始めたことはヌワコットの市民ならば誰もが知っていることだからだ。つまり、ヤリーロが若々しく元気であれば、同じように女王も若々しく元気で「あるはずだ」と市民は連想するからだ。弱く頼りない方策であるとは思う。しかし女官長と言うだけの、物理的な力を持たない立場のヤリーロにとって、それは唯一といえる武具であった。故にヤリーロは見た目だけはまだ若々しく見えるという自身の肉体こそを武器として、鉄面皮のごとく怜悧な顔をもってこの屋根付窓(ベランダ)に立った。いつものように宮殿に君臨し、戦うのだ。

 それは時々、己の足元が崩れ去るような感覚を伴う戦いであった、それは彼女を苛んだ。緊張と不安。ここ数年、立っていられないほどの動揺に晒される事が何度も何度もあった。故にヤリーロは、望んで一つの越権行為を行った。女王が持つ黄金の長錫杖、それに似た形状の半杖(つえ)を作らせた。本体は硬い樫の木、握り手には錫と銀の細工。女王の持つ、太陽を象った長錫杖に似ながら月を連想させる銀色の半杖。ヤリーロはここ数年、表舞台に立つ時にその半杖を持つようになっていた。何かを握っていないと耐えられない苦痛な時間も、2本の脚だけでは立っていられない狼狽する瞬間も、その半杖を持てば耐えられると信じた。手のひらと指先に感じる冷たい金属の感覚や滑らかに削られた木材の柔らかさ、そして時折体重を寄せることのできる確かな堅牢さ、それを感じることでひとかけらの冷静さや心の安寧を取り戻す。彼女は半丈(つえ)を握りしめることで抗っていた。鉄面皮を保っていた。女王の威厳に似た何かがヤリーロには必要だった。


 春の大祭には女王が姿を現す。冬の終わりの宣誓を民草へと伝える為に、武芸大会に挑む勇者の為に、女王は姿を現すのだ。もちろんそれは何層もある宮殿の、かなりの上層階層に設えられた屋根付窓(ベランダ)から上半身を見せて一声かけるだけのものである。広場に集まる民草が遠目に拝見するのは、女王が身に纏う衣類の色、輝く長錫杖の光ぐらいだ。それでも民草は歓喜する。それが女王の威厳というものだからだ。

 しかし今年、僅かではあるがその作法に変更があった。女王は確かに姿を見せたが、発声は女官長であるヤリーロが行ったのだ。市民のほとんどの者は違和感を感じなかったであろう。女王は確かにそこに正装にて姿を現し、陽光を浴びながら両手を天空高く掲げ、長錫杖を鳴らし、堂々とした姿を見せたのだから。だが一部、伝統風習に詳しい老翁などは僅かな疑問や懸念、もしくは最近、妙に女王を差し置き表舞台に姿を現すようになった女官長の専横に眉をひそめたかもしれない。だが老人の声は小さく、聞き取りにくいのは常の事。ましてや華やかな祭りの場ではいっそうその声は届かない。


 だが、開催式典についてはそういった変更に気が付かれにくいとしても、武芸大会が終了した際の、大鎧<セマルグル>授与式典の時ではそうは済まされない。授与の場では、セマルグルを授かる新たな機士は舞台上に、駐機のごとく片膝立ちにて着座し、兵舎4階の女王からの問いかけに対し、ヌワコットを守護することを誓い立てするという一連の儀式があるからだ。誓い立ての後には、新たな機士は女王の側、隣の屋根付窓(ベランダ)に立ち入り、人々に対してその堂々たる姿を見せるという流れだ。

 故に、女王が声を出さないこと、姿すら現さないこと、女王の傍に侍ることが出来ないという事態は――異例だ。ヤリーロは懊悩した。しかし現に、女王は既にその儀式を行うことが出来ないのだ。女官長たる身で僭越であることは承知。だが女王を思うが故にヤリーロは矢面に立たねばならない。でなければ女王の代替わりが行われることになる。新たな女王を選定し、旧女王から新女王へ、たいていは年端もない少女へと、その神聖にて苛烈な立場の譲渡式が行われることとになる。それは女王の、そしてヤリーロの望むところではなかった。故にヤリーロは表舞台に立つ、たとえどのような抗議の声があがろうともそれに屈することはない。女王を信奉する神官たち、女王に忠節を誓う機士たち、ヌワコットの愛すべき民草たちからどのような小言や諫言や嫌味を受けようとも、機士団長から蔑視と軽んじられる視線を向けられようともヤリーロはそれに対抗する。ヤリーロの冷徹な表情はぴくりともしない。 


