14:宮殿(ダルバール)女官の間 女官長:ヤリーロ(1)
また鳥が鳴いている――。
ヤリーロは窓辺にて先ほどまで目を通していた木簡――複数の隊商路とオアシス都市における近況報告――から顔を上げ、瞳を閉じた。木簡に記されているのは重要な報告ばかりだった、そのほとんどはあまり明るいニュースではない。唯一光明が見えるものは「隊商路の西域北道における楼蘭動乱が終結、新機士の就任により領主問題と共に今後は安定に向かうと予測」というものぐらい、他の書簡は全て不穏な世情を伝えるものだった。
「東域北道、山岳道は例年同様の春季増水により一部欠損、早期の復旧助成を乞う、困窮農民の山賊化が顕著」
「東域南道、ムグール帝国国境と隣接する同盟城壁国家では、ムグール王弟軍による外圧高まる危機感あり」
「西域南道、マナス国境域でのマナス進軍活動は一時停止中のまま、しかし大騒乱直前の雰囲気は高まる傾向」
「西側南道、騎馬部族における部族騒乱は依然高まる傾向」
目を閉じたままヤリーロは考える。総括として、絹、軟玉、白磁器、青磁器の流通減少は例年通りの短期的なものとなるだろう。織物、琥珀の流通は微減のまま推移してゆくかもしれない。香辛料、麝香の流通は今後低下したままという予測で良いだろうか。前々からの情報と今回の書簡で分析できるところはそれくらい。とりあえず直近の問題はない、問題はないが緩やかに締め付けられる世情はひしひしと感じられる報告だ。そうした思考の後、深いため息をついた。
春の訪れを告げる明るい陽射しが、閉じた瞼からも透かすように目の前を明るくする。ここ数年、その瞼には目じりの皺が目立ってきたように思う、この白い陽射しはその老いを一時目の前から消してくれるだろうか。かつては「理知的に整った横顔」「磨かれた軟玉のような頤」と言われたこともあった。幼少期よりいろいろな話が両親のもとに届けられたとも聞いている。しかし既に年増の女、苦笑が口元に浮かぶ。何を浮ついたことを考えるものだろうか。美しかろうと、老いさらばえようと、誰に見せるものでもないというのに。
暖かさが窓辺から、部屋の隅まで行き渡り始めるこの時期は、既に年増と言える三十路を過ぎたヤリーロにとって、嬉しくありがたい季節だ。強く寒く風が吹き付ける冬の季節、薪を節約し薄暗い部屋で木簡を分析するのと比べると雲泥の差だ。たとえ伝達される内容がほとんど変わらないものであっても――南方のムグール帝国は、ここ十年、毎年複数種の大鎧と獣機を多く生み出しているという。数年前、ついにムガル半島をほぼ平定した国王の血筋は代々血気盛ん、残る東西のわずかな小国を平定した後は、間違いなく北の我らが都市国家群へ、東西交通の要所の各国へその矛先を向けるだろう。それとも西方に進軍をするだろうか? 西方のマナス国主はまだまだ年若い年齢ながら、その人柄で人を魅了し惹きつけると評判で、能力主義で人を雇用し、数多くの機士と騎士が集っているとも聞く――。
そのような仕事の思考を続けながら、同時に過去にも思いをはせる。丹と緋色をふんだんに使ったこの暖かな宮殿の一室は、かつて居住していた隙間風ばかりだった西街のボロ家屋と比べ天国のよう。しかし寄る年波による寒さというものは、どのような豪華な室内にも確実にその手を伸ばし、やはり身体に堪えるものだ。贅沢になったものだと思う。そして、ここよりずっとずっと寒さに震えていたあの頃、子どもの頃が懐かしく思われる、幸せであったとすら思ってしまう。あの頃は確かに寒かったが暖かくもあったはずだ。過去の記憶というものが美化を促していたとしても、確かに私の心と半身は温かだった。両親がいた、祖父母がいた、兄弟姉妹がおり、何より心許せる親友がおり、親友と共に想いを寄せる相手もいた。貧しく困難な生い立ちながら健やかで頑健な身体を持った、まっすぐにこちらを見つめる黒い瞳、無口すぎるほどに無口で、雄弁すぎるほどに雄弁であった眼差しの少年、ただ一度きりの恋の記憶。
――鳥の鳴き声のせいだ。
ヤリーロは鳥の鳴き声を聞くたび追憶を繰り返す性分を恥じた。ただ一人、強大な敵に立ち向かった友を思って我が身を恥じた、ただ一人ひたすら闘い続けている友の事を想い恥じ入った。彼女はまだ覚えているだろうか、私のことを。まだ私を許してくれているのだろうか。いまだ私は、私自身の浅ましさを許せていないというのに。
――逃げて。
彼女はそう言った。その身を貫かれ、その身を貪り食われるような状況でありながら、私を親友と言ってくれた。私を許し、気遣い、愛する少年をも守り通した強い強い私の親友。しかし浅ましい私は少年のようにこの街から飛び立つこともなく、いまだここに居る、彼女の犠牲を踏みつけて。
――鳥の鳴き声のせいだ。
きれいな鳥の鳴き声によりヤリーロの心に浮かぶもの、それは敗れた恋の記憶だ、贖罪すら許されない罪への告発だ。しかし今は、闘い続ける友への声援であってほしいとも感じている。長い長い年月、人は変わってゆくものだと知った、変わってしまうものだと知った。変わることなく闘い続けることはとてもとても残酷なことだとも知った。
もし戻れるならば、まだ少女だったあの頃あの夜に、小夜啼鳥がひときわ高く鳴いた夜に、雲雀が最後に鳴いた朝に、もう一度今生を繰り返せるならば、私は違う選択肢を選べただろうか。友を見殺しにするだけでなく、愛する少年を見送るだけではない生を生きれたのだろうか。
ため息。
ヤリーロはもう死んだのだ。ヤリーロの恋は羽ばたく前に死に至り、心は冷えた。そしてずっと冷えている。唯一の友と、ただ一度の恋を喪ったあの夏の夜。身代わりとなった友は女王となった。勝利を続ける女王、戦い続ける偉大なる女王、唯一の友――彼女の苦痛と苦悩――ヤリーロの閉じた瞳に水滴が浮かぶ。彼女はもうすぐ敗北するだろう、それは決して避けられない運命だ。そしてそれが救いになって欲しいと願った、そうでなければ、あまりに女王は、私の親友は哀しすぎる。そう、せめて、もう、苦しまないでほしいと願う。
――ところで、なぜ最近の小夜啼鳥は、夕暮れ前のこの時間に鳴いているのだろうか?




