宦官になった犬
さて、僕が生後半年ほど経ったときの出来事です。『主人への忠誠心の構築と攻撃性の抑制には去勢が有効だ』佐倉氏が図書館で借り出した書籍に掲載されていたその記事のお陰で、僕に厄災が降りかかることになります。
外科手術シーンの描写は語るも涙の物語なので省略しますが、つまり僕は神(主人)に仕える奴隷=宦官となった訳です。当時の僕に発達した性欲がなかったのが救いでした。後に佐倉氏の意識をお借りして味わった性的絶頂感たるものを知っていたならば、彼への忠誠心は保てなかったでしょうから。
しかし既に失われてしまったものを返せなどといった無理は言いません。人間の女性はそれをよく口にされるそうですね。しかし僕達犬は非常に寛大なのです。
そんな情報がペット関連の書籍やインターネットなどにも多く流布され、まことしやかに語られてはいますが、所詮はあなた方人間の視点からの理解に過ぎません。若しくは統計といった数字の横暴でしょう。言語を分かち合わない我々ペットとあなた方人間との間に、完璧な意志の疎通が計れるはずはないのですから。それは例え動物学者と呼ばれる自称識者様方においても同様なのです。
この主張は、この物語が終わるまで何度も口にすると思います。メインテーマだといってもよいでしょう。また同じ種だからといって我々の全てを十羽一絡げに扱って欲しくはありません。そもそも我々は犬なのです。羽はないでしょう。せめて頭、それが気に入らなければ匹と数えて欲しいものです。
つい興奮してしまいました。
生存本能の一つである性欲を奪われた僕の欲望は大半が食欲に向かってしまうことになります。僕達の食生活について一言言わせて下さい。
『大切なペットの健康のために栄養バランスの取れた食事を』メーカーのコマーシャリズムに乗せられたあなた方が僕達に与えてくれるものは、殆どがドッグフードですよね。あの鼻を突く匂い……正直、嗅覚の発達した僕等には苦行ともいえる食事の時間となっているのです。しかし、それ以外に何も与えてもらえない以上、生きるために食べねばなりません。ドライフードにおいてはもはや、排泄物の始末を第一に考えたものとしか思えません。あの色、形状……明らかにウサギか鹿の糞ではないですか。それを来る日も来る日も口にしなければならない僕等の窮状を知って欲しいのです。
あなた方人間の食生活に置き換えてみて下さい。同様のことを佐倉氏が別のブログに書いておられました。いくら好物でも三百六十五日三食(僕等は成長するとニ食にされました。力士じゃないんですから)同じ物を食する人が居ますか? 例えばカレーライス。三日三晩食べ続けてごらんなさい。大抵の人は肌が黄色くなったような錯覚に陥ることでしょう。
体に良くないと分かっていても美食を追求される方々。百害あって一理ナシを認識したうえで、タバコを止めない人々が居られますよね。あなた方が手にされた選択の自由を、僕達にも分け与えて下さい。週に一日で構いませんから。
その点において僕の主人である佐倉氏は理解がありました。彼はイッポ鍋と名付けたポトフ様なものを毎朝毎晩作ってくれたのです。肉、穀物、野菜を煮こみ、味がなければ寂しいだろうと、ニンニクやコンソメで味付けまでしてくれていました。恐らくこんなことを書けば、彼は愛犬家の皆さんからお叱りを受けることでしょう。それでも彼は止めません。「不味いものを食って長生きするぐらいなら美味い物をたらふく食って早死にした方がいい。美味しい食事は人を笑顔にするんだ」そんな主義を標榜されていたのですから。
気まぐれで独善的な佐倉氏ではありましたが、僕の事は大切にしてくれていました。変な言い方になりますが、生活の半分ぐらいは犬扱いされていなかったように思えます。
おっと、褒めすぎました。彼の発情期(恋愛に関する様々な行為をしている期間)には放ったらかしにされていたことを思い出しました。本来、去勢が必要だったのは彼だったのかも知れません。