 そのヤリーロの仮面がいま崩れようとしていた。


 ヤリーロの目前に白い服の男がいる。間違いない。彼だ。あの白い服の男は彼だ。ヤリーロがまだ幼なかった頃、まだ少女だった頃に出会った彼だった。

 姿は変わった。もう少年の細い身体ではない。いつだって始終腹を空かせていた少年の、少年期特有のあの折れそうな細さなぞどこにもない。どぶ色で、赤黒の染みや裂けた部分ばかりという、繕いようがないほどに痛んだ衣類でももう無い。少年は大人になり、既に壮年期も過ぎ去ろうとしている年齢の、立派な体格をした「男」となっていた。変わらない箇所と言えば、髪の色と目鼻立ちくらい、すでに顔の輪郭すら逞しく変化している。だがヤリーロには分かった。分かってしまった。なぜならヤリーロは、少年が姿を消してから何度も何度も何度も少年の姿を追い求めていたから。憧憬と、哀愁と、悔恨、そして希望の一滴として、日々、少年の姿を探していた。少年の姿を夢想していた。彼ががどのように成長するのか、大人へとなってゆくかについて想像に想像を重ねて思い描いていた。ヤリーロは過去の姿にとらわれるだけの女ではなかった。そしてヤリーロは過去の存在にとらわれ続ける女であった。故に少年の「成長した姿」をひとつとして、すぐにそのことに気が付いたのだった。


 名は変わっていた。

 姿も変わっていた。


 しかし、彼の静謐にして人を覗き込むような黒い瞳は、ひとの心、秘密の扉のその奥を見つめるような瞳は、過去のあの時から何ひとつたりとて変わっていなかった。

 少年はすっかり逞しく、そして老いの陰りも見える始める年齢に達していた。やせっぽっちで風変わりな、まるでノラ犬か逸れオオカミかというような頼りなげな風情はもうなかった。むしろその場に立つだけで、その周囲の主であるような芯のある強さと雄々しさすら身に着けているように感じる。例え今身に付けている衣類が質素な無染めのものだとしても、高貴で堂々たる姿に見えた。そこには人々の視線を吸い付ける、何か特別なものが肉体と精神に宿っているかのようだ。そしてその存在感は、まったく別人のように成長した姿ながら、どことなく過去を連想させた。何もかも見通すような黒い瞳、愛嬌のある鼻の形、日頃は一文字でありながら語りかける際には大きく広がる唇、何ひとつ変わっていない。その魂のあり方すら変わってはいない。ヤリーロには見えた、輝き、煌めいて見えた――。


★★★★★


 震える声で告げる。例年、女王が伝える言葉、ヤリーロが草案した儀礼の台詞。ヤリーロにはその才があった。言葉を綴ること、そして紡ぐこと。本心を押し殺しながらそれを行う才があった。泣きそうだ。張り裂けそうだ。何て惨(むご)い、なんておぞましい行為をしているのだろうか。


「――優勝者アルマムベト、そなたの強さ、勇ましさ、そして堂々たる闘いぶりはコングール山に宿る神々と、ヌワコットの女王<ジルニトラ>と、そしてそこに住まう民草が見届けました。その力に見合った武具を用意しましょう。汝がヌワコットの良き剣となり盾となる限り、ヌワコットはそなたを歓迎します。」


 そしてヤリーロが右手を伸ばす。ヌワコットの市民はその指先に、その先に着目する。ヤリーロの指さす先、兵舎広場に設えられた大天幕の縛り目が解ける。ずるりと動き出した大天幕が地面に落ちると、そこには駐機する大鎧<セマルグル>があった。人々は着目する。今期、新たに生み出されたばかりの大鎧は玻璃硝子のごとく煌めいていた。まだ主を持たぬ大鎧の、その無垢さと美しさ、そして四肢の逞しさを見て、常ならば優勝者はその煌めきと威厳にひれ伏し、涙を流さんばかりにして誓いを述べる。


「失礼ながら申し上げる――」


 しかし白き流浪者は、かつてヤリーロと幼少期に知り合っていたかつての少年であるアルマムベトは違った。ひれ伏しもしなければ涙も流さない。ただ自然にそこに立っていた。黒い瞳は穏やかに、しかしまっすぐにヤリーロを射抜く。


「私には既に長年愛用している武具がある。故に私に与えられるべく用意された大鎧は、より相応しい、若々しい戦士に与えてほしいと思う。そしてその代りに優勝者への栄である、ヌワコットの女王への御目通りを願い出る」


 朗々と、淀みなく、静かにアルマムベトは答えた。女性であるヤリーロの声よりもずっと澄み、高みに立つヤリーロの声よりずっと遠くまでその声は届いた。風すら止んだように場の空気を止めた。一時の静寂の後、会場にざわめきが生まれる。


「確かに優勝者への栄を与えるのは女王――」

「なぜこの場に女王は居(お)られぬのだ――」

「老戦士は若者に鎧を譲られるか――」


 様々なざわめきが場を占める。ヤリーロは半杖を握りしめながら、震えながら、穏やかに微笑むと答えた。


「欲無き返答、見事である。そなたの望みは道理にかな――」


 ヤリーロはもう声が震えていた。何も考えられなかった、やはり彼は会いに来た。やはり彼は帰ってきた! 女王に会うために! どうしたらいいのだろう、どうすればいいのだろう。会わせるべきだ、会わせてあげるべきだ、そうすべきだ、ヤリーロもそれを願っていた。女王と彼の為に! だが――ヤリーロが感じる彼の愚直なまでの正さを、既に今のヤリーロは肯定できない。

