抗議する犬
佐倉氏は僕に用いるもの(犬具とでもいいましょうか)の全てを自分自身の身を以て試すことにしていました。
チョークという物があります。主人に従わず走りだそうとする僕達を、リードを引くことによって気管を締める。つまり痛みをもって抑制しようとするものでした。実際のところ痛みは大したことないのですが、長毛種の僕の場合、鎖状のそれに毛が引き攣られ、このまま首の周囲だけが脱毛症になってしまうのでがないかと心配したものです。
僕の危惧に気づいた佐倉氏はご自身の体で試されたようです。彼の首が赤剥けになっていたことから推測しました。そして、これはいかんと思われたのでしょう。革を丸く編んだ衝撃の緩いものを代替品として選んでくれました。「アバクロのチョーカーが買えるわ」とおっしゃってましたから、かなり高価なものだったようです。
また僕を縛りつけるワイヤーという器具を試された時のことです。両端に着けられたスプリングが張りを緩和するから多少引っ張っても苦しくはないだろうと、それに繋がれた首輪を巻いて走りだそうとされました。結果は言うに及ばず、伸びきったワイヤに引き戻された佐倉氏は、後頭部から転倒なさって白目を剥いておられました。彼は犬の僕達が四肢で踏ん張れることをお忘れになっていたようです。
有名なラグビー選手の父親の話です。無駄吠えの多いペットに困り果てたご家族は、吠えると電気が流れる首輪を着けようとなさいました。しかし思い遣りに溢れたその御人は、先ずは自分自身で試してみようと首に巻き、ワンと言った途端、卒倒して病院に運ばれたそうです。
彼等の奇行を書きたかった訳ではありません。あなた方人間の肉体をもってしても、それほどのダメージがあるものを使われる僕達の様子に配慮していただければというお願いです。
勿論、洋服など問題外です。考えてもみて下さい。僕達犬は一部の種類を除き、真夏でも毛皮を着ているのです。また僕達のようにアンダーコートと呼ばれる下毛との二重構造を持つ種類も居ます。あなた方の自己満足で身につけさせられるトンチンカンな洋服をどれほど不快に思っていることか。気づかれたことはありませんか? あなた方の可愛いペット君達の抗議の眼差しに。
そうか君は毛深いのだな、と思われた方に説明しておきます。狩猟シーズンには鉄砲で撃った水鳥を泳いで回収に行くことを目的に作られた犬種である僕達です。寒い季節にピンク色の地肌まで濡れてしまっては、いくら体内でビタミンCを生成することが出来る僕達であろうと肺炎になってしまいます。
体毛の少ない方がもてはやされる日本の社会らしいですが、夏は涼しく冬は温かいオフィスと言うところが主な仕事場であるホワイトカラーの方々がされる評価なのでしょうね。
余談ですが僕は雪というものが大好きでした。一面真っ白になった田んぼで、佐倉氏は僕を好き勝手に走りまわらせてくれたものです。そうやって飽きるほど遊んだ後、犬舎に戻った僕の下半身は随分と重くなっていました。
お尻周辺の飾り毛と呼ばれる部分に、幾つもの雪玉がぶらさがっているのですから当然です。なんとか除去しようと佐倉氏や彼の父上が苦心なさっていましたが、融けるのを待つしか方法がなかったことが思い出されます。
以前にも書きましたが人間であるあなた方と犬である僕達では、香りに対する嗜好も異なるのです。体に纏う泥が大地を連想させ、濁った水を口にすることで遥か昔に失った野生を回顧する。そんな時の僕は、主人が呼ぶ声さえ耳に届かなかったものです。
佐倉氏の勤務する会社に出来りしていた方で、昼夜お構いなしにムスクの香りをぷんぷん振り撒いて歩く御人が居られました。嗅覚の発達した僕は、離れた駐車場からも彼の来訪に気付いたものです。そして近づいてくるその香りに閉口したのは僕だけではなかったようです。
「くさいっ!お前はTPOというものをわきまえてはおらんのかっ」との佐倉氏の言葉にも、ミスタームスク氏は一向に気になさる様子がなかったように見受けました。そういった香りを好む方々は、かつてジャコウネズミか何かだったのでしょうか? しかしその理論を当てはめると、柑橘系を好む佐倉氏が草食動物だったということになります。
……いやいや、見るからに捕食獣の外見を持つ彼が、そんなはずはありません。恐らく自分と正反対のものに憧れを抱いていたのでしょうね。かくも人間という動物は複雑な思考をなさいます。独りで思い悩み、過ちを悔やみ、なかには自ら命を絶ってしまう個体もあると聞きます。何故なんでしょう? もっとシンプルに生きればいいではないですか。




