痛がる犬
あなた方人間は僕たち犬が痛みに強いと思われておられますね、大筋では間違っていませんが、生存本能や忠誠心が痛みを凌駕するのだ、といった方が正いのかも知れません。
以前にも書きましたが、躾という名の基に振るわれる暴力も、主人であるあなた方に見捨てられぬよう耐え忍んでいるだけなのです。
僕と散歩をする佐倉氏に「犬が主人より前を歩こうとしたら、鼻っ面を木の棒で叩くといい」ご近所に住まれていた狩猟を趣味とされていたMさんという方がそうおっしゃいました。冗談じゃない、神経回路の集中した鼻先は僕達の急所です。怯えながら見上げた佐倉氏の目は「心配するな、そんなことはせんよ」と語っており、僕は胸を撫で下ろしたものでした。
Mさんに飼われていた猟犬の諸君が、そんな暴力を日常的に受けていたとしたら痛ましい限りです。そして、シーズン終了時には、山に置き去りにされる運命を知っていたとしたら……佐倉氏が狩猟をしない人間であったことは、僕にとって幸運だったといえましょう。
その彼が僕に振るった暴力は以下のものです。噛みグセの嬌声だといって彼を噛む僕の耳を噛み返してきました。たいした痛みではありませんでしたが不快であることに違いはなく、毎日十分程度それを繰り返されるに至り「こういった行為を、人間は望まないのだな」と、僕は脳裏に焼きつけたものです。口の中を毛だらけにしながらそれを続けられた佐倉氏は、とても奇特な方だったと思います。
僕には持病がありました。≪股関節形成不全≫というものです。病気の詳しい内容については、ググっていただけばお分かりになるはずです。大型犬(日本での分類です)によく見られる疾患で、症状が重い場合手術で人工股関節にしないと歩けなくなる、と最初に診察された獣医さんはおっしゃっていました。
本来、純血種は人間によって繁殖(この言葉は好きになれませんが)が管理され、問題がある個体は淘汰されるので、こういった遺伝性の疾患は広まらないはずなのです。しかし人気犬種はファッションと同じで、売れればいいだろう的商業ペースで、どんどん広まってしまったのです。欧米ではそんな疾患を持った個体は売買も輸出入も禁止されるそうですから、この国のペット産業の悪辣さを感じさせる事案ですね。
幼い頃には特に気にもならなかったのですが、去勢により食欲に生存本能の多くを振り分けてしまうことになった僕は肥満気味でした。そして増加した体重を支えきれなくなった股関節が或る日悲鳴を上げ、その異常が見つかったのです。
佐倉氏は、どこへ行けばその手術が受けられるのかと、獣医さんに訊ねました。医師の回答は「この辺りではありません。そして人工関節を埋め込むとなると莫大な手術費用がかかります」でした。佐倉氏は金策に頭を悩ませたようでした。僕を実の息子同様に心配してくれたのです。
「ダイエットと投薬で症状を抑えることが出来る。そこまでの重傷ではないでしょう」といった獣医さんの言葉に佐倉氏はほっとした顔をなさっていましたが、後に結局大金を投じることにさせてしまいました。それはまたいずれお話ししましょう。最初に述べた≪僕が尻尾をピンと立てて歩かない≫理由は、腰の痛みに起因していたのです。
足を引きずる僕に、彼と彼の御家族はとても優しくしてくれました。言葉は分からずとも、声の調子に労わりや憐憫を感じたものです、食事の内容も日に日に充実して行きました。僕は覚えました。足を引きずれば、美味しい物が食べられ、独りきりにされる時間が短くなると。
これは、あなた方人間が成長の過程で身につける≪狡猾さ≫ではありません。先人(先犬というべきでしょうか)であるパブロフの犬によって証明された条件反射だったのです。