 そんなヤリーロの声を遮るように、力強い、男の声が切り裂いた。


「問おう! なぜお前は女王への拝謁を願うか!」


 怒声のごとき感情を秘めた、その声の主はヤリーロの立つ屋根付窓(ベランダ)、その右の個室から発せられた。年の頃は30後半、壮年の男。男の名は<ヴォーロス>、ヌワコットの正機士団長であった。既に機士として着任している者たち、それを統べる立場の男。腰に手を当て胸を張り、眼下を見下ろすその姿は堂々たる王者の風格があった。蒼天のような軽やかな青い上着に身を飾り、その上着は裾長で、裾の下は2つに割れ着座の際に邪魔にならぬようになっている。それは極上の機上衣だ。立襟の中には真綿がぎっしり詰められており、首を保護すると共にまるで獅子(ライオン)の鬣(たてがみ)のようにも見えた。金糸にて縁取りと刺繍を施された上着は光沢をもつ毛皮のように見えた。髪の色素は薄く、赤にも黄にも見えるため、本当に獅子のよう。ヴォーロスはアルマムベトに負けぬ背丈、太い首、逞しい四肢を持つ強者であった。この宮殿の王者であった。肉体的物理的な力であるならば、間違いなくヌワコットの第一人者であった。そのヴォーロスが攻撃的な声音と目付きでアルマムベトを威嚇していた。

 アルマムベトは穏やかな表情で語る。


「かつて昔に交わした約束なれば」


 されどヴォーロスは無辺もなくそれを切り捨てた。


「女王と昔馴染みであるとの申し立てか! だが女王は、女王となったその日より人を捨て、人を統べる御立場となるもの。かつての約束は無用となる!」


 力強く一方的な宣言であった。しかしそれは伝統に裏打ちされた正しいものであった。ヤリーロは息が詰まる。緊張と早鐘の心臓がヤリーロを追い詰める。そこにアルマムベトの穏やかな声が届く。


「なれど私はいまだ人の身ゆえ、約定を果たしたいと願う」


 やわらかな空気。誰も彼もが呼吸を止めた。


 一理ある。たた一人の人の身の約束。それは至高の女王の御立場と比べるべくもない。だが誰もが「人の身」なのだ。人の身でないものは女王のみ、故に、故にその言葉を聞く誰もがアルマムベトに共感した。人の身なれば望んでしまう事柄を思って共感した。その人の身の「足掻き」こそが努力であり、日々の研鑽であり、この武闘大会ではなかったか。ただの人の身が唯一、神へと近づける奉納仕合いこそが武闘大会ではなかったか。


 沈黙が下りる。


 やがてざわめき。人々のささやく声が、独り言のように、共感を求めるように漏れ出す――そうだな、そうだよ、認めてあげろよ、いいじゃないか――女王の立場と、流浪の機士。天秤に掛ければその答えは明白だ。だが、だからこそ武芸大会の優勝者としての意味が重い。武芸大会は神への供物。その武芸を捧げた勇者となれば、その場であるいまこの場なら、彼は「たたの人の身」と切り捨てることは許されない。人の身だからこそ到達する勇者(ハイドゥーク)。まして彼は、ただ面会を求めているのだ。本来あるべき式典の成果を求めているだけなのだ。


「――勝者アルマムベトよ」


 ヤリーロは口を開いた。瞳は潤んでいた。もう、何を抗う事はあろうか、心のままに隠し立てなく全てを白日の下に晒すべきだ。全ては――結論が出ている。もし罪があるというなら、咎を負うべきというのならば、私は女王と共に全てを受け入れ背負い罵声と共に投石を受けよう。なぜなら彼はここに帰ってきたのだから、約定を果たしに戻ってきたのだから。

 しかしそこに再度怒り声が刺さった。それはやはりヴォーロスのものだった。


「故あって女王はいまお姿を現すことが出来ぬ! が、ひとつの試練を果たした後ならば、お前の望みを叶えることも不可能ではない!」


 その声音の悪意に誰もが耳を捕らわれた。


「仇敵たるムグール帝国が、ヌワコット同盟都市であるナイニタルに軍を差し向けたとの急使が昨夜届いた。汝はヌワコット先遣軍として一両日中にナイニタルに向かえ! ヌワコット正機士団は本隊として20日後に出立する。我ら正機士団が到着するまでナイニタルを守り通してみよ。さすれば汝の望みは叶うであろう!」


 今度こそヤリーロの顔から表情が抜け、手から半杖が落ちた。

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